ログ停止の表示が消えた瞬間、世界の色が少しだけ薄くなった。
薄くなったのはシミュレーションの世界が剥がれたからだ。
剥がれたのに、身体はまだ剥がれてくれない。
喉の乾きが残り、指先が震え、足元の床が遠い。
戦闘が終わったはずなのに、終わった後の方が現場みたいだった。
ヘッドセットを外す音が、妙に大きく聞こえた。
金属の留め具が外れる音、布が擦れる音、椅子がきしむ音。
全部が現実の音なのに、全部が遠い。
遠いから、現実に戻れた気がしない。
「停止しました!……結城君、聞こえます!?」
尾室さんの声がすぐ近くで響く。
響くのに、意味が少し遅れて届く。
言葉は聞こえている。返事が出ないだけだ。
「結城くん、座ってください。すぐに水を」
氷川さんの丁寧語が、救護の手順として落ちてくる。
丁寧語なのに慌てていない。慌てていないのに速度は速い。
現場で人を生かす言葉の速度だ。
小沢さんの声は短い。
「無理をさせてしまったわね。……でもデータは取れたわ」
その言い方が、罪悪感と必要性を同じ箱に押し込めた言い方に聞こえて、胸が少し痛い。
必要だからやった。
必要だから人を削った。
司の事件とは別の種類の正しさがここにもある。
俺は頷こうとして、首が重いことに気づいた。
首だけじゃない。肩も、腕も、脚も、全部が鉛だ。
鉛の中に自分が詰め込まれて、外へ出られない感じがする。
それでも出ないといけない。
ここで倒れたら、次から“対象”になる気がした。
「……大丈夫」
ようやく声が出た。
大丈夫という言葉は嘘だ。
でも嘘でも言わないと、身体が先に終わる。
「大丈夫ではありません」
氷川さんが丁寧語のまま、きっぱり否定した。
否定されると不思議と安心する。
俺が自分で“大丈夫”を言い張らなくていいからだ。
紙コップの水が唇に当たる。
冷たさが喉へ落ちるのに、乾きが消えない。
乾きが消えないのは、喉が乾いているのではなく、身体の内側が削れているからだと分かってしまう。
分かるほど、怖い。
つる子先輩の声が遠くから聞こえた。
「結城くん!?返事して!」
声は明るくしようとしているのに、明るくなりきれていない。
昨日泣いた声に似ている。
あの声を、もう一度聞かせたくない。
「つる子さん、下がってください。救護します」
氷川さんが丁寧語で遮る。
遮り方が優しいのに、線を引く遮り方だ。
現場では、優しさより線が必要だと分かっている声。
尾室さんがログ画面を見ながら、焦ったように言う。
「疲労値、異常です……これ、装着負荷……」
装着負荷。
その単語が胸に落ちた瞬間、俺の中で何かが切れた。
切れたのは意識の糸だった。
視界が白くなる。
白いのに眩しくない。
白は病院の白と同じ種類の白で、俺は嫌な予感に反射で抵抗しようとして、抵抗する力すら残っていないことに気づく。
耳鳴りがして、音が遠ざかり、最後に残ったのは氷川さんの声だった。
「結城くん、無理をなさらないでください。今は休んでください」
その丁寧語が、救命索みたいに胸に引っかかったまま、俺の意識は落ちた。
—
目を開けたとき、天井の蛍光灯が白かった。
白い光は嫌いなのに、嫌う力すら薄い。
身体が重い。
重いのに痛くない。
痛くないのが逆に怖い。
痛いなら“生きている”と分かるのに、痛くないと“削られた部分”がどこか分からない。
ここは病院ではない。
病院特有の消毒の匂いがない。
代わりに、布と金属と機械油が混ざった匂いがする。
Gトレーラーの簡易休憩スペースだと理解するのに、少し時間がかかった。
理解が遅れるのは、俺が寝ていた時間が長かった証拠だ。
紙コップの水がベッド脇に置かれている。
毛布の重さが、妙に優しい。
優しいのに、優しさは俺を弱くする気がして、俺はゆっくり上体を起こした。
腰のあたりが、重い。
ベルトの存在感ではない。
疲労が腹の底に沈んで、そこから動かない重さだ。
沈んだ重さは、沈んだまま居座る。
沈むことに慣れたくないのに、身体は沈む。
「……起きました?」
つる子先輩が、すぐ横にいた。
目の縁が少し赤い。
泣いたのか、泣く寸前だったのか、判断がつかない赤さ。
判断がつかないのは、先輩が泣いた痕跡を理屈で隠しているからだ。
「本当に、よかった……」
先輩の声が少し震えた。
震えは怒りではない。
安堵の震えだ。
安堵の震えがあるのに、先輩はすぐに理屈へ戻ろうとする。
「……どれくらい」
俺が聞くと、先輩は指でスマホの画面を見て、しかし数字を言う前に一度息を吸った。
「結論から言うと、かなりです」
先輩が言った。
“かなり”という曖昧な言葉に、先輩らしくない優しさが混じっている。
数字にしたら俺が怖がるのを知っている優しさだ。
「かなり、って……」
俺が言いかけたところで、扉が開いた。
尾室さんが入ってくる。
顔が疲れているのに、目だけが妙に冴えている。
ログとにらめっこした人の目だ。
「結城君、起きました?よかった……」
