「お、今日の飯は生姜焼きか」
「最近暑くなってきましたからね。スタミナをつけるにはこれが良いと思いまして」
食卓に用意された豚肉の生姜焼きとホカホカの白米を目にして真島が声を上げる。二人は椅子に座ると、早速真島が口を大きく開けて用意された箸で豚肉にかぶりつく。礼儀もへったくれも無い仕草だが、藍はそれに対して特に何も言わず、目の前の料理に対して「いただきます」と両手を合わせてから自身も今日の晩御飯を食べ始めた。
「……ところで、一つお尋ねしたいんですが」
「あん?」
「あそこの筋肉モリモリマッチョマンのお二人はご飯は食べないのでしょうか?」
藍が言ったのは、真島が連れてきた筋骨隆々の男性二人の事だ。サングラスをかけて口を真一文字に結んだ彼らは藍達が座るテーブルから少し離れた所で、両手を後ろに組んだ状態で待機している。真島は自分が連れてきた男達をちらりと一瞥してから、
「あいつらの事は気にすんな。俺が念のために連れてきたようなもんだしな。どうしても気になるって言うなら、あとでバナナかプロテインでもやりゃあ良い」
「そうですか。でしたらプロテインは無いので、帰り際にバナナをお二人に渡しますね」
真島の言葉を大真面目に受け取り、藍はキャベツを口に運びながらそんな事を言う。真島はコップに入った水を飲むと、リビングの一角にふと目を向ける。そこには以前彼がここに来た時には無かった、ある物があった。
「……本当に買ったのか。テレビとブルーレイ」
真島の視線の先には、以前この部屋に来た時には無かった薄型テレビとブルーレイプレイヤーがテレビ台に配置されていた。それを聞いた藍は「ええ」と頷いて、
「あなたと友達からお話を聞いて映画に興味が出てきたので買いました。別に無くても不便は無かったのですが、購入してみると中々便利ですね。天気予報は見れますし、面白い本のニュースとかも知る事ができるので」
「別にそんなんスマホでも見れるだろ」
「僕、ガラケーです」
「……………そうだったな」
真島は一瞬なんとも言えない表情を浮かべた後、テレビ台のブルーレイプレイヤーを再び見ながら、
「で、もう何か映画見たのか?」
「はい、洋画を数本」
「お、何見た?」
「『プレデター』と『コマンドー』」
藍の口から出たのは、やや予想外のラインナップだった。以前真島が勧めた『ガイ・ハード』がアクション映画だったので、それと同じジャンルの映画を見てみたというのは分かるのだが、それにしても藍の容姿からすると中々意外なチョイスである。というよりも、せっかく人が勧めたんだから最初はまず『ガイ・ハード』見ろよと真島は心の中で密かに文句を言った。
そしてさっきの藍の、自分と一緒に来た二人組の男達に対しての言い方も納得がいった。『筋肉モリモリマッチョマン』というあまりにも藍らしくない言葉がどこから来たのか真島は非常に気になったが、あれは『コマンドー』からで間違いない。というか、作中で実際に使われた言葉だし。
「………お前シュワルツェネッガー好きなの?」
「いえ、別にそういうわけじゃないのですが」
「ふーん。まぁいい。どうだった?」
「プレデターは中々面白かったですね。姿が見えない相手からの襲撃というのは僕から見ても緊張感がありましたし。コマンドーも面白かったですが、ツッコミどころもありましたね。終盤の爆破シーンとか、娘さん見つかってないのに派手すぎますよあれ」
「ああ、あれは俺も思った。娘見つかってないのにやりすぎだよなぁあれ」
「次は何を見ますかねぇ。『トップガン』とか、『エイリアン』とか」
「いや『ガイ・ハード』見ろよ」
二人の他愛のない会話の間にも、白米と生姜焼きがどんどん消費されていく。やがて茶碗に盛られた白米と皿に乗っていた生姜焼きが全て消費されると、真島は最後にコップに入った水を飲み干してため息をついた。
「ふぅ、助かったぜ。最近無駄に暑くなってきたし、これから忙しくなるからちょうど良かった」
「お仕事か何かですか?」
「まぁ、仕事と言えば仕事だな」
