屋敷の扉が開いた瞬間、夜の外気とは違う冷たさが、ゆっくりと足元へ流れ出してきた。
それは廃屋の埃っぽさだけではなく、長く閉じられていた記憶が空気の形を取って滲み出したような冷たさで、俺は一歩目を踏み込む前から、胸の奥を静かに押さえつけられるような感覚を覚えていた。
津上さんは封筒を手にしたまま、玄関の内側へ視線を向けている。
その横顔には恐怖というほど分かりやすい色はないが、美杉家の台所で見せる穏やかな笑顔とも違う、どこか遠いものへ耳を澄ませるような静けさがあった。
「ここに、何かあるんですね」と俺が声を抑えて聞くと、津上さんは封筒の端を指でなぞりながら、「あるのかもしれません。でも、何があるのかは、まだ分からないんです」と答えた。
その声はいつもの柔らかさを保っていたが、言葉の奥には、分からないままでも進まなければならない人間の硬さが混ざっていた。
俺たちが玄関へ足を踏み入れると、奥の廊下から一人の人物が現れた。
年齢の読みにくい男で、屋敷の使用人と言われればそう見え、最初からこの場所の一部だったと言われても納得できてしまうような、不思議に輪郭の曖昧な立ち姿をしていた。
黒に近い落ち着いた服を着て、表情には礼儀正しい微笑みを浮かべているが、その目だけは、こちらを迎える人間のものというより、遠い場所から現れたものを確認する観察者のようだった。
「お待ちしておりました。封筒をお持ちの方ですね」とその人物が言うと、津上さんは封筒を持つ手を少しだけ強くしながら、「あなたは、俺のことを知っているんですか」と問い返した。
男は否定も肯定も急がず、静かな間を置いてから、「知っていると言えば少し違います。ここへ来る方を、ただお待ちしていただけです」と答えた。
その声は丁寧で、耳に触れるだけなら柔らかい。
けれど俺の腹の奥に沈んでいるベルトの気配が、その声を聞いた瞬間に小さく重くなった。
「ここへ来る方、ですか」と俺が聞き返すと、男は俺の顔ではなく、ほんの一瞬だけ俺の腹部へ視線を滑らせた。
そこには服の上から見えるものなど何もないはずなのに、男の目は間違いなく、俺の身体の奥にあるものを見ていた。
「ええ。名前に導かれる方と、名前ではないものに導かれる方です」と男は微笑み、俺は敵意のない視線に背筋が冷えるという、奇妙な感覚を味わった。
津上さんは男の言葉の意味を探すように眉を寄せたが、今は封筒と自分の記憶のことで精一杯なのだろう。
俺へ向けられた視線に気づいていないわけではないはずだが、そこへ踏み込む余裕はないように見えた。
案内人と名乗ることもなく、男は軽く会釈をして、「こちらへ」とだけ告げ、屋敷の奥へ続く廊下を歩き始めた。
廊下は古い木の匂いと、閉じられた部屋に溜まる埃の匂いで満ちていた。
壁に掛けられた絵は暗く、窓の外から入る月明かりが額縁の縁だけを白く浮かび上がらせている。
津上さんは封筒を手にしたまま、何かを確かめるように一歩ずつ進んでいく。
俺はその隣を歩きながら、彼が記憶に引かれているのとは別の方向から、屋敷そのものに覗かれているような感覚を拭えなかった。
「ここ、初めて来たはずなのに、初めてじゃない気がします」と津上さんが呟いた。
俺は廊下の影へ目を向けたまま、「俺もです。でも、津上さんとは少し違う感じがします」と返した。
「違う感じ、ですか」と津上さんがこちらを見るので、俺は言葉を探しながら、「津上さんは記憶に引かれているように見えます。俺は、もっと底の方から見られている感じがします」と答えた。
「底とは、不思議な言い方をされますね」
少し先を歩いていた案内人が、振り返らずにそう言った。
声量は小さいのに、廊下全体がその言葉を運んでくるようにはっきり聞こえたため、俺は足を止めかけた。
「今の、聞こえていたんですか」と俺が問いかけると、案内人は半身だけ振り返り、「この屋敷では、小さな声ほどよく響きます」と言った。
それは冗談のようにも聞こえたが、俺には、この屋敷では声だけではなく、隠そうとしたものまで響くのだと言われたように感じられた。
