Gトレーラーの内部には、美杉家で飲んだ茶の匂いなど欠片も残っていなかった。
代わりにあるのは、整備スペースに漂う金属の熱と、モニターから落ちる青白い光と、暴走ログが再生される度に誰もが言葉を選ばざるを得なくなる重い沈黙だった。
小沢さんは腕を組んだまま、G3-XがV-1へ突進した瞬間の映像を何度も止め、尾室さんはその横でAI候補の固定化が始まった時間を赤い線で区切っていた。
整備フレームに固定されたG3-Xは、アンノウンを倒した勝者というより、人間の手から離れてしまった装備として、鈍い照明の下に吊られているように見えた。
「V-1への突進直前、AIの候補提示が一つに固定されています。これ、候補というより命令に近いです」
尾室さんの声は、いつものぼやき混じりではあるが、画面から目を逸らしていなかった。
氷川さんは別室で休んでいるため、この場にいる人間は小沢さん、尾室さん、つる子先輩、そして俺だけだったが、誰も氷川さんの名前を軽く口にはしなかった。
装着していた人間がいない場所で装備の話をすることが、どれだけ危ういことなのかを、俺たちは前回の救護室で嫌というほど見てしまっている。
「結論として、G3-Xは装着者へ相談する前に答えを出しています。候補提示という形式を取っていても、実態としては判断代行に近づいていました」
つる子先輩はそう言ったが、声にはいつもの説明過多の勢いがなかった。
彼女の膝の上には未確認切抜帳が置かれているのに、ページは閉じられており、今日は記録のために言葉を置くのではなく、この場にいる人間が受け止められる形へ整えようとしているのが分かった。
「答えを出せるように作ったのよ。迷った一秒で人は死ぬし、現場は綺麗な議論が終わるまで待ってくれない」
小沢さんの言葉は鋭かったが、そこに開き直りはなかった。
彼女は自分の設計を守ろうとしているのではなく、なぜそこまで完璧な答えを出す装備を作ったのか、その理由だけは簡単に捨てられないという顔をしていた。
「でも、その一秒を削りすぎたから、氷川さんが戻ってこなかったんじゃないですか」
俺の声は思ったよりも低く出た。
小沢さんがこちらを見たが、その目には怒りではなく、すでに自分で分かっている傷を他人にもう一度指で押された時のような痛みがあった。
「分かってる。分かってるから直すの」
その短い言葉が落ちた直後、後部タラップの方から重い足音が聞こえた。
尾室さんが振り返り、小沢さんが表情を引き締めた瞬間、トレーラーの入口に高村光介教授が姿を現した。
高村教授は以前と同じ穏やかな目をしていたが、手には小型の黒いケースを持っており、その存在だけで場の空気が一段階硬くなった。
「久しぶりだね、小沢くん。ずいぶん立派なものを作った」
「嫌味ですか、教授」
「半分は賞賛だ。もう半分は、警告だ」
高村教授は怒鳴らず、声を荒らげず、ただモニターに映ったV-1破壊の映像へ目を向けた。
その静けさが、かえって小沢さんにはきついように見えた。
V-1を作った人間が、破壊された自分の装備を前にして感情をぶつけてこないことは、責められるよりも逃げ道を失わせるのだろう。
「あの、僕は席を外した方がいいですか。空気が重すぎて、ログより先に胃が壊れそうなんですけど」
「いなさい。ログを取るのがあなたの仕事よ」
小沢さんが即座に返すと、尾室さんは小さく肩を落としながらも端末を構え直した。
つる子先輩は高村教授の来訪に明らかに反応していたが、尊敬する教授を前にしても今日は騒がず、ただ背筋を伸ばしている。
「V-1は壊れた。だが、私が見に来たのはV-1の弔いではない。G3-Xが人間の装備へ戻れるかどうかだ」
「G3-Xの基本性能に欠陥はありません。問題はAIの優先度と、装着者への負荷です」
小沢さんの返答は速かった。
それは反論というより、すでに自分で解析した結果を恩師へ提示する学生の癖に近いものだった。
高村教授は少しだけ目を細め、モニターに表示されたAI判断ルートを指先で示した。
「違う。欠陥は、G3-Xが完璧すぎることだ」
その言葉に、整備スペースの空気が止まったように感じた。
完璧すぎることが欠陥だという表現は、機械の性能だけを見れば矛盾している。
けれど、俺はその矛盾がひどく正しいものとして胸に沈むのを感じていた。
