川沿いの規制線から離れると、昼の世界が息を吹き返した。
風が草を撫で、川面が光を返し、遠くで車が走る音がする。
さっきまで俺たちが立っていた場所だけ、時間が止まっていたみたいに重い。
あの黄色い腐臭と、雨粒みたいにえぐれた跡が、昼の明るさの中で逆に際立ってしまうからだ。
「……結城くん、歩幅、少し落としても良いですか」
つる子先輩が言った。
理屈の声だ。けれど、言葉の端がわずかに震えている。
昨日、俺が川で消えたと思って泣いた人の震えが、まだ完全には乾いていない。
「大丈夫。先輩のペースでいい」
俺はそう返して、背後を一度だけ確認する。
規制線の向こうで動く制服、堤防の上の視線、現場を“管理”する空気。
名前は知らない。知らないが、あれが味方か敵かを判断できるほど、俺はまだ器用じゃなかった。
そのとき、後ろから足音が近づいた。
さっき現場で、立場上は先輩を止めるべきなのに、思わず同意してしまった警察官――氷川誠だ。
制服姿のまま、しかし声のトーンは驚くほど丁寧だった。
「結城さん、つる子さん……先ほどは失礼いたしました」
氷川さんは頭を下げる。
謝る必要があるのは俺たちより、現場を切り捨てようとした空気の方なのに、現場の人間ほど礼儀を捨てない。
「いえ、こちらこそ……現場を騒がせてしまったので」
つる子先輩が丁寧に返し、すぐに言い直す。
「……申し訳ありません、ただ、黙っていられませんでした」
「そのお気持ちは理解できます」
氷川さんは真面目に頷いた。
「ですが本来なら、僕が止めるべき立場でした。……それでも止めきれなかった理由がございます」
俺は氷川さんの言葉を待つ。
先輩も待っている。
この人は、逃げない視線を持っている。
だから俺は、ほんの少しだけ言葉を信じてしまいそうになる。
「つる子さんの推理が、現場の痕跡と一致してしまったのです」
氷川さんは、驚くほど素直に言った。
「血縁関係で片づくのであれば、あの散布痕はもっと生活導線に沿うはずです。ところが、あの痕は……狙いが“生活”ではない形をしていました」
「ありがとうございます」
つる子先輩の声は、喜びではなく緊張だった。
理解されることは救いだが、救いは責任を連れてくる。
「……ただ」
氷川さんは続ける。
「上の方々は、仮説が崩れたこと自体を材料にされます。現場の違和感を“無駄”として処理されるのは、僕も避けたいのです」
つる子先輩が息を吸った。
説明の人が、説明より先に感情を出しそうになる瞬間だ。
俺は先輩の袖を軽く引き、半歩だけ戻す。
「先輩、意見まで」
俺の短いブレーキに、先輩は一瞬だけ唇を噛み、それから頷いた。
「では……意見として言います」
つる子先輩は、いつもの型に乗せて話し始める。
「前提として、酸の雨は上空からの散布です。根拠は雨粒状のえぐれ跡と、腐臭の残留分布です。結論として、血縁ではなく“条件”が狙われている可能性が高い」
「条件……」
氷川さんが復唱する。
復唱の仕方が尋問ではなく確認で、俺はそれだけで喉の乾きが少し緩む気がした。
「はい」
つる子先輩は頷く。
「ただ、もう一つ……違和感がございます」
俺は眉を寄せた。
“違和感”が先輩の口から出るときは、理屈だけでは済まない話が来る。
危うい。
だが危うさを避けるだけでは、次の犠牲を防げないのも事実だ。
「どういった違和感でしょうか」
氷川さんが、敬語のまま促す。
促し方が丁寧で、だから怖い。
丁寧な言葉は、相手を潰すためにも使える。
だがこの人の丁寧さは、潰す丁寧さじゃない。
つる子先輩は少しだけ視線を落とし、言葉を選んだ。
「……アンノウンの手口は確かに怪異です。ですが、現場が“整いすぎている”ようにも見えるのです」
「整いすぎている、ですか」
氷川さんは眉を動かす。
否定ではない。
理解に向けて、角度を合わせている表情だ。
「自然現象や、怪異の衝動なら、もっとばらつきが出ます」
つる子先輩は続ける。
「しかし、今回の痕跡は“当てにいっている”粒の揃い方をしている。風向きと関係なく成立している箇所もある。つまり……」
「先輩」
俺は低く言った。
