バイクを止めた時、辺りは完全に夜だった。
街灯はある。
けれど、光が届く範囲は短く、その先は黒く潰れている。
町外れの工場跡。
稼働している様子はなく、門も半分開いたままだ。
錆びた鉄の匂いが、夜風に混じって鼻を刺す。
エンジンを切ると、急に静かになった。
遠くで何かが軋む音。
風に揺れる金属板の、低い鳴き声。
「……ここ、だね」
背後でつる先輩が、小さく言う。
返事をしようとして、言葉が出なかった。
胸の奥が、また反応している。
遺跡で感じたのと同じだ。
あのときより、はっきりしている。
方向も、距離も。
——呼ばれている。
バイクから降りると、足が自然と前に出た。
「結城君?」
呼ばれた気がしたが、振り返らなかった。
止まれない。
「……先輩は、ここで」
声は出た。
でも、振り返らない。
つる先輩は一瞬迷ったようだったが、すぐに頷いた。
「分かった。……無茶はしないで」
物陰へ下がる気配がする。
視線だけが、背中に残る。
俺は歩き出した。
速くも遅くもない。
自然な速度で、工場の敷地へ入っていく。
その途中で——
腰が熱を持った。
違和感じゃない。
もう、慣れ始めている自分がいるのが怖い。
視線を落とさなくても分かる。
——“ある”。
さっきまで何もなかったはずの場所に、重みがある。
輪郭が、腹部に沿って存在を主張している。
ベルト。
いつの間に現れたのか、分からない。
でも、不思議と驚きはなかった。
そうなると、知っていたみたいに。
歩みを止めず、そのまま進む。
工場の奥、影が濃く溜まる場所。
月明かりが、床のコンクリートを斜めに照らしている。
そこに——いた。
二つの影。
最初は人のように見えた。
次に、違うと分かる。
しなやかすぎる立ち姿。
筋肉の付き方が、人間のそれじゃない。
一体は、黒い。
闇に溶けるような体色に、首元だけが目立つ。
黄色い布のようなものが、風に揺れている。
もう一体は白い。
月光を反射する毛並み。
首元には青い布。
豹。
そう思った瞬間、両方がこちらを見た。
——違う。
正確には、こちらではない。
二体の視線は、俺の少し向こう側。
反対方向を、警戒するように向けられている。
空気が張り詰める。
黒い方が、一歩だけ前に出る。
白い方は、低く身を沈める。
まるで、獲物を挟み込むような陣形。
「……?」
思わず、足を止めた。
彼らは、俺に気づいていない。
いや、気づいているはずなのに、優先順位が違う。
——何を、警戒している?
そのとき、足元に違和感があった。
何かを踏みそうになる。
視線を落としかけて、止めた。
暗すぎて、よく見えない。
影が、影に重なっているだけに見える。
ただ——
そこに“何かが倒れている”気配だけが、微かに伝わってくる。
気づかない。
今の俺は、まだ気づけない。
黒と白の影が、同時に低く唸る。
俺の背後。
彼らが警戒する方向から、風が流れた。
——来る。
理由は分からない。
でも、はっきりと分かる。
ここはただの工場じゃない。
ただの夜でもない。
俺は、知らないうちに“境界”の内側へ足を踏み入れている。
腰の前で、核のようなものが静かに熱を帯びた。
二体の影と俺と、
そして——まだ姿を見せない何か。
風向きが、はっきりと変わった。
それまで工場に溜まっていた重たい空気が、切り裂かれる。
遺跡で感じたものとも、目の前の二体とも違う、澄んだ圧。
僕の向こう側。
暗闇の縁から、人影が歩み出てきた。
人の形をしている。
けれど、立ち方が違う。
迷いがなく、周囲を“把握した上で”そこに立っている。
仮面。
月明かりを受けて、角の輪郭が浮かび上がる。
——これが。
前回の戦いで、名前だけ聞いた存在。
アンノウンが口にした、もう一つの呼び名。
