一週間が経過していた。
あの港で正体不明のアギトを目撃して以来、俺は講義の合間を縫って街を歩き回り、つる子先輩も独自のルートで情報収集を続けていた。しかし、得られたものは空白ばかりだ。目撃情報はおろか、あのアギトらしき気配すら、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せている。
あの夜、背筋を這い上がった悪寒。あの排他的な殺気は、一朝一夕で忘れられる代物ではなかった。だというのに、ここ数日はあまりにも静かすぎた。日常という毛布に包もってしまえば、あの夜の冷気は現実だったのかと疑いたくなるほどだ。
だが、疑念は疑念として心の底に澱んでいた。つる子先輩もまた、ノートの端に「沈黙は嵐の前兆」と書き記していた。知識欲というよりは、戦友としての警戒心だ。
その日は、夕暮れ時だった。
大学の講義を終え、キャンパスを出て駐輪場へ向かう路地。西空に染み込む朱色が、ビルの谷間へ黒い影を長く落としている。ふと、潮の匂いが鼻先を過ぎたような気がした。いや、匂いではない。
ぞわり。
背筋の皮が震えた。
あの夜の悪寒だ。
消え失せていたはずの、あの忌まわしい感覚が、脳髄を直接撫で回すようにして蘇ってくる。だが、あの時よりももっと生々しく、もっと切迫している。
あれはただの殺気ではない。もっと具体的な、誰かの命を断ち切ろうとする意志だ。しかも、一人や二人ではない。もっと多くの──。
「っ…!」
俺は走り出していた。バイクに跨り、ヘルメットを抱えたままエンジンを唸らせる。理由はわからない。だが、この風向きは見逃せない。感覚は間違いなく、北東。工場地帯の方角から、死の匂いが潮騒のように押し寄せてきている。
アクセルを捻る。スピードメーターが回る。街の風景が、黄昏の残像となって背後に流れていく。
深夜の工場地帯。いつしか街灯の数は減り、錆びた鉄扉と崩れたコンクリートの壁だけが立ち並ぶ荒野へと景色は変わっていた。虚空を切る冷気が、頬を刺す。
俺はバイクを降り、近づけることを選ばなかった。あまりに危険な気配が、本能にブレーキを踏ませる。廃工場の脇、折れ曲がった配管の陰に身を滑り込ませる。
その奥、月光の青い光と、街灯の切れかけたオレンジの光が混ざり合う場所に、それらはいた。
まず目に入ったのは、芦原さんだ。変身したギルスの姿で、片膝をついている。息は荒く、全身の装甲に亀裂が走り、ところどころから火花が散っていた。
彼を見下ろしているのは、黒と深緑の巨躯。あの夜のアギトだ。
芦原さんが、殺される。
そう直感した瞬間、俺の身体は思考よりも先に動いていた。
配管の影を蹴り、廃工場の中心へと躍り出る。
腹部に灼熱の脈動が走る。アマダムの欠片が、俺の意志に呼応して共振を始めた。
恐怖はある。あの悪寒の主が目前にいるのだから。だが、それ以上に、目の前で誰かが沈むのを黙って見過ごすことなど、俺にはできなかった。
「変身ッ!」
叫びと共に、腰にベルトが顕現する。
閃光が闇を切り裂き、俺の肉体を構成し直す。
深海の闇を煮凝らしたような黒の装甲。青白い発光線が全身を駆け巡り、後方へ流れる二本角が形成される。
着地と同時に、俺は地面を蹴った。
水面を切り裂く矢のごとく、俺は黒緑のアギトへと肉薄する。
驚くほどの速さで間合いを詰め、渾身の右拳をその金色の角の横腹へと叩き込んだ。
受けた衝撃を内部へ溜め込み、圧力へと変換するアビスの打撃。
だが。
ギィン!
硬質な音が夜空に弾けた。
俺の拳は、黒緑の装甲に阻かれた。
まるで岩盤に拳を埋めたかのような、凄まじい反作用。奴は、最小限の踏み替えで俺の拳の軌道をずらし、その質量で受け流したのだ。
余波だけで、足元のコンクリートが砕け散る。
奴が、ゆっくりとこちらを向いた。
赤い複眼が、暗闇の中で怪しく燃える。
その眼光に宿ったのは、明白な殺意と、新たな侵入者に対する冷徹な値踏みだった。
奴は、俺のことなど知らない。港で見た時と同じ、排他的な意志の塊だ。
「……お前も、アギトか」
低く、重い声が響いた。
それは断定ではなく、問いかけだった。だが、その響きには、他者を認めない傲慢さと、共鳴者ではなく競争者を排除しようとする執着が滲んでいた。
「アギト…だと?」
俺は体勢を立て直しながら、呟いた。
奴にとっての「アギト」と、俺や津上さんが思う「アギト」は、どうやら別物らしい。だが、今は言葉の定義を議論している場合ではない。
「そうだとしたら、何だって言うんです」
俺は、倒れたままの芦原さんを背に庇うように立ち塞がる。
奴の問いに答えながらも、俺の全身は逃げ出したがる神経をねじ伏せて、次の攻撃に備えて張り詰めていた。