エルの周囲で海が鳴った。
物理的な水ではない。空気がねじれ、重力が歪み、視界そのものが濁流へと変わっていく。あの鯨の巨体が、これまでの比ではない密度の水を、その両掌に集約し始めていた。
最大級だ。あれが放たれれば、この廃倉庫群ごと水底へ沈む。
防がなきゃ。
そう思うはずなのに、思考は静かな水面に浮かぶ油膜のように、ただ漂っているだけだ。
俺の身体が、止まった。
足元の瓦礫が舞い上がる音も、遠くで津上さんが息を呑む音も、自分の心臓の鼓動さえも、すべてが遠い国の出来事のように遠ざかる。
世界から音が抜け落ちていく。
光も消えた。
エルの放つ青白い輝きも、夜空の星明かりも、俺の視界から色が落ちていく。
日食の最大食。
太陽と月が完全に重なり、世界がただの闇に包まれるあの瞬間。
俺の中で、残っていた最後の感情の欠片たちが、その闇の中へ沈んでいく。
怖さも、怒りも、誰かを守りたいという願いさえも。
すべてが、重なり合って消えていく。
ただ一つ、指先に残っている小さな違和感だけを除いて。
それは多分、仲間の体温だったはずのものだ。
俺はその最後の欠片と、エルが集約しようとしている圧倒的な質量と、この場に満ちる重力を、自分の中心へと引き寄せた。
環になる。
闇の中に、更に濃い闇の輪が浮かぶ。
完成した。
世界が、完全に静止した。
エルの掌から放たれようとしていた激流が、凍りついたように止まっている。
その懐へ。
俺はいた。
移動した覚えはない。ただ、在るべき場所に在った。
目の前には、エルの銀色の胸板。
俺の右拳が、そこへ吸い込まれるように触れた。
ドン。
短く、鈍い音だけが、止まった世界に響いた。
爆発はない。衝撃波もない。
ただ、俺の拳から流れ込んだ環状の闇が、エルの内側で弾けた。
水底で音が消えるように。
エルの力が、内側から崩れ始めた。
銀色の装甲に亀裂が走るのではない。その輪郭そのものが、滲んで溶けていく。
まるで水に溶かされた墨のように、エルの存在がその場から薄れていく。
「…か」
エルが何かを言いかけて、声にならなかった。
俺は拳を引いた。
その瞬間だった。
心臓が、一度だけ強く跳ねた。
ドクン。
感情が、一瞬だけ戻った。
恐怖も、安堵も、達成感もない。
ただ、「戻れた」という感覚だけが、乾いた風のように胸の奥を吹き抜けていった。
失っていたはずの色が、一瞬だけ視界の端で蘇る。
瓦礫の灰色。夜空の藍。エルの銀。
そして、すぐにまた、色は褪せていく。
音が戻ってくる。
波の音。風の音。誰かの荒い息遣い。
俺は、ただそこに立っていた。
エルは、なおも静かに崩壊を続けている。
俺の感情は、また砂のように指の間からこぼれ落ちていく。
でも、あの一瞬の感覚だけは、どこかに残った気がした。
戻れる場所は、まだあるのだと。
潮が引いていく。
俺の拳の先でエルの銀色の巨体が、静かに輪郭を失っていく。
青灰色の装甲は風に巻かれる砂のように、空気に溶けるインクのように形の境界線が曖昧になっていく。無理に抵抗しようとする仕草も、力の名残を振り絞る声もない。ただそこに在った巨大な意味が、夜の海へ還っていくようだった。
エルが、こちらを見た。
あの深海のような複眼は、もう光を失いかけている。その瞳の奥にいくつもの言葉が浮かんでは消えていくのが見えた。子どもの落書きのように判然としない思考の断片。神の意志を代行するという自負。人の進化を止めようとした理由。俺たちを検証するという冷たい目的。そして俺の中に起きた日食という事象への、最後の疑問。
何かを言おうとした。
分厚い唇が、ほんの少しだけ動いた。
だが、その音が空気に触れることはなかった。
銀色の身体が、一息に消えた。
ざあ、と夜風が吹き抜けた。
それは海の香りを運んできた。潮の匂いではなく、もっと深い、海水の底から湧き上がるような塩と闇の香りだ。
あとに残されたのは、静寂だけ。
さっきまで世界を押し潰していた圧倒的な気配は指先からこぼれ落ちる水のように、痕跡もなく消え去っていた。
膝が、笑った。
いや、膝だけじゃない。肩も、背中も首も、身体のあちこちが細かく痙攣している。
ベルトの石が小さく明滅して全身を覆っていた漆黒の装甲が、音もなく分解されていく。
変身が、解けた。
生身に戻った。
夜風が、汗に濡れたシャツを冷やして肌に張り付く。
呼吸が、荒い。
酸素を求めて、肺が勝手に縮んでいる。
心臓の音がうるさい。怖い。あの深海のプレッシャーから解放されたという安堵。生きている。痛い。いろんな感覚が一度に戻ってきて、頭の中で渦を巻く。
だが、何かが、足りない。
言いようのない違和感がある。
紙の端にインクが少しだけ足りないような。あたりまえにあった音が、ほんの少しだけ遠くなっているような。
恐怖はある。怒りもある。だけど、それらの感情が以前よりも薄い膜の向こうにあるように感じる。触れているのに、感触が半減している。ガラス越しに水に手を触れているようなもどかしい距離。
「結城君!」
津上さんの声がした。
振り返る。
津上さんが、崩れた瓦礫を乗り越えてこちらへ走ってくる。その背後では芦原さんが身を起こし、氷川さんのG3-Xがゆっくりと立ち上がろうとしているのが見えた。
「無事か? すごい攻撃だった。あの鯨が、消えて……」
津上さんが俺の前に来て、顔を覗き込む。
「……結城君?」
その声が、急に心配そうな響きに変わった。
ああ、俺の反応が遅いせいか。うん、と返そうとしてうまく声が出ない。
大丈夫、と言おうとしたのにその言葉を構成する熱みたいなものが、胸の底から昇ってこない。
「大丈夫、です」
ようやく出した声は、思ったよりも平たかった。自分でも分かるくらい抑揚がない。
津上さんが、眉をひそめた。彼の茶色い瞳が何かを測るように俺を見つめている。その奥に、かすかな不安が見えた。
何か言いたい。
でも、言える言葉が見つからない。
「……疲れたな。休もう」
津上さんは、そう言って俺の肩に手を置いた。
その重みが、やけに遠い。
彼の手のぬくもりを、骨の奥まで感じられない。
ただ、痛みだけがうっすらと麻痺して残っている。
俺は、自分の手のひらを見下ろした。
月光に照らされた生身の掌。指先が微かに震えている。さっきまでエルを砕いた拳が、今はただの人間の手に戻っている。
この手に、光がなかった時があっただろうか。
そうだ。あの日、川に沈んで四号の背中を見た時俺の手は確かに何かを掴もうとしていた。
あの熱も、今は、ない。
日食は終わった。
空に月と太陽が戻ったように、俺の感情も少しずつ戻りつつある。
けれど、一度飲み込まれた闇の分だけ影が残る。
夜の風が、再び吹いた。
遠くで、波の音だけが止まることなく響いている。