仮面ライダーアルタ   作:ボルメテウスさん

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帰る場所

 屋敷を出ると、夜の空気は思っていたよりも薄くて、肺の中まで冷えた。

 

 さっきまでいた部屋には古い紙の匂いが沈んでいて、言葉にした途端に形を失いそうな名前や記憶が、机の木目の奥へ染み込んでいた。

 そのせいか、外の夜道はただの住宅街へ続いているだけなのに、現実へ戻るための長い橋みたいに見えた。

 津上さんは胸元へ封筒をしまい直し、屋敷の門を出る前に一度だけ振り返った。

 そこに何を見ていたのか、俺には分からない。

 けれど、門灯の切れかけた明かりが横顔を掠めた時、その目は屋敷ではなく、自分の中に置き忘れてきたものを見ているようだった。

 

「このまま、美杉家へ戻るんですか」

 

 俺が聞くと、津上さんは封筒を押さえていた手をゆっくり下ろした。

 

「はい。帰らないと、真魚ちゃんたちが心配しますから」

 

「今の話を聞いた後だと、帰るって言葉が少し重く聞こえます」

 

「そうですね。でも、重くなったから置いていくわけにもいきません」

 

 津上さんはそう言って、門の外へ一歩踏み出した。

 砂利ではなく舗装路を踏む音がした瞬間、屋敷の空気が背中から少しだけ剥がれた気がした。

 けれど、完全には消えない。

 沢木哲也という名前も、沢木雪菜という姉のことも、あかつき号の海も、俺の身体のどこかへ薄い紙片みたいに入り込んでいて、歩く度に小さく擦れた。

 

「津上さんらしいです」

 

 俺がそう言うと、津上さんは少しだけこちらを見て、いつもの調子に近い声で返した。

 

「今は、その呼び方が助かります」

 

 その言葉が思ったより胸に残った。

 津上翔一という名前が借り物だったとしても、今ここでその名前を呼ぶことが、嘘を重ねることにはならないのだと、津上さんの声が教えてくれたような気がした。

 名前は戸籍や封筒の宛名だけではなく、誰かが振り返るまでの時間でもある。

 そう考えると、俺は「沢木さん」とすぐに呼べなかった自分を、少しだけ許せる気がした。

 

 帰り道、住宅街の窓にはまばらに明かりが残っていた。

 カーテン越しにテレビの光が揺れている家もあれば、玄関先の植木だけが街灯を受けて白く浮かぶ家もある。

 誰かの生活は、俺たちがアンノウンと戦っている間も、屋敷で名前の重さに触れている間も、変わらず湯気や洗濯物や明日の支度の形で続いていた。

 それが救いに見える時と、眩しすぎる時がある。

 今夜は、その両方だった。

 

「津上さん」

 

「はい」

 

「……いえ、呼んでみただけです」

 

「点呼ですか」

 

「そんな感じです。返事があると、少し現実味が戻るので」

 

「では、結城くん」

 

「はい」

 

「俺も呼んでみただけです」

 

「結構、負けず嫌いですね」

 

「そうかもしれません。普段あまり勝負しないだけで」

 

 津上さんはわざと軽く返した。

 俺もそれに乗った。

 重い話の後に軽い言葉を置くのは、現実から逃げるためじゃない。

 むしろ、重いものを落とさず持って歩くために、指先を少し休ませるみたいなものだ。

 津上さんの返事は、ほんの少しだけ遅れた。

 その遅れを、俺は指摘しなかった。

 呼ばれた名前に振り返るまでの一拍が、今夜の津上さんには必要なのだと思ったからだ。

 

 美杉家の灯りが見えた時、津上さんの歩幅がわずかに変わった。

 速くなったわけではない。

 むしろ、足裏で地面を確かめるように、少しだけ丁寧になった。

 玄関の明かりは柔らかく、屋敷の冷えた廊下とは違って、人が帰ってくることを前提に灯っている明るさだった。

 俺にはそれが少し眩しく見えて、思わず目を細める。

 