「どんなお仕事なんですか?」
直後、食事と映画の話で少し穏やかになっていた真島の目がここに来た時と同様の狂気的な光を帯びる。彼は口元に鋭い笑みを浮かべながら、藍に告げた。
「―――この国の背後に潜む奴らを引きずり出すお仕事だよ。今はまだ尻尾を掴めてないが……いずれ必ず、表に無理やり引きずり出してやるさ」
ぐっと右手の拳を強く握りしめる真島の姿を、藍はどこかぼんやりしたような、感情が感じられない目で見つめていた。それから真島はすっと立ち上がると、コートから財布を取り出して中から千円札を三枚取り出しテーブルに置く。
「今日の飯も美味かった。時間があったらまた来るぜ。じゃあな」
「あ、待ってください」
藍はそう言って台所に行ったかと思うと、すぐにあるものを持って戻ってきた。彼が持ってきたのは、黄色のバナナ一房だった。それを見て真島はさっき彼が部下の男達にバナナを渡すと言っていたのを思い出し、少し呆れたような表情を浮かべる。
「おいおい、本当に渡すのかよ」
「いけませんでしたか?」
「……いや、別に良いけどよ」
さっきの自分の発言に対する彼の様子と今の行動といい、本当に食えない少年だと真島は思う。いや、それは路地裏で腹を空かせていた自分をわざわざここまで連れてきて料理を食べさせていた時から、とっくに分かり切っていた事かもしれない。藍は真島が食事を終えるのを待っていた二人の男達の内一人に近寄ると、バナナを差し出して、
「はい、どうぞ。つまらないものですが、良かったら食べてください」
「Thank you」
「いや、受け取るのかよ」
律儀に礼を言いながら受け取る男にツッコミを入れながらも、まぁ別に良いかと流す事にする。どうせ毒とか何かが入っているわけでもないし、実際小腹が空いた時などの栄養補給にバナナは優秀な食べ物である。その時に食べれば良い。
そう思った真島はその後藍に食事の礼を言って、男達と一緒に部屋を出た。そして三人を見送った後、藍はまたもや真島の名前を聞く事を忘れた事にようやく気付くのだった。
DA本部。
本部に設置されている巨大噴水の横を相棒のサクラと、サクラと同じセカンドリコリスのエリカとヒバナの二人と一緒にフキは歩いていた。その際に噴水のすぐ近くに設置されているベンチをちらりと見ると、ベンチではサードリコリス達数名が何やら談笑していた。すると彼女達を見て、サクラがちょっと意外そうな口調で言う。
「なんかサードの奴らの空気、最近明るいっスね。この前まで葬式みたいだったのに」
サクラの言う通り、ついこの前までサードリコリス達の空気はお世辞にも明るいものとは言えなかった。真島達による地下鉄での爆破により多くのサードリコリス達の命が失われ、友人や仲間を失ったサードリコリス達は深い悲しみに包まれた。しかし最近はフキ達が見ている通り、以前のように笑顔が増えてきている。その事自体は喜ばしい事だが、あの暗い雰囲気が意外と早く元に戻りつつあるのはサクラからすると不思議ですらある。するとサクラの疑問に、エリカの横を歩いていたヒバナが答える。
「リエが随分頑張ったみたいだよ? 落ち込んでる子の部屋を訪れて励ましたり、一緒にご飯を食べに行ったり。自分もたくさん仲間が死んじゃってる上にその分の任務を受けたりしてるのに、すごいよね」
「リエって、確かサードの一人っすよね? 以前先輩からもうすぐセカンドに昇格予定だって聞きましたけど……」
サクラがちらりとフキに視線を向けると、彼女は歩きながら意外な言葉を口にした。
「……いや、リエはセカンドには上がらねぇよ」
「え、なんでっスか?」
「私もこの前司令から聞いたんだが、アイツセカンドの昇格を蹴ったらしい」
「蹴ったって……はぁっ!? 断ったって事スか!? 何で!?」
サクラが思わず目を見開いて驚愕の声を上げると、フキはうるせぇよと言いたそうにサクラをキロリと睨んでから説明する。
「この前の地下鉄の爆破の一件で、サードの奴らの雰囲気が悪くなっただろ。リエはサードを取りまとめる委員長みたいな奴だからな。仲間が死んで不安になってるサードをこのままにしておけないって事で、当分の間はセカンドには上がらずにサードのままでいるらしい。その方が、他の奴らと接する時間も作れるからな」
「でも、そんなのよく司令が承諾したっスね?」
リコリス達の司令の楠木は任務に対しては非常に合理的な性格の持ち主だ。そしてリエのやっている事は仲間達の心のケアと言えば聞こえは良いが、キツイ言い方をすればリエのわがままとも取る事ができる。そんなわがままと、あの楠木が認めたという事がサクラにはどうにも信じられなかった。
「確かにそうだが、さっきも言った通り地下鉄の件でサードが大量に死んだせいであいつらの士気がかなり下がった上に、サード全体の戦力も大分落ちたからな。下手をすると、任務そのものにも支障が出るって司令は考えたんじゃねぇか?」
「確かに、サードリコリスの子達が減っちゃうとそれだけ任務にも手が回らなくなっちゃうもんね……」
悪人相手に正面切っての立ち回りをする事もあるフキやサクラ達ファースト・セカンドリコリス達とは違い、サードリコリスの主な任務は悪人達の暗殺だ。それだけ聞くとやや目立たない印象を受けるかもしれないが、現在に至るまで悪人達が人知れずに抹消され、同時にDAやリコリス達の存在が一般人に知られる事無く日本の平和を維持する事が出来たのは、大勢のサードリコリス達の働きがあったからだ。そしてそのサードリコリス達が大量に死亡してしまうと、今まで維持してきた日本の秩序や平和に綻びが生じる可能性がある。楠木もそれを理解しているからこそ、リエのサードリコリスの残留を許可したのだろう。むしろそうでなければ、あの冷徹な一面がある楠木がそれを許可するとはとても思えない。するとサクラは頭の後ろで両手を組みながら、
「それでも、セカンドの昇格を蹴るなんて正直信じられないスね。そのリエってやつ、ファーストになりたくないんスかね?」
「リコリスの全員が全員ファーストになりたいわけじゃねぇだろ。どれだけ頑張っても実力が伴わずにファーストになれない奴らはそれこそごまんといるし、そもそも任務で死んじまう奴らだっている。それにリエの奴も最近の状況がゴタゴタしてるから一時的にセカンドになるのを蹴っただけで、一段落したら改めてセカンドになるだろ。ずっとサードのままってわけじゃない」
「そりゃあそうっスけど……」
しかし信頼する先輩の言葉を聞いても、サクラはまだ納得して無さそうだった。まぁ常日頃からファーストへの昇格を目指すほど上昇志向が強い彼女からすると、いくら仲間のためとはいえセカンドの昇格を断ったリエというサードリコリスの考えがまだ信じられないのだろう。それからフキはサクラからエリカに話の矛先を変えて、
「で、そのリエは今日任務か?」
「うん。朝から出かけてるみたいだよ」
「とは言っても、さっきも言った通り最近のリエ任務で出ずっぱりみたいだけどね。姿も中々見ないし。だけどもすそろそろ任務も終わって帰ってきてるんじゃない?」
「………そうか。サクラ、悪いけど一足先に戻っててくれ」
「え、先輩?」
しかしサクラの言葉に答えず、フキは一人黙って足早にどこかへと去って行ってしまった。相棒であり先輩の後ろ姿を見ながら、サクラはブーと唇を尖らせて、
「……何か先輩、リエってリコリスに甘くないスかね? 自分への接し方と大分違うような気がするんスけど……」
するとサクラの様子を見て、エリカは微笑ましいものを見るような、大してヒバナはニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべ、ヒバナがからかうような口調でサクラに尋ねた。
「サクラ、ヤキモチ焼いてるの?」
「は、はぁっ!? ち、ちっげぇし! ヤキモチなんて焼いてねぇし!」
