美杉家から戻ってきたGトレーラーの中は、湯気の匂いが残る居間とは違い、金属と樹脂と通電した機械の匂いで満ちていた。
それでも、津上さんが口にした「止まれる余裕」という言葉だけは、トレーラーの硬い空気の中でも形を失わず、モニターに映ったG3-Xの暴走ログへ静かに重なっていた。
小沢さんは腕を組んだまま、V-1を破壊した瞬間の動作記録と、アンノウンへ向かった直後の戦闘記録を交互に再生させている。
尾室さんは端末に候補提示、拒否権、停止手順という三つの見出しを作り、何度も消しては書き直しながら、機械の仕様へ人間の言葉を落とし込もうとしていた。
「津上翔一の聞き取りは使えるわ。強く進む力じゃなく、止まれる余裕を装備側へ組み込む」
小沢さんの声には決定の速さがあり、だがその奥には、自分が作った完成品を一度崩さなければならない技術者の悔しさがあった。
氷川さんは別室で休んでいるため、ここにいる全員が自然と声を抑えていたが、G3-Xの問題が氷川さんの未熟さではなく、設計の側へ戻されていく感覚は確かにあった。
「候補提示は、AIが複数の行動案を並べる形にできます。拒否権は装着者の手動入力を最優先にして、停止手順は意識レベルとバイタル低下を条件へ入れる方向ですね」
尾室さんが説明すると、小沢さんは短く頷き、つる子先輩は膝に置いた未確認切抜帳を開きかけてから、手を止めた。
彼女の指先は、記録したいという癖と、今は人間のための改修であることを忘れてはいけないという自制の間で揺れていた。
「結論として、G3-Xは装着者の判断を短縮する装備ではなく、判断を支える装備へ戻すべきです。津上さんの言葉を借りるなら、答えを押し付けず、相談に近い形で選択肢を並べるべきでしょう」
「機械が相談なんて言い方、技術文書には向かないわね。でも、発想としては悪くない」
小沢さんがそう返したことで、尾室さんは端末の見出しへ相談構造という仮の名前を打ち込んだ。
その文字を見た時、俺は津上さんの笑顔を思い出したが、既視感の正体を追う気にはならなかった。
あの人とどこかで会った気がするのは確かでも、今はその謎より、氷川さんを置き去りにしないG3-Xを作ることの方が大事だった。
「津上さんは、答えを急がない人でした。だから装備も、急がせちゃいけないんだと思います」
自分の言葉としては少し頼りない気もしたが、小沢さんは意外にも否定しなかった。
彼女はモニターに映るG3-Xの動作軌跡を見つめたまま、仕様書には書きにくいけれど方向性としては使えると言った。
つる子先輩はそこで切抜帳を閉じようとして、急に表情を変えた。
「……あれ、栞代わりに挟んでいた津上さん聞き取りメモがありません。美杉家の居間でページを開いた時に、たぶん置いてきました」
「先輩、よりによって人の家に未確認切抜帳の一部を忘れたんですか」
「一部です。切抜帳本体ではありません。ですが結城くん、その言い方だと忘れ物の危険度が大差ないように聞こえます」
大差はないと思ったが、小沢さんが資料の紛失を許す空気ではなかったため、俺とつる子先輩はもう一度美杉家へ戻ることになった。
G3-Xの改修会議は尾室さんと小沢さんが続けることになり、俺たちは聞き取りメモの回収と、必要なら追加確認をしてくるように言われた。
夕方の道を引き返す間、つる子先輩は珍しく落ち込んだ顔で鞄の中を何度も確認していた。
「資料管理は基本中の基本です。これは研究者としても、協力者としても失態です」
「忘れた場所が美杉家でよかったです。アンノウンの現場に落とすよりは、ずっとましです」
「比較対象が極端すぎますが、慰めとして受け取っておきます」
美杉家に着くと、玄関を開けてくれたのは真魚さんだった。
彼女は俺たちを見るなり、少し困ったように笑い、居間の机へ置かれた数枚のメモを指差した。
そこには津上さんの聞き取り内容と、つる子先輩が書いた結城、津上、説明不能、普通の生活という走り書きが並んでいた。
「これ、つる子さんのですよね。翔一くんが片付けようとしたんですけど、何となくそのままにしておいた方がいい気がして」
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました。中身は見ましたか、いえ、見ていたとしても責める意図はありません」
つる子先輩が早口で言いかけた時、真魚さんは首を振った。
ただ、その手はメモの端に触れたままで、彼女の目は紙面ではなく、そこに残ったものを見ているようだった。
「文字はあまり読んでないです。でも、触った時に変な感じがしました。翔一くんと結城さんのことが、同じページに書かれているみたいな感じです」
同じページという言葉に、つる子先輩の目が細くなった。
いつものように情報へ飛びつく目ではなく、相手の感覚を壊さないように慎重に距離を測る目だった。
俺はメモの上にある自分の名前を見て、自分が誰かの本の中へ挟まれた標本みたいに扱われる不快さと、真魚さんの言葉が妙に否定しきれない落ち着かなさを同時に覚えた。
「同じページというのは、分類が同じという意味でしょうか。それとも、感触として近いという意味でしょうか」
「感触の方だと思います。二人とも、普通の場所へ帰ろうとしているのに、普通じゃないものを抱えている感じがします」
居間の奥から、津上さんが盆を持って顔を出した。
