目を覚ました時、窓の外では夕焼けが終わりかけていた。
薄い橙色がガラスの端に残り、その向こうから夜の青が静かに押し寄せている。
消毒液の匂いが鼻の奥へ刺さり、右肩を少し動かしただけで、身体の内側に鈍い痛みが走った。
痛みの場所を確かめるより先に、川沿いの黒い水面と、クジラのアンノウンが俺を見下ろしていた姿が蘇った。
武器の先が首元へ向けられ、それでも振り下ろされなかった瞬間だけが、傷より深く身体へ残っている。
勝てなかったのではなく、相手の判断で生かされたのだと考えるたび、胸の奥へ冷たい水が流れ込んだ。
「起きましたか、結城くん。前提として、急に身体を起こすことは禁止されています」
椅子に座っていたつる子先輩が、開いていた本を閉じながらこちらへ顔を向けた。
声はいつも通り落ち着いていたが、膝の上へ置かれた指は、紙の端を何度も撫でた形に少し赤くなっている。
「ここは病院ですか、それとも先輩が勝手に作った監視室ですか」
「大学近くの診療所ですし、監視ではなく経過観察という適切な表現があります」
「位置情報を送っておいて、本当に助かりました」
「その点だけは評価しますが、単独接触を避けるという指示は完全に無視されました」
「そこは反省していますから、今は説教の音量を少し下げてください」
「音量の問題ではありませんが、現在のあなたには長時間の説教が不適切なのは認めます」
つる子先輩はそう言いながら、ベッド脇に置かれた水差しからコップへ水を注いだ。
差し出されたコップを受け取ると、指先がわずかに震え、透明な水面が小さく波打った。
その揺れが川面に見えた瞬間、喉が勝手に閉じかける。
俺は水を飲まず、コップを膝の上へ置いた。
「先輩、あれは本当にアンノウンだったんでしょうか」
「現場に残された痕跡だけでは、既存分類との一致を断定できません」
「攻撃の仕方も、立っている時の圧も、今までの奴らとは全部違いました」
「あなたが送った文章にも、同じ内容が記録されています」
「記録に残すほど、情けない文章でしたか」
「生きていると最初に書いた判断は正解でしたし、それ以外はかなり切迫していました」
つる子先輩の視線が、俺の右手へ落ちた。
掌には爪を食い込ませた跡が残り、皮膚の上へ細い半月が並んでいる。
俺は手を閉じようとして、途中で痛みに止められた。
「届かなかったんです。何をしても、あいつの前では全部浅かった」
「浅いという表現は、相手が使った言葉ですか」
「はい。まだ裁くには浅いと、そう言って見逃されました」
見逃されたという言葉を口にすると、処置室の空気が急に狭くなった。
蛍光灯の白い光がシーツへ落ち、傷のない場所まで冷たく照らしている。
つる子先輩はすぐに返事をせず、椅子の脇に置いていた鞄へ手を伸ばした。
取り出されたのは、見慣れた厚いノートだった。
表紙の角は擦れ、貼り直された背表紙には、何度も開かれた時間が細い皺として残っている。
「それは、未確認切抜帳ですよね」
「正確には第二分冊ですが、今は区別する必要がないため省略します」
「こんな時まで訂正を入れる余裕があるなら、少し安心しました」
「私は最初から比較的冷静ですが、あなたが勝手に安心材料として利用しているだけです」
つる子先輩はノートを開き、何枚もの記事を指先で慎重にめくっていった。
黄ばんだ新聞の切り抜き、週刊誌の粗い写真、警察発表を写した小さな文字、赤いペンで書かれた日付と場所。
俺が高校生だった頃から何度も見た紙面なのに、今日はどのページも遠い時代の遺物みたいに見えた。
つる子先輩は、ある見開きで指を止めた。
「こちらを読んでください。ただし、起き上がらずに読める角度へ私が調整します」
差し出されたページには、未確認第4号が戦闘中に倒れたという短い記事が貼られていた。
写真は暗く、輪郭も粗いが、地面へ膝をついている姿だけは分かる。
記事の下には、当時の目撃証言と、つる子先輩の細かな注釈が並んでいた。
「4号が、倒れている」
「その記録だけではありませんし、別の日には戦闘継続が困難になった可能性もあります」
「俺はずっと、あの人は負けなかったと思っていました」
「記録上、常に圧倒していたわけではありません。撤退と考えられる事例もあり、負傷後に姿を消した例もあります」
紙面の中の4号は、俺の記憶にある背中よりも小さく見えた。
雨の川で俺を助けた時の姿は、暗い水の向こうで揺らがず、何にでも届くものだと思っていた。
けれど記事の中では、地面へ片手をつき、立つための次の力を探している。
胸の中で、長い間祭壇へ置いていた背中が、少しずつ地面へ降りてきた。
「先輩は、これを俺に見せたかったんですか」
「この一枚だけでは、説明として不十分なので次のページも確認してください」
つる子先輩がページをめくると、次に貼られていたのは数日後の記事だった。
場所も相手も違うが、そこには再び立っている4号の写真があった。
粗い印刷の中で拳を構え、守るべき人たちと怪物の間へ、自分の身体を差し込むように立っている。
勝利を大きく煽る見出しはない。
未確認生命体同士の交戦が終わり、被害が止まったという事実だけが、乾いた文章で記録されている。
それでも、前のページで倒れていた背中が、次のページではもう一度立っていた。
「負けたままで終わったわけでは、なかったんですね」
「記録上は、そう判断できます。少なくとも彼は、敗北した場所を最後のページにはしませんでした」
「でも、怖くなかったとは限りませんよね」