だが口調とは裏腹に、サクラの顔は少し赤くなっている。とは言っても、自分の相棒であり頼りになる先輩が自分以外のリコリスを必要以上に気にかけている所を見れば、気にならないという方が嘘だろう。慌てるサクラを見ておかしそうに笑うヒバナの横腹をエリカが苦笑しながら肘で軽く小突くと、ヒバナはごめんごめんと謝りながら、
「まぁ、さっきも言った通りリエはサードの子達を取りまとめる委員長みたいな子だからね。なのに弱音とかあまり人に吐かないし。だからフキも言葉には出さないけど心配してるんじゃないかな。あの二人、タイプは違うけど仲間想いって所は同じだしね」
「ふぅん……。二人はリエに会った事あるんスか?」
「うん。すごく真面目で良い子だよ。任務で何回か一緒になった事があるし、リエも本部にいるからたまに話すしね」
「それでいて頭も良いし、任務もきちんとこなすんだからまさに委員長って感じだよねー。サクラ、気をつけなよ? うかうかしてると、フキの相棒の座をかっさらわれるぞー?」
「じょ、上等っスよ! あーしだっていつまでもサードに留まり続ける奴なんかに、負けるつもり無いっスからね!」
だから、いつまでもサードのままでいるわけじゃないってば……とエリカは苦笑し、強がりとも言えるサクラの言葉にヒバナがケラケラと笑い、それを見てサクラが再びうがーっ! と怒る。セカンドの三人組はそんな和やかな雰囲気のまま、サードリコリス達の少女から遠ざかっていく。
―――だから、三人は気付く事が出来なかった。
さっきまで笑いながら会話を交わしていたサードリコリス達が、いつの間にか会話をやめて自分達を見つめていた事を。
その顔には先ほどまで浮かべていたはずの笑みがなく、目はまるで氷のように冷めきっていた事を。
そして―――彼女達だけではなく、物陰などに数人のサードリコリスがまるで姿を隠すように潜め、同じような視線を送っていた事も。
それが何を意味するかは、まだサクラ達は知らない。
リコリス達、そして日本の平和と秩序を陰から守ってきたDAの内部で、彼女達が知る由もない計画が蠢いている事すらも。
三人はまだ、何も知らなかった。
サクラ達と別れたフキは、まるで誰かを捜すかのようにあちこちに視線を巡らせながら、本部の中を歩いていた。すると前方の廊下から、その捜していた人物がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。やがてその人物と自分との距離が大分縮まったタイミングを見計らって、彼女に声をかける。
「リエ」
自分が捜していた人物―――背中まで伸びる赤毛をまとめた少女、河上リエは誰かと通話をしていたようで、スマートフォンを耳に当てながら歩いていた。しかしよほど相手との会話に集中していたのか、顔は軽く俯いており視線は床へと向けられている。しかし自分の名前を呼ぶ声にリエはようやくフキが目の前にいる事に気づいたようで、電話の相手に「ごめん、ちょっと待ってて」と告げてから顔を上げてフキと目を合わせた。
「こんにちわ、フキ先輩。何かご用ですか?」
「いや、用ってわけじゃねぇんだが……。それより、電話邪魔して悪いな。大丈夫か?」
「はい。ちょっとサードの子と世間話してただけですので。……あの事件から少し経ちましたけど、今でもやっぱりショックを受けてる子もいるので……」
あの事件というのは、言わずもがな地下鉄爆破の事件の事である。悪人を人知れず抹消すると共に仲間が死ぬのが日常茶飯事なこの世界だが、その世界で戦うリコリス達も人間だ。自分やサクラのようにさっさと割り切って任務に赴く者もいれば、彼女の通話相手のように仲間の死を割り切れず、長い期間苦しむ人物もいる。フキは「そうか」と呟くように言い、
「………大丈夫なのか?」
「え? ええ、もう大分その子も回復してきましたし、それに今度一緒にご飯を食べに行く約束もしてて……」
「違ぇよ。お前の事だ」
「………私?」
きょとん、とした表情を浮かべるリエをフキは真正面から見据えながら言う。
