突然だが、天竺藍の趣味は読書である。行きつけの喫茶店であるリコリコでは粒あん団子とコーヒーを飲みながら本を読み、自宅でも暇な時は本を読んでいる事からもそれは明白だが、最近はそんな彼の趣味に『映画鑑賞』が加わった。最近知り合った髪の毛がモジャモジャの男性とリコリコの看板娘の一人から『映画を見た事が無いのは人生損してる』と言われた事もあり、わざわざテレビとブルーレイプレイヤーを購入して、暇な時はレンタルもしくは購入した映画を見ているのだ。ちなみに、彼が映画鑑賞を始めた事を知った看板娘の一人はそれを知るなりすごく嬉しそうな笑顔で彼に詰め寄り、
『藍くん家でも映画見てるの!? もう早くそれ言ってよ千束さんお勧めプレゼンツの洋画教えたのにー! あ、ちなみに私的に映画初心者の人へのお勧めはまず「ガイ・ハード」! これはほんっとうにおすすめだから見てみて! え、もう他の人からお勧めされてる!? カーッ! 良いねその人! 話合いそうじゃわー! あ、そうだ折角だし今度お勧めの洋画持ってくるからそれ見て一緒に映画の事について色々話そうよえ色々って何そりゃ色々だよ藍くん映画には人生で大切な事がたくさん詰まってるんだよそれと―――』
と目をキラキラさせて藍におすすめ映画の事や感想について本当に楽しそうに話し続け、結局彼女の話は彼女の相方が冷たい目と口調で制止するまで続く事になった。そんなに映画の話ができる事が嬉しかったのか、と少女の内心を知らない藍はまるで猫のように首根っこを掴まれて店の奥に連行される彼女の後ろ姿を見ながらぼんやり思った。
そして今、藍は自宅のソファにてくつろぎながら、自分で作ったポップコーンを皿に盛り、冷えた炭酸水が入ったコップというある意味完璧な布陣で洋画を見ていた。千束から『映画のお供? そりゃあポップコーンでしょー! キャラメルと塩味どっちも良いけど、千束さん的にはバターソースがかかってるとなお良いね!』とお勧めされた事もあり、ポップコーンはシンプルな塩味、さらにわざわざ手間をかけてバターソースまで自作して映画を見るための布陣を整えたのだ。いつもならば水を飲む藍が炭酸水を飲んでいる事からも、映画を見る際の雰囲気を楽しもうとしているのがよく分かる。
今日の映画のジャンルは恋愛もので、公開された時は世間でとても話題になった作品でもある。藍がポップコーンを掴んでもしゃもしゃと食べ、口内に残った塩分を炭酸水で洗い流しながらテレビ画面を注視する中、映画の場面はいよいよクライマックスへと突入していた。紆余曲折あって離れ離れになっていた主人公の男性とヒロインの女性が互いを抱きしめ合い、どこか壮大な音楽がリビングに響き渡る。シチュエーションとしてはシンプルそのものだが、俳優の演技や音楽の素晴らしさ、さらにロケーションの美しさなどの要素一つ一つが見事にかみ合い、なるほど確かにこれは公開当時話題になるのも頷けると藍は思った。
やがて男性と女性が互いを見つめ合い、二人の唇がゆっくりと近づいていく。そして盛り上がりが最高潮を迎えたその瞬間。
天竺藍は、顎に手を当てながら思いっきり眉をひそめて首を傾げた。
後日、喫茶店『リコリコ』。今日もその場所はゆったりと平和な時間が流れていた。店長のミカはカウンターでコーヒーを淹れ、従業員のミズキはカウンター席で結婚情報誌を食い入るように見つめ、この店に匿われているクルミは常連客達とボードゲームに興じ、看板娘である千束とたきなはリコリコの二階で初めて来店した女性客達を相手に接客中である。常連客の方も、本当に死ぬ気で頑張ったおかげで仕事が一段落し本日はどうにかゆったりモードの漫画家の伊藤と女子大生の北村、そして伊藤とは反対にノートPCの前で難し気な表情を浮かべている作家の米岡といつも通りの面子が揃っている。ちなみに伊藤と北村はクルミを入れて三人でボードゲームに興じていた。
しかし本日のリコリコには一つ、いつもの店内にはない些細だがある意味珍しい一つの違いがあった。カウンターでコーヒーを淹れ、皿に粒あん団子を丁寧に乗せたミカはカウンター席にいる、いつもとは違う様子を見せる人物の前にカップと皿を置いた。
「はい藍くん、おまちどおさま。アイスコーヒーと粒あん団子だ」
「………ありがとうございます」
だが藍はミカに返事をしながらも、顎に手を当ててどこか遠くを見つめているような様子だった。その姿から恐らく何かを考え込んでいるようではあるのだが、彼が何を考えているのかはさすがに分からない。普段はその席でコーