夕暮れの川沿いは、街が少しずつ水の底へ沈んでいく途中みたいだった。
駅前のざわめきは背中の向こうで薄くなり、倉庫街へ近づくほど、車の音も人の声も遠い膜の向こうへ押し込まれていく。
川面には夕日の残りが細く割れて、赤い光が流れに引き延ばされながら黒へ混ざっていた。
俺は鞄の肩紐を握り直し、吐いた息が白くもないのに、喉の奥だけ冷えていくのを感じていた。
アンノウンの気配なら、もう何度も感じてきた。
皮膚の裏側を針で撫でられるようなざらつきや、空気の中に混じる嫌な金属臭みたいなものなら、身体が覚えている。
けれど、今のこれは違った。
敵が近づいてくるのではなく、自分の立っている場所ごと、巨大な水圧の下へ降ろされていくような感覚だった。
俺はスマホを取り出し、つる子先輩へ位置情報を送った。
『変な気配がします。アンノウンかは不明です。現場だけ確認します』
送信してから、自分で打った「確認」という言葉がひどく軽く見えた。
今、胸の奥を掴んでいるものは、確認で済むようなものではない。
それでも連絡を入れたのは、たぶん成長ではなく、つる子先輩に後で怒られる未来を避けたいという、わりと現実的な理由も混じっていた。
返信はすぐに来た。
『単独接触は禁止です。位置情報は確認しました。結論として、無理をしたら本気で怒ります』
「怒る前提じゃないですか、先輩」
画面へ小さく言い返し、俺はスマホをポケットへ押し込んだ。
軽口を叩いた声は川風にさらわれたが、胸の奥の冷たさは少しも薄くならなかった。
むしろ、進むほど周囲の音が鈍くなる。
靴音も、川の流れも、遠くの踏切の警報音さえ、水中で聞いているみたいに歪んでいた。
倉庫の角を曲がった瞬間、俺は足を止めた。
街灯の下に、何かが立っていた。
人型ではある。
けれど、人間の形をした怪物というより、海の底にいる巨大なものが、無理やり人の輪郭へ押し込められたように見えた。
クジラに似た重い影。
白とも青ともつかない身体。
そこに立っているだけで、周囲の空気が低く沈み、街灯の光まで届くのをためらっているようだった。
「アンノウン……なのか。本当に、あれが」
そう呼ぶしかないのに、その言葉が喉の奥でうまく噛み合わなかった。
今まで戦ってきた奴らも、人を人として扱わない冷たさを持っていた。
けれど、目の前のクジラのアンノウンは、殺意よりももっと古いものをまとっていた。
こちらを獲物として見るのではなく、最初から海へ沈む小石を見るように、俺の存在を重さの中へ含めている。
そいつが片手を上げた。
それだけだった。
次の瞬間、見えない壁が川沿いの道を殴りつけた。
錆びた倉庫の扉が悲鳴を上げ、足元の砂利がまとめて跳ねる。
俺は鞄を投げ捨て、腰の奥へ意識を落とした。
「変身!」
ベルトが現れ、黒い水が身体の内側から装甲へ広がる。
けれど、変身が完了したという実感より早く、風圧が胸へ叩きつけられた。
俺は両腕を交差して受け止め、衝撃を横へ逃がそうとした。
いつもなら、力の流れが身体の中に見える。
どこで受けて、どこへ落として、どこから返すか、俺の戦い方はその一瞬にある。
今回は、その流れごと潰された。
足裏が地面を失い、背中が倉庫の壁へ叩きつけられる。
鉄板が鈍くへこみ、肺の奥から空気が抜けた。
痛みより先に、理解だけが落ちてくる。
違う。
今までの奴らと、息の重さが違う。
クジラのアンノウンは、急がずにこちらへ歩いてきた。
こちらが立つのを待っているのではない。
間合いを測っているのでもない。
波が岸へ来るように、来ることそのものが最初から決まっている歩き方だった。
「目覚めし力は、いずれ裁かれる」
低い声が川面へ落ち、黒い水の上に輪を作るように広がった。
俺は壁から身体を引き剥がし、拳を握る。
指の内側が冷えている。
装甲越しにすら、その冷たさが分かった。
「俺はまだ、何なのかも分かってないんだよ」
「ならば、分からぬまま沈むがよい」
クジラのアンノウンの手に、異形の武器が現れる。