尾室さんが言って、すぐに本題へ入る。
入らないと耐えられない種類の本題だ。
「実は……氷川さんも、シミュレーションの後に気絶しました」
俺は一瞬、言葉の意味が分からなかった。
分からないのではなく、理解したくなかった。
氷川さんが倒れるという想像は、俺の中の“基準点”が崩れる想像だからだ。
「……え」
やっと出た声が間抜けすぎて、自分が嫌になる。
「氷川さんが?」
つる子先輩が、珍しく短く聞き返した。
説明する余裕がないときの短さだ。
尾室さんは頷いた。
「はい。装着負荷、相当です。G3-X、動きはすごいけど……人間が持たない」
言い切る声が、冗談じゃない現実の声だった。
「氷川さんは……」
俺は言いかけて、喉が乾いた。
乾きは恐怖の乾きに近い。
氷川さんが倒れるなら、この装備は誰を守るのか。
守るための装備が、守る人間を倒すなら、正義は成立しない。
つる子先輩が、切抜帳を抱え直す。
抱え直す動きが、防御の動きに見えた。
先輩は資料で自分を守る人だ。
でも今日は、資料が守りではなく刃になった。
「結論として」
先輩は言いかけて、いったん止まった。
止まる癖は、言葉が強すぎると分かっているときに出る。
「……G3-Xは、装着者にかなりの負担がある。これが確定しました」
尾室さんがログ画面を開いて見せる。
疲労グラフが鋭く跳ね上がり、酸素飽和の数値が揺れている。
数字は嘘をつかない。
数字は、人間の弱さを容赦なく可視化する。
「結城君の疲労値も異常でした。氷川さんも同じです」
尾室さんは続ける。
「つまり……装備が強い分、装着者が削られる」
削られる。
その単語が俺の胸の奥に刺さる。
強くなるほど失う。
それは俺のベルトでも同じだ。
人間側の装備も同じ道を辿るのか、と考えるだけで寒気がした。
そのとき、向こうの通路で足音がした。
丁寧な足音。
乱暴に急がないのに、無駄がない足音。
氷川さんの足音だと、音だけで分かってしまう。
扉が開き、氷川さんが入ってきた。
顔色は悪い。
悪いのに、姿勢が崩れていない。
崩れていないのが痛々しい。
「ご心配をおかけしました」
氷川さんは丁寧語で言った。
声がいつもより少しだけ低い。
低いのは弱さではなく、疲労の重さだ。
「氷川さん……」
つる子先輩が言いかけて、言葉を飲み込む。
感情が出ると説明が崩れる。
崩れたくないから飲み込んだのだと分かる。
氷川さんは俺を見る。
年下を見るときの「くん」が、今日はいつもより柔らかく聞こえた。
「結城くんも、無理をなさらないでください」
「今日の負担は、想定以上でした。……申し訳ありません」
謝る必要はない。
これは俺が選んだ。
でも、謝られると少しだけ楽になる。
誰かが責任を分けてくれるからだ。
尾室さんが小声で言った。
「ほら……だから無茶だって……」
ぼやきの形に戻った声は、少しだけ安心の証拠でもある。
ぼやけるくらい、最悪ではない。
最悪ではないから、次を考えられる。
その次を考える人間が、扉の向こうから入ってきた。
小沢さんだ。
視線が鋭い。
けれど今日は、その鋭さの奥に沈黙が混じっている。
数字を見て、黙る種類の沈黙。
小沢さんはログ画面を一瞥し、短く言った。
「……分かった」
それだけで、場が静まる。
「強いだけじゃ駄目」
小沢さんは続けた。
「人間が使えなきゃ意味がない」
氷川さんが丁寧語で、しかし自分の芯を置く。
「その通りです」
「現場に出せない装備では困りますので、負担軽減が必要です」
つる子先輩が頷き、いつもの型で言う。
「結論として、次は“負担を下げる”ためのデータが必要です」
「AIの提示の強さ、手順、装着時間、姿勢補助……全て再設計する必要があります」
小沢さんが短く肯定する。
「やる」
そして、俺を見る。
見る目が鋭い。
鋭いのに、裁く目ではない。
材料を見る目だ。
守るために削る材料を見る目だ。
「結城」
小沢さんは呼び捨てで言った。
「次は“限界”のデータを出して。強さじゃない。人間の限界」
その言葉が胸に落ちて、俺は喉の乾きを飲み込んだ。
限界。
限界を出すということは、自分が弱いと認めることだ。
弱いと認めた瞬間、対象になりそうで怖い。
でも弱さを隠したら、また誰かが倒れる。
氷川さんみたいに、現場の基準点が倒れる。
「……分かりました」
俺は言った。
声が少し掠れた。
掠れた声は、削られた証拠だ。
氷川さんが丁寧語で、俺の肩を言葉で支える。
「結城くん、無理はなさらないでください」
「わたしも同じ立場です。限界を出すことは、恥ではありません」
恥じゃない。
その言葉が、少しだけ救いに聞こえた。
救いに聞こえるのが怖い。
でも今は救いでいい。
俺は毛布の下で拳を握った。
強くなるほど失う。
G3-Xも俺のベルトも、同じ道を辿る。
違うのは、ここには手順と仲間と盾があることだ。
盾があるなら、沈まないための選択肢が増えるかもしれない。