川沿いの規制線から離れると、昼の音が戻ってきた。
遠くの車の走行音、河川敷を渡る風の音、草の擦れる音、鳥の鳴き声。
さっきまでの現場には、そういう“普通”が入る隙間がなかったのに、二十歩も歩けば世界は平気な顔をする。
平気な顔をする世界が、俺には一番怖い。
つる子先輩は無言で歩いていた。
いつもなら何かしらの説明が始まるのに、今日は始まらない。
始まらない代わりに、先輩の指先がずっと自分のノートの角を撫でている。
撫でる癖は、頭の中で言葉が渋滞している証拠だ。
昨夜、俺が河で消えたときに泣いた喉が、まだ乾ききっていないのだと分かる。
「……さっきは、すみませんでした」
後ろから声がして、俺は反射で肩を強張らせた。
振り返ると、氷川さんが少し距離を置いて歩いていた。
制服のままなのに、現場から離れたせいか、さっきよりも人間の顔をしている。
ただ、その人間の顔が、現場の圧を抱えたままなのが分かってしまう。
「何がですか」
俺が聞くと、氷川さんは少し言葉を探して、視線を河川敷の方へ戻した。
「君たちを止めるべきでした」
氷川さんは正直に言った。
正直すぎて、逆に嘘が混じる余地がない。
「一般の人が推理を口にするのは、本来なら危険です。現場は混乱するし、責任の所在も曖昧になる」
つる子先輩が、そこで初めて顔を上げた。
目が赤いわけではない。
けれど、その目は昨日よりもずっと“剥き出し”に見えた。
「それでも、止められなかった理由を言ってください」
先輩は丁寧語を維持しながら、言い方だけを鋭くした。
説明の人の鋭さは、刃というより針に近い。
刺さったら抜けにくい。
氷川さんは一拍置いて、息を吐いた。
その吐き方が、さっき現場で同意が漏れたときの吐き方に似ていた。
「……君の推理が、現場の感触と一致してしまったからです」
氷川さんは言った。
「血縁で片づくなら、あの散布痕はもう少し別の形になる。屋内、生活圏、移動導線。そういう“人の動き”に沿った形になるはずです」
「つまり、狙いが“生活”ではないということですね」
つる子先輩が即座に返す。
返しが速い。
速いのに、今日はいつもの得意げさがない。
必死に掴もうとしている速さだ。
「そうです」
氷川さんは頷いた。
「上からは血縁説が否定されればそれでいい、という空気もあります。ですが、僕は否定して終わりにしたくありません。次の被害が出てしまう」
“上から”という言葉が、俺の喉を乾かした。
現場よりも上の場所にある正義は、だいたい声が大きい。
声が大きい正義は、対象を名前で呼ばない。
対象、と呼ぶ。危険個体、と呼ぶ。逃走、と呼ぶ。
俺はその言葉で追い詰められたばかりだ。
「……それで、俺たちに何を求める」
俺は、なるべく平らに言った。
平らに言ったのは、警戒が漏れるのが嫌だったからだ。
漏れた瞬間に、俺は“怪しい”になる。
氷川さんは俺を見て、ほんの少しだけ眉を寄せた。
疑っているのではない。
疑問に思っている。
この人は俺の正体を知らないから、俺の言葉の硬さだけが不自然に映る。
「意見です」
氷川さんは率直に言った。
「君たちは……現場の痕をよく見ています。僕より先に気づくことがあるかもしれない」
つる子先輩が小さく息を吸った。
褒められて嬉しい、ではなく、責任が増えた呼吸だった。
先輩は責任を背負うことに慣れている。
慣れているからこそ、背負い方を間違えると危険だ。
「では、結論から言います」
先輩はいつもの型に戻ろうとした。
前提、根拠、結論。
知は力なり、というモットーの形。
だが今日は、その結論が少し違う方向を向いていた。
「アンノウンが上空から狙っているのは、血縁ではありません。条件です」
先輩は言う。
「ただ、条件が何なのかは、まだ言語化できません。兆候、適合、あるいは……こちらの世界が“怪異”として認識してしまう何か」