「そこから先は“人間を疑う”方向になる。言葉を置く場所を間違えるな」
つる子先輩は俺を見て、目を細くした。
怒りではない。
“分かっている”という目だ。
分かっていて、それでも言わないと守れないと決めた目だ。
「……可能性の話です」
つる子先輩は言い直す。
「アンノウンではなくても、事件の“見え方”だけなら、人間が近い形を作れてしまうかもしれない、という可能性です」
氷川さんの顔が硬くなった。
立場上、ここで止めるべきだ。
だが、止めるだけでは終わらない現場の匂いがある。
その葛藤が、丁寧語の内側で揺れる。
「つまり……人間が関与している可能性がある、ということでしょうか」
氷川さんは、言い方を慎重に選んだ。
慎重だから、現場の人だと分かる。
つる子先輩が小さく頷く。
「はい。ただし“警察全体”ではありません。個人の都合が混ざった可能性が高い、と見ています」
俺は先輩の言葉の危険度を測った。
個人の都合。
それは、動機の話に入る。
動機の話は、現場で言えば爆発する。
だからここからは机の上でやるべきだ。
「先輩、続きは場所を変えよう」
俺は言った。
「ここは、風も目も通る。言葉が拾われる」
つる子先輩が、少しだけ頷く。
「……承知しました」
氷川さんは頭を下げるようにして言った。
「お時間をいただいて申し訳ありません。ですが、もしよろしければ……僕もその推理の続きを聞かせていただけませんか」
「立場上、外部の方に協力を求めることは難しいのですが……現場の違和感が消えないのです」
つる子先輩の目が一瞬だけ輝いた。
説明したい衝動と、役に立てる喜びが混ざった光だ。
だがその光の奥に、昨日の涙の影も見える。
“結城を失いたくない”影。
「条件があります」
つる子先輩は丁寧に言った。
「結城くんを危険に晒す形での協力はしません。それと、推理は推理として扱い、結論を急がないでください」
氷川さんは即座に頷いた。
「承知しました。結城さんを危険に晒すことは、僕も望みません」
その言葉に、俺は一瞬だけ救われる。
警察の言葉に救われるのが怖い。
でも救われる。
その矛盾を抱えたまま、俺は頷いた。
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その日の夕方、場所を変えた。
と言っても豪華な場所じゃない。
城北大学の近く、つる子先輩が資料を広げられる小さな空き教室。
白い蛍光灯、机、椅子、黒板。
現場の腐臭はない。
だからこそ、言葉が鋭くなる。
「……これが被害地点の一覧です」
つる子先輩は地図と写真を並べる。
切抜帳、通報時刻、風向きの記録。
そして俺が現場で見た“雨粒状のえぐれ”の写真も混じる。
見ただけで喉が乾きそうになるが、ここでは我慢する。
そこへ、別の足音が入った。
軽いヒール音。
迷いがなく、しかし現場の泥臭さではなく、研究者の速度を持つ足音。
「あなたが千羽つる子ね」
小沢澄子が入ってきた。
背筋が伸び、視線が鋭い。
現場の人間というより、現場を解析する人間の目だ。
つる子先輩が立ち上がり、一礼する。
「はい。お越しいただきありがとうございます。……突然お呼び立てして申し訳ありません」
「謝らなくていいわ」
小沢さんは即答した。
「氷川くんから聞いたわ。現場で割り込んだって」
つる子先輩は一拍置き、言い方を整え直す。
「割り込みではなく、必要な説明をしたつもりです。ですが手続き違反なら謝罪します」
小沢さんは口角だけで笑った。
「嫌いじゃないわね、その言い方」
そして机の上の地図を指で叩く。
「で、見せて。分布」
俺は思わず口を挟む。
「先輩、相手は専門家だ。前提からいくべきだ」
助手としての癖だ。
言葉の順番が崩れると、先輩は熱を持って暴走する。
「承知しました」
つる子先輩は頷き、いつもの型で説明を始める。
「前提として、これは上空散布型の痕跡です。根拠は雨粒状のえぐれと、腐臭の残留分布。結論として、血縁ではなく“条件選別”の可能性が高い」
小沢さんは、写真を一枚ずつ目で追っていく。
目の動きが速い。
速いのに雑ではない。
そして、つる子先輩の説明が終わる前に、結論を落とした。