祈りの道具を歪めたような形のそれを見た瞬間、触れられれば身体の芯から動きを奪われると分かった。
理屈ではない。
身体のどこかが、もう敗北の形だけを先に覚えてしまっていた。
真正面から押せば潰される。
ならば、受けて流す。
沈んで、返す。
俺は低く走り、倉庫の柱を使って角度を変えた。
クジラのアンノウンの腕の下へ滑り込み、肩から重心を崩しに行く。
動かない。
岩なら動かせなくても、手応えの端がある。
クジラのアンノウンは違った。
触れた肩から、海そのものを押しているような感触だけが返ってきた。
次の瞬間、武器の柄が脇腹へ入り、装甲越しに内側が揺れる。
俺は踏みとどまろうとしたが、掌を向けられた瞬間、また高圧の風が来た。
防ぐ。
受ける。
流す。
頭の中で並べた順番が、ひとつずつ遅れていく。
身体は動いているのに、戦いが手の中へ入ってこない。
俺は地面を削りながら後退し、川の柵へ肩をぶつけた。
このまま削られたら、立っている理由ごと持っていかれる。
俺は左手を開き、冷気を走らせた。
装甲の上に白い霜のような気配が浮かび、長柄の鎌が形を取る。
斬るためではなく、感覚を断つための武器。
痛覚でも、平衡でも、触覚でもいい。
ほんの少しでも乱せれば、次の呼吸が作れる。
鎌を振るった。
白い円弧がクジラのアンノウンの腕へ届く。
届いたはずだった。
だが、そいつは武器をわずかに持ち上げただけで、冷気の軌跡を弾いた。
氷が割れる音ではない。
薄い硝子を、深い圧力で粉にするような音だった。
手元の感覚が途切れた。
続いて、武器の先端が胸を打つ。
一瞬、身体が動かない。
腕も足も、装甲の内側から鎖で縫い止められたみたいに止まる。
そこへ風圧が重なった。
俺は地面を転がった。
アスファルトが背中を削り、街灯が視界の中で何度も回る。
止まった時には、川の柵がすぐ横にあった。
黒い水の匂いがする。
雨も降っていないのに、視界の端が水面越しみたいに揺れていた。
沈むのは、もう嫌なんだ。
声に出したつもりはなかった。
けれど、その言葉が喉の奥で形を持った瞬間、ベルトの奥が重く鳴った。
俺は片膝を立て、右腕に盾を展開する。
重力を足元へ落とし、相手の位置を縫い止める。
倒すためというより、これ以上沈まないための杭を打つような感覚だった。
盾を構え、局所的な引力を掛ける。
クジラのアンノウンの足元の砂利が沈み、水たまりの表面が小さく歪んだ。
止まった。
ほんの一瞬だけだ。
それでも、俺はその一瞬に身体を投げ込んだ。
盾を支点に体勢を回し、さっき受けた衝撃を腹の奥へ集める。
受けて、沈めて、返す。
プレッシャー・ラウンドキックへ繋げる。
届くかどうかではない。
届かせなければ、俺はここで自分の戦い方を見失う。
地面を蹴った。
しかし、クジラのアンノウンは俺を見ていなかった。
見ていないのに、分かっていたように掌を横へ払う。
高圧の風が蹴りの軌道をずらし、俺の足先は本来の芯から外れた。
装甲を掠める手応えはあった。
けれど、それは扉を叩いた感触ではなく、石を海へ投げ込んだ時の、どこまでも飲まれていく感覚だった。
次の瞬間、武器が肩へ落ちた。
装甲が軋み、視界が跳ねる。
地面が近づき、俺は倒れた。
立とうとして、腕に力が入らない。
指先がアスファルトを掻き、爪の奥へ砂が入る。
変身は解けていない。
解けていないのに、身体の中の人間だけが置き去りにされていた。
クジラのアンノウンが近づいてくる。
足音は重くない。
それなのに、一歩ごとに周囲の空気が沈んでいく。
俺は肘を立てようとした。
膝を引こうとした。
どちらも途中で止まる。
身体が上へ戻らない。
そいつは俺を見下ろした。
武器の先が、首元へ向けられる。
そこからなら終わる。
そういう距離だった。
けれど、武器は落ちなかった。
クジラのアンノウンの視線が、俺の腰の奥へ沈む。
ベルトのさらに奥、アマダムの欠片がある場所。
そこを見ている。