「恐怖に関する本人の証言は存在しません。ただし、負傷や敗北を経験した後も現場へ戻った事実は残っています」
つる子先輩はそこで口を閉じ、ノートを俺の膝の横へ置いた。
慰める言葉を並べる代わりに、黄ばんだ紙面だけをこちらへ向けている。
紙の端には何度も触れられた跡があり、つる子先輩自身もこのページを繰り返し読んだことが分かった。
「先輩は、4号が負けた記録も最初から知っていたんですよね」
「当然です。都合の良い記録だけを集めるなら、調査ではなく信仰になります」
「俺は、たぶん信仰していたんだと思います」
「憧れは事実を単純化しますが、必ずしも悪い作用だけではありません」
「でも、負けない人だと思っていたから、俺も負けたら終わりだと思っていました」
口にした言葉は、思っていたより子どもじみて聞こえた。
クジラのアンノウンに届かなかったことより、4号のようになれなかったことの方が、俺には深く刺さっていたのかもしれない。
つる子先輩は眼鏡の位置を直し、俺ではなく切り抜きへ視線を落とした。
「結城くんが憧れたのは、負けなかった力なのでしょうか」
「違うと、今なら少しだけ思えます」
「では、何に憧れていたのでしょう」
俺は紙面の中の4号を見た。
倒れた姿と、再び立った姿が、見開きの前後で繋がっている。
その間に何があったのか、記事には書かれていない。
傷を洗ったのか、眠れない夜を過ごしたのか、次に戦うことを怖がったのか、誰かに何かを言われたのか、どれも分からない。
それでも、次の記録には立っていた。
「守る場所へ戻ったことに、憧れていたんだと思います」
言葉にすると、胸の奥に沈んでいた冷たいものが、ほんの少しだけ位置を変えた。
消えたわけではない。
クジラのアンノウンの姿を思い出せば、喉はまだ狭くなる。
次に会った時も立てるかと聞かれれば、すぐに頷くことはできない。
けれど、負けたという事実と、終わったという事実は同じではなかった。
「俺は、次にあいつを感じたら、また足が止まると思います」
「止まること自体を失敗と定義する必要はありません」
「逃げたくなるかもしれません」
「逃げる判断が人命を守る場合もありますし、援助を求めることも戦闘行動の一部です」
「先輩は、俺にもう戦うなとは言わないんですね」
「言えば従いますか」
「かなり難しいと思います」
「それなら、実効性のない命令より、生存率を上げる方策を提示します」
つる子先輩は淡々と答えたが、ノートを閉じようとする指が一度だけ止まった。
その指先は、俺が川沿いから送った短い文章を読んだ時にも、同じように止まったのかもしれない。
「ただし、次回は単独で接触しないでください」
「善処します、では駄目ですか」
「駄目ですし、その言葉を使用した場合は現在の負傷箇所を考慮せず説教を開始します」
「分かりました。次は必ず連絡して、誰かと一緒に動きます」
「その回答は記録してもよろしいですか」
「そこだけは遠慮なく書いてください」
つる子先輩はようやく少しだけ口元を緩め、ノートの余白へ日付と短い一文を書き込んだ。
何を書いたのかを覗こうとすると、彼女はすぐにノートを閉じ、胸元へ引き寄せる。
「今のは見せないんですか」
「個人的な備忘録ですから、閲覧権限は私だけにあります」
「俺に関する記録なのに、権限がないのは納得しづらいです」
「では、次回から無謀な単独行動を避ければ、閲覧申請を検討します」
「交渉条件が厳しすぎませんか」
「あなたの行動に対する条件としては、かなり寛大です」
窓の外では、夕焼けが完全に消えていた。
代わりに蛍光灯の光が、閉じたノートの表紙と、俺の掌に残る傷を同じ白さで照らしている。
夜になったからといって、紙面の文字は消えない。
敗北の記録も、その次に立った記録も、同じ冊子の中へ並んで残っている。
俺はコップを持ち上げ、今度はゆっくりと水を飲んだ。
水面はまだ少し揺れたが、さっきのように川の黒さへは見えなかった。
喉を通った冷たさが身体の奥へ落ち、そこに残っていた悪寒と混ざって、少しだけ人間の温度へ戻っていく。
「先輩、俺も次のページへ行けるでしょうか」
「ページをめくるのは、あなたの行動次第です」
「もう少し優しい回答を期待していました」
「根拠のない保証はできません。ただし、次のページを作る準備なら私も手伝えます」
つる子先輩はそう言い、ノートを鞄へしまった。
その仕草はいつも通り几帳面だったが、最後に鞄の蓋を閉じる手だけが、俺の返事を待つように少し遅れた。
「では、手伝ってください。今度は一人で深いところへ行かないようにします」
「その言葉は、今度こそ忘れないでください」
「忘れた場合は、また記録を見せてもらえますか」
「忘れた場合は、記録より先に私が直接説明します」
「それはかなり長い説明になりそうですね」
「必要なら、朝まで継続する予定です」
俺は思わず笑い、右肩の痛みに顔をしかめた。
笑ったせいで傷は痛んだが、その痛みは川沿いで感じたものとは違っていた。
身体がまだここにあり、次の朝まで続いていくことを知らせる、不器用な合図みたいだった。
四号も負けた。
傷つき、倒れ、それでも次の記録では立っていた。
だから俺も勝てるとは、まだ言えない。
あのクジラのアンノウンの前へ立てるとも、今は約束できない。
ただ、倒れた姿の次に、立っているページが存在することを知った。
それだけで、夜の窓に映る自分の顔は、さっきより少しだけ水面から近い場所にあるように見えた。