大学の図書館に戻ると、つる子先輩はすでに待っていた。閉館間際の静けさの中、窓際の指定席で開いたノートに何かを書き込んでいる。俺の足音に顔を上げた彼女は、俺の様子を見るなり、眼鏡の奥の赤紫色の瞳を細めた。
「結城くん、おかえりなさい。無事でなによりです。それで、状況は?」
俺は彼女の向かいに腰を下ろし、ついさっきまで起こっていたことを順を追って話した。倒れていた氷川さんと芦原さん、津上さんのバーニングフォーム、そしてトリニティフォームへの変身。そして、消え際にあの鯨のアンノウンが言い放った言葉を、一言一句違えずに伝えた。
「『アギトとは、限りなく進化する者。そして、古の力もまた、進化するのか』……ですか」
つる子先輩は、その言葉を反芻するように小さく呟き、しばらく考え込んだ。彼女の長い三つ編みが、微かな空調の風に揺れている。
「説明なら私にお任せください。これまで集めた情報を整理してみましょう」
彼女はそう言うと、ノートを新しいページに開き、万年筆を手に取った。
「まず、アンノウンが狙う対象についてです。警察の未確認生命体関連の資料や、これまでの襲撃事件の被害者リストを見る限り、彼らは超能力を持つとされる人々、あるいはその血縁者を優先的に狙っている節があります」
「超能力……」
「ええ。例えば、物体を動かしたり、未来を予知したり、人の心を読んだり。学術的には懐疑的な立場を取られることが多い分野ですが、実際にそうした能力を持つ人々が存在し、彼らが狙われている。これは統計的に見ても有意な偏りです」
彼女はそこで顔を上げ、俺の目をまっすぐに見つめた。
「さらに興味深いのは、彼らの外見的特徴です。これまでに確認されたアンノウンの形状を、私が分類してみたところ──」
ノートに描かれたスケッチを俺の方へ向ける。蟷螂、鯨、その他いくつかの形状が、丁寧に分類されていた。
「豹、蛇、亀、蜂……そして今回の蟷螂と鯨。これらは、単なる生物の模倣ではありません。むしろ、古代の神話体系、とりわけ世界各地の『神の使い』や『聖獣』として描かれる存在に酷似しています。例えば、鯨はレヴィアタン、あるいはヨナを飲み込んだ海の怪物。豹や蛇はギリシャ神話のケルベロスやヒュドラの系譜とも解釈できる」
俺は息を呑んだ。神話。確かに、あの鯨のアンノウンから感じたのは、単なる怪物ではない、何か神聖で、それ故に残酷な意思だった。
「そして、あの鯨のアンノウンが言った『進化』という言葉です」
つる子先輩は、ノートの余白に「進化」と書き込み、それを丸で囲んだ。
「彼らが狙う超能力者たち。その能力の正体が何なのか、私、ずっと考えていました。そして今、ひとつの仮説に辿り着きました」
彼女は眼鏡を押し上げ、少しだけ声を潛めた。
「アンノウンが排除しようとしているのは、おそらく『アギトになる可能性を持つ人間』です」
「アギトになる……人間?」
「はい。津上さんがアギトであるように、あるいはあなたがアルタであるように。彼らが狙う超能力は、アギトの力の萌芽、いわば『覚醒前の兆候』なのではないでしょうか。アンノウンは、その力が開花する前に、芽を摘んでいる。そして、あなたや津上さんのように既に覚醒した存在に対しては、排除ではなく『観察』と『理解』に重点を移している。あの鯨のアンノウンが、戦いの最中にあえて『進化』という言葉を使ったのは、そのためだと思います」
つる子先輩はノートを閉じ、静かに言った。
「彼らは、進化を恐れている。あるいは、進化そのものを管理しようとしている。どちらにせよ、結城くん。あなたは今、彼らにとって『観察すべき対象』になったということです」
俺は自分の掌を見下ろした。さっきまで大剣を握っていた手だ。それが今は、ただの大学生の手に戻っている。けれど、あの鯨の複眼に映った俺の姿は、確かに「人間」ではなかった。
「観察対象、か」
俺が呟くと、つる子先輩は静かに頷いた。
「でも、それは同時にチャンスでもあります。彼らが理解しようとしているなら、こちらも理解できる。敵の目的が分かれば、次に取るべき手も見えてきます。知識は集めるだけでは意味がありません。誰かの役に立ててこそです」
そう言って微笑む彼女に、俺は小さく息を吐いた。
「ありがとうございます、先輩。助かります」
「当然です。博覧強記たらんと、日々励んでおりますので」
そう言って胸を張るつる子先輩の姿に、俺は少しだけ肩の力が抜けた。まだ何も解決していない。むしろ、謎は深まった。けれど、一人で抱え込まなくていい。そう思えるだけで、この戦いは少しだけ軽くなる気がした。