屋敷の奥にある部屋は、外から見た時よりもずっと静かだった。
古い机の上には封筒と、誰かが昔そこへ置いたまま忘れていったような書類があり、窓は厚いカーテンで閉ざされているのに、どこからか月明かりに似た淡い光が床の端を撫でていた。
津上さんは封筒を机の上に置き、宛名を見つめたまま指先を動かさない。
俺はその横に立っていたが、さっき案内人に向けられた視線がまだ腹の奥へ残っていて、屋敷の空気よりも、自分の中に沈むものの方がよほど不気味に感じられていた。
「ここに来れば、何か分かると思っていたんですけど、分かったと言えるほど簡単じゃないですね」
津上さんの声は落ち着いていたが、それは平気という意味ではなかった。
自分の名前だと思っていたものが揺らぎ、記憶の底から知らなかったものが浮かび上がってくる時、人はもっと取り乱してもいいはずなのに、津上さんはそれすら台所の湯気みたいに穏やかな形へ整えようとしている。
「名前って、そんなに重いものなんですね」
「たぶん、俺が思っていたよりずっと重いです。今まで普通に返事をしていた名前なのに、急に借り物みたいに見えてきます」
「津上さんは、それでも確かめるんですね」
「はい。分からないまま帰ったら、ここへ来た意味まで分からなくなりそうなので」
津上さんはそう言って、封筒から目を逸らさなかった。
俺はその背中を見ながら、あの案内人が言った「名前が必ず本人を示すとは限らない」という言葉を思い出していた。
名前が揺らぐことは、自分の足場が揺らぐことなのだろう。
俺の場合は名前ではなく、力の方が先に足場を崩してきた。
だから津上さんの不安を完全には分からないが、知らない何かに自分を決められてしまう怖さだけは、少しだけ近いものとして胸に残っていた。
その時だった。
胸の奥に、鋭い震えが走った。
アンノウンの気配だと理解するより早く、身体の方が先に反応した。
同時に、津上さんも封筒から顔を上げ、俺と同じ方向を見た。
閉ざされた部屋の壁の向こう、屋敷の外側、夜の庭のさらに先で、何かが人間の命を選別するように動いた気がした。
「……津上さん」
「はい。今、感じました」
「アンノウンです。たぶん、外にいます」
「俺も行かなきゃいけない気がします」
「津上さんも分かるんですか」
「説明はできません。でも、放っておけないのは分かります」
その答えを聞いた瞬間、俺はまた別の意味で息を詰めた。
津上さんは、ただ記憶を失った穏やかな青年ではない。
前から感じていた既視感や、真魚さんが言った似ているという言葉は、気のせいではなかったのかもしれない。
考える時間はなかった。
津上さんは封筒を上着の内側へしまい、俺もほぼ同時に部屋の扉へ向かって走り出した。
廊下へ出ると、さっきの案内人が壁際に立っていた。
彼は俺たちを止めない。
むしろ、二人が同時に動いたことを最初から知っていたように、静かに目を細めている。
その視線が背中へ刺さったが、今は振り返る余裕もなかった。
屋敷の外へ飛び出すと、夜気が一気に肺へ入ってきた。
庭の向こう、門に近い開けた場所に、黒い影が立っている。
人間に似た輪郭を持ちながら、人間として見てはいけない歪みをまとった存在。
そいつはゆっくりとこちらへ顔を向け、俺たちが出てくるのを待っていたように、足元の砂利を鳴らした。
「いた……!」
「あれが、アンノウン……」
津上さんの声は低かった。
驚いているのに、怯えてはいない。
俺は反射的に一歩前へ出ようとして、腰の奥に沈むベルトの重みを感じた瞬間、足が一拍だけ止まった。
あなたはまだ、怒りだけで進んでいない。
さっき案内人に言われた言葉が、夜の庭で急に輪郭を持った。
俺の中にある力は、人を守るものなのか、それとも俺を怪物へ近づけるものなのか。
アンノウンは目の前にいる。
誰かを狙う気配もある。
それなのに、今ここで変身すれば、俺は守るために進むのか、見透かされた恐怖を振り払うために進むのかが分からなくなった。
「津上さん、下がってください。俺が――」
そこまで言って、俺は続きの言葉を飲み込んだ。
俺が何をするのかを、俺自身が選びきれていない。
ベルトは沈黙しているのに、その沈黙さえ、早く答えを出せと迫っているように感じる。
「結城くん」
津上さんが俺の横へ並んだ。
彼の声は、アンノウンを前にしているとは思えないほど静かだった。
「分かってます。分かってるんですけど……!」
「大丈夫です。迷っているなら、まだ大丈夫です」
「津上さん?」
「迷えるなら、結城くんはまだ自分で選べます。だから、今は俺が先に行きます」
津上さんはそう言って、俺より一歩前へ出た。
