庭から屋敷へ戻るまでの短い道のりで、津上さんは二度だけ足を止めた。
一度目は、焦げた砂利の匂いが夜風に混ざった時だった。
さっきまでアンノウンが立っていた場所を振り返り、何かを確かめるように胸元へ手を当てる。
二度目は、屋敷の扉に手をかけた時だった。
古い木の扉は外の冷えた空気を吸い込んで、触れた指先から静かに体温を奪っていく。
それでも津上さんは、そこで逃げるように手を離したりはしなかった。
「戻りましょう。まだ、途中でしたから」
いつもの調子に近い声だった。
けれど、歩幅は少しだけ狭くなっている。
俺はそれに気づかないふりをして、半歩後ろから同じ速度で歩いた。
人の疲れを真正面から覗き込むのは、案内人に腹の奥を見られた時の感覚に似ていて、あまり気持ちのいいものではなかった。
「本当に大丈夫ですか。さっきの力、明らかに普通じゃなかったです」
「普通じゃないことなら、結城くんもさっき見せていましたよ」
「それを言われると、かなり返しづらいですね」
「じゃあ、お互い様ということで、今夜は丸く収めませんか」
「お互い様で済ませていい話なら、世の中の秘密はだいぶ楽になりますよ」
津上さんは少し笑った。
笑った、というより、笑う形を思い出すために口元を動かしたようだった。
屋敷の廊下へ入ると、庭の焦げた匂いは遠のき、代わりに埃と古い紙の匂いが喉の奥へ降りてくる。
戦いの熱がまだ装甲の内側に残っている気がしていたのに、その熱は廊下の冷気に触れる度、薄い霜の下へ閉じ込められていった。
案内人の姿は見えない。
それなのに、壁の影や額縁の硝子の向こうから、まだ誰かがこちらを見ているような感じだけが残っている。
津上さんはその視線に気づいているのかいないのか、封筒を胸元から取り出し、屋敷の奥にある部屋へ戻った。
さっきまで封筒が置かれていた机は、何も変わっていなかった。
古い天板には細かな傷があり、窓は厚いカーテンに閉ざされ、部屋の隅には使われていない椅子が静かに沈んでいる。
戦闘で開いた夜の裂け目が、ここではまた紙と木と沈黙の形に戻っていた。
津上さんは封筒を机に置いた。
すぐには開けない。
指先が封筒の端に触れたまま、宛名の上で止まっている。
俺は椅子を勧めるべきか迷ったが、津上さんが立ったままでいるので、俺も壁際に寄りかかる形で立った。
「結城くん、聞いてもらってもいいですか」
「俺でよければ、最後まで聞きます」
「たぶん、真魚ちゃんや美杉教授に話す前に、一度誰かに言葉にしておきたいんです」
「それが俺でいいんですか。俺、聞くのが上手いタイプではないですよ」
「上手いかどうかより、今夜の結城くんなら、途中で分からない顔をしても逃げない気がしたので」
「分からない顔は、たぶんかなりします。それでも逃げないくらいならできます」
津上さんは封筒から目を離さず、息をひとつ落とした。
その息は机の上の埃を動かすほどではなかったが、部屋の空気が少しだけ重くなる。
古い紙の匂いが、雨の降る前の土みたいに湿って感じられた。
「俺の名前は、津上翔一じゃなかったみたいです」
その言葉は、思っていたより静かに置かれた。
静かすぎて、最初は意味がこちらへ届くまで少し遅れた。
津上さん。
その呼び方が、喉の手前で急に足場を失う。
「沢木哲也。それが、俺の本当の名前です」
「沢木……」
そこまで言って、俺は続きが出てこなかった。
さん、と付ければいいのか。
津上さんと呼べばいいのか。
たった数文字の問題なのに、口の中で石になったみたいに転がっている。
「無理に呼び直さなくていいですよ。俺もまだ、自分で呼ばれて振り返れるか分かりません」
「津上さんは、津上さんだと思ってました」
「僕も、そう思っていました」
津上さんはそこで、ようやくこちらを見た。
笑おうとして、少し遅れて笑顔が追いつく。
台所で野菜を切りながら見せる顔とは違って、今の笑顔は端が少しだけ滲んでいた。
けれど、崩れはしない。
崩さないようにしているのか、崩れたら戻せないと知っているのか、その違いまでは俺には分からなかった。
「俺には、姉がいました。沢木雪菜という人です」
「お姉さんが、いたんですね」
「優しい人だったと思います。たぶん、俺が覚えているよりずっと」
「たぶん、なんですね」
「思い出した記憶が、全部綺麗な形で戻ってきたわけじゃないんです。割れた硝子を拾っているみたいで、持ち方を間違えると、自分の手も切れそうになる」
津上さんの指が封筒の角をなぞる。
