つる子先輩の「選民思想」という言葉が、重く胸に沈んでいた。
自分だけが正しく、他者は排除する。そんな独善が、いつかこの街を焼き尽くす。その未来が、容易に想像できてしまうのが恐ろしい。
俺は冷めてしまった缶コーヒーを握りしめ、どうすればあのアギトを止められるかと思考を巡らせていた。
その時だ。
ぞくり。
背筋を氷の刃が滑り落ちたような悪寒。
間違いない。あの気配だ。
公園の静寂が、一瞬にして張り詰めた緊張へと変わる。
遠い。まだ距離はあるが、その殺意は鋭角にこちらへ向かって突き刺さってくる。
あのアギトが、動いている。それも、先ほどのような防衛ではなく、もっと能動的な、狩りのための動きだ。
「…先輩」
俺が顔を上げると、つる子先輩もまた、街の明かりの方角へ目を凝らしていた。彼女は俺と違い、気配を感じ取る能力などないはずだ。それでも、俺の表情や空気の変化から、事態を即座に理解したのだろう。
「行ってください、結城くん」
彼女は迷いなく言った。ノートを閉じ鞄へとしまう動作に、一切の躊躇がない。
「あの気配なのでしょう? 今度こそ、誰かが傷つけられる前に」
「でも、先輩を一人にするのは…」
「私は大丈夫です。博覧強記の知恵を使って、ここから一番安全な避難経路を計算しますから。それに──」
彼女は俺の目を真っ直ぐに見据え、静かに言った。
「あなたが行かなければ、その先に誰かが沈むことになる。そうでしょう?」
その言葉に、俺は頷くしかなかった。
彼女は、俺の弱さも、怖さも、そして立ち上がる理由も、誰よりも理解している。
「すぐに戻ります」
俺はベンチを蹴り、駐輪場へと走った。
バイクに跨り、キーを回す。
エンジンの咆哮が、夜の静寂を切り裂く。
ヘルメットを被る間も惜しく、俺はアクセルを全開にした。
夜風が頬を叩く。
街灯の光が、後方へと猛烈な速さで流れていく。
案内するのは、あの歪な殺意の気配だけだ。
信号を無視し、車列を縫うようにして走り抜ける。
焦燥が、胸を焦がす。
間に合ってくれ。間に合ってくれ。
あのアギトが、自分以外のアギトを殺そうとしているのなら。あるいは、アギトになりうる人間を狩ろうとしているのなら。
その標的になるのは、津上さんか、芦原さんか、あるいは氷川さんか。
バイクのハンドルを握る手が、白くなるほど強く握りしめられていた。
やがて景色が開け、錆びた鉄とコンクリートの無機質な世界が姿を現す。
廃工場だ。
先ほど戦った場所とも、港とも違う。もっと奥まった、街の境界線のような場所。
そこから立ち上るのは、対峙した時と同じ、あの圧倒的なプレッシャーだった。
俺はバイクから飛び降り、ヘルメットを放り出した。
心臓が、早鐘を打っている。
でも、迷っている場合じゃない。
俺は、腹の底に眠る深淵へ手を伸ばした。
「変身ッ!」
叫びと共に、閃光が闇を灼く。
重圧と冷気と波動が、一身に漲る。
俺は廃工場の闇へと踏み込んだ。