「明かり、ついてますね」

 

「待ってるんじゃないですか」

 

「怒られるかもしれません」

 

「怒られるだけで済むなら、かなり幸運だと思います」

 

「それもそうですね」

 

 津上さんは玄関の前で一度だけ息を整えた。

 鍵を出す動作が少し遅く、ポケットの中で金属が小さく鳴った。

 その音に反応するように、内側から足音が近づいてくる。

 鍵を差し込むより先に、扉が開いた。

 

「翔一くん」

 

 真魚さんが立っていた。

 髪は少し乱れていて、たぶん何度も玄関の方へ来たり戻ったりしていたのだろう。

 けれど最初に出てきた言葉は責めるものではなく、名前だった。

 津上さんはその呼び声を受けて、いつものように笑おうとした。

 

「ただいま、真魚ちゃん。遅くなってごめん」

 

「ううん。帰ってきたなら、いいけど……」

 

 真魚さんはそこで言葉を止め、津上さんの顔をじっと見た。

 視線は額から目元へ、目元から胸元へ落ち、それからまた顔へ戻る。

 津上さんの胸元には封筒が隠れている。

 見えるはずがないのに、真魚さんはそこに何かあると知っているみたいに、ほんの少しだけ眉を寄せた。

 

「心配した?」

 

「心配したよ。翔一くん、いつもみたいに笑ってるけど、少し遠くから帰ってきたみたい」

 

 津上さんの笑顔が、玄関の明かりの中で一瞬だけ止まった。

 俺は何も言わなかった。

 真魚さんの言葉は当て推量ではなく、たぶんもっと深いところから来ている。

 屋敷で感じた底の見えない視線とは違う。

 真魚さんのそれは、暗いところへ手を伸ばして、触れたものが冷えていないか確かめるような感覚だった。

 

「遠く、ですか」

 

「うん。家の外じゃなくて、もっと遠いところ」

 

 津上さんはすぐに否定しなかった。

 靴を脱ぐ前に、玄関の段差へ目を落とし、少しだけ困ったように笑った。

 

「そうかもしれません。でも、ちゃんと帰ってきました」

 

「それなら、今はいい。ちゃんと中に入って」

 

 真魚さんは一歩下がって、俺にも目を向けた。

 その目は、俺の顔だけでなく、俺が黙って持ち帰ってきたものまで見ようとしている。

 俺は視線を逸らさなかった。

 言えないことがある時ほど、目を逸らすと余計に嘘みたいになる。

 

 居間へ入ると、家の空気は温かかった。

 テーブルの上にはまだ片づけられていないカップがあり、ソファの端には読みかけの雑誌が伏せられている。

 生活の途中に、そのまま俺たちが戻ってきたような部屋だった。

 津上さんは上着を脱ぐと、反射みたいに台所へ向かおうとした。

 

「お茶、入れますね」

 

「今は座ってて」

 

 真魚さんの声は柔らかいのに、逃げ道がなかった。

 津上さんは台所の入口で止まり、少しだけ肩をすくめる。

 

「でも、こういう時は温かいものがあった方が落ち着きますから」

 

「津上さん、今それを自分に言ってますよね」

 

「バレたか」

 

「バレてるよ。翔一くんは、何かあるとすぐ台所に逃げるんだから」

 

「台所は逃げ場じゃなくて、落ち着く場所なんだけどね」

 

「じゃあ今日は、落ち着く場所に行く前に座って」

 

 真魚さんはソファを指さした。

 津上さんはしばらくその指先を見てから、観念したように座った。

 普段なら、津上さんが誰かを座らせる側だった。

 その人が今日は座らされている。

 たったそれだけのことなのに、居間の空気が少しだけ形を変えた。

 

 俺は壁際に立ったままでいようとしたが、真魚さんに見つかった。

 

「結城さんも、そこに立ってると事情聴取みたいだから座ってください」

 