爪の先が紙を擦る小さな音だけが、部屋の中で妙にはっきり響いた。
「その人に、何があったんですか」
俺がそう聞くと、津上さんは一度だけ机の木目へ視線を落とした。
部屋の照明は弱く、木目の線は川の流れみたいに暗い色で続いている。
津上さんの指が、その流れを渡れない橋の手前みたいに止まった。
「姉は、力に目覚めました。そして、その力を恐れた」
声は揺れていない。
でも、言葉の間が少しずつ長くなる。
津上さんは封筒ではなく、机の上に置かれた自分の手を見ていた。
「最後は、自分で命を絶ちました」
窓の外で、風がカーテンの端をかすかに揺らした。
閉じられているはずの布が動いたのは、隙間風のせいかもしれない。
けれど俺には、今の一言で部屋のどこかに細い亀裂が入ったように見えた。
力に目覚めた。
その力を恐れた。
そして、生きる場所から手を離した。
俺は腰の奥にあるベルトの気配を思い出す。
変身する度に身体の内側から広がる黒い水。
怒りをきっかけに沈んでいく感覚。
それを、俺は人を守るためのものだと思いたかった。
いや、そう思わなければ、自分が何になっているのかを見なくて済んだのかもしれない。
「姉には、恋人がいました。その人の名前が、津上翔一です」
「じゃあ、その封筒の宛名は……」
「たぶん、その人です。俺は、その人に会うために船に乗った」
「あかつき号、ですか」
「はい。姉がどうして死ななければならなかったのか、それを知りたかったんだと思います」
「思います、なんですね」
「思い出したばかりの自分が、昔の自分の全部を代弁できる気がしないんです」
津上さんの言い方は、どこまでも慎重だった。
自分の過去なのに、誰かから預かった荷物を開けるみたいに、ひとつずつ確かめながら話している。
俺はそれを聞きながら、自分ならどうだろうと思った。
高校のあの雨の夜、川で溺れかけた時の記憶が、もし今さら別の意味を持って戻ってきたら、俺はそれを自分のものだと言えるのだろうか。
「船で何が起きたのか、まだ全部は分かりません。ただ、普通の事故じゃなかった」
「アンノウンがいたんですか」
「たぶん、それだけじゃありません。光のようなものを見た気がします」
「光……」
「その後、俺は変わった。でも、使い方も意味も分からなかった。だから負けて、海へ落ちました」
「海へ……」
その言葉で、俺の喉が少し狭くなった。
海と川は違う。
船の上と、増水した河川敷も違う。
けれど水に落ちる瞬間の冷たさだけは、どこかで繋がっている気がした。
肺が空気を探す時の焦り、上も下も分からなくなる暗さ、手を伸ばしても掴むものがない水の重さ。
俺はあの夜、水面越しに角のある背中を見た。
津上さんは海の底へ落ちて、気がついた時には別の名前で生きていた。
「気がついた時には、俺は津上翔一という名前で暮らしていました」
津上さんはそこで封筒から手を離した。
紙の上に残った指の跡はすぐに消えたが、その動作だけが妙に目に残る。
名前というものは、紙に書かれればただの文字なのに、人の口で呼ばれるうちに体温を持つ。
津上翔一という名前は、別人のものだったのかもしれない。
でも、その名前で真魚さんに呼ばれ、美杉家で料理を作り、俺に「相談なら聞きますよ」と笑った時間まで、借り物の一言で片づけられるほど軽くはなかった。
「津上さんの力は、人を守るためのものだと思ってました」
「俺も、そう思いたいです」
「でも、その前にお姉さんは、その力に追い詰められたんですね」
「そうかもしれません」
「だったら、俺の中にあるものも、守るためだけのものとは限らない」
津上さんが顔を上げた。
俺は自分の掌を見下ろしていた。
さっきまでアルタの装甲に覆われ、アンノウンの攻撃を受け止めていた手。
今はただの手なのに、指の奥にはまだ衝撃の残り火みたいなものが残っている。
「4号に憧れたから、俺はこの力を人を守るものだと思いたかったんです。でも、力が先にあって、人間が後から理由をつけているだけなら……」
言葉の先が見つからなかった。
見つからないまま言い切れば、たぶん自分で自分を追い詰める形になる。
津上さんは急かさなかった。
机の上の封筒を見て、それから俺の手元へ視線を落とす。
「それでも、理由をつけるのは人間です」
「理由をつけ間違えたら、どうするんですか」
「その時は、誰かに止めてもらうしかないですね」
「津上さん、わりと大事なことを軽く言いますよね」
「軽く言わないと、言えなくなることもありますから」
その返しに、俺は少しだけ息を吐いた。
