夜の道を歩いている理由を、俺は誰かに説明できるほどはっきり掴めていなかった。
G3-Xが無事に勝ち、氷川さんが自分の声で帰還を告げた瞬間、胸の奥に生まれた引力は、アンノウンの気配とも敵意とも違っていた。
それは水底へ沈める冷たさではなく、遠い場所で誰かが失くした名前を拾い上げた時に生まれるような、静かで細い波だった。
つる子先輩に声をかけるべきだったのかもしれないが、言葉にした瞬間に見失いそうな感覚だったため、俺はただ足だけを前へ出していた。
街灯の光はところどころ途切れていて、夜の住宅街は昼間よりも余計な音を失っていた。
車の走る音も、人の話し声も遠く、代わりに自分の靴音だけがアスファルトへ落ちる。
美杉家へ向かえば何か分かるのではないかと思っていたが、その考えさえ本当に自分のものなのか分からなかった。
胸の奥で引かれる方向へ歩いているうちに、俺は見慣れた道から少し外れ、駅前の明るさを避けるように続く細い道へ入っていた。
そこで、俺は津上さんを見つけた。
美杉家の居間で見た時と同じ穏やかな背中のはずなのに、夜の中を一人で歩くその姿は、いつもより遠く見えた。
彼は少し古びた封筒を手にしており、指先に力を入れて握り潰すわけでもなく、かといって軽く持っているわけでもなかった。
ただの紙に見えるその封筒は、名前より重いものを運んでいるようで、俺の胸を引いていた感覚がその手元へ細く繋がっているように思えた。
声をかけるべきか、少し迷った。
津上さんは俺に気づいていないようで、街灯の下を通り過ぎても振り返らず、どこかを確かめるような足取りで進んでいく。
その背中には、今呼び止めたら壊れてしまいそうな静けさがあり、俺は結局、数歩分の距離を空けて後を追うことにした。
尾行という言葉を自分へ使いたくはなかったが、やっていることはそれに近く、つる子先輩がいたら間違いなく眉をひそめるだろう。
しばらく歩いたところで、津上さんは小さな交差点の手前で足を止めた。
信号が赤だったからではない。
彼は封筒へ視線を落としたまま、困ったように息を吐き、こちらへ半分だけ振り返った。
「結城くん、隠れるのはあまり得意じゃないみたいですね」
その声は責めるものではなく、いつもの台所で包丁の持ち方を注意するような柔らかさを持っていた。
俺は言い訳を探したが、夜の道で人をつけていた事実を綺麗に説明する言葉など見つからなかった。
「すみません、ついて行くつもりは最初からあったわけではなく、気づいたら津上さんの後ろを歩いていました」
「最初からではないということは、途中からはついて来るつもりになったんですね」
津上さんはそう言って少し笑ったが、その笑顔は美杉家でお茶を出してくれた時より薄かった。
俺はその薄さを見て、やはり声をかけてよかったのかもしれないと思った。
「津上さんの様子が気になりました。いつもと同じ顔なのに、全然同じじゃなかったので」
「そう見えましたか。僕としては、いつも通りのつもりだったんですけどね」
「いつも通りに見せようとしている時点で、いつも通りじゃないと思います」
俺がそう言うと、津上さんは反論せず、封筒を持つ手へ視線を落とした。
彼の沈黙は長くなかったが、その短い間に、俺たちの間を通り抜ける夜風が少しだけ冷たく感じた。
「これは、僕が見つかった時に持っていたものらしいです」
津上さんは、封筒をこちらへ少しだけ見せた。
俺は宛名を読むほど近づかなかったし、読むべきでもないと思った。
その封筒が何を示しているのかは分からないが、津上さんにとっては記憶の穴へ橋をかけるものなのだろう。
「その封筒が、津上さんの記憶に関係しているんですか」
「たぶん、そうなんだと思います。でも、分かったと言えるほど簡単じゃないんですよね」
「記憶が戻ったんですか」
その問いは、口にしてから少し踏み込みすぎたと分かった。
けれど津上さんは怒らず、道の向こうにある暗がりを見つめたまま、穏やかさと迷いの混ざった声で答えた。
「戻った、という言い方が正しいのか分かりません。ただ、知らなかったことを知ってしまった感じです」
知らなかったことを知ってしまった、という言葉は、記憶喪失の人間が口にするには奇妙で、それでも妙に正確だった。
忘れていたものが戻るというより、封じられていた箱が開き、中にあるものを見てしまったような響きがある。
俺は自分の腰の奥に眠るベルトを意識し、津上さんの中にもまた、本人が説明しきれない何かがあるのだと感じた。
「なら、一人で行くのは危ないんじゃないですか」
「危ないかもしれません。でも、これは僕が確かめないといけないことだと思うんです」
津上さんはそう言って、俺に帰れとは言わなかった。
ただ、ついて来いとも言わない。
その距離感がいかにも津上さんらしく、俺は一歩だけ横へ並び、彼の歩幅に合わせて歩き出した。
「結城くんと一緒に歩いていると、不思議と変な感じがしないんです」
「俺もです。知らない場所へ向かっているのに、一人で行くより息がしやすいです」
「それは良かったです。僕も少し、助かっています」
「津上さんでも、助かることがあるんですね」
「ありますよ。僕だって、何でも平気なわけじゃありませんから」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ安心した。
