俺は、消えゆく蟷螂の残骸を一瞥すらせずに、一歩を踏み出した。
目の前に立つ、銀と青灰の巨体。 鯨のアンノウン。 あの日、増水した川の底で俺を沈めようとした、深淵そのもののような存在。 そいつが、ゆっくりと俺を見下ろしている。 その複眼は深海の闇のように冷たく、俺という存在を値踏みしているかのようだ。 俺の恐怖は、まだ消えていない。 けれど、それ以上に、倒れた二人の息遣いが俺を前へ押し出す。
だが、次の瞬間だった。
鯨のアンノウンの複眼が、俺から逸れた。 まるで、俺よりも優先すべき新たな脅威を感知したかのように、その巨体がぎしりと背後を振り向く。
俺も、そちらを見た。
熱。 廃墟の暗がりを灼く、地の底から噴き出す灼熱の気配。 そこに立っていたのは、紅蓮のアギトだった。 筋肉質に隆起した上半身の装甲は、まるで冷え固まる直前の溶岩のように赤黒く脈打っている。 バーニングフォーム。 津上さんが、あの究極の闘争本能に身を委ねた姿。 その角が、憤怒の形を象るかのように鋭く天を衝いていた。
鯨のアンノウンが、微かにたじろいだ。 二体の超越生命体を前に、その冷徹な執行者の計算に、初めて綻びが生じたのだ。 奴の武器、あの長大な槍が、俺と津上さんの間で、どちらを狙うべきか迷うように揺れる。
「…今」
その一瞬の躊躇。 それが、俺にとっては十分すぎる隙だった。 俺は右手の盾と、左手の鎌を持ち上げる。 二つの異なる力が、互いを反発させながらも、一つの「融合」の可能性を探り始める。 地の重圧と、風の冷気。 その二つのエネルギーが、俺の掌の中で渦を巻き、混ざり合い、閃光を放つ。
俺は、右手の盾と左手の鎌を、胸の前で打ち合わせた。
ギィン、と硬質な音が響く。
反発し合う二つの力。地の重圧と、風の冷気。
それらが、俺の掌の中で火花を散らしながら、一つの形を求めて渦を巻き始める。
鎌の柄が、意思を持つ蛇のように伸びていく。
握りを包む感覚は、冷たい鋼のそれだ。
そして、盾が溶解するように刀身へと姿を変える。
青白い冷気の刃と、紫色の重力光が螺旋を描きながら絡み合い、無骨で巨大な片刃の剣を形成していく。
ずしり。
身の丈ほどもある質量が、俺の両腕にのしかかる。
まるで鯨のアンノウンの重圧そのものを、刃に変えたかのような重量感だ。
だが、グラビティの力がそれを支え、フロストの冷気が切っ先を研ぎ澄ませている。
この大剣が、今の俺のすべて。
怖さも、迷いも、憧れも、全部まとめて振り切るための刃だ。