津上さんは、慰めるために甘い言葉を選んだわけではなかった。
力は安全だとも、必ず人を救うとも言わない。
ただ、それを使う人間が理由を持つこと、その理由を一人で握り潰さないことだけを、机の上へ置くみたいに示した。
「俺は、これから何て呼べばいいんですか」
唐突な問いになった。
でも、今聞かなければ、次に呼ぶたびに喉の奥で躓く気がした。
津上さんは少し目を瞬かせ、それから困ったように眉を下げた。
「困りましたね。俺もまだ決められていません」
「沢木さん、って呼んだ方がいいんでしょうか」
「今呼ばれたら、たぶん少し振り返るのが遅れます」
「それ、日常生活だとかなり困りますね」
「はい。包丁を持っている時に呼ばれると危ないかもしれません」
「じゃあ、今は津上さんで。少なくとも、包丁事故は避けたいので」
「はい。今夜は、それでお願いします」
津上さんは、封筒をもう一度手に取った。
そして、胸元へしまう前に、少しだけ親指で宛名をなぞった。
その仕草は、別人の名前を消すものではなく、そこにあった時間をそっと畳むように見えた。
部屋の外で、廊下の木が小さく軋む。
案内人がいるのか、ただ屋敷が夜の重さで鳴っただけなのかは分からない。
俺は窓の方を見たが、カーテンはもう動いていなかった。
閉ざされた布の向こうで、月明かりだけが細く滲んでいる。
津上さんの本当の名前は、沢木哲也だった。
けれど、目の前で封筒をしまうその人を、俺はまだ津上さんと呼んだ。
その名前が嘘だったからではない。
その名前で笑って、料理を作って、俺に相談なら聞くと言ってくれた時間まで、なかったことにはできなかったからだ。
姉を追い詰めた力。
海で津上さんを変えた光。
川の中で俺が見た4号の背中。
そして、俺の中に沈んでいる黒い水のような力。
それらを全部、人を救うものだと言い切るには、この屋敷の空気は冷たすぎた。
でも全部を怪物へ続く道だと決めつけるには、津上さんが封筒をしまう指先が、あまりにも人間の温度を残していた。
「結城くん、外に出たら少し寒そうですね」
「今さらですか。アンノウンと戦った後に寒さを気にするの、順番が変ですよ」
「でも、風邪を引いたら美杉教授に説明しづらいですから」
「変身したことより、風邪の方が説明しづらいんですか」
「風邪は隠せませんからね。くしゃみでばれます」
津上さんはそう言って、少しだけ笑った。
今度の笑顔は、さっきよりも早く届いた。
俺はそれを見て、胸の奥で固まっていたものがほんの少しだけ形を変えるのを感じた。
答えは出ていない。
むしろ、疑問は増えた。
それでも疑問が増えた場所に、会話がひとつ置かれたことで、俺は立っていられた。
津上さんは自分の名前を一人で抱えなかった。
だから俺も、自分の力を一人で決めつけるのは、少しだけやめようと思った。
アルタが何なのか、アマダムの欠片が俺をどこへ連れて行くのか、まだ何も分からない。
けれど、分からないことをそのまま誰かの隣へ持っていくことくらいなら、今夜の俺にもできる気がした。
部屋を出る時、津上さんは封筒を胸元へしまい直し、俺を先に行かせようと少しだけ身を引いた。
俺は首を横に振り、廊下へ続く扉を半分だけ開けて待つ。
津上さんがこちらを見て、また少し困ったように笑う。
「先に行ってもいいんですよ」
「今夜は一緒に来てもらったので、帰りも一緒でお願いします」
「それは、なかなか律儀ですね」
「迷子になったら困るので」
「この屋敷で迷子になるのは、少し洒落になりませんね」
廊下へ出ると、古い木の匂いがまた俺たちを包んだ。
来た時よりも空気は冷えているのに、足音は二人分ある。
津上さんは名前を追ってこの屋敷へ来た。
俺は、津上さんに引かれてここへ来た。
そして今、俺たちはそれぞれ違うものを抱えたまま、同じ廊下を戻っている。
壁に掛けられた古い鏡の前を通る時、俺は一瞬だけ自分の顔を見た。
アルタではない、ただの結城の顔。
けれど、その奥に黒い水の気配があることを、もう見ないふりはできない。
俺は鏡から目を逸らし、前を歩く津上さんではなく、その隣に並ぶように足を進めた。
名前が人を決めるのか。
力が人を変えるのか。
それとも、人が名前や力に意味を返していくのか。
答えはまだ、屋敷の奥に置き忘れたままだった。
でも、扉の向こうには夜風があり、帰る場所があり、話さなければならない相手がいる。
だから俺は、冷たい廊下の中で一度だけ掌を握り直し、自分の中の水が沈みすぎないように、津上さんの歩幅へ半歩だけ近づいた。