日食が進んでいく。
俺の内側で、太陽が欠け始めた。
最初は右肩だった。地の重圧、蛋白石の熱が、影に食い込まれて薄れていく。まるで夕暮れの光が水平線の下へ沈むように。ぬくもりが遠ざかる。足元の大地の感覚が、砂に埋もれるように消えた。
次に左肩。風の冷気が止んだ。天河石の嵐が静まり、肺を満たしていた鋭い空気が、濁った水へと変わっていく。息が重い。吸っているのに、何も入ってこない。
最後に胸。水の脈動が、深海の底へと沈んでいく。藍玉の波紋が遠くなり、やがて聞こえなくなった。
三つの光が消えた。
残ったのは、闇だけだ。
アマダムの欠片が、その闇の中で唯一の光源として脈打っている。銀色。いや、もう銀色ではない。この闇の中で、它だけが、太陽の残像のように、白く、白く、燃えている。
怖い。
いや、怖いはずだ。
怖いのだ。
……怖い?
何かがおかしい。
俺は恐怖を感じているはずなのに、その恐怖の輪郭が溶けていく。水彩画に水が滴ったように、感情の境界線が滲んで、混ざって、消えていく。
怒りも。焦りも。憧れも。全部、闇の中へ沈んでいく。
残るのは、ただ、立ち上がることだけ。
日食の中心。光と闇が完全に重なったその場所で、俺は目を開けた。
――変身完了。
音はなかった。
だが、俺の全身を包んでいたトリニティの鎧が、音もなく崩れ落ちた。三色の光脈が一斉に消滅し、装甲の隙間から溢れていた光が、 candle が吹き消されるように、ふっと消えた。
残った装甲が、均一な漆黒へと沈み込んでいく。
鏡面のような黒。光を反射せず、光を飲み込む黒。トリニティフォームの三色が混ざり合った果てに、すべての色が均されて生まれた、絶対的な闇色。
頭部の六本角が、きしむ音を立てて一つへと統合された。まるで六本の枝が折れ重なり、一本の幹へと戻るように。額の中央に、細く鋭い一本の角が突き立つ。それは、かつて俺が憧れたあの背中の角とは違う。もっと細く、もっと暗く、まるで闇の中に浮かぶ三日月のような孤高の角。
複眼が、変わった。
深い青。深海の底のような青が、金色の光輪で縁取られる。二重構造。青い海の底から金色の太陽を覗き込むような、矛盾した色彩。
視界が変わっていた。
今まで見えていた世界と、何かが違う。色が褪せている。瓦礫のコンクリートも、錆びた鉄骨も、夜空の星も、すべてが白黒の階調へと変換されていく。ただ、エルの銀色の巨体だけが、異様な輝きを持って視界に浮かび上がっていた。
周囲が、静止した。
風が止んだ。波の音が消えた。遠くで鳴っていたサイレンも、虫の声も、俺自身の心臓の音さえも。すべての音が、一瞬だけ、世界から削り取られた。
津上さんの拳が、空中で止まった。彼が振り上げた右足が、地面に触れることなく静止している。芦原さんが瓦礫から身を起こしかけた姿勢のまま、動かない。氷川さんのG3-Xが、構えたままの状態で石化したように固まっている。アナザーアギトでさえ、赤い複眼を俺の方へ向けたまま、微動だにしない。
静寂。
完全な静寂。
その中で、ただ一人、俺だけが立っている。
……あれ、俺。
俺は、立っている。いつ立ったのか。立ち上がる意志を感じた記憶がない。ただ、身体が勝手に垂直を保った。重力が、俺を地面へ引こうとする力を感じない。この漆黒の鎧が、重力そのものを飲み込んでいるかのように。
エルが、動いた。
鯨の巨体が、ゆっくりと、俺へと向き直る。その動作は、これまでのどんな時よりも慎重で、これまでのどんな時よりも深い構えを取っていた。
「……顕現したか」
エルの声だけが、静止した世界に響いた。
「古の力と光の力の融合体。人であることを止めた者か」
人であることを、止めた。
その言葉が、どこか遠いところから聞こえた。怖いはずなのに、怖いという感情が、指の間から砂のように落ちていく。
俺は、自分の掌を見た。
漆黒の手。隙間から光が漏れない。熱も冷気も感じない。ただ、掌がある。そこに、力がある。
守らなきゃ。そう思ったはずだった。でも、その「守らなきゃ」という言葉の熱が、既に冷めている。
俺は、ただ、目の前のエルを見ていた。
細い角の先が、夜空を突いている。複眼の青と金が、闇の中で静かに燃えている。
日食は、終わった。
光は消え、闇が残った。
その闇の中に、俺は立っている。
ざざ、ざざ、と。
世界が水の底に沈んでいる。いや俺の耳が、音を拾いすぎている。遠くの波音。瓦礫の隙間を抜ける風。誰かの呼吸。戦場のすべての音が水を伝わるように入ってくる。