「怪異として認識する……」
氷川さんが繰り返した。
繰り返しながら、河川敷の痕跡を思い出している顔をする。
彼は嘘が下手だ。
下手だから、現場の人間として信用できる。
つる子先輩は一度だけ、視線を俺に向けた。
その視線が、昨日泣いたときの視線に少しだけ似ていた。
見失いたくない視線。
同時に、踏み込む覚悟を確認する視線。
「……もう一つ、違和感があります」
先輩は言った。
言葉が慎重になる。
慎重になるときの先輩は、たぶん自分が危ない発想をしていると分かっている。
「どんな」
氷川さんが促す。
促し方が尋問ではない。
現場の共有だ。
つる子先輩は、言葉を選びながら続けた。
「アンノウンの手口は、確かに“人間にはできない”と感じます。上空からの散布、即時の溶解、痕跡の少なさ」
「ですが同時に……“人間でも似た見え方を作れる”余地が、あるように見えるのです」
俺は思わず足を止めた。
止めた拍子に、喉がさらに乾いた。
先輩が言っていることの危険さが、頭より先に身体へ届いた。
「先輩、それ以上は」
俺は低く言った。
止めるための声を出すのは苦手だ。
でも今は出さないといけない。
先輩の言葉は刃になる。
刃は敵だけを傷つけない。味方も切る。
つる子先輩は俺を見た。
目の奥に、怖さがある。
でも怖さの隣に、守りたいものがある目だ。
「結城くん、誤解しないでください」
先輩は言い直した。
「私は“やれる”と言っているのではありません。“やれないと決めつけるのは危険”と言っているのです」
氷川さんが表情を硬くした。
立場としては、ここで止めるべきだ。
現場の警察官として、一般人の推理が犯罪の形へ近づくのは危険だ。
そのはずなのに、氷川さんの口から出たのは、否定ではなく確認だった。
「……人間が関わっている可能性がある、ということですか」
氷川さんは言った。
声が低い。
低いのは怒りではない。現場の恐怖だ。
つる子先輩は小さく頷いた。
「例えば、事件の“見え方”だけなら、作られてしまうかもしれません。怪異のふりをする、という意味ではなく、怪異に見える条件を整える、という意味です」
俺は先輩の言葉の端を掴む。
掴んで、引き戻す。
ブレーキ役。
俺が今日ここにいる意味は、それだ。
「先輩、そこまで言うなら、言い方を選べ」
俺は言った。
「それは推理じゃなくて、人を疑う方向に行く。今は、現場で口に出す言葉じゃない」
つる子先輩が唇を噛んだ。
噛んだのは悔しいからではなく、自分の言葉が危険だと認めたからだ。
そして、認めた上で言い直す。
「……分かりました。今ここでは断定しません」
先輩は言う。
「ただ、事件が“否定”のために並べられているように見えるのです」
氷川さんが眉を上げた。
「否定?」
つる子先輩は、川面を見つめたまま答えた。
「血縁説を否定するため、あるいは現場の仮説を否定するために、事件が配置されているように見えます。真相へ近づくためではなく、“上が欲しい結論”へ近づくために」
言葉が落ちた瞬間、俺の背中に冷たいものが走った。
捕獲作戦の無線が頭の中で再生される。
記録班、映像確保、逃走者。
結論は先にあって、現場はそれを証明するための舞台になる。
そういう構造を、俺はもう二度と見たくない。
氷川さんは口を開きかけて、閉じた。
立場としては否定するべきだ。
だが現場の人間としては、否定できない。
その葛藤が、言葉の代わりに表情に出ていた。
つる子先輩は、最後に小さく呟いた。
ほとんど独り言の音量で、でも確かに聞こえるように。
「……アンノウンより、人間の方が怖い、なんて」
その呟きが、川風に乗って消えかけた瞬間、俺の喉がもう一段乾いた。
昼の光の下でも、影は影のままだ。
そして影は、いつだって先に来る。