「事情聴取される側の自覚は少しあります」

 

「じゃあ、なおさら座ってください」

 

「はい、分かりました」

 

 俺がソファの端へ腰を下ろすと、津上さんが小さく笑った。

 その笑い方は、玄関で見せたものより少しだけ自然だった。

 真魚さんは台所へ行き、湯を沸かし始める。

 やかんの音が小さく鳴り出すと、屋敷の冷たい沈黙が居間の端から少しずつ追い出されていくようだった。

 

「結城さん」

 

 真魚さんが台所からこちらを見た。

 

「翔一くんに何があったのか、知ってるんですか」

 

 湯の音が、急に近くなった気がした。

 津上さんは何も言わない。

 俺に任せるというより、俺がどう扱うのかを見ているようだった。

 その視線が、案内人のものとはまるで違う温度で胸元に触れる。

 

「少しだけ、聞きました」

 

「それは、私が聞いてもいいこと?」

 

 真魚さんの問いはまっすぐだった。

 だからこそ、嘘で曲げたくなかった。

 

「俺が話すことじゃないと思います」

 

 真魚さんは、やかんの火を少し弱めた。

 カチリ、という小さな音がして、湯気の勢いが落ちる。

 

「……そっか」

 

「真魚ちゃん、ごめん」

 

「謝らなくていいよ。言える時でいいから」

 

 真魚さんはそう言って、湯呑みを三つ並べた。

 三つ。

 俺の分まで自然に数に入っていることに、少しだけ面食らった。

 ここに長くいるつもりはなかったのに、湯呑みの数ひとつで、逃げる理由がひとつ減る。

 

 真魚さんはお茶を持って戻ってくると、津上さんの前に置き、それから俺の前にも置いた。

 湯呑みの表面から白い湯気が立つ。

 その湯気越しに見える津上さんの顔は少しぼやけていて、屋敷で封筒を見つめていた時よりも人の輪郭を取り戻しているように見えた。

 

「翔一くん、今日は少し水の音がする」

 

「水の音?」

 

「うん。結城さんの水の底とは違うけど、すごく深いところから帰ってきた感じ」

 

「俺は、そんなに水底っぽいですか」

 

「結城さんは、水底にいるのに上を見てる感じ」

 

「それ、褒められてるんでしょうか」

 

「たぶん、沈みっぱなしじゃないって意味では褒めてます」

 

「たぶん、が付くと急に不安になりますね」

 

 真魚さんは少しだけ笑い、それから津上さんへ視線を戻した。

 

「翔一くんは、沈んでたものを持って帰ってきた感じ」

 

 津上さんは湯呑みに両手を添えた。

 指先が温度を確かめるように器の縁をなぞる。

 湯気が頬の前を通り、彼の目元を一瞬だけ隠した。

 

「真魚ちゃん、全部はまだ話せないんだけど」

 

「うん」

 

「俺の名前について、少し分かったことがあります」

 

「翔一くんの名前?」

 

「うん。でも、今すぐ別の名前で呼んでほしいわけじゃないんだ」

 

 真魚さんは湯呑みを置き、少しだけ首を傾けた。

 子ども扱いでも、大人ぶった理解でもない。

 ただ、目の前の人が言葉を落としやすいように、両手を空けるような仕草だった。

 

「じゃあ、今は翔一くんでいい?」

 

「うん。今はそれが嬉しい」

 

 津上さんの肩が、ほんの少しだけ下りた。

 屋敷で「沢木哲也」と自分の名前を言った時には下りなかった場所が、真魚さんの一言でようやく少し緩んだ。

 俺はその瞬間を見てしまい、湯呑みへ視線を落とした。

 勝手に見てはいけないものを見た気がしたからだ。

 でも、見なかったことにするには、その仕草はあまりにも静かで美しかった。

 