その背中を見た瞬間、俺は止めようとした。
津上さんは普通の人間で、記憶を取り戻したばかりで、封筒と名前のことで揺れている人のはずだった。
けれど、彼の足取りには迷いがない。
迷いがないのではなく、迷いを抱えたまま、それでも守る方へ足を出している。
「津上さん、何を――」
言葉は、光に遮られた。
津上さんの腰の辺りに、金色の輝きが集まった。
夜の庭に、輪郭を描くような光が広がり、津上翔一という青年の身体が、ゆっくりと別の姿へ変わっていく。
人間の影が消えたわけではない。
むしろ、人間の奥に眠っていた何かが、角を持つ戦士の形を取って現れたようだった。
俺は、息を忘れた。
「……嘘だろ」
目の前で起きていることを、俺はすぐには理解できなかった。
津上さんが変身した。
あの穏やかに笑って、料理をしながらでも相談を聞くと言った人が、俺と同じように、人間ではない姿へ変わった。
金色の角を持つ戦士は、アンノウンへ向かって構えながら、こちらに少しだけ顔を向けた。
「結城くん、今は考えるより先に、人を守りましょう」
その声は変わっているはずなのに、確かに津上さんだった。
姿が違っても、言葉の奥にある温度が変わらない。
それが分かった瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
俺だけじゃなかった。
そう思ったことに、自分でも驚いた。
怖さが消えたわけではない。
自分の力が何なのか、案内人が何を見て微笑んだのか、何一つ分からないままだ。
それでも、怖いままでも前へ出られる気がした。
目の前で津上さんが、知らない姿になっても津上さんのまま立っているのなら、俺もまた、変わることだけを恐れて立ち尽くしてはいられなかった。
「津上さん……なんですか」
「説明は、後でします」
「俺も、後で説明することが増えました」
「はい。では、今は止めましょう」
俺は息を吸った。
腰の奥に沈んでいた重みが、今度は冷たさではなく、沈まないための錨のように感じられた。
怒りだけではない。
恐怖だけでもない。
隣に立つ人がいる。
その事実を抱えたまま、俺は腹の奥へ意識を落とした。
「変身」
ベルトが現れ、黒い水が身体の内側から広がるように装甲へ変わっていく。
金色の光をまとった津上さんとは違う、深い水底のような気配が夜の庭へ染み出し、俺の身体はアルタの形を取った。
角の奥で視界が変わり、アンノウンの輪郭がよりはっきり見える。
けれど、さっきまでのように、自分だけが怪物の側へ落ちていく感覚は薄かった。
「津上さん、後で説明してもらいます」
「はい。結城くんも、後でお願いします」
こんな状況なのに、そのやり取りだけは少しだけ美杉家の居間みたいだった。
アンノウンが動く。
アギトとなった津上さんが正面へ踏み出し、俺は一拍遅れてその横へ並んだ。
彼の動きはまっすぐで、俺の動きとは違う。
けれど邪魔にならない。
むしろ、彼が前へ出た分だけ、俺が受けて返すための間合いが生まれる。
「正面は俺が行きます」
「なら、俺は受けて返します」
打ち合わせたわけではないのに、言葉は自然に噛み合った。
アギトがアンノウンの初撃を受け流し、金色の腕が敵の体勢を崩す。
俺はそこへ滑り込み、反撃に移ろうとしたアンノウンの腕を受け止め、衝撃を身体の中で沈ませながら角度を変えた。
自分の中に入ってきた力を、押し潰すのではなく、返すための圧へ変える。
アギトが作った隙間へ俺が入り、俺が止めた反撃の先へアギトが進む。
知らないはずなのに、合わせられる。
似ているからではない。
向いている先が同じだから、並んで立てるのだと思った。
屋敷の窓辺では、案内人が静かにこちらを見ていた。
彼は津上さんがまとった金色の光と、俺がまとった黒い水底のような力を見比べ、穏やかすぎる微笑みを浮かべている。
その微笑みは祝福ではない。
敵意でもない。
ただ、予定より早く開いた扉の先を見届けようとする、底の知れない観察だった。
「光に導かれた者と、人を守った異形に憧れた者。並ぶには、少し早いと思っていましたが」
案内人の声は夜に溶け、戦っている俺たちには届かなかった。
それでも、彼は窓辺から目を離さず、静かに続ける。
「それでも、人はいつも予定より早く扉を開ける」
俺はその声を聞いていないはずだった。
けれど、アンノウンの腕を弾き返した瞬間、どこかで誰かがこちらを見ている感覚だけは消えなかった。
それでも今は、そちらを振り返らない。
隣には、津上さんがいる。
あの人が別の姿になっても人を守る方へ進むなら、俺もまた、自分の姿を恐れながらでも、今この場で守る方を選べるはずだった。