廊下の奥で、案内人は一度立ち止まった。
そこには左右へ分かれる通路があり、片方は津上さんの封筒が向かうべき場所へ続いているのだろう。
もう片方は、明かりが届きにくく、夜よりさらに濃い影が床の上へ沈んでいる。
案内人は津上さんへ向けて穏やかに示した後、俺へ視線を移した。
「あなたの中には、少し懐かしいものがあります」
その言葉は、俺の皮膚の上ではなく、腹の奥のさらに深い場所へ届いた。
「懐かしい、というのは何のことですか」と聞き返す俺に、案内人は静かな微笑みを崩さず、「危うく、強く、そして本来ならば人の手に余るものです」と答えた。
津上さんが俺と案内人を見比べ、「結城くんのことを、知っているんですか」と問う。
案内人は首を横へ振り、「いいえ。ですが、力の匂いは残ります」とだけ言った。
力の匂いという言葉は、普通の人間が使うものではなかった。
俺は自分の身体の中に沈むアマダムの欠片を意識し、何も知らないはずの相手にそこを撫でられたような不快感を覚えた。
「かつて、それは多くを傷つける可能性を持っていた。けれど、ある人間はその力で多くを守った」
案内人はそう言った。
名前は出されていない。
けれど俺には、その言葉が誰を指しているのか、考えるより早く分かってしまった。
雨の夜、水面越しに見た角の影、増水した川の中で俺を沈ませなかった背中。
俺が追いかけてきた未確認第4号のことを、この男は知っている。
「あなたは、4号を知っているんですか」と俺が言うと、津上さんが驚いたようにこちらを見る。
案内人は俺の反応を待っていたかのように、ほんの薄く笑った。
その微笑みには温度がないのに、嘲りでもない。
危険なものを危険なまま見つめ、それでもその先に別の可能性を見た者の微笑みだった。
「知っている、という言葉では足りません。あれは危険な可能性でした。けれど同時に、人間が力をどう扱うかを示した稀な例でもありました」
案内人の言葉は、まるで人間を外側から見ている存在のものだった。
俺は無意識に拳を握り、声を低くする。
「だったら、俺をどう見るんですか」
「まだ、見届ける段階です」
その答えは短く、判断を先送りにするというより、すでに俺を観察対象として置いていることを隠さない響きがあった。
俺は反射的に前へ出そうになったが、津上さんが封筒を持っていない方の手をわずかに動かしたことで、踏みとどまった。
彼は俺を止めようとしたのではなく、そばにいると示してくれただけだ。
それだけで、怒りがすぐ形になるのを一拍だけ遅らせることができた。
案内人は津上さんへ視線を戻し、何事もなかったように廊下の先を示した。
「こちらです。あなたが確かめたいものは、この奥にあります」
「俺が確かめたいもの……」と津上さんが繰り返すと、案内人は封筒を見て、「封筒は、名前を運びます。ですが、名前が必ず本人を示すとは限りません」と言った。
その言葉に、津上さんの表情が少しだけ強張った。
「それは、どういう意味ですか」と津上さんが聞くと、案内人は扉の方へ視線を向け、「中へ入れば、少しは近づけるでしょう」とだけ答えた。
俺は津上さんの横顔を見た。
彼は今、自分の名前の足元が崩れるような言葉を聞かされたはずなのに、封筒から目を逸らさない。
「津上さん」と俺が呼ぶと、彼は少しだけ笑って、「大丈夫です。結城くんがいてくれるなら、少しだけ落ち着いていられます」と返した。
その言葉は、俺の方が支えられているのではないかと思うほど静かだった。
俺は頷き、これ以上、案内人の言葉へ引きずられすぎないように息を整えた。
しかし、津上さんが扉へ向かって歩き出したその一瞬、案内人は俺にだけ届く距離で声を落とした。
「あなたは、あの背中に憧れているのですね」
俺は足を止める。
「何の話ですか」と聞き返した声は、自分でも分かるほど硬かった。
「人々を守るために、怪物の姿で戦った者の話です」
その言葉で、俺の中に沈んでいた水がざわついた。
4号は俺にとって、ただの未確認生命体ではない。