 ここは津上さんの帰る場所なのだと思った。

 沢木哲也という名前を知った後でも、津上翔一と呼ばれて息をつける場所。

 名前の真実を消すのではなく、今まで呼ばれてきた時間を捨てずに置いておける場所。

 それは、俺が長居していい種類の明かりではない気がした。

 

「俺、そろそろ帰ります」

 

 そう言うと、津上さんが湯呑みから顔を上げた。

 

「もう少しいてもいいんですよ」

 

「今日は、真魚さんたちの時間だと思うので」

 

「結城さんも、関係ある人だと思うけど」

 

 真魚さんの言葉に、俺は少しだけ返事に詰まった。

 関係ある人。

 その言葉は、家族でも客でもない場所を指していて、足元に見慣れない段差が現れたみたいだった。

 

「ありがとうございます。でも、だからこそ、今日はここまでで」

 

 津上さんはそれ以上引き止めなかった。

 代わりに、湯呑みを置いて、いつもの柔らかさでこちらを見る。

 

「また、話を聞いてもらえますか」

 

「はい。今度は、野菜を切りながらでお願いします」

 

「まずは包丁の持ち方からですね」

 

「俺、その段階からなんですか」

 

「安全第一ですから」

 

「特撮みたいな戦いをした後に、包丁の安全指導されるとは思いませんでした」

 

「日常の方が油断できませんよ」

 

 真魚さんが小さく吹き出した。

 その音が居間に落ちた時、ようやく美杉家の空気が少しだけいつもの形に戻った気がした。

 俺は湯呑みの中身を半分ほど飲み、玄関へ向かった。

 津上さんは立ち上がろうとしたが、真魚さんに袖を軽く掴まれて止まる。

 そのままでいい、という無言の合図だった。

 津上さんは少し困った顔をして、けれど座り直した。

 

「結城さん、帰り道、気をつけてください」

 

「はい。真魚さんも、今日は津上さんを逃がさないでください」

 

「任せてください。台所に逃げようとしたら止めます」

 

「二人とも、俺の扱いが少し手慣れてきてませんか」

 

「日頃の行いですね」

 

 俺がそう返すと、津上さんは今度こそ自然に笑った。

 玄関の扉を開けると、夜風が頬を撫でた。

 さっき屋敷から出た時の冷たさとは違う。

 同じ夜なのに、美杉家の灯りを背にした風は、少しだけ温度を持っていた。

 

 外へ出て扉が閉まるまで、居間の声は薄く聞こえていた。

 真魚さんが何かを言い、津上さんがそれに返す。

 詳しい言葉までは分からない。

 分からなくてよかった。

 そこから先は、俺が持ち帰るものではなく、あの家の中で交わされるべきものだった。

 

 美杉家の灯りは、俺が背を向けてもすぐには消えなかった。

 津上翔一という名前が借り物だったとしても、その灯りの中で呼ばれてきた時間まで借り物になるわけじゃない。

 真魚さんが「今は翔一くんでいい?」と聞いた時、津上さんの肩がほんの少しだけ下りたのを、俺は見ていた。

 その一瞬だけで、名前というものが、正しさだけでは人を支えられないのだと分かった気がした。

 

 俺は、沢木哲也という名前を知った。

 あかつき号のことも、雪菜さんのことも、力が人を救うだけではないことも知った。

 けれど、それは俺が誰かに説明していい情報ではなく、津上さんが自分で言葉にするまで預かるものだった。

 秘密を抱えることは、思ったより重い。

 けれど、重いからといって誰かの机の上へ勝手に置いていいものではない。

 

 自分の中の力を疑うことは、前よりも怖くなった。

 でも、疑いを誰かの名前ごと踏みにじらないで済んだことだけは、今夜の俺にとって小さな進歩だった。

 夜道の向こうで、美杉家の灯りがまだ薄く滲んでいる。

 その灯りが見えなくなるまで、俺は振り返らずに歩いた。

 振り返らない代わりに、背中だけは少し温かいままだった。

 

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