視界が切り替わった瞬間、世界が“立ち上がった”。
訓練施設の薄い映像みたいなものを想像していた俺の予想は、簡単に裏切られる。
風景の解像度が高すぎて、目が勝手にピントを合わせる。遠くのフェンスの錆、路面のひび割れ、空気に混じる湿り気まで、そこに“あるべきもの”として脳が認識してしまう。
脳が現場と判断した瞬間、身体は現場の反応を始める。
だから喉が乾く。酸の腐臭ではないのに、同じ質で乾くのが腹立たしい。
HUDの端に小さく文字が灯った。
**LOG RECORDING**
**SIM RUNNING**
点滅が心臓の鼓動と同期している気がして、俺はわざと深く息を吸う。
呼吸の速度を自分で選ぶ。選べるうちはまだ、人間の側だ。
「映像、正常です!ログ取れてます!」
尾室さんの声が、通信越しに弾んだ。弾んでいるのに、裏で忙しくキーを叩いている音が混じる。興奮より焦りの弾みだ。
「結城くん、異常があればすぐに申告してください」
氷川さんの声は丁寧語のまま、まっすぐ入ってくる。
丁寧語なのに冷たくない。冷たくないのに甘くない。命を守る言葉の線引きが、この人の声には最初から入っている。
「動け。余計な感想はいらない」
小沢さんは短い。短いのに重い。
現場の時間に間に合わせるための言葉だと分かる。分かるから、余計に怖い。
「結城くん、落ち着いて、呼吸を整えてください!」
つる子先輩の声が混ざる。見学席の向こうのはずなのに、すぐ隣で叫ばれたみたいに耳へ届いた。
先輩の声は明るさを作ろうとして失敗している。失敗した明るさが、逆に本気を知らせる。
俺は返事をしようとして、やめた。
返事で喉を使うと呼吸が乱れる。呼吸が乱れると現場になる。
もう十分現場だ。これ以上現場にする必要はない。
そのとき、光が一瞬欠けた。
眩しいのではなく、欠ける。
影が落ちる。
そして、腐臭が錯覚みたいに鼻の奥を刺した。
ありえない。訓練だ。シミュレーションだ。
頭では分かっている。
でも身体は、匂いを匂いとして受け取ってしまう。匂いを受け取った瞬間、喉の乾きがもう一段濃くなる。
視界の端で“形”が動いた。
輪郭は、現実の生き物より少しだけ誇張されているのに、動きは現実より現実だった。
距離が詰まる圧が、足元から来る。
驚くより先に、身体が半歩引いてしまう。
「えっ、もう敵判定!?出現早すぎません!?」
尾室さんの声が跳ねた。
跳ねた声と同時に、HUDの赤い枠が視界の隅で点滅する。
「結城くん、距離を取ってください!無理はなさらないでください!」
氷川さんが丁寧語のまま、少しだけ声の速度を上げた。
速度が上がるだけで、焦りが伝わる。
焦りが伝わるのが嫌じゃない。嫌なのは、焦りが正しいということだ。
「取るな。データが欲しい」
小沢さんの声が刺さる。
現場では正しい。
現場では“守るために危険を取る”ことがある。
その正しさが、俺の喉を削る。
「え、今の、何……!?」
つる子先輩の声が裏返った。
先輩はデータで戦う人なのに、現場では声が先に揺れる。
揺れた声が、昨日泣いた声に少し似ていて、胸が痛んだ。
アンノウンが襲いかかってきた。
形が飛び込んでくる。
その瞬間、俺は考えない。考えたら間に合わない。
だから、自然に構える。
腕が上がる。
ガードの位置が勝手に決まる。
足が砂利を捉え、重心が前に出すぎない角度で落ちる。
呼吸は浅い。浅いのに乱れないように押さえる。
この動きは、俺の経験の副産物だ。
見せたくない。悟られたくない。
だから、わざと“自然に”動く。
自然に見えるくらいの速度に落とす。
慣れている人間ほど、わざと一拍遅らせる。
HUDに矢印が出た。
“次の一歩”の候補。
矢印は答えじゃない。選択肢だ。
信じるのではなく選ぶ。
選んだ瞬間、責任が自分に戻ってくる。
責任が戻るのは怖い。
でも戻らないと、俺はまた対象になる。
「動き、すごく自然です……え、初めてですよね?」
尾室さんの声が半信半疑に揺れた。
揺れた声に、バレたかもしれないという焦りが刺さる。
「結城くん、過信しないでください!危険を感じたらすぐに申告を!」
氷川さんが丁寧語のまま、強く言った。
強く言うのに怒鳴らない。怒鳴らないから、言葉が刺さる。
「いい。そのまま続けろ」
小沢さんが短く言う。
続けろ。
続けることが正しい。
でも続けることで、俺の動きが辞書になる。
辞書になった動きは、誰かの盾にも刃にもなる。
「結城くん、無理しないで……!」
つる子先輩の声が震えた。
震えの中に、見失いたくないという祈りが混ざる。
祈りに背を向けたくない。
だから俺は、倒れない。
アンノウンの踏み込みが来る。
俺は半歩ずれる。
ずれる角度が、矢印の提案と一致している。
一致しているのに、俺は矢印を見たと思われないように視線を外す。
視線で動きを悟られるのは嫌だ。
