翌日、俺はつる子先輩と大学の食堂で向かい合っていた。
昼の混雑を避けた隅の席で、つる子先輩は以前より積み上げた資料の山をテーブルに広べている。
「津上さんの記憶の手がかり、ですか」
彼女は俺の話を聞き終えると、眼鏡の奥の瞳を細めた。
「はい。あのアギトの声に聞き覚えがあると。記憶を失う前の、誰かの声だと」
「なるほど…。津上さんの記憶喪失は、彼の過去を辿る上で最大の障壁ですね。でも、もし声が手がかりになるなら」
つる子先輩はノートパソコンを開き、キーを叩き始めた。
「私のほうで集めている未確認生命体関連の資料の中に、津上さんに関する記述がいくつかあります。あかつき号事件の生存者、そしてその後の経過を追った記録が」
「あかつき号…」
「ええ。津上さんはあかつき号の事件に巻き込まれた一人です。その事件の生存者の中に、何か接点があるかもしれません」
彼女は画面をスクロールしながら、いくつかの名前を指差した。
「生存者は数名います。その中で、事件後に目立った動きをしている人物が一人…」
その時、俺の携帯が震えた。氷川さんからのメールだ。
「結城さん、少し相談があるのですが、来てもらえませんか。警察署の資料室で」
俺はつる子先輩に画面を見せた。
「氷川さんからです。何か気になることがあるのかもしれません」
「行ってください。私はこの生存者リストを整理しておきます。博覧強記の腕の見せ所です」
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警察署の資料室は、冷房の効いた無機質な空間だった。
氷川さんは資料の山に埋もれるようにして座っていた。その顔には疲労の色が濃い。
「結城さん、来てくれてありがとうございます。実は、あの未確認生命体の件で気になることがありまして」
氷川さんは声を潛めた。彼は俺や津上さんが変身する姿を知らない。いや、知らないはずだ。俺はそれを忘れないように、常に意識の端に置いている。
「G3-Xでの戦闘記録を分析していたのですが、あの黒いアギトと呼ばれる存在の戦闘パターンに、ある特徴的な痕跡が見つかったんです」
「痕跡、ですか」
「えぇ。戦闘の際、あの個体は明らかに救護活動の経験があるような動きをするんです。攻撃の角度や、相手の急所を外す精度が、元医療従事者に近い。小沢さんも同じ見解です」
氷川さんは一枚の印刷物を取り出した。
「そこで、過去の医療事故や免許剥奪の記録を洗ってみました。すると」
彼が差し出した資料には、一人の男の顔写真が載っていた。黒髪を中央で分け、鋭い目つきをした壮年の男。名前は──
「木野薫。元医師。数年前に医師免許を剥奪されています」
「木野…薫…」
俺はその名前を口の中で転がした。聞いたことががあるような、ないような。だが、つる子先輩のリストにあった生存者の一人。そして、氷川さんのデータにある医療従事者の痕跡。
「氷川さん、この人物と津上さんの接点は何か分かりますか」
「それが、ここからが奇妙なんです」
氷川さんは資料をめくった。
「木野薫も、あかつき号の生存者の一人なんです。津上翔一と同じ船に乗っていた」
俺の背筋に、冷たいものが走った。
あかつき号。津上さんの記憶を奪った事件。その生存者。同じ船に乗っていた人物が、今、あの黒緑のアギトとして暴れている。
「氷川さん、この木野薫という人物、今どこに…」
「行方は分かりません。免許剥奪後、住居を転々としているらしいです。闇医者として活動していた形跡もあります」
闇医者。人を救うために、正当な手段を捨てた男。
「ありがとう御座います、氷川さん。参考になります」
「いや、僕もG3-Xの運用として、あの個体を放置するわけにはいかないので。何か分かったら教えてください」
俺は警察署を出て、すぐに携帯を取り出した。つる子先輩に電話をかける。
「先輩。木野薫。あかつき号の生存者で、元医師。今は闇医者をしているらしいです」
「…なるほど。やはり、繋がりましたね」
つる子先輩の声が低くなる。
「結城くん。私は今、木野薫の経歴を更に掘っていました。彼には弟がいたんです」
「弟?」
「ええ。木野雅人。数年前に雪山で遭難し、死亡している。その時、木野薫も一緒だった。弟を救えなかった木野薫は、凍傷で右腕を失い…」
「右腕を?」
「はい。弟の右腕を移植された、と。そこから先の記録は途絶えていますが…」
俺は廃工場で見たアナザーアギトの姿を思い出した。黒の手袋をした右腕。あの時、奴が自分の腕を抱えて苦痛に耐えていた姿。外部からのダメージだけではない、内側から何かが侵食しているような苦痛。
「先輩、あのアギトが最後に見せた苦痛…あれは、力の暴走かもしれないんです」
「力の暴走?」
「アギトの力が、持ち主の肉体を侵食している可能性があります。木野薫はアギトに覚醒したけれど、その力を制御しきれていない。だから、自分以外のアギトを排除しようとする。自分が唯一の存在であれば、暴走する必要がないから」
「…なるほど。選民思想の根底には、自身の崩壊への恐怖があったわけですか」
つる子先輩の声が、哀れむように静かになった。
「救いたかったのは、誰かではなく、自分自身の崩壊を止めること。そのために、他者を犠牲にする。これもまた、一つの進化の形なのでしょうか」
俺は握りしめた携帯の向こうで、自分の掌を見下ろした。この手に宿った力も、いつか俺を侵食する日が来るのだろうか。津上さんの記憶を奪った力が、木野薫の肉体を蝕む力が、俺にも同じものを刻み込んでいくのか。
「先輩。俺、津上さんに伝えます。木野薫のことを」
「ええ、伝えてください。でも結城くん、気をつけて」
「はい」
「力に呑まれる恐怖は、あなたも同じはずです。一人で抱え込まないで、約束してください」
「…約束します」
俺は電話を切り、空を見上げた。秋の空は高く澄んでいるのに、どこか遠くの雲が不穏な色を帯びて見えた。
木野薫。弟を失い、右腕を失い、それでもなお人を救おうとして、やがて力に呑まれた男。
その男が、今、津上さんの過去から目覚め、現在を破壊しに来ている。
俺はバイクに跨り、津上さんの居場所へと走り出した。伝えなければならない。過去の亡霊が、もう目の前にまで来ていることを。