あかつき号の乗員名簿に赤い線が引かれてから三日が経った。
つる子先輩のアパートを訪れると、彼女はいつも以上に深刻な面持ちでパソコンに向かっていた。机の上には航海日誌のコピーと思しき書類と、気象庁の公開データを印刷したものが散乱している。付箋だらけの資料の山は、もはや一つの小型要塞のように見えた。
「先輩、また徹夜ですか」
「ああ、結城くん。いらっしゃい。いえ、徹夜ではありません。ただ、朝が来るのが少し遅かっただけです」
彼女は疲れを隠すように微笑んだが、その目の下には濃い隈が刻まれていた。手元のコーヒーカップは空で、代わりに栄養剤の空き瓶が二本転がっている。
「あかつき号の事件的な部分について、更に掘り下げてみました」
彼女はそう言って、一枚の印刷物を俺に差し出した。そこには、事件当日の気象記録が記されていた。
「当日、あの海域では異常な現象が記録されています。局地的な磁気異常と、目撃証言によると空から降り注いだとされる強い光。一般的には隕石の落下と解釈されていますが…」
「隕石、ですか」
「ええ。ですが、私はそうは考えません。なぜなら、その光が降り注いだ直後から、乗員乗客に異常が現れ始めているからです。隕石の衝突では、人体への影響が即座に現れることはありません。放射線ならば別ですが、当時の周辺海域の放射線量は正常でした」
彼女は次に、事件当時の乗員の証言記録を開いた。
「ここで注目すべきは、生存者の証言の中に共通して現れるあるキーワードです」
「キーワード…」
「『光』です」
つる子先輩は万年筆でその文字をノートに大きく書き記した。
「乗員の多くが、降り注いだ光に触れた直後、身体に異変を感じたと証言しています。熱、疼き、あるいは何かが混ざり合うような感覚。そして、その感覚を覚えた者の中から、後に超能力が発現している」
「超能力が…あの光から?」
「はい。光が人を変えた。あるいは、光が人の可能性の種を強制的に芽吹かせた。アギトの力の起源は、そこにあるのではないかと」
つる子先輩はそこで言葉を区切り、声を一段低くした。
「そして、その光の出所についてですが…」
彼女はパソコンの画面を俺に向けた。海外の論文サイトのようなものが開かれている。英語の文字列が並ぶ中、つる子先輩が翻訳しながら読み上げた。
「『高次元からの干渉』。これは、ある超常現象研究者が提唱した仮説です。人類の進化を促す何らかの意志が、高次元から我々に干渉している。その干渉の媒体が『光』であると」
「高次元からの…意志」
俺はその言葉の重さに息が詰まった。アンノウンが人間を狩るのも、アギトが進化するのも、すべてその背後には何か大きな意志があるということか。
「仮にこの仮説が正しいとすれば、アンノウンを率いる存在は、その『光の力』に対抗する何か、あるいはその進化を止めようとする何かだということになります」
つる子先輩はノートを閉じ、俺の目を真っ直ぐに見た。
「ここから先は、非常に危険な領域です。アンノウンの上位存在、特にあの鯨の個体を率いる何者かが、この情報に行き着けば、私たちがその計画の核心に触れたと判断するでしょう。そうなれば…」
「私が標的に、なる…」
彼女の声が震えた。つる子先輩は震えを隠そうとしたが、手元の万年筆がカチカチと小さな音を立てていた。知識は彼女の武器だ。だが、その武器が敵の核に近づきすぎた時、物理的な脅威となって跳ね返ってくる。彼女はそれを理解している。だからこそ、震えているのだ。
「先輩、もう止めましょう」
俺は思わず言った。
「これ以上は危険すぎます。先輩が狙われたら俺は…」
「結城くん」
彼女は静かに、しかし強い声で俺を遮った。
「知識は集めるだけでは意味がありません。誰かの役に立ててこそです。もし私がここで手を止めれば、誰がこの真実を知るのですか。津上さんも、芦原さんも、あなたも、自分たちが何者なのか、なぜ戦わなければならないのか、その答えを見つけられないまま戦い続けることになります」
「でも…」
「怖いです。正直に言えば、とても怖いです。でも、知ることを止めることはできません。それが私の戦い方ですから」
彼女はそう言って微笑んだ。その微笑みは、以前より少し大人びて見えた。
俺は拳を握りしめた。守るべき対象が広がる。津上さん、芦原さん、そして今、つる子先輩と彼女が持つ「情報」そのもの。物理的な暴力から人を守ることと、情報という目に見えないものを守ること。後者の方が、遥かに難しい。
「分かりました。でも一つだけ約束してください」
「何ですか?」
「調査を続けるのは構わないけど、俺がいない時に一人でここを開けないでください。それと、何か異変を感じたら、すぐに連絡してください。すぐに飛んできますから」
「…分かりました。不束者ですが、よろしくお願いします」
彼女は小さく頷いた。その横顔は、窓の外の夜空と同じくらい静かで、それでいて星の数ほどの決意を秘めていた。
俺はアパートを出て、夜の路上に立った。潮の匂いが遠くから漂ってくる。あかつき号が進んだ海と同じ海の匂いだ。
「光の力」。それが何なのか、俺にはまだ分からない。だが、一つだけ分かることがある。つる子先輩が掘り出したこの情報を、敵に渡すわけにはいかない。それがたとえ、俺自身の正体に近づくことになるとしても。
俺はバイクに跨り、エンジンをかけた。守るべきものが増えた。その事実は重い。だが、それを重いと感じるうちは、まだ人間でいられるのだと思う。