仮面ライダーアルタ   作:ボルメテウスさん

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つる子への報告

 翌朝の光は、やけに白かった。

 

 美杉家を出た夜道では、背中に残った灯りがまだ温かかったはずなのに、大学近くのベンチに座った頃には、その温度は上着の内側で薄く畳まれていた。

 駅前の自販機で買った缶コーヒーは、手の中で少しずつ冷えていく。

 飲めば苦いだけだと分かっているのに、俺は蓋を開けるでもなく、ただ両手で包んでいた。

 

 朝のキャンパスは、夜の屋敷とはまるで違う場所だった。

 講義へ向かう学生の声、自転車のブレーキ音、どこかの研究棟から聞こえる機械の低い唸り。

 全部が普通に動いている。

 それなのに、俺の足元だけ昨夜の廊下の冷たさが残っているようで、ベンチの影が少し深く見えた。

 

「結城くん、前提として確認しますが、その缶コーヒーは飲むために買ったものですか。それとも、手を温めるための簡易暖房器具として採用されたものですか」

 

 顔を上げると、つる子先輩が立っていた。

 肩に鞄、腕に分厚いノート。

 いつも通りの装備なのに、今朝はそのノートの角が少し鋭く見えた。

 

「飲む予定でしたが、現在は暖房器具として高い性能を発揮しています」

 

「性能評価としては妥当ですが、缶コーヒー側の本来用途を考えると、やや不本意な運用ですね」

 

「その言い方だと、缶コーヒーに意思があるみたいです」

 

「すべての物には役割があります。少なくとも、飲料には飲まれる権利があります」

 

「権利までいくと、もう俺が悪者じゃないですか」

 

 つる子先輩はベンチの隣に座らず、俺の正面へ立ったままノートを抱え直した。

 朝の光が眼鏡の縁に当たり、表情の細かいところを少し隠している。

 けれど、視線だけは逃げ場を許さない角度でこちらへ向いていた。

 

「昨日の夜、何がありましたか」

 

 単刀直入だった。

 いつもの「前提として」も「根拠として」も、まだない。

 その分だけ、問いの重さが余計に分かりやすかった。

 

「色々ありました」

 

「色々、という言葉は便利ですが、報告としては不適切です」

 

「報告ではなく、雑談なら許されませんか」

 

「あなたの顔色を見る限り、雑談という分類は不自然です」

 

 つる子先輩はそこで、ノートを開いた。

 紙が擦れる音が、朝のざわめきの中で妙にはっきり響いた。

 いつもなら、その音を聞くと少しだけ安心する。

 分からないものが言葉になり、言葉になったものが形を持つ。

 つる子先輩のノートは、俺が沈みそうになった時に水面へ伸びる細い板みたいなものだった。

 

 けれど今朝は違った。

 白紙の上にペン先が置かれるのを見た瞬間、昨夜の封筒が机に置かれた時の音が重なった。

 名前。

 姉。

 船。

 海。

 津上さんが、言葉を選びながら俺へ預けたもの。

 

 俺は缶コーヒーを握る指に、少しだけ力を入れた。

 

「先輩、書く前に聞いてください」

 

 つる子先輩のペン先が止まった。

 紙にはまだ何も書かれていない。

 その白さが、妙に眩しかった。

 

「聞きます。ですが、あなたがそういう言い方をする時は、だいたい重要な前置きがあると判断します」

 

「重要です。たぶん、俺が今まで先輩に言った中でも、かなり面倒な部類です」

 

「面倒な情報ほど整理の価値があります」

 

「今回は、整理する前に線を引かせてください」

 

 つる子先輩はすぐには返事をしなかった。

 ノートを支える左手の親指が、ページの端を一度だけ押さえる。

 風が吹けばめくれそうな白紙を、そこに留めておくみたいな仕草だった。

 

「線、ですか」

 

「はい。俺は昨日、津上さんに関わるかなり大事なことを聞きました」

 

 つる子先輩の背筋が、ほんの少し伸びた。

 ペン先は紙に触れていないのに、もう書き出す準備だけは整っている。

 その速さが、つる子先輩らしくて、だからこそ今は少しだけ怖かった。

 

「津上さんに関わる大事なこと、ですね。変身能力の詳細ですか。記憶喪失の原因ですか。それとも、あの既視感に関係する情報ですか」

 

「その全部に近いです。でも、詳細は話せません」

 

「話せない、というのは情報が曖昧だからですか」

 

「違います。俺が話していいことじゃないからです」

 

 ペン先が、紙の上で一拍だけ浮いた。

 つる子先輩の目が、ノートから俺へ移る。

 問い詰めるでもなく、納得するでもなく、ただ次の言葉を待つ目だった。

 

「津上さん本人から聞きました。俺に話してくれたんです。でも、それは俺が誰かへ説明するための情報じゃなくて、津上さんが自分で言葉にするまで預かるものだと思います」

 

「……本人の同意がない情報、ということですね」

 

「はい。しかも、ただの事件情報じゃありません。名前とか、家族とか、過去とか、そういうものです」

 