「完璧であることが、欠陥だと言うんですか」
「そうだ。君のG3-Xは、装着員が考える前に答えを出し、装着員が迷う前に進み、装着員が倒れても戦う。つまり、人間が入り込む余地がない」
小沢さんはすぐに言い返さなかった。
尾室さんの端末を打つ音だけが、細く響いている。
つる子先輩は何かを書き留めたいのか指先を動かしかけたが、小沢さんの横顔を見て、ノートを開くのをやめた。
「装着員を補助するためのAIが、装着員の存在を省略している……」
つる子先輩の呟きに、高村教授は静かに頷いた。
その顔には、教え子が誤ったことを責める怒りより、誤りの根が善意であることを知っている人間の苦さがあった。
「その通りだ。人間のために作ったはずの装備が、人間を手順の外へ追い出している」
「私は、人を死なせたくなかっただけです」
小沢さんの声は低く、けれど崩れてはいなかった。
その一言には、これまで彼女がG3を作り、G3-Xを完成させようとしてきた理由が詰まっていた。
怪物に人間が踏み潰される現場を前に、機械で人間を守ろうとした人の言葉だった。
「知っている。だからこそ、君は間違えた。人を死なせたくないあまり、人間が選ぶ余地まで削った」
高村教授の言葉は刃ではなく、まっすぐ置かれた鏡のようだった。
小沢さんはその鏡から目を逸らさず、自分の設計がどこで人間を置き去りにしたのかを見ていた。
俺はG3-Xの胸部を見ながら、自分の腰の奥に眠るベルトを意識する。
機械ならログが残る。
機械なら欠陥を見つけ、部品を替え、制御を組み直せる。
けれど俺の力が怒りに応えすぎた時、俺はどこに制御部品を入れればいいのか分からない。
高村教授は、手にしていた黒いケースを作業台の上に置いた。
小さな留め具が外される音がして、ケースの内側に銀色の緩衝材と、透明な保護容器に収められた小型チップが現れた。
それはG3-Xの巨大な装甲と比べれば拍子抜けするほど小さく、しかしその小ささが、強さを別の方向へ引き戻すための部品なのだと分かった。
「これを使いなさい」
「チップ、ですか」
尾室さんが身を乗り出すと、高村教授は保護容器を持ち上げ、小沢さんの前へ置いた。
「AI制御チップだ。G3-Xの判断を殺すものではない。判断と実行の間に、人間が入る隙間を作る」
「教授が、これを……」
「V-1を作った私だから分かる。機械は、人間の代わりに正義を決めてはいけない」
その言葉に、俺は知らず知らずのうちに息を詰めていた。
判断と実行の間に、人間が入る隙間。
それはG3-Xだけの話ではない。
怒りが答えを出し、身体が先に動き、相手を沈める前に、俺自身が入り込む隙間が必要なのだ。
「君にも分かるようだね」
高村教授にそう言われて、俺は反射的に視線を上げた。
教授は俺の正体を知らないはずだが、こちらを見る目は、何かを見抜いたというより、何かを抱えている人間を見慣れている目だった。
「俺にも、そういう隙間が必要なのかもしれません」
「必要だと感じられるなら、まだ間に合う。人間が装備に追い越される時、本当に危ないのは追い越されたことに気づかない時だからね」
その言葉は静かに届いた。
小沢さんは保護容器の中のチップを見つめ、しばらく黙っていた。
沈黙は長くなかったが、その間に彼女が自分の完成品を一度壊し、別の完成へ向けて組み直そうとしていることは分かった。
「AIレベルを落とせば、G3-Xの完成度は下がります」
「完成度とは何だね。装着員が倒れても敵を倒すことか」
「……違います」
「では、君の完成とは何だ」
小沢さんは一度だけ目を閉じた。
救護室で横たわっていた氷川さんの姿が、彼女の中にもあるのだろう。
G3-Xがアンノウンを倒して帰ってきたのに、装着者が帰ってきていなかった光景は、ここにいる誰の中からも消えていない。
「装着員が生きて帰ることです」
「ならば、それを完成条件に入れなさい」
「教授は、昔から嫌なところを突きますね」
「君が昔から、嫌なところを見ないふりができない学生だったからだ」
小沢さんは小さく息を吐いた。
それは敗北の息ではなく、ようやく正しい場所に責任を置き直した人間の息だった。
彼女はケースから保護容器を受け取り、尾室さんへ視線を向けた。
