「そうだとして、何だって言うんです」
俺の言葉が終わるか終わらぬかのうちに、奴は動いていた。
稲妻のような踏み込み。床の砂塵が爆発するように舞い上がる。謎のアギトの右拳が、重い鉄槌のような唸りを上げて俺の顔面へと迫った。
速い。そして、重い。
俺は反射的に腕を交差させ、その拳を正面から受け止めた。刹那、全身を凄まじい衝撃が貫く。まるでトラックに轢かれたかのような圧迫感。まともに食らえば、ただの拳一つで変身解除に追い込まれるほどの威力だ。
「ぐっ…!」
受けた衝撃を全身の装甲へと分散させ、水底の圧力のように溜め込んでいく。足元のコンクリートが蜘蛛の巣状に砕け散るが、俺の姿勢は崩れない。
奴は拳を引くと、今度は左の蹴りを放ってきた。横腹を狙った、低い軌道の前蹴りだ。俺はこれも、腕を盾にして受け止める。再び衝撃が走り、溜め込まれた圧力がさらに増していく。
流れるような連撃だった。右ストレート、左フック、膝蹴り、肘打ち。謎のアギトの攻撃は、無駄が一切ない。まるで精密機械のように、最短距離で、最大の破壊力を叩き込んでくる。武器を使わないのは、奴にとっては自分の身体こそが最も信頼できる武器だからだ。
一発一発が、致命傷を狙っている。
俺はひたすらに防御に徹した。アビスの衝撃分散で致命点を外し、受けた力を溜め込んでいく。奴の拳が胸板を打つたびに、俺の内部により高圧の力が蓄えられていく。痛みはある。だが、恐怖はなかった。今はまだ、耐える時だ。
ガードの上からも、奴の攻撃は重かった。だが、その攻撃の中で、俺は一つの違和感に気づき始めていた。こいつは、自分の肉体を完全に理解している。筋肉の一本一本、関節の可動域、重心の移動。すべてを計算し尽くした上で、最適解の動きだけを選び取っている。
これは単なる戦闘技術ではない。もっと根本的な、肉体的な成熟だ。
俺は謎のアギトの右ストレートを腕で受け流し、一歩後退する。拳を打ち込み、すぐに次を放とうとする奴の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。俺が未だに倒れないことを、不審に思っているのか。
「…なぜ、倒れん」
低い声が漏れる。
答えず、俺は構えを解かない。溜め込んだ衝撃は、まだ解放しない。今はまだ、こいつの攻撃パターンを完全に読み切るまでは、耐える時だ。芦原さんの呼吸は聞こえる。彼が生きている限り、俺のやるべきことは決まっている。
「なぜ、倒れん」
謎のアギトの低い問いかけが、夜気に溶ける。
答える言葉を持たない。ただ、俺の膝は微かに震えていた。
アビスの衝撃吸収も、限界に近い。これ以上、奴の重拳を受け続ければ、溜め込んだ圧力が俺自身の装甲を内側から粉砕する。芦原さんの呼吸は背後で荒いまま。もう、時間はない。
受けるだけでは、勝てない。
退くだけでは、誰も守れない。
俺は、腹の底に沈んだ意志に手を伸ばした。
今の姿では、奴の肉体に届かない。ならば、さらに重く、さらに鋭く、3つの力を混ぜ合わせるしかない。
俺は、構えた両腕をゆっくりと広げた。
その動きに合わせて、中央の石が激しく明滅を始める。
心臓の鼓動が、異常なリズムへと加速していく。
骨の髄まで軋み、細胞が焼け付くような熱を帯びる。
だが、それは恐怖の疼きではない。生きようとする、逆襲の熱だ。
地の熱。足元から這い上がる蛋白石のマグマ。
風の冷気。肺を満たす天河石の嵐。
水の脈動。血管を巡る藍玉の深流。
それらが、俺の中心で激しく交差し、混ざり合い、一つの渦となって輝きを増す。
変身の衝動が、閃光となって夜闇を灼く。
閃光が、俺の躯を包み込んだ。
右肩に地の装甲が、左肩に風の刃が、胸に水の紋章が刻み込まれる。
関節の一本一本が、より重く、強靭な骨格へと再構築されていく。
有機的な黒の装甲が、3色の光脈を伴って析出した。
ずしり、と質量が変わった。
さっきまでの軽やかな水の鎧ではない。
大地を押し潰す重圧と、風を切り裂く刃と、深海を飲み込む波動が、一身に宿った重みだ。
「…今度は、こちらから行きます」
俺は、低く呟いた。
その声は、自分のものとは思えないほど、深く鋭く響いた。
謎のアギトが、反応した。
僅かにその赤い複眼が揺らぐ。俺の放つ波動が、先程のアビスとは別物であると悟ったのだ。
奴は再び、最短距離から右の刺突を放ってきた。
速い。だが、もう迷いはない。
俺は、右腕を振るった。
地の重圧が、腕に集中する。
奴の拳が俺の掌に触れる刹那、重力の渦がその軌道を歪めた。
泥濘に沈むかのように、奴の拳が鈍る。
そこへ、俺は踏み込んだ。
カウンターだ。
左肩の風の刃が唸りを上げ、俺の左拳に冷気の切っ先を集中させる。
水の流動が、その一撃に破壊の旋回を与える。
「はあッ!」
短い気合一閃。
俺の左拳が、謎のアギトの胸板へと叩き込まれた。
ガギィンッ!
鈍く、重い金属音が、廃工場に響き渡る。
奴の巨体が、初めて大きく後退した。
足元の砂利が削り取られ、夜風に舞う。
当たった。
俺の拳が、奴の装甲を捉えた。
だが、奴は倒れない。その赤い複眼に、歪な驚愕と、より強烈な敵意が混ざり合って燃え上がる。
「…貴様も、アギトか」
先程とは違う、粘着くような声で、奴は唸った。
俺は、鎧の奥で早鐘を打つ自分の心臓を感じながら、構えを解かない。
「アギトかどうかは、自分でも分かりません。でも、あんたがここで誰かを殺すのは、止めます」
俺は、前に出た。
反撃の、兆しだ。