見られていると分かった瞬間、屋敷の案内人が見せた薄い微笑みが脳裏を掠めた。
あれは底の見えない観察だった。
今ここにあるのは、それより冷たく、もっと深い裁定の前触れだった。
「その力、まだ裁くには浅い」
そいつはそう言った。
返したかった。
何かを言わなければ、この場で自分の全部が相手の判断に預けられてしまう気がした。
けれど喉から出たのは、割れた呼吸だけだった。
「沈まずに残ったか。ならば、いずれまた問われよう」
クジラのアンノウンが背を向ける。
俺は手を伸ばそうとした。
届くはずがない。
それでも、見逃されたまま終わるのだけは嫌だった。
指先が空を掴み、アスファルトに落ちる。
足音が遠ざかる。
いや、遠ざかるというより、海の底へ鐘が沈んでいくみたいに、下へ下へと消えていった。
川面には風の名残だけが残り、黒い水が細かく震えている。
街灯の光が水面で砕け、倒れた俺の視界もそれと同じように歪んでいた。
変身が解けた。
装甲が黒い水のように身体の内側へ戻り、夜気が肌へ直接触れる。
痛みが遅れてやってきた。
肩、脇腹、背中。
身体のあちこちが、ばらばらの楽器みたいに鈍く鳴っている。
スマホが震えた。
ポケットの中で、何度も。
つる子先輩だ。
分かっている。
出なければならない。
けれど指がうまく動かなかった。
ようやく取り出した画面には、短い通知が並んでいた。
『位置情報が止まっています』
『応答してください』
『結城くん』
『返事をください』
俺は画面を見つめ、親指を動かした。
無事です、と打つには嘘が混ざる。
負けました、と打つには余計なものが多すぎる。
助けてください、と打つには、まだ少しだけ意地が邪魔をした。
結局、俺はこう打った。
『生きています。相手は、今までのアンノウンと違います』
送信すると、ほんの少しだけ息ができた。
川の向こうで、街の明かりがぽつぽつと灯り始めている。
その光の下では、誰かが夕飯を作り、誰かが駅から家へ帰り、誰かが明日の予定を考えている。
普通の明るさが、今はひどく遠い。
俺はアスファルトに背を預け、川の黒い流れを見つめた。
あのクジラのアンノウンは、俺を殺せた。
殺せたのに、殺さなかった。
助かったという感覚は、掌の中に落ちてこない。
代わりに、爪が食い込んだ掌だけが熱かった。
これまでの戦い方では届かない。
アビスでも、フロストでも、グラビティでも、別々に手を伸ばすだけでは、あの深さに触れられない。
津上さんが三つの力を重ねた時の姿が、ふと脳裏に浮かんだ。
金色の光、風、炎、大地。
あれは届くための形だったのかもしれない。
俺の中にも、別々の沈み方をする力がある。
けれど、それを重ねた時、俺が俺のままでいられる保証はどこにもない。
川面が揺れる。
水面越しに、昔見た4号の背中が一瞬だけ重なった気がした。
俺は歯を食いしばり、動かない身体を少しだけ起こす。
沈むのは嫌だ。
見逃されたまま、水底に残されるのも嫌だ。
なら、次に会う時までに、沈まない理由を増やさなければならない。
遠くからサイレンの音が聞こえ始めた。
つる子先輩がどこかへ連絡したのかもしれない。
俺は立ち上がろうとして、すぐには無理だと悟り、代わりに川の柵へ背中を預けた。
冷たい金属が肩の痛みに触れる。
それでも、地面に伏せているよりはましだった。
クジラのアンノウンが残した言葉が、川風の中で何度も沈んでは浮かぶ。
まだ裁くには浅い。
浅い。
その言葉だけが、妙に腹の奥へ残った。
俺は自分が深いところにいるつもりでいた。
水底みたいだと真魚さんに言われて、そういうものだと思っていた。
けれど、あいつから見れば、俺の沈み方などまだ水たまり程度だったのだろう。
悔しさを叫ぶ余裕はなかった。
ただ、握った拳の中で、爪が掌に食い込んでいた。
痛みがある。
なら、まだここにいる。
俺は川の黒い流れを見つめながら、つる子先輩が来るまで目を閉じなかった。
閉じたら、また水の底へ落ちそうだったからだ。