「「やっぱ、どっかで会った事があるような」」
俺と津上さんの声が重なったせいで、美杉家の居間には一瞬だけ不思議な沈黙が落ちた。
台所から聞こえていた湯の音だけがその沈黙を薄く揺らし、テーブルの上に並んだ湯呑みの湯気が、Gトレーラーの冷たいモニター光とはまるで違う温度で空気を満たしていた。
「それって、もしかして記憶喪失になる前に会ったんじゃないの?」
「記憶喪失って、マジですか?」
俺が思わず聞き返すと、津上さんは困ったような、しかし本当に気にしていないような顔で笑った。
その笑顔は、失ったものを数えるより今ある生活を整える方へ自然に向かっているようで、忘れられない夜に引きずられてきた俺には少し眩しかった。
「そうなんだよねぇ、でもこれはこれで色々と楽しいですよ」
「うぅ、記憶喪失は体験したいようなしたくないような」
「つる先輩にとっては、体験したくない事ですよねぇ」
知りたがりのつる先輩にとって、記憶喪失は未知への憧れよりも記録を失う恐怖として響くのだろう。
先輩は切抜帳を抱えたまま唸っていたが、小沢さんが湯呑みを一つ手に取ると、室内の空気は再びG3-Xの話へ戻された。
「既視感の話は興味深いけど、今日の本題は別。津上君、G3-Xを装着した時の感覚をもう少し詳しく聞かせて」
「はい、分かりました」
津上さんはそう答えたが、G3-Xという名前が出た瞬間、湯呑みを置く指がほんの僅かに止まった。
止まった時間は短く、つる先輩なら見逃さない程度で、小沢さんならログに残したがる程度で、俺には胸の奥に小さな棘が刺さる程度の沈黙だった。
「AIに行動を決められた感じはあった? 例えば、自分の意思より先に装備が前へ出るような感覚」
「決められたというより、自分が行きたい方へ装備がついてきた感じでした。危ないと思ったら体が動いたというより、助けたいと思ったから動いた、という方が近いです」
津上さんの答えは穏やかなのに、妙に輪郭がはっきりしていた。
それは訓練で覚えた説明ではなく、身体の奥にある何かを生活の言葉へ置き換えたような答えで、つる先輩はノートを開きかけてから一度だけ俺の方を見た。
「……装備が先に答えを出すのではなく、津上さんの選択へ追従したということですね」
「先輩、今はまとめるより、津上さんの言葉をそのまま聞こう」
「承知しました。今回は記録より対話を優先します」
その言い直しに、津上さんは少し嬉しそうに頷いた。
誰かを資料ではなく人間として扱うことは、つる先輩にとって簡単なことではないはずなのに、氷川さんが戻ってこなかったあの救護室を見た後だからこそ、先輩は言葉の向きを変えようとしていた。
「津上さん、それって強いからできるんですか。それとも、自然に選べたからできるんですか」
「うーん、強いからって言われると違う気がします。俺はそんなに立派じゃないですし、ただ目の前で誰かが困っていたら、そっちへ行きたいだけなんですよ」
目の前で誰かが困っていたら、そっちへ行く。
言葉にすると拍子抜けするほど普通なのに、G3-Xが失ったものはその普通さだったのかもしれない。
迷いを削るAIは正解へ向かう速度をくれるが、津上さんの言葉には速度ではなく、間違えたら止まれる柔らかさがあった。
「では、もし装備が敵を間違えた場合、装着者は止められるのでしょうか」
「つる先輩」
「分かっています。断定ではなく質問です」
先輩が声を抑えて問いかけた瞬間、津上さんの笑顔が薄くなった。
それは怯えというほど露骨ではなく、嫌悪というほど固くもないが、湯気の向こうで一枚だけ色が抜けるような変化だった。
風谷さんがその横顔へ視線を向け、何かを感じ取ったように唇を結んだが、彼女は何も言わなかった。
「……便利で強いものほど、間違えた時に怖いですよね」
「津上さん、今の言い方だと、何か知っているみたいに聞こえます」
「いえ、何でもないですよ。ちょっと、そう思っただけです」
津上さんは笑って誤魔化したが、その笑い方には料理を焦がした時に見せるような軽さがなかった。
俺はそれ以上を聞かなかった。
戦う人間には、言わないことで自分を守っている場所があり、そこへ踏み込むことは正しさではなく暴力になると分かっていた。
「小沢さん、今の言葉は大事だと思います。装備が間違えた時、止まる余地がなければ、人間は装備の結論を追認するだけになります」
「拒否できる余地、ね」
小沢さんは湯呑みを置き、珍しくすぐに答えを出さなかった。
Gトレーラーなら即座に命令へ変わる沈黙が、美杉家では考えるための沈黙として残っている。
生活の音がある場所では、沈黙さえ人間の側へ戻るのだと、俺は妙に納得してしまった。
「G3-Xに必要なのは、強く進む力だけじゃなくて、止まれる余裕かもしれません」
「止まれる余裕……」
尾室さんが小さく繰り返し、つる先輩は今度こそノートを開いた。
ただし、彼女は津上さんの顔を見てから、文字を少しだけ柔らかく書くようにペンを動かした。
「結論として、AIは答えを出すのではなく、選択肢を並べるべきです。そして、装着者が拒否できる余地を残さなければ、補助ではなく支配になります」
「悔しいけど、それが正解ね。AIの優先度を下げるだけじゃ足りない。候補提示、拒否権、停止手順、その三つを組み込む」
小沢さんの声には悔しさが混じっていたが、その悔しさは負けを認めるものではなく、人間へ主導権を返すために自分の完成品を削る技術者の痛みだった。
津上さんはその言葉を聞いて、少しだけ安心したように笑ったが、G3-Xという単語が空気へ残る度に、彼の笑顔の端はまだ僅かに曇っていた。
「津上さん、やっぱりどこかで会った気がします」
「俺もなんですよねぇ。本当に不思議ですね」
最後にまた同じ話へ戻ってしまい、俺と津上さんは互いに首を傾げた。
つる先輩は記録したそうにしていたが、俺が視線で止めると、今度はノートを閉じてくれた。
小沢さんは何かを計算するように俺たちを見比べ、風谷さんは言葉にしないまま、胸の前で指を握っていた。
帰り際、津上さんは玄関まで見送ってくれた。
夕方の光が彼の肩に落ち、穏やかな表情をさらに日常へ近づけていたが、小沢さんが「G3-Xを必ず人間に戻す」と告げた時だけ、その笑顔はまた少しだけ薄くなった。
俺はその変化を見逃さなかったし、見逃せなかった。
強く進む力より、止まれる余裕。
その言葉はG3-Xだけではなく、俺の腰の奥に眠るベルトにも刺さっていた。
怒りで前へ進むことはできる。
けれど、怒りが正しい顔をした時に止まれるのかと問われれば、今の俺はすぐに頷けない。