「司令から聞いたぞ。お前、セカンドへの昇格を蹴ってまでサードの奴らのメンタルケアのような事をしてるんだろ? それに加えて自分の分の任務や、他のサードの奴らの任務のヘルプまでやってる。……サードの奴らの事が心配なのは分かるが、当のお前は休めてんのか?」
大勢のサードリコリス達が死ぬという事はつまり、それだけ任務に出せる人手が少なくなるという事を意味している。無論その穴を埋めるためにリコリス達に戦闘訓練や知識を教え込む養成所から何人かがリコリスになっているものの、そういった人材の実戦に対する経験不足は簡単に補えるものでは無い。結果、セカンドリコリスと同等の実力を持つリエが自身の通常任務に加えてその穴埋めを行う事になっている。あの合理的な楠木がリエのサードへの残留を認めているのも、そういった事情があるからだろう。
リエはフキの顔を驚いたように見つめていたが、やがてふっと笑みを浮かべるとフキに尋ねた。
「心配してくれてるんですか?」
「アホ、穴埋めをしてるお前まで倒れたら意味がないって言ってるだけだ」
「まぁ、そういう事にしておきますね」
クスクスと口元に手を当てておかしそうに笑うリエに、フキはチッと舌打ちするが、その舌打ちが苛立ちや不快感から来るものでないのは彼女の表情や口調からして明らかだ。リエは口元から手を離すと、後ろに両手をやりながら、
「私は大丈夫ですよ、フキ先輩。それより心配なのは、仲間や友達をたくさん失ったサードの子達です」
「…………」
「平和や秩序を人知れず守ると言っても、リコリスだって一人の女の子です。仲間や友達を失えば傷つきますし、悲しみます。それなのにその傷が癒える前に任務に出て殺されるような目に遭うなんて、あんまりでしょう。私も同じリコリスですけど、せめてサードの子達の傷ぐらいはどうにかしたいんです。……まぁ、本当なら任務に出ないのが一番なんですけどね」
「……それが難しい事ぐらい、お前にだって分かってるだろ」
「そうですね。分かってて言いました」
あはは、とリエは再びおかしそうに笑う。その笑顔は間違いなく以前からの彼女のもので、それを見てフキは自分でも知らずにほっと小さく安堵の息をついていた。サードリコリス達に対するメンタルケアだけではなく任務に出ずっぱりの彼女の体調が少し気になっていたが、どうやらそれは杞憂だったようだ。それからリエはスマートフォンを持つ右手を上げて、
「ところで、もうそろそろ良いですか? 大丈夫だと思いますけど、フキ先輩との会話が筒抜けになってるかもしれないとちょっと恥ずかしいですし、何よりこの子も不安になってるかもしれないので……」
「ああ、そうだな。悪いな、引き留めて」
「いいえ、久しぶりにフキ先輩とお話しできて楽しかったです。それじゃあ」
そう言ってリエはフキの横を通り過ぎると、そのまま歩き去ろうとする。その彼女の後ろ姿を見ていたフキの口から、気が付けばこんな言葉が出ていた。
「―――リエ。本当に、大丈夫か? お前の周りで、何か変わった事とか起きてないか?」
その言葉に、ピタリとリエの歩みが止まる。そして振り返った彼女の顔には、いつもと何も変わらない笑顔があった。
「………
わずかな時間。本当にわずかな時間、二人の視線が交錯する。フキはリエの表情を黙って見つめていたが、やがて「……そうか」とだけ呟くと、リエに背中を向けて彼女の前から歩き去って行った。フキの姿が完全に見えなくなるのを確認したリエが自身のスマートフォンを耳に当てると、電話口の相手の声がリエの耳に聞こえてくる。
『誤魔化すのが上手いですね』
「別に大したことじゃないでしょ。大体、こんな時に慌てたりする方が『自分は隠し事をしています』って言っているようなものじゃない。ただ普通に、平常時の自分で相手に接すれば良い」
『世の中には、それができない人間の方が大多数なのですがね』
電話の相手―――以前爆破テロがあった地下鉄で自分に接触してきた人物の声を聞きながら、リエは通路を歩き続ける。すると目の前から顔見知りのサードリコリスの少女が一人歩いてきて、通話中のリエに笑顔で挨拶をしてくる。彼女に微笑と共に右手をひらひらと振り返しながら相手とすれ違うと、再び電話口の相手から声が聞こえてくる。