「これは“自然の雨”じゃない」
小沢さんの声は冷たい。
冷たいが、切り捨ての冷たさではなく、解析の冷たさだ。
「粒径が揃いすぎてる。上空散布だけが答えじゃない。機材を使えば、似た痕は作れる」
つる子先輩の目が一瞬だけ大きくなる。
そしてすぐに、嬉しさを隠すように口調を整えた。
「つまり、人間でも“似た現場”を作れる、ということですね」
「そう」
小沢さんは頷く。
「そして一番怖いのは、再現できる人間が“現場を動かせる立場”にいる場合よ」
その一言が、俺の喉を乾かした。
捕獲作戦の無線。
記録班。
映像確保。
現場を動かせる立場。
それは、今日昼に堤防の上から「一般人が口を出すな」と言った男たちの種類だ。
つる子先輩が、紙束を一枚抜き取った。
「……ここからが本題です」
先輩の声が少し低くなる。
説明の声ではなく、結論へ走る声だ。
「被害者の線を辿ると、一人の名前へ収束します」
つる子先輩は言った。
「司龍二。監察官です」
氷川さんが机の端で息を呑む。
呼吸だけが乱れ、言葉は丁寧語のまま出てきた。
「……司さん、ですか」
氷川さんは、敬語で言う。
「しかし、司さんが……なぜ」
つる子先輩は、ここで感情を挟まないように一度だけ深呼吸した。
そして前提を置く。
「司さんには動機が存在します」
つる子先輩は淡々と続ける。
「妹さんを殺した犯人を、花村久志だと思い込んでいる。思い込みであることを示す証拠は薄いのに、確信だけが強い」
俺はその名前を聞いて、胸が重くなった。
花村久志。
この世界ではまだ俺と直接の接点が薄い。
だが“アンノウンに見せかけた殺人”という言葉が頭の中で繋がる。
怪異に紛れさせれば、理由が消える。
理由が消えれば、正義は問われにくい。
「それに」
つる子先輩が紙を示す。
「司さんは現場に介入できる。通報と規制の速さ、記録の優先順位、立ち入り制限。アンノウンの混乱を利用して、“アンノウンの仕業に見せかける”ことが可能です」
小沢さんが短く言った。
「……筋が通ってる」
そして、つる子先輩を見て微笑む。
「あなた、嫌いじゃないわ。速いだけじゃなく、ちゃんと根拠がある」
つる子先輩は、珍しく言葉が詰まった。
照れではない。
褒められ慣れているはずなのに、今日は“味方の評価”が刺さる日のようだった。
俺は横から小さく言う。
「先輩、今は詰めだ」
ブレーキ。
速度を落とすのではなく、レールに戻す。
「……はい」
つる子先輩は頷き、視線を集め直した。
「揃いました」
先輩は宣言する前に、もう一度だけ確認するように資料を並べ直す。
現場痕の再現性。
通報のタイミング。
被害者との接点。
動機。
介入できる立場。
全部が一本の線に収束していく。
氷川さんが、苦しい顔で言った。
「僕は、本来なら止めるべき立場です。それでも……止められません」
「言ってください。つる子さんの結論を」
つる子先輩は、俺を一度だけ見た。
昨日泣いた人の目で。
でも今日は泣かない。
泣く代わりに言葉で戦う目だった。
「結論として」
つる子先輩は、息を吸って落とす。
「犯人は司龍二です。アンノウンに見せかけた殺人だと、私は判断します」
教室の空気が、少しだけ重くなった。
重いのに、不思議と息はしやすい。
“犯人が分かった”という結論は、正義の言葉に回収される前に、こちらが先に言葉を握ったという感覚をくれる。
俺は短く言った。
「先輩、そこまで言ったなら次は段取りだ」
「俺は助手として動く。先輩を、言葉で殺させない」
つる子先輩は小さく頷いた。
「はい、結城くん。……次は“正義の言葉”で殺されないように、こちらが言葉で縛り返します」
小沢さんが、ほんの少しだけ笑った。
「いいわね。ようやく、現場が“結論のため”じゃなく、“真相のため”に動く」
氷川さんが深く頭を下げる。
「ありがとうございます、つる子さん。結城さんも……ありがとうございます」
その敬語が、現場を守るための敬語だと分かって、俺は静かに頷いた。
事件簿は、ここで終わらない。
ここからが本番だ。
人間の犯罪は、怪異より静かに人を殺す。
だからこそ、静かに戦う準備が必要だった。