彼は俺たちが戻ってきたことに驚いた様子を見せたが、すぐに笑ってお茶を淹れ直すと言った。
その自然さは相変わらずで、真魚さんの言葉が少し重くなった空気を、生活の手つきでそっと支えていた。
「結城くん、また会いましたね。今日はずいぶん縁がありますね」
「忘れ物を取りに来ただけですけど、確かに今日だけで何度も顔を合わせていますね」
「こういうのって、縁って言うんでしょうか。僕はそういうの、嫌いじゃないですよ」
津上さんは何でもないように言ったが、その言葉は俺の胸に引っかかった。
どこかで会った気がするという既視感は、まだ正体のないままだが、少なくとも嫌なものではなくなっていた。
水底へ沈むような不安ではなく、岸の方から差し込む細い灯りに近いものとして、俺の中で形を変え始めている。
つる子先輩は回収したメモを鞄へしまいながら、俺と津上さんを交互に見た。
その表情には、推理を当てにいく時の鋭さではなく、誰かのために言葉を選んでいる時の迷いがあった。
「結城くん、津上さんのことですが、あなたと似た者同士なのかもしれません」
「似た者同士、ですか。真魚さんにも似ていると言われましたけど、俺は津上さんほど自然に笑えませんよ」
「そこは違います。ですが、説明できない力や記憶を抱えたまま、普通の生活へ戻ろうとしている点は似ています」
つる子先輩の言葉に、津上さんは困ったように笑い、俺は返事を探した。
説明できない力という言葉は、俺にとっては腰の奥に眠るベルトの重さであり、津上さんにとっては記憶を失った空白や、まだ名前を出していない何かのことなのだろう。
互いに正体を知らないまま、同じ種類の影だけを見ているような距離が、そこにはあった。
「相談できる相手、ってことですか」
俺がそう聞くと、つる子先輩は少しだけ目を伏せた。
彼女は断定を好む人なのに、この時だけは断定を避けることで相手を守ろうとしていた。
「断定は避けます。ただ、あなたが全部を一人で抱えなくてもいい相手かもしれません」
「先輩にしては、珍しく記録より人間寄りですね」
「失礼です。私は最初から人間寄りです。資料の扱い方が少々熱心なだけです」
その言い方に津上さんが笑い、真魚さんもつられて笑った。
俺も否定しきれず、少しだけ肩の力が抜けた。
相談という言葉は、G3-XのAIにも使われようとしている。
命令ではなく相談する装備。
そして、俺自身にも相談できる相手ができるかもしれないという可能性。
二つの話が別々ではなく、同じ方向を向いていることに気づくと、美杉家の居間が前よりも少し近い場所に見えた。
「相談なら、料理をしながらでも聞きますよ。その方が、僕も落ち着きますし」
津上さんは軽い口調で言ったが、その軽さは逃げではなく、重い話を生活へ戻すための優しさだった。
俺はすぐに頼るとは言えなかったが、いつか本当に息が詰まった時、この人の台所なら話せるかもしれないという予感だけは胸に残った。
「その時は、野菜を切るくらいなら手伝います」
「じゃあ、まずは包丁の持ち方からですね。危なっかしい人には任せられませんから」
「俺、そこまで不器用に見えますか」
「戦える人ほど、台所で油断することがありますからね」
津上さんの冗談に、俺は返す言葉を探しながらも、どこかで見たことのある背中を見ているような奇妙な懐かしさを覚えた。
彼の方も同じだったのか、湯呑みを置いた後で俺を見て、また首を傾げた。
「やっぱり、不思議ですね。結城くんとは、初めて話している気がしないんです」
「俺もです。でも、前より嫌な感じはしません」
「僕も怖くはないです。分からないのに、悪いことじゃない気がします」
その言葉を聞いた時、真魚さんが安心したように微笑んだ。
つる子先輩は記録したそうにしていたが、今回はノートを開かなかった。
記録に残さなくても、その場にいた人間の中へ残れば十分だと、先輩なりに判断したのかもしれない。
再び美杉家を出る頃には、空は夕方の色へ沈みかけていた。
玄関先で津上さんが見送ってくれ、真魚さんは一歩後ろから俺たちを見ていた。
俺と津上さんの間にある既視感は、まだ答えを持たないままだが、今はそれでよかった。
「結城くん、また何かあったら来てください。相談じゃなくても、お茶くらいなら出せますから」
「ありがとうございます。今度は、忘れ物じゃない理由で来ます」
「それなら、なおさら歓迎します」
津上さんの笑顔はあたたかく、俺は真魚さんが言った言葉を思い出した。
翔一くんはあたたかい感じで、結城さんは水の底みたいだと彼女は言った。
なら、そのあたたかさが水底まで届くこともあるのかもしれない。
そんな考えは甘いのかもしれないが、少なくとも今は、それを否定したくなかった。
帰り道、つる子先輩は歩きながらぽつりと言った。
「G3-Xも、あなたも、命令ではなく相談できる形へ変われるといいですね」
「先輩、それは仕様書に書けないやつですよ」
「仕様書に書けないからこそ、人間の側に置いておくべき言葉です」
俺はそれに頷いた。
G3-Xは、装着者へ命令する装備ではなく相談する装備へ変わろうとしている。
俺もまた、誰にも言えないまま沈んでいくのではなく、誰かへ相談できる人間へ戻れるのかもしれない。
津上さんとどこかで会ったことがあるのかは、まだ分からない。
けれど、その分からなさはもう、俺を水底へ引きずるものではなく、暗い場所から岸を示す灯りのように見えていた。