姿を見るのは、これが初めてだった。
相手も、こちらに気づいたらしい。
仮面の奥から、視線のようなものが向けられる。
一瞬、空気が張り詰める。
敵か。
味方か。
それとも——。
答えが出る前に、低い唸り声が割り込んだ。
「……アギトッ」
黒い豹のようなアンノウンが、吠える。
その名を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに跳ねた。
——アギト。
やはり、あの名前は“個体”を指している。
「……そして」
今度は、白い豹のアンノウンがこちらを見る。
「……アウラまでも、か」
名前。
今度は、確かに自分に向けられた呼び名だった。
意味は分からない。
だが、遺跡で聞いた言葉と、繋がる。
——アルタ。
——アウラ。
呼び方が違う。
だが、“同じ枠”として見られている。
その声は、工場の端に伏せていた人物にも届いていた。
アンノウンと交戦していた男。
装甲服を纏い銃を構えたまま、こちらを見ている。
機械の4号の装着者。
彼の視点では、事態はさらに混乱しているはずだ。
豹の怪物が二体。
そこに、見慣れない仮面の戦士が一体。
さらに——もう一体。
黒い豹が、動いた。
一気に距離を詰め、仮面の戦士へと飛びかかる。
爪が、一直線に振り下ろされる。
だが、仮面の戦士は冷静だった。
半歩、身を引く。
爪が掠める位置を、正確に外す。
そのまま、短く肘を打ち込む。
力任せじゃない。
崩すための一撃。
黒い豹が地面を滑る。
——無駄がない。
遺跡で僕の身体が“勝手にやっていた”動きと、どこか似ている。
同時に、白い豹が動いた。
狙いは僕。
距離が急激に詰まる。
青い布のようなものが、視界を横切る。
腰が自然に沈む。
構える。
脚に重さを集める。
爪が迫る。
正面から。
そのまま受けない。
身体を流し、相手の前脚を払うように叩く。
衝撃が腕に返る。
白い豹が、わずかに体勢を崩す。
——通じる。
遺跡と同じ感覚。
考えるより先に、身体が動いている。
一歩、距離を取る。
追撃はしない。
背後につる先輩がいる。
その意識が、戦い方を縛る。
そうしていると、倒れている人影に気づく。
それは、まるでSFに出てくるような青いパワードスーツを身に纏っている。
そして、どこか4号の姿に似ている感じがする。
あえて違う部分があるとしたら、俺は生身で向こうは機械。
「4号なのか」
それは、向こうも同じだった。
そうしていると、アンノウンがこちらに襲い掛かる。
次の瞬間、空気が裂けた。
暗闇の間合いを一瞬で切り取るように、
アンノウンが前脚を踏み込む。
黒い豹、そして白い豹、
その動きはほとんど同時だった。
だが、こちらを見据えた黒い方が
何かを引き絞るようにした。
低く、金属と皮が擦れる音。
暗闇の中で、赤い光を帯びた弓のようなものが現れた。
次の刹那、
緊張の弧が空を走った。
飛んできたのは――
矢だった。
無数の弦張る音がない。
ただ、赤い閃光が直線の軌跡になって
僕と先に戦っている機械の4号の間を貫いた。
「っ!」
感覚は即座に伝わった。
矢はまっすぐに、機械の4号の方向へ。
その瞬間、身体が反応した。
恐怖と瞬間的な判断が混ざって、
僕は“そこへ飛び込んでいた”。
盾になるように、自然に足が出た。
矢が僕の肩を貫く直前――
僕の腕がその軌道を受け止めた。
痛みが、肩から脳へ跳ね上がる。
鋭く、熱い突き刺さる痛み。
呼吸が、一瞬だけ止まった。
「くッ……!」
恐怖が筋肉へ流れ込む。
血が腕から足先まで震わせる。
それでも、僕は後ろへ下がらなかった。
下がれなかった。
正面にアンノウン。
そして、後ろには機械の4号。
彼は迷っていなかった。
