戦いの翌日、夕暮れ時。
大学の講義が終わり、人影のない教室で俺はつる子先輩と向かい合っていた。
「エルが消滅したことで、少なくとも水を司る上位存在の脅威は一時的に去ったと言えます。ですが…」
つる子先輩はノートをめくりながら、少し声を落とした。
「根本的な謎はまだ何も解けていません。アギトの力とは何なのか。あかつき号で何が起きたのか。そして結城くん、あなたの中にあるアマダムの力とアギトの力がなぜ融合したのか」
俺は窓の外を眺めていた。秋の夕陽が校庭を橙色に染めている。平和な風景だ。だが、この手に残った感覚だけは、平和ではなかった。
「俺の中にある力が何なのか、まだ分からないままです。エクリプスフォームになった時、俺は自分が人間じゃなくなったような感覚を覚えました。感情が消えていく感覚。あれが力の代償だとしたら…」
言葉が途切れた。うまく説明できない。恐怖はある。でも、恐怖の質が以前とは変わっている気がする。もっと平坦で、もっと静かな恐怖。
「結城くん…」
つる子先輩が何か言おうとした時だった。
コンコン。
教室のドアが、ノックされた。
俺とつる子先輩は同時に顔を上げた。こんな時間に誰が来るのか。講義は終わっている。施錠されているはずのドアが、ゆっくりと開いた。
入ってきたのは一人の男だった。
三十代前半ほど。黒髪を落ち着いた体裁に整え、白いシャツにグレーのスラックスという質素な服装。背は平均より少し高く、細身の体躯には無駄がない。顔立ちは穏やかだが、その双眸にはどこか遠くを見つめるような、異常な深みがあった。
俺は瞬時に身が引き締まるのを感じた。つる子先輩も椅子から半分腰を浮かせている。
「…どなたですか」
俺はできるだけ平静を装って尋ねた。右手が無意識に腹部へ伸びかける。ベルトは出していないが、変身への備えが身体に刻まれている。
つる子先輩が俺の横に並び、低い声で囁いた。
「結城くん、気配には気をつけて。この方、普通ではありませんわ」
彼女も気づいている。この男からは、アンノウンのような殺気も、アナザーアギトのような排他的な圧力も感じない。だが、別の種類の波動がある。まるで空気そのものが彼の周りだけ密度が違うような、そういう違和感だ。
男は教室の入り口で足を止め、俺たちを静かに見渡した。その視線に敵意はない。だが、観察されているという感覚は否めなかった。あの鯨のアンノウン──エルに見られた時と同じ種類の視線。ただし、冷徹さではなく、どこか哀れむような温かさが混じっている。
「警戒しないでください」
男が口を開いた。声は低く、穏やかだった。
「あなたたちの敵ではありません。話があります。アギトの力について」
俺の背筋に冷たいものが走った。
アギトの力。その言葉を、この男は何の躊躇いもなく口にした。俺がアルタであることも、津上さんがアギトであることも、そしておそらくこの大学でつる子先輩と何を話していたのかも、知っているかのような口ぶりだ。
「名前を名乗ってください」
俺は譲らなかった。
男は、少しだけ目を細めて微笑んだ。それはまるで、遠い昔を思い出すような、寂しげな笑みだった。
「沢木哲也」
その名前を聞いた瞬間、つる子先輩の息を呑む音が聞こえた。
「沢木…哲也…。あかつき号の乗員名簿に、その名前がありました」
つる子先輩の声が微かに震えている。あかつき号。津上さんたちが乗っていた船。すべての始まり。その乗員の中に、この男の名前がある。
「ご存じで速いですね。ええ、私はあかつき号に乗っていました。そして、あの船上で何が起きたのかを知っている数少ない人の一人です」
沢木は、ゆっくりと教室の中へ歩み込んできた。その一歩ごとに、空気が変わるような気がした。風が止み、夕陽の光が少しだけ暗くなったような錯覚。
「あなた方は知りたいはずです。アギトの力とは何なのか。あかつき号で何が起きたのか。そして…」
沢木は、俺の方を向いた。その瞳が、俺の腹の奥を見透かすように向けられる。
「あなたの中にある二つの力がなぜ共存しているのかを」
俺は言葉を失った。
この男は知っている。アマダムの欠片とアギトの力。俺の中で日食のように重なり合った二つの始源の力。それを、この男は知っている。
「すべては、超古代から始まっているのです」
沢木の声が、教室の空気を震わせた。
つる子先輩が、息を止めて万年筆を握りしめている。俺はただ、この男の言葉を待った。
超古代。
その言葉が、夕暮れの教室に重く沈んでいった。