『それにしても、盗聴妨害の機能が組み込まれているとはいえ、まさかDAの本部でこうして私に電話をするとは。あなたも中々大胆ですね?』
「さっきの会話と同じよ。あたふたしていれば相手に怪しまれるだけ。ならこうして、堂々と通話をしていればかえってバレにくい。DAだってさすがにリコリス一人一人の通話や行動を把握しているわけじゃないでしょうしね。それに仮に怪しまれたとしても、任務達成の後ならある程度の自由時間は確保できる」
『……まさか自分達が飼い慣らしているはずのリコリスが、任務を利用して私のような人間と話していると知れば、DAはどういう顔をするんでしょうかね』
「そんなの知らないわよ」
そう。知った事ではない。―――リコリスという、一人の少女達の死を無かったように扱う組織の事など、知った事ではない。知らずにスマホを握るリエの右手がかすかに強くなると、電話の相手がリエに尋ねる。
『まぁ良いでしょう。それより、そちらの方はどうですか?』
「サードの子達のほとんどは私の言葉を聞いてくれたわ。とは言っても全員が特別私と仲が良いってわけじゃないから、何人かはちょっと無理かもしれないけど」
『結構。最近サードになった養成所上がりの方達は?』
「彼女達も大丈夫よ。みんな私の事を慕ってくれてる」
河上リエは自他共に認めるサードリコリスの委員長的存在だ。そして委員長的存在という事は、養成所からリコリスになった少女達に接する機会も多くなるという事でもある。結果、つい最近リコリスになりたての養成所上がりの少女達もリエに対してかなり心を許すようになっていた。
「それより、そっちの方はどうなの?」
『計画の内容は話せませんが、ほぼ順調といった所です。まだ今すぐ動ける、という段階ではありませんが』
相手の言葉にリエの形の良い眉がピクリと動く。まだ今すぐ動けるわけではないという事は、リコリス達の―――正確にはサードリコリス達の―――状況を変えるというリエ自身の目的がまだ果たせないという事を意味する。そしてその間にも、任務に赴くサードリコリス達は傷つき、最悪の場合命を失ってしまう。そう考えるだけで、必死に自制をしなければ今すぐにでも行動してしまいそうだった。一日千秋の思いで日々の時間を過ごすというのは、まさにこのような事を言うのかもしれない。
「………待ち遠しいわね」
『それは仕方ありません。下手に動けば、DAに気づかれる可能性が高いですから。何しろ、この国の偽りの平和と秩序を昔から守ってきた連中です。容易には動けません。……それより、あなたの方も大丈夫ですか?』
「………?」
通話の相手の言葉にリエは思わず眉をひそめるが、そんな事など当然相手は知らずそのまま会話を続けてくる。
『先ほどの会話、私も聞いていました。このまま計画が順当に進めば、春川フキと真正面から対立する可能性が極めて高いです。例え彼女が相手でも、あなたは引き金を引けるのですか?』
「………つまりあなたは、私が土壇場でためらったり裏切ったりするかもしれないと考えているの?」
『はい。思っています。今はこうして私と会話をしていても、あなたはリコリスですので』
遠慮も何もない相手の言葉に、リエは思わずふっと口元に笑みを浮かべる。まだ付き合ってそんなに時間が長いというわけではないが、直球というか非常に正直な人物だ。妙な関係性ではあるが、相手のこういう所はリエとしては嫌いではない。リエは立ち止まり、壁に背中をつけて一度目を閉じてから再度目を開いて告げる。
「安心して。それは無いわ。例え相手がフキ先輩でも、私はためらわない」
『………相手はあなたと同じリコリスですが』
「正確には違うわ。フキ先輩はファーストリコリス。あの錦木千束と同じ。……あの人は以前同じファーストでも自分と彼女では実力に大きな差があるって言ってたけど、私達からすれば二人共同じ化け物よ。……化け物に足元を歩くアリの気持ちなんて分かるわけがない。