 つる子先輩の指が、ペンを握り直した。

 いつもの彼女なら、そこで「範囲指定をお願いします」と言って、話せるところから分類しようとしたはずだ。

 実際、唇が一度その形に動きかけた。

 けれど言葉は出なかった。

 

 俺は缶コーヒーを見下ろした。

 さっきまで温かかった金属は、もう手の温度と同じくらいになっている。

 時間が経てば熱は逃げる。

 秘密も同じなのかもしれない。

 急いで誰かの前に置けば形だけは保てるけれど、触れ方を間違えれば、預けた人の温度まで奪ってしまう。

 

「結城くん」

 

「はい」

 

「説明できる範囲だけを、あなたの言葉で言うことはできますか。固有名詞や個人情報を避け、あなた自身が受け取った変化として」

 

 つる子先輩の声は、いつもより少し遅かった。

 言葉を選んでいるのが分かる。

 それだけで、俺は缶コーヒーから少しだけ指の力を抜けた。

 

「できます。たぶん」

 

「では、記録ではなく、会話として聞きます」

 

 つる子先輩はノートを閉じなかった。

 けれど、ペン先を紙から離し、膝の上へ置いた。

 書かないまま聞くという姿勢が、こんなに分かりやすい形を持つとは思わなかった。

 

「力に目覚めた人が、必ず救われるとは限らないと知りました」

 

 言葉にした瞬間、朝の光が少しだけ冷たくなった気がした。

 キャンパスのざわめきは変わらない。

 誰かが笑いながら通り過ぎ、遠くで自転車のベルが鳴る。

 それでも、俺とつる子先輩の間だけ、屋敷の古い部屋へ戻ったみたいに音が沈んだ。

 

「その力は、アギトに関わるものですか」

 

 つる子先輩が聞いた。

 俺は答える前に、少しだけ息を吸った。

 

「そこも、今は言えません」

 

「分かりました。では質問を変えます。その情報は、あなたのアルタにも関係しますか」

 

「関係します。俺が勝手に関係あると思っているだけかもしれませんが」

 

「あなたの中の力を、疑う材料になったという理解で合っていますか」

 

「かなり合っています」

 

 つる子先輩のペンを持つ指が、かすかに動いた。

 書きたいのだと思う。

 書けば整理できる。

 整理すれば、何か対策を立てられる。

 つる子先輩はずっとそうやって、俺の隣に立ってくれた。

 未確認切抜帳も、4号の資料も、G3-Xの動作整理も、全部そうだった。

 

 その彼女が、今は白紙のノートを開いたまま、何も書いていない。

 

「説明なら、私にお任せくださいと言いたいところですが」

 

 つる子先輩はそこで一度言葉を切った。

 ページの端を指で押さえ、しばらく白紙を見つめる。

 朝の光が紙に落ち、何も書かれていない場所だけが、周りより白く浮かんでいた。

 

「これは、説明すると形が変わる情報ですね」

 

「たぶん、そうです」

 

「記録すれば守れるものもあります。記録しなければ消えてしまうものもあります。でも、書いた瞬間に本人の手から離れてしまうものもある」

 

「先輩」

 

「結論として、今は書きません」

 

 つる子先輩はノートを閉じた。

 ぱたん、という音は小さかった。

 けれど俺には、昨夜の屋敷の扉が閉まった音よりもはっきり聞こえた。

 

「本当にいいんですか。先輩、書かないと落ち着かないタイプですよね」

 

「落ち着きません。率直に言えば、かなり落ち着きません。今すぐ分類したいですし、関連資料を確認したいですし、私の脳内では見出し案が三つほど発生しています」

 

「見出し案まで出てるんですか」

 

「出ています。しかし、それを口にすると自分で自分を止められなくなるので言いません」

 

「それは助かります」

 

「助かると言われると、少しだけ悔しいですね」

 

 つる子先輩はノートを鞄へしまった。

 いつもなら、何かを片づける時の動きは速い。

 今日は少し遅かった。

 ページを閉じ、ペンを差し、鞄の中へ入れる。

 ひとつずつ確かめるように動く指先を見て、俺はこの人も今、自分の癖と向き合っているのだと分かった。

 

「結城くん、ひとつだけ確認します」

 

「話せる範囲なら」

 

「その秘密は、あなたが一人で抱えるべきものですか」

 

 その問いは、少しずるかった。

 話すなと言われるより、ずっと答えにくい。

 俺は缶コーヒーの蓋を、ようやく開けた。

 小さな音がして、苦い匂いが立ち上がる。

 飲むと、もう温かくはなかった。

 

「一人で抱えるものではないと思います。でも、勝手に渡していいものでもないです」

 

「では、預かっている状態ですね」

 

「はい。津上さんが自分で話すまで、俺は預かってます」

 

「分かりました。私も、あなたが話せる範囲だけを預かります」

 

 つる子先輩はそう言って、今度はノートではなく、鞄の上へ手を置いた。

 閉じられたノートの場所を、外側から押さえるような仕草だった。

 