エルが右手を振り上げた。
俺はそれを見ていた。自分から動こうとしない。動かないのではない。動かない。
身体が勝手に動いた。
ざあっ、と激流が押し寄せる。透明な水の壁が見えない重さを伴って真っ直ぐに。
俺の右腕が、いつの間にか前へ出ている。
流れが俺の掌に触れる。その瞬間、身体の中の何かが同時に三つのことを始めた。
水中に投げ込まれた石のように、波紋が広がる。
激流が俺の右腕を伝って肩へ胸へ、背中へ、強引に押し込まれてくる圧力。その圧力が装甲の表面で細かく砕けていく。一つの力が全身に分散されていく感覚。あの深い水底で味わった水圧が、今度は俺を押し潰す前に霧散していく。
大津波は一滴の雫になる。
その水滴すらも、俺の掌から熱を奪って凍っていく。いや凍っているのは水じゃない。エルと俺の接触点。そこに流れていたはずの感覚そのものが、細い氷の針のように折れて消えている。触れているのに触れられている感覚がない。エルの右腕が、俺の右腕に触れたまま数瞬の間、世界から感覚を失った。
そして、重力。
地面が、俺の足元で深く沈み込んだ。いや違う。沈み込んでいるのは、空気だ。俺の周囲の大気が現代を失った水のように重く落ちて、エルへとのしかかる。
三つの水。再分散と、感覚の糸の切断と流れの堰き止め。
すべてが同時に起きていた。俺が何かをした記憶はない。ただ世界が俺の意図なしに防御を組み立てている。まるで、この黒い鎧が連れてきた深い水底で、敵の流れを別の川に変えている。
当たっている。エルの攻撃は確かに俺を打っていた。だが、効くはずの一撃がその都度、意味を失って地面へ流れていく。
「何をしておる」
エルの声が低く歪んだ。
「当たっておる。我の水が、そなたを砕いておる。それでなぜ、立っておる」
立っている。
その言葉を、俺は他人事のように聞いていた。立ちたいと思っていないのに立っている。膝が折れないのは、折る理由が消えたからではないか。
戦いたい。勝ちたい。違う。怒りは? あの冷たい鯨を、芦原さんを、仲間を守りたいとか、そういう気持ちは?
心の底に手を入れようとして、掴むものがない。水を掬うように空へ伸ばして指の隙間から、何かだった残骸が逃げていく。
ざん、と、エルが踏み込んだ。
次の瞬間、銀色の巨体が目で追えない速度で俺の左側に回り込んでいた。先ほどまでの水の攻撃と違い、直接の質量。巨大な右腕が肘から指先までを鞭のようにしならせて俺の側頭部を狙う。
俺の左肩が、勝手に動いた。
右腕で触れ、衝撃を分散し左手で返し、感覚を十分に殺し両足でいつの間にか地を掴み直し、相手の重心をじわりと重くしていく。
ごしゃ、と空気が砕ける音がしてエルの腕が空を切っていた。
防げた。いや、勝手に防いでいる。
「鬱陶しい、泥人形めが」
エルの声に、明らかな苛立ちが宿る。
泥人形。
そうか、今の俺はそう見えているのか。喋らない。痛がらない。攻めてこない。ただエルの力が何度降りかかっても、水に石を投げ続けるように波紋を残して沈まない。
…わからない。
それが、人としての最後の感覚だったかもしれない。溢れるはずの感情が溢れない。周囲を見ても、視界の端で津上さんが瓦礫と瓦礫の間から身を起こす。芦原さんが汚れた腕を動かす。それを見ても、よかったという熱すら砂の上に書いた文字のように崩れている。
仲間が立てないでいる。助けに行かなきゃいけない。それは知識として浮かぶ。だが「そうだ、急がなければ」が来ない。助走が来ないのだ。気持ちが。
「…なあ」 声が、自分の口から出た。 「俺、今、全然怖くないんだ」
エルの眼がぎらついた。伝わったのか。それとも、独り言にすぎないのか。
俺は防戦一方で立っている。防いでいる。ただ流れるように、壊されずに、攻められ続けている。
心の中で、吐きそうになる。吐けない。それさえも冷たい泡のような違和感になって消える。
こんな力、沈むより、沈め。陽の光が全く見えない。
耐えるたびに、身体は強く動くのに俺という感じは確実に薄くなっていく。これが、日食の続きであるのだとしたら上書きされた空は、まだ昼に戻らないのだ。
エルの一撃が、また重く、激化して降ってくる。
水音が、風のようになり土を巻き、鉄骨を錆びへ帰す勢いで溢れ続ける。
俺は、まだ動ける。でも、あとどれだけこのまま人でいられるか、わからないまま。