仮面ライダーアルタ   作:ボルメテウスさん

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水底からの手

 夕暮れの街は、ガラス越しに見た水槽みたいだった。

 

 駅前のビルに反射した西日は薄く伸び、歩道を行き交う人たちの影を長くしている。

 大学の講義が終わった後、つる子先輩と別れた俺は、鞄を肩にかけたまま、横断歩道の信号が変わるのを待っていた。

 つる子先輩は「結論として、今日は直帰して休養してください」と言い残して資料室へ消えたが、あの人の言う直帰と休養が、俺の身体にきちんと届くかどうかは別問題だった。

 

 青信号になった。

 人の流れが前へ動く。

 俺も一歩を踏み出した。

 

 その瞬間、胸の奥を、冷たい手で掴まれた。

 

 アンノウンの気配なら、もう何度も感じてきた。

 皮膚の裏側を針で撫でられるような感覚とか、空気に混じった黒いざらつきとか、説明しづらいものは色々ある。

 けれど、今のこれは違った。

 敵意が近づいてくるのではない。

 街の底が抜けて、そこから海の暗さがせり上がってくる。

 

 俺は横断歩道の真ん中で立ち止まりかけ、後ろから来たサラリーマンに肩をぶつけられた。

 

「すみません」

 

 反射で謝った声が、自分のものではないみたいに遠い。

 耳の奥で、車のエンジン音も人の話し声も鈍く沈んでいく。

 まるで水中にいるみたいだった。

 息はできる。

 でも、吸い込んだ空気の重さだけが違う。

 

 俺は歩道へ渡り切ると、スマホを取り出した。

 つる子先輩へのメッセージ欄を開き、指を動かす。

 

『変な気配がします。アンノウンか不明。現場確認だけして、危険なら離れます』

 

 危険なら離れる。

 自分で打った文面を見て、少しだけ口元が引きつった。

 そんな上等な判断が毎回できるなら、俺はここまで面倒なことになっていない。

 それでも送った。

 送らなければ、つる子先輩がまた「連絡の有無は生存確認の基礎です」と説教する顔が浮かんだからだ。

 

 返信はすぐに来た。

 

『単独接触禁止。位置情報を送信してください。結論として、無理をしたら怒ります』

 

 画面の文字だけで声が聞こえるのだから、あの人は本当にすごい。

 俺は位置情報を送り、スマホをポケットへ押し込んだ。

 足はもう、悪寒の方角へ向かっていた。

 

 街の明かりは、進むほど少なくなった。

 商店街を抜け、古い倉庫が並ぶ川沿いの道へ入る。

 夕暮れの赤は川面に細かく砕け、流れの上で消えかけた火花みたいに揺れていた。

 水を見ると、胸の奥に残っている昔の記憶が少しだけ浮かぶ。

 増水した河川敷。

 喉へ入ってくる泥水。

 水面越しに見た、角のある背中。

 

 あの背中に憧れてきた。

 その力が人を守ったことを信じてきた。

 でも、津上さんから聞いた話は、力が人を救うだけではないことを俺の中へ沈めたままだ。

 雪菜さんのこと。

 あかつき号のこと。

 海へ落ちた津上さんのこと。

 水は、人を生かすだけではない。

 沈めることもある。

 

 川沿いの倉庫の前で、俺は足を止めた。

 

 いた。

 

 街灯の下に、ひとつの影が立っている。

 人型ではある。

 だが、人間の形を借りたというより、もっと大きなものが無理に小さな輪郭へ押し込められているように見えた。

 白とも青ともつかない身体。

 鯨に似た重い面影。

 ただ立っているだけなのに、倉庫の壁も、川面も、夕暮れの残り火も、その存在の周囲だけ深く沈んでいる。

 

 アンノウン。

 そう認識しようとして、喉の奥で言葉が引っかかった。

 

「アンノウン……なのか。本当に、あれが」

 

 俺の声に反応したのか、そいつがこちらを向いた。

 目が合った瞬間、身体の内側に冷たい水が流れ込んできた。

 今まで戦ってきたアンノウンたちは、殺すために近づいてきた。

 こいつは違う。

 近づく前から、こちらの逃げ場を海底へ沈めている。

 

 そいつが片手を上げた。

 

 それだけだった。

 

 次の瞬間、見えない壁に殴られたような風圧が俺を襲った。

 倉庫の錆びた扉が悲鳴を上げ、足元の砂利がまとめて吹き飛ぶ。

 俺は鞄を投げ捨てながら、腰の奥へ意識を落とした。

 

「変身!」

 

 ベルトが現れ、黒い水が身体の内側から広がる。

 装甲が形を取るより早く、風の塊が胸へ叩きつけられた。

 俺は両腕を交差して受け、衝撃を横へ逃がそうとした。

 いつもなら、そこで力の流れが見える。

 どこへ落とせばいいか、どこで返せばいいか、身体が覚えている。

 

 だが、今回は違った。

 受けた力が、逃げ道を作る前に全部を押し潰してくる。

 地面が足裏から消え、俺は倉庫の壁へ背中から叩きつけられた。

 錆びた鉄板がへこみ、肺の奥から空気が抜ける。

 