あの雨の夜、川の中で見た背中は、俺が生きている理由の一つであり、同時に自分が何者になりたいのかを決めきれないまま抱えた火種でもあった。
「あなたは、俺の何を知っているんですか」
「あなた自身を知っているわけではありません。ただ、その憧れと恐れが、力の周囲に残っているだけです」
案内人はそう言い、俺の腹の奥に沈むものではなく、その周りに絡みついた感情まで見ているような目をした。
「俺の中にあるものが危険なら、あなたは止めるんですか」
「必要ならば」
「今は、必要じゃないと?」
「あなたはまだ、怒りだけで進んでいない。憧れ、恐れ、迷い、そして誰かへ相談しようとする余地がある」
相談という言葉が、G3-Xの改修で何度も聞いた言葉と重なった。
氷川さんを置き去りにしないために組み込まれた隙間。
津上さんが料理をしながらでも聞くと言ってくれた居場所。
つる子先輩が記録より先に俺を沈ませないことを選んだ視線。
俺の中に制御チップはない。
けれど、その代わりに誰かの声が入る余地があるのなら、まだ怒りだけで進んでいないと言えるのかもしれない。
「それが、何か違うんですか」
「ええ。力よりも、そちらの方が興味深い」
案内人はそう言って、俺の中に沈む黒い部分へ向けるように、ほんの薄く微笑んだ。
その微笑みは優しさではない。
敵意でもない。
神棚に置かれた刃物が光を返すような、冷たく整った興味だった。
俺は背筋が冷えるのに、相手から殺気を感じられないことが余計に恐ろしかった。
殺意があるなら、殴るか逃げるかを選べる。
敵意があるなら、身構える理由ができる。
けれど案内人の目は、俺を排除するでも助けるでもなく、ただ俺が何を選ぶのかを待っているように見えた。
「結城くん、行きましょう」と津上さんが呼んだ。
その声に、俺はようやく案内人の視線から抜け出すことができた。
津上さんは扉の前に立ち、封筒を胸の前で持っている。
この屋敷に入った時、彼は一人で自分の名前を確かめるつもりだったのだろう。
それでも今は、俺を置いていこうとはしていなかった。
「今の人と、何か話していましたか」と津上さんが小さく聞く。
俺は案内人を一度だけ見てから、「少しだけです。でも、何を話したのか、自分でもうまく整理できません」と答えた。
津上さんは困ったように笑い、「不思議な人ですね」と言う。
俺はすぐに頷けなかった。
「不思議というより、底が見えない人です」と返すと、津上さんは扉へ向き直り、「それでも、今は進むしかなさそうですね」と言った。
「はい。津上さんの名前のことを、確かめるために」
俺がそう答えると、津上さんは封筒を持ち直し、ゆっくりと扉を開いた。
部屋の中へ流れ込む廊下の明かりが、古い家具と暗い床を少しだけ照らす。
その奥に何があるのか、まだ俺には分からない。
ただ、この屋敷は津上さんに名前を返す場所であると同時に、俺にも何かを突きつける場所なのだと感じていた。
俺たちが部屋の奥へ進んだ後、背後で扉が静かに閉じかける。
振り返った俺の視界の端で、案内人が廊下に立ったまま、こちらを見ていた。
その顔はやはり穏やかで、何も奪っていないし、何も与えていないように見える。
だが、その目だけは違っていた。
人が作られた形を越える力も、人を守るための異形も、本来なら望ましいものではないと知っている目だった。
「それでも、あの力で笑顔を守った者がいた」
案内人が口を動かしたのが見えたが、声はほとんど聞こえなかった。
それでも俺には、なぜか言葉の意味だけが届いたような気がした。
「ならば、その憧れが次に何を選ぶのか、少しだけ見届けてもよいでしょう」
扉が閉じ、案内人の姿は見えなくなった。
屋敷の奥へ進むほど、俺の中の水は静かになるどころか、底から誰かに覗き込まれているように深くなっていく。
津上さんは名前を追っている。
俺はその隣で、自分の中にある力を、名も知らない誰かに見られている。
その視線に敵意はなかったが、敵意がないことが、かえって恐ろしかった。