津上さんはいつも穏やかで、何かを抱えていてもそれを台所の湯気や笑顔の中へしまい込んでしまう人だったから、弱さを口にできることが意外だった。
完璧に見える人ほど、どこかで急に遠くへ行ってしまうのではないかという不安があったが、今の津上さんは少なくとも、助かっていると言える場所に立っていた。
「津上さんは、怖くないんですか」
「怖いですよ。でも、怖いから見ないでいると、ずっと分からないままになりそうで」
「分からないままの方が、楽なこともあります」
「そうですね。でも、分からないままだと、今の自分がどこへ帰ればいいのかも曖昧になる気がするんです」
帰る場所という言葉が、夜の道に静かに落ちた。
美杉家の灯り、真魚さんの心配そうな目、美杉教授の落ち着いた声。
津上さんには帰る場所がある。
それでも彼は、封筒の先へ向かわなければならないと感じている。
帰る場所があるからこそ、自分が何者なのかを確かめようとしているのかもしれなかった。
夜道は住宅街を抜け、古い塀が続く区画へ入っていった。
街灯の間隔はさらに広くなり、湿った木の匂いと、長い間開かれていない門の鉄臭さが混じる。
胸の奥にあった引力は、ここへ近づくほど強くなった。
それは痛みに変わるほどではないが、体内の水面が静かに高くなるような感覚で、足を止めれば逆に息苦しくなる。
やがて、俺たちは一軒の屋敷の前に立った。
屋敷は古く、夜の中に沈むように建っており、誰かが今も暮らしているというより、誰かの記憶だけが扉の内側へ残っているように見えた。
門の前に立った瞬間、封筒を持つ津上さんの手がわずかに強張り、俺の胸の奥に沈んでいた感覚も、水面へ近づく泡のように浮かび上がった。
「ここです。たぶん、この封筒が僕をここへ連れてきました」
「俺も、ここに近づくほど引っ張られました」
「じゃあ、やっぱり無関係じゃないのかもしれませんね」
「でも、何が関係しているのかは分かりません」
「分からないままでも、入らないといけない時ってありますよ」
津上さんはそう言い、門の前で一度だけ俺を見た。
その目には、いつもの柔らかさが残っているのに、奥には昼間には見せなかった覚悟があった。
俺はその目を見て、今ここで帰れと言われたら本当に帰るべきなのだろうと思った。
これは津上さんの名前と記憶に関わる場所であって、俺が勝手に入り込んでいいものではないからだ。
「津上さん、本当はここから一人で入るつもりだったんですよね」
「はい。最初は、そのつもりでした」
「今からでも帰れって言われたら、帰ります」
「帰れって言うほど、僕は強くないですよ」
津上さんは困ったように笑った。
それは強がりを崩した笑いではなく、自分が一人では平気でいられないことを認める人間の笑いだった。
俺はその笑いに少しだけ背中を押され、門の前で姿勢を正した。
「なら、そばにいます。何か分からないものを、一人で見るのはきついので」
「ありがとうございます。じゃあ、少しだけ一緒に来てもらえますか」
「はい。邪魔はしません」
「邪魔かどうかは、入ってみないと分かりませんけどね」
津上さんの軽い冗談に、俺は少しだけ息を吐いた。
緊張は消えないが、完全に冷え切ることもなかった。
この人は、記憶の底へ向かう時でさえ、少しだけ日常の言葉を持っていける人なのだと思った。
門を抜け、屋敷の入口へ向かう石畳を歩く。
足元には落ち葉が溜まり、踏むたびに乾いた音が夜へ薄く広がった。
扉の前まで来ると、津上さんは封筒を持つ手を下ろし、何かを確かめるように深く息を吸った。
俺はその横で、屋敷から漂う空気を感じていた。
それは敵の匂いではない。
アンノウンが近くにいる時のような皮膚を刺す気配ではなく、誰かが置いていった名前と記憶が、古い木と埃の間に沈んでいるような感覚だった。
「結城くん、ここに来る途中で、何か思い出しましたか」
「いいえ。でも、津上さんが何かを思い出したことだけは、少し分かる気がします」
「不思議ですね。僕より、僕のことが分かっているみたいです」
「分かってはいません。ただ、似たものに引っ張られただけです」
津上さんはその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
どこかで会ったことがあるような感覚は、今夜もまだ消えていない。
むしろ、屋敷の前に立ったことで、それは過去の記憶というより、互いの中にある説明できない力が同じ方向を向いている感覚へ変わっていた。
「なら、一緒に確かめましょう。僕の名前のことも、君が感じたもののことも」
津上さんが扉へ手をかける。
古い金具が小さく鳴り、屋敷の扉は夜の中でゆっくりと開いた。
内側から流れ出した空気は冷たかったが、俺を水底へ引きずるものではなかった。
それは長い間閉じ込められていた記憶が、ようやく誰かに見つけられるのを待っていたような、静かな重さを持っていた。
津上さんが一歩を踏み出し、俺もその後に続いた。
どこかで会った気がするという既視感は、過去へ戻るための鎖ではなく、これから一緒に進むための細い糸のように思えた。
その糸がどこへ続いているのかは分からない。
けれど今夜だけは、その分からなさが怖いだけではなく、誰かが自分の名前を取り戻すための道しるべにも見えていた。