“戦闘経験がある”と判断された瞬間、今後の扱いが変わる気がする。
装備が支える。
姿勢が崩れない。
視界が安定し、手応えが通る。
“通る”という感覚が、今までと違う。
硬い壁に押し返されるのではなく、壁がこちらの力を“目的に沿って”通してくれる。
そういう通り方だ。
決定打は、流れの中に埋める。
大仰にしない。
必殺を匂わせない。
訓練の中で倒したという形にする。
俺が慣れていると悟られないように、終わらせ方を“普通”にする。
相手が崩れた。
崩れる瞬間が妙に静かで、現実の死よりも現実的に見えるのが嫌だった。
視界が一瞬だけ落ち着き、風景が戻る。
戻るのに、戻った気がしない。
「え、もう!?倒しました!ログ、すごい量です!」
尾室さんの声が跳ねた。
跳ね方が、驚きと嬉しさと焦りが混ざっている。
「……結城くん、大丈夫ですか!?怪我はありませんか!?」
氷川さんの声が丁寧語のまま、しかし確かに揺れた。
揺れたのは驚きだ。
驚きの揺れがあるのに、言葉の順番は崩れない。
この人は本当に、現場の人だ。
「よし。これがG3-Xの答えよ」
小沢さんが言った。
答え。
答えという単語が嫌だ。
現場に答えはない。
あるのは次の選択だけだ。
でも小沢さんは、答えと言わないと前へ進めないのだろう。
進めないと次が死ぬから。
「……倒した……?」
つる子先輩の声が小さく漏れた。
驚きが先に出て、その後に安心が追いついていない声。
先輩はデータでは強いのに、現場の匂いに弱い。
それが人間らしくて、胸が痛い。
俺は返事をしようとして、息を吸った。
そして、その瞬間に気づいた。
腕が重い。
脚が鉛みたいに沈む。
勝ったのに、勝った後の身体が終わりかけている。
目の奥がチカつき、耳の内側で小さな耳鳴りが始まる。
汗が遅れて出て、呼吸が深く入らない。
現場より静かなのに、現場より削られる。
削られるというより、骨の内側まで吸い取られる。
HUDは淡々と次の候補を出す。
“次の一歩”。
“射線”。
“受け姿勢”。
候補が出るのに、身体がついてこない。
候補が出るほど、俺の身体が「無理だ」と叫ぶ。
「結城くん、すぐに中断します。返答してください!」
氷川さんの声が強くなる。
丁寧語を崩さないまま、救命索のように強くなる。
「疲労値、跳ねてます!やばいです、これ……!」
尾室さんの声が今度は完全に焦っていた。
ぼやきが消えて、現場の声になる。
現場の声になったとき、人は余計なことを言わない。
「まだ倒れるな。最後に呼吸データを取る」
小沢さんの声が冷たい。
冷たいが、残酷さの冷たさではない。
開発の冷たさだ。
ここで止めたら、次の現場で誰かが死ぬ。
小沢さんは、その可能性を嫌というほど見てきた人間なのだろう。
「やめてください、結城くんが……!」
つる子先輩の声が切れる。
切れた声は、説明じゃなく祈りだ。
祈りに応えたい。
でも応えるには、俺が自分で中断を言わなければならない。
指先が震えた。
視界が少し狭まる。
地面が遠く感じる。
倒れていないのに、倒れそうだ。
ログ収集のランプはまだ点灯している。
その赤い点が、俺の心臓より冷たい。
「……」
声が出ない。
出ないのは恐怖じゃない。
呼吸が入らないからだ。
呼吸が入らないと、言葉は出ない。
言葉が出ないと、俺は対象になる。
対象になりたくないのに、身体が言葉を許さない。
氷川さんが判断した。
丁寧語のまま、しかし決断の速度で。
「中断します。尾室さん、記録停止手順を!」
命を守るための丁寧語が、ここでは命令になる。
命令に聞こえないのに、確実に人を動かす。
「はい!停止します!……小沢さん、止めますよ!」
尾室さんが叫ぶ。
叫びは珍しい。
叫ぶのは、叫ばないと止められない現場だからだ。
「記録を止めるな……!」
小沢さんの声が割り込む。
止めるな。
止めるなと言うのは、次の死を止めたいからだ。
でも今止めないと、目の前の命が落ちる。
氷川さんが丁寧語のまま、しかし一段強く言い切った。
「小沢さん、申し訳ありません。人命が優先です」
その一言で、視界の端の赤い点滅が消えた気がした。
実際に消えたのか、俺の意識が遠くなったのか分からない。
ただ、氷川さんの言葉が救いに聞こえたのは確かだった。
人命優先。
その言葉が救いに聞こえるのが怖い。
救いは、次の檻にもなるから。
それでも今は、救いでいい。
沈まないために、今は助けられていい。
視界が薄くなり、音が遠ざかる。
シミュレーションの世界が剥がれていく。
剥がれながら、俺の身体には重さだけが残る。
勝った重さではない。
削られた重さだ。
そして、俺は思った。
これは訓練じゃない。
訓練のふりをした現場だ。
現場のふりをした現場だ。
どちらでも同じだ。
削られるのが本物なら、現実も同じだけ削られる。
だから次の現場で、俺はまた喉を乾かす。
そして、選ぶ。
沈まないために。