カマキリのアンノウンが動いた。
水のエルがただ静観しているその背後から、まるで主人の沉默を合図と受け取ったかのように、不吉な影が弾かれたのである。
「――!」
鎌。
人間の腕ほどもある二つの鎌が、交差するように俺の首筋へ迫る。
その動き、まさに死神の裁きのごとく速かった。
アビスフォームの感覚なら、おそらくこの斬撃を致命点から外し、衝撃を逃がす算段をつけたであろう。
フロストフォームなら、その神経を遮断し、感覚の真空地帯へと相手を引きずり込んだかもしれない。
だが、今の俺は、ちがう。
俺は右腕を振るった。
グラビティフォームの力が、筋肉の収縮と共に右前腕へ集中する。
空間から析出された盾型の武装が、マグネットが鉄粉を吸い寄せるがごとく俺の腕に顕現する。
受ける。
正面から、叩き受ける。
ギィィィィン!
金属と金属が肉弾する鋭い音が、廃墟の空洞に響き渡った。
蟷螂の鎌と、俺の盾。
その衝突の瞬間、俺の体を凄まじい衝撃が貫いた。
まるで満員の tram に挟まれたかのような圧迫感。
だが、アビスの力が同時に働く。
致命点へ向かう衝撃のベクトルを俺の全身へと分散させ、水圧のように逃がしていく。
足元のコンクリートに亀裂が走り、瓦礫が舞い上がったが、俺の姿勢は崩れなかった。
「……っ、重い……!」
思わず声が漏れる。
受け止めた、という実感。
これまでは、いつもかわしていた。いなしていた。
盾の表面に、紫色の光脈が走る。
グラビティの力――アンカー。
俺は、盾に触れたままの蟷螂の鎌ごと、奴の位置を固定したのである。
逃がさない。
固定されたのだ。
この蟷螂の鎌など子どもの玩具に等しい。
ならば、こちらから仕留めるまで。
俺は左手を開いた。
虚空から冷気が凝縮し、白銀の光が刃を形作る。
鎌。
凍える銀河の枝のごとき長柄が、俺の掌に吸い付くように顕現した。
受け止めた盾に押し付けられたまま、蟷螂のアンノウンがもがく気配が伝わる。
だが、もう遅い。
「……止まっていてください」
俺は、自分に言い聞かせるように低く呟くと、そのまま左手を薙ぎ払った。
さながら北極の風が平原を横切るがごとき、一瞬の白銀の残像。
鎌の刃が、空気すらも凍てつかせて裂く。
斬ッ!
手応えは、驚くほど軽かった。
厚い甲殻を通過した感触すら希薄で、ただ水垢を切ったような滑らかさだけが掌に残る。
フロストの刃は、物理的な質量だけでなく、相手の存在そのものの感覚を断ち切るのだ。
蟷螂のアンノウンが、真っ二つに割れて崩れ落ちた。
断面は焼かれたわけでもない。ただ、まるで最初から二つの物体だったかのように、冷たく滑らかに分離している。
断末魔の声すらなく、奴は左右の躯幹をコンクリートの上に撒き散らして、青白い炎と共に消滅していった。
「……」
俺は、自身の手を見下ろした。
盾と鎌。二つの異なる力を同時に振るい、下位のアンノウンを瞬殺した。
あまりに容易だった。
まるで夢の中の所作のように、現実感がない。
この力が、俺の肉体を、精神を、人間であることの輪郭を侵食していく音が、骨の奥で微かに鳴っている。
だが、感傷に浸る暇はない。
廃墟の空気中の圧力が、さらに重く変わったからだ。