あらん限りの覚悟と感情を込めてリエが言うと、通話の相手はしばらく黙った後『……なるほど』と一言だけ言葉を口にした。
『それを聞いて安心しました。またしばらくは、DA内部での情報収集及びできる限り多くのサードリコリス達の取り込みをお願いします。では、私はこれで失礼します。ああ、分かっているとは思いますがあなた達の司令管に私達とこのスマートフォンの事は気付かれないように』
その言葉を最後にして相手は通話を切り、リエはスマートフォンを耳から離すとふぅとため息をつく。堂々と連絡を取っていれば逆に相手に気づかれにくいとは言え、それでもやはりDAの内部で組織に敵対する人物と話すというのは神経をすり減らす。自分の会話を誰かに聞かれる事に対して人一倍注意しているとはいえ、相手が楠木やフキの場合、一歩間違えればこちらの異常に気付かれる。なので実を言うと、ついさっきフキから話しかけられた際は表面上何事も無い風を装っていたものの、さすがに驚きで心臓の鼓動がほんの少し大きくなってしまった。もしも相手の心音を聞く事ができる、漫画に出てくるような異常聴覚の人間がリエの心音を聞いていたら、彼女がフキの出現に動揺した事が分かってしまっただろう。
しかし苦労の甲斐あって、フキやセカンドリコリス、そして自分とはあまり関りがないサードリコリス達には先ほどの通話相手との会話について知られている様子はない。今は目立つような行動は避け、計画当日まで時が満ちるのを待つ。全ては、サードリコリス達が使い捨てにされる事無く、普通の人達のような当たり前の幸福を享受できるように。
リエはぐっとスマートフォンを握りしめると、その場から離れて巨大噴水がある広間へと向かう。リエが姿を現すと、彼女とよく話すサードリコリスの数人が笑顔を浮かべてリエに駆け寄ってきた。
「リエー! これから一緒にご飯食べに行こうよ!」
「リエリエ! 悪いんだけど今夜勉強に付き合ってくれない!? どうしても分からない問題があってさー」
「リエ。明日任務があるんだけど、それに備えて訓練やろうよ」
サードリコリスの少女達は口々にリエに話しかけて、さらにそれを見た他のサードリコリス達もどこからかやってきては楽しそうにリエに話しかけていく。まるで有名女優を見つけ押しかけてるファン達のような光景であった。一方、リエは彼女達に囲まれて困ったような笑みを浮かべながらも、一人一人の名前を呼びながら丁寧に彼女達の相手をする。
「ちょ、ちょっと待って……。一人ずつ話を聞くからね? えーと、ツバキはご飯ね。私もお腹が空いちゃったし、この後一緒に行こうか。カンナは勉強ね。夜あなたの部屋に行くから、ちょっと待っててね。イブキ、ご飯食べたらすぐに射撃場行くから予約お願いね」
名前を呼んでいくたびに、少女達の顔がぱっと明るくなる。だがベージュ色の服を身に纏った少女達の姿はどんどん数を増していき、その数はサードリコリス達全体の三分の一以上を確実に超えていた。少女達は次々にリエの近くに集まりながら、彼女の名前を呼ぶ。
「リエさん」
「リエっち」
「リエ氏」
「リエぽん」
「リエリエ~」
「リエちゃん」
「リエ」
彼女達に取り囲まれ、彼女達の中心に立ちながら、リエは変わらずに困ったような笑みを浮かべながら少女達の相手をする。リエを取り巻くその全員が、もはやDAよりもリエの命令を優先する兵士になっている事は、楠木はおろかフキすらも知らない。
そして。
河上リエという一人の少女を中心として、彼女のためならば自らの命すらも簡単に投げ出す恐るべき
まだ誰も、知らずにいた。
作中で藍くんが見た『コマンドー』は私も見たのですが、途中で何回かあまりにも有名すぎる台詞や場面が出るので、そのたびに思わず笑ってしまいました。あれ、一応キチンとしたアクション映画なのに……。でも、仕方ないですよね。『筋肉モリモリマッチョマンの変態』だとか聞かされれば誰だって笑いますもん。