「同意が取れたら、その時に記録します。記録する時は、本人に確認を取り、あなたにも確認を取ります」

 

「そこまで手順化するんですか」

 

「手順は大事です。感情だけで黙ると、次に揺らいだ時に破綻します」

 

「先輩らしいですね」

 

「そう言われると、少し安心します」

 

 つる子先輩は小さく息を吐いた。

 朝の光が、鞄の金具に反射して短く光る。

 その光は鋭かったけれど、さっきまでのノートの白さとは違って、どこか人の手で扱える明るさだった。

 

「それで、あなた自身はどうなのですか」

 

「俺自身、ですか」

 

「はい。力に目覚めた人が必ず救われるとは限らないと知って、あなたは自分の力をどう感じていますか」

 

 俺はすぐに答えられなかった。

 缶コーヒーを口元へ運び、もう一口だけ飲む。

 冷えた苦味が喉を通る。

 昨夜の屋敷の冷気とは違う、現実に戻るための苦さだった。

 

「前より分からなくなりました」

 

「それは、悪化ですか」

 

「どうでしょう。前は、分かっているふりをしていたのかもしれません」

 

 つる子先輩は何も書かないまま、俺の言葉を待っている。

 その沈黙に急かされる感じはなかった。

 いつものように言葉を捕まえて分類するのではなく、落ちる場所を作ってくれている沈黙だった。

 

「4号に憧れていたから、俺はこの力も人を守るものだと思いたかったんです。でも、力に目覚めた人が、その力で追い詰められることもあるなら、俺が見ていたのは力じゃなくて、あの人が選んだ使い方だったんだと思います」

 

「未確認第4号の力そのものではなく、その人物の選択に憧れていた、ということですね」

 

「たぶん、そうです」

 

「それは、重要な整理です」

 

「書かないんですか」

 

「書きません。今は」

 

 つる子先輩が少しだけ口元を上げた。

 俺はその返しに、思わず笑いそうになった。

 笑えたかどうかは分からない。

 ただ、缶コーヒーの苦味がさっきより少しだけ薄く感じた。

 

「でも、先輩に聞いてもらえて助かりました」

 

「情報量が少なすぎて、私はかなり消化不良です」

 

「そこは正直なんですね」

 

「正直に言わないと、私は資料棚に走ります」

 

「走らないでください。大学構内で資料棚に向かって全力疾走する先輩、少し怖いです」

 

「全力疾走ではありません。早歩きです」

 

「訂正しても怖さはあまり減りません」

 

 つる子先輩は立ち上がり、鞄を肩にかけた。

 俺も缶コーヒーを飲みきり、近くのゴミ箱へ放った。

 缶は軽い音を立てて中へ落ちた。

 手の中から冷えた金属が消えると、指先が朝の空気に直接触れた。

 

「結城くん」

 

「はい」

 

「あなたが話せないと言ったことを、私は信じます」

 

「理由を聞かないんですか」

 

「聞きたいです。しかし、あなたが昨日から今日にかけて、聞いたことを軽く扱っていないのは分かります」

 

「顔に出てましたか」

 

「顔と、缶コーヒーの扱いに出ていました」

 

「缶コーヒー、そんなに見られてたんですか」

 

「飲料を暖房器具扱いしていた時点で、かなり重症です」

 

「そこに戻るんですね」

 

 つる子先輩は歩き出した。

 俺も隣に並ぶ。

 いつもなら、つる子先輩が一歩前に出て、俺がその説明に引っ張られる形になることが多い。

 今日は、自然に歩幅が揃った。

 彼女はノートを開かず、俺も続きを話さない。

 話さないまま、同じ方向へ歩いている。

 

 朝の光は相変わらず白い。

 けれど、さっきまで足元に残っていた夜の冷気は、少しだけ薄くなっていた。

 秘密は軽くなったわけではない。

 津上さんの名前も、雪菜さんのことも、あかつき号の海も、俺の中に沈んだままだ。

 でも、その上に、つる子先輩が閉じたノートの音がそっと重なった。

 

 書かないことで守られるものがある。

 今朝、俺はそれをつる子先輩の手から教わった。

 そしてたぶん、つる子先輩も、自分の手でそれを確かめた。

 

「先輩、講義は大丈夫ですか」

 

「現在、五分前です。状況から見て、急ぐ必要があります」

 

「じゃあ、急ぎましょう」

 

「ただし、全力疾走はしません。早歩きです」

 

「そこ、こだわるんですね」

 

「資料棚へ向かう時も、講義へ向かう時も、品位は必要です」

 

「早歩きで品位を守れるかは、かなり微妙だと思います」

 

 そう言いながら、俺たちは少しだけ歩く速度を上げた。

 キャンパスの朝は、昨日と同じように動いている。

 けれど俺の隣では、ノートを閉じたつる子先輩が歩いている。

 その事実だけで、俺は昨夜から続く長い廊下を、ようやく少し抜けられた気がした。

 

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