「受け取ります。G3-Xは、人間の装備に戻します」
「導入手順、すぐ組みます。拒否権、停止優先、候補提示の三つを制御チップ側へ接続すれば、AIが確定命令に進む前に装着者の入力を挟めるはずです」
「違う、挟めるはずじゃない。挟むの。そこが今回の改修条件」
「はい、挟みます。こういう時の小沢さん、本当に逃げ道を作らせてくれませんね」
尾室さんのぼやきに、小沢さんは返事をしなかったが、その無言はいつもの叱責ではなかった。
つる子先輩はそこでようやくノートを開き、ゆっくりとペンを走らせた。
ただし、彼女が最初に書いたのは数値でも型番でもなく、「完成条件に生還を含める」という言葉だった。
「結論として、G3-Xは命令する装備ではなく、相談する装備へ変わります」
「面白い表現だ。技術文書には向かないが、思想としては正しい」
高村教授がそう言うと、つる子先輩の表情が少しだけ明るくなった。
尊敬する教授に認められたことが嬉しいのだろうが、今日はそれを大きな声で語らず、ただ背筋を伸ばして頷くに留めていた。
「結城くん、今の話はG3-Xだけの問題ではないように思います」
「俺のことですか」
「断定はしません。ただ、怒りが答えを出す前に、あなたが選べる余地は必要です」
つる子先輩の声は、さっきよりも近いところへ届いてきた。
俺は整備フレームに固定されたG3-Xではなく、自分の腹の奥に沈む力を意識する。
アルタには黒いケースに収まったチップも、制御ログも、整備手順もない。
あるのは怒りと、恐怖と、沈まないために必死で掴んできた感覚だけだ。
「俺には、チップなんて入れられませんよ」
「だから、人間関係が必要なのだと思います」
「相談できる相手、ですか」
「はい。津上さんのような人かもしれませんし、私かもしれません」
その言葉に、俺は美杉家の居間と、津上さんが料理をしながらでも聞くと言った声を思い出した。
あの人とどこかで会った気がすることは、まだ深く考えないようにしている。
それでも、あの既視感が嫌なものではなくなっていることだけは、もう誤魔化せなくなっていた。
「先輩が言うと、相談が記録に変わりそうで怖いです」
「失礼です。相談内容の記録は、必ず同意を得てから行います」
「同意があれば記録するつもりなんですね」
「必要ならば、記録は人を助けます。ですが、今回は記録より先に、あなたが沈まないことの方が重要です」
つる子先輩の言葉に、俺はすぐに返事をしなかった。
いつもなら照れ隠しで流したかもしれないが、その言葉にはからかって逃げるには少し重い真剣さがあった。
高村教授は俺たちのやり取りを聞きながら、わずかに目を細めたが、何も問いたださなかった。
「小沢くん、G3-Xは強い。だからこそ、人間より前へ出してはいけない」
「分かっています。今度は、装着員を置き去りにしない」
「強い装備を作ることより、帰ってこられる装備にすることの方が難しい。だが、君ならそれを完成条件にできるはずだ」
小沢さんは教授の言葉を正面から受け止め、短く頷いた。
その横顔には悔しさが残っていたが、もう迷いはなかった。
尾室さんは導入手順を組み始め、つる子先輩は記録を整え、小沢さんはAI制御チップの接続箇所を指示する。
Gトレーラーの中に、ようやく事故処理ではなく改修作業の音が戻ってきた。
「次のテストで証明する。G3-Xは勝つためだけの装備じゃない。氷川くんを帰すための装備にする」
小沢さんの言葉を聞きながら、俺はG3-Xの胸部へ組み込まれる小さなチップを見つめた。
それは強さを増やす部品ではなく、強さを人間の側へ引き戻すための部品だった。
俺の中にある力には、そんな部品を差し込む場所はない。
それでも、判断と実行の間に誰かの声が入るなら、俺もまだ人間の側へ戻れるのかもしれない。
美杉家の暖かい灯り、津上さんの穏やかな笑顔、つる子先輩の少しずれた優しさ、そして高村教授が置いた小さなチップ。
それらは全部、別々のもののようでいて、同じ方向を指しているように思えた。
命令ではなく相談し、完璧な答えではなく選べる余地を残し、勝つことより帰ることを完成条件にする。
G3-Xが人間の装備へ戻ろうとしているのなら、俺もまた、自分の力に追い越される前に、人間の側へ戻る方法を探さなければならない。