すぐに反応して、持っていた重厚な銃を構えた。
持っていた重厚な銃を構えた。
狙いはアンノウン。
引き金を引く。
弾丸が暗闇を裂く。
ただ――
当たっても、その影はびくともしなかった。
その影はびくともしなかった。
表面に“跡”は残る。
鉄と皮膚の擦れた跡。
だが、動じない。
アンノウンは、動じなかった。
弾丸を受けても痛みを示さず、ただこちらを見据えている。
その態度が――逆に、決定的な“隙”だった。
動かない。
守らない。
受け止めるつもりでいる。
——今だ。
足裏に意識を集中させる。
地面の感触が、異様にはっきりと伝わってくる。
コンクリートの冷たさ。
そこに、力を“溜める”。
体重を、前へ。
上半身を僅かに沈め、重心を移動させる。
その瞬間だった。
足元の地面に、青い紋章が浮かび上がる。
円環状に広がる光が、夜の闇を押し返す。
同時に、視界の端で分かる。
額の感覚が変わる。
——角が、増えている。
二本だったものが、
左右に分かれ、さらに枝分かれし、
六本の角となって展開していく。
恐怖よりも、理解が先に来た。
「……行ける」
助走。
一歩、踏み出す。
次の一歩で、地面を強く踏み込む。
コンクリートが、砕ける音がした。
脚の力が腰を通り、背骨を駆け上がる。
骨盤と上半身が、一つの塊になる。
跳んだ。
重力が一瞬だけ消える。
身体が宙に浮かび、回転を始める。
同時に、回転を始める。
軸足で身体を支え、蹴り脚を、限界まで引き絞る。
蹴り脚を、限界まで引き絞る。
脚を伸ばす。
その瞬間、足先が光を帯びた。
足先が光を帯びた。
青白い光が、夜を切り裂く。
勢いと重力が、すべて一点に集約される。
——当たる。
次の瞬間、
蹴りはアンノウンの胸部を正確に捉えた。
鈍い衝撃音。
空気が、爆ぜる。
アンノウンの身体が、後方へ吹き飛ばされる。
壁を越え鉄骨を歪ませながら、宙を舞う。
そして――
爆散。
白い光と衝撃波が広がり、
粉塵と炎が、夜空へ噴き上がった。
残ったのは、焦げた地面と、静寂だけだった。
焦げた地面と、静寂だけだった。
着地する。
軸足が地面を捉え、衝撃を吸収する。
衝撃を吸収する。
青い紋章は、ゆっくりと消えていく。
額の角も、元の形へと戻っていく。
胸が、激しく上下している。
「……はぁ……」
自分の足を、見下ろす。
——今のは。
間違いない。
あの背中が見せた、“あの蹴り”と同じ系譜。
けれど、完全に同じじゃない。
僕の中の何かが、
確実に“別の形”で、目を覚ました。
夜の工場で、一体目のアンノウンが、消えた。
一体目のアンノウンが、消えた。
そしてこの瞬間を、誰かが息を呑んで見ている。
誰かが息を呑んで見ている。
「お前は一体」
そう、機械の4号からの言葉。
だが、同時に感じたのは。
「っ!」
迫って来たのは、アギトだ。
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下校中の児童が被害 不審な追跡行為と不可解な痕跡
日付/地域:
1999年○月 東京都○○区・住宅街周辺
本文(〜200字):
夕刻、下校途中の児童が正体不明の存在に追いかけられ、死亡する事件が発生した。目撃証言によれば、被害児童は強い恐怖を与えられた後、逃走を試みていたという。現場付近からは通常の環境では確認されない太さと長さの蜘蛛の糸状の物質が発見されており、警察は未確認生命体の関与を視野に調査を進めている。なお、追跡行為には計画性があった可能性も指摘されている。
つる子の注釈:
恐怖を与えてから追う。
泣かせてから殺す。
これは“捕食”ではない。
行動そのものが目的化している。
糸は目印であり、逃げ場を奪う為の準備。
——この存在は、狩りを楽しんでいる。