 痛みより先に、理解が来た。

 

 違う。

 今までの奴らと、息の重さが違う。

 

 俺は壁からずり落ちる前に、膝を立てて踏みとどまった。

 そいつは歩いてくる。

 急がない。

 俺が立つのを待っているわけでも、隙を探しているわけでもない。

 波が浜へ寄せるみたいに、当たり前の速度で距離を詰めてくる。

 

「目覚めし力は、いずれ裁かれる」

 

 声は低く、川面へ落ちた石みたいに周囲へ沈んだ。

 俺は構えを取り直す。

 拳を握ると、装甲の奥で黒い水が震えた。

 

「俺はまだ、何なのかも分かってないんだよ」

 

「ならば、分からぬまま沈むがよい」

 

 そいつの手に、異形の武器が現れた。

 長く、重く、祈りの道具を歪めたような形。

 見た瞬間、これに触れられたら動きを奪われると身体が先に判断した。

 

 俺は地面を蹴った。

 

 真正面から行けば潰される。

 ならば、流す。

 沈む。

 相手の力を受け、返す。

 それが俺の戦い方だった。

 

 右へ走り、倉庫の柱を使って角度を変える。

 風圧が背中を掠め、鉄板が紙みたいに剥がれた。

 俺は低く入り込み、そいつの腕の下へ滑り込む。

 拳ではなく、肩からぶつかるようにして重心を崩そうとした。

 

 動かなかった。

 

 岩ではない。

 岩なら、力の流れがある。

 こいつはもっと違う。

 海そのものを押しているような手応えだった。

 俺の肩が弾かれ、反対に武器の柄が脇腹へ入る。

 装甲越しでも内臓が揺れ、視界の端が白く弾けた。

 

 距離を取る。

 取ったつもりだった。

 しかしそいつの掌がこちらを向いた瞬間、また風が来た。

 防ぐ。

 受ける。

 流す。

 頭の中で順番を並べても、身体が一手遅れる。

 俺は地面を削りながら後退し、足を滑らせかけた。

 

 このままでは削られる。

 

 俺は左手を広げ、指先から冷気を走らせた。

 黒い装甲の上に、白い霜のような気配が浮かぶ。

 長柄の鎌が形を取り、刃ではなく感覚を断つための円弧を描く。

 今までなら、これで敵の動きのどこかを止められた。

 痛覚、平衡感覚、触覚。

 少しでも乱せれば、次の一手が作れる。

 

 鎌を振るった。

 

 白い軌跡がクジラのアンノウンの腕へ届く。

 届いたはずだった。

 だが、そいつは武器を軽く持ち上げただけで、冷気の円弧を弾いた。

 音がした。

 氷が割れる音ではない。

 薄い硝子を、深海の圧で粉にするような音だった。

 

 俺の鎌の感覚が、手元でぶつりと途切れる。

 次の瞬間、武器の先端が俺の胸を打った。

 身体が動かない。

 ほんの一瞬、装甲の内側まで鎖で縛られたみたいに、腕も足も命令を聞かなかった。

 

 そこへ風圧が重なる。

 

 俺は地面を転がった。

 川沿いのアスファルトが背中を削り、街灯が視界の中で何度も回る。

 止まった時には、川の柵がすぐ横にあった。

 水の匂いがする。

 夕暮れの赤はもう消え、川面は黒い。

 

 沈むのは、もう嫌なんだ。

 

 声には出さなかった。

 けれど、その言葉が喉の奥で形になった瞬間、ベルトが重く鳴った。

 俺は片膝をつきながら、右腕に盾を展開する。

 重力の感覚を足元へ落とし、相手の位置を固定しようとした。

 逃がさないためではない。

 こちらが潰されないために、地面へ釘を打つ。

 

 盾を構え、局所的な引力を掛ける。

 クジラのアンノウンの足元の砂利が沈み、周囲の水たまりが小さく歪んだ。

 

 一瞬、止まった。

 

 その一瞬だけで十分だと思った。

 俺は盾を支点に身体を回し、受けた衝撃を腹の奥へ集める。

 プレッシャー・ラウンドキックへ繋げる。

 届くかどうかではない。

 届かせなければ、次がない。

 

 地面を蹴った。

 

 だが、クジラのアンノウンは俺を見ていなかった。

 見ていないのに、分かっていたように掌を横へ払う。

 高圧の風が軌道をずらし、俺の蹴りは本来の芯から外れた。

 足先が相手の装甲を掠める。

 手応えはあった。

 しかし、それは扉を叩いたような手応えではない。

 海面へ石を落とした時の、どこまでも飲み込まれる感覚だった。

 

 次の瞬間、武器が肩へ落ちた。

 

 装甲が軋む。

 視界が跳ねる。

 地面が近づき、俺は倒れた。

 立とうとしたが、腕に力が入らない。

 指先がアスファルトを掻き、爪の奥へ砂が入る。

 変身は解けていない。

 解けていないのに、身体の内側だけが置いていかれていた。

 

 クジラのアンノウンが近づいてくる。

 

 足音は重くない。

 それなのに、一歩ごとに周囲の空気が沈む。

 俺は起き上がろうとした。

 肘を立てる。

 膝を引く。

 だが、腹の奥の水が冷たく重く、身体が上へ戻らない。

 

 クジラのアンノウンは、俺を見下ろした。

 武器の先が、首元へ向けられる。

 ここからなら終わる。

 その距離だった。

 

 だが、武器は落ちなかった。

 

 クジラのアンノウンの視線が、俺の腰の奥へ沈む。

 ベルトのさらに奥、アマダムの欠片がある場所。

 そこを見ている。

 見られていると分かった瞬間、案内人の微笑みが脳裏を掠めた。

 あの屋敷で向けられた、敵意のない観察。

 今ここにあるのは、それよりも冷たく、深い。

 

「その力、まだ裁くには浅い」

 

 クジラのアンノウンはそう言った。

 

 俺は返事をしようとした。

 何かを言わなければ、この場で自分の全部を負けとして置いていくことになる気がした。

 けれど、喉から出たのは荒い息だけだった。

 

「沈まずに残ったか。ならば、いずれまた問われよう」

 

 クジラのアンノウンが背を向ける。

 俺は手を伸ばそうとした。

 届くはずがない。

 それでも、見逃されたまま終わるのだけは嫌だった。

 指先が空を掴み、アスファルトに落ちる。

 

 足音が遠ざかる。

 いや、遠ざかるというより、深い海の底へ沈む鐘の音みたいに、下へ下へと消えていった。

 川面には風の名残だけが残り、黒い水が細かく震えている。

 街灯の光が水面で歪み、倒れた俺の視界もそれと同じように揺れた。

 

 変身が解ける。

 

 装甲が黒い水のように身体の内側へ戻り、夕暮れの名残を失った空気が肌へ触れた。

 痛みが遅れてやってくる。

 肩、脇腹、背中。

 身体のあちこちが、ばらばらの音で軋んでいた。

 

 スマホが震えた。

 ポケットの中で、何度も。

 

 つる子先輩だ。

 分かっている。

 出なければならない。

 でも、指がなかなか動かない。

 ようやく取り出した画面には、短い通知が並んでいた。

 

『位置情報が止まっています』

『応答してください』

『結城くん』

『返事を』

 

 俺は画面を見ながら、親指を動かした。

 文字を打とうとして、最初の一文字がなかなか出てこない。

 無事です、と打つには嘘が混ざる。

 負けました、と打つには余計なものが多すぎる。

 

 結局、俺はこう打った。

 

『生きています。相手は、今までのアンノウンと違います』

 

 送信すると、少しだけ息ができた。

 川の向こうで、街の明かりがぽつぽつと灯り始めている。

 あの光の下では、誰かが夕飯を作り、誰かが駅から家へ帰り、誰かが明日の予定を考えている。

 その普通の明るさが、今はひどく遠い。

 

 俺はアスファルトに背を預けたまま、空を見上げた。

 夜が降りてくる。

 水底よりも深い悪寒は、もうそこにはない。

 けれど、身体の奥にはまだ、あの視線の冷たさが残っていた。

 

 これまでの戦い方では届かない。

 アビスでも、フロストでも、グラビティでも、別々に手を伸ばすだけでは、あの深さに触れられない。

 津上さんが三つの力を重ねた時の姿が、ふと脳裏に浮かんだ。

 金色の光、風、炎、大地。

 あれは届くための形だったのかもしれない。

 

 俺の中にも、別々の沈み方をする力がある。

 けれど、それを重ねた時、俺が俺のままでいられる保証はどこにもない。

 

 川面が揺れる。

 水面越しに、昔見た4号の背中が一瞬だけ重なった気がした。

 俺は歯を食いしばり、動かない身体を少しだけ起こす。

 沈むのは嫌だ。

 見逃されたまま、水底に残されるのも嫌だ。

 

 なら、次に会う時までに、沈まない理由を増やさなければならない。

 

 遠くからサイレンの音が聞こえ始めた。

 つる子先輩がどこかへ連絡したのかもしれない。

 俺は立ち上がろうとして、すぐには無理だと悟り、代わりに川の柵へ背中を預けた。

 冷たい金属が肩の痛みに触れる。

 それでも、地面に伏せているよりはましだった。

 

 クジラのアンノウンが残した言葉が、川風の中で何度も沈んでは浮かぶ。

 

 まだ裁くには浅い。

 

 浅い。

 その言葉だけが、妙に腹の奥へ残った。

 俺は自分が深いところにいるつもりでいた。

 水底みたいだと真魚さんに言われて、そういうものだと思っていた。

 けれど、あいつから見れば、俺の沈み方などまだ水たまり程度だったのだろう。

 

 悔しさを言葉にする余裕はなかった。

 ただ、握った拳の中で、爪が掌に食い込んだ。

 痛みがある。

 なら、まだここにいる。

 

 俺は川の黒い流れを見つめながら、つる子先輩が来るまで目を閉じなかった。

 閉じたら、また水の底へ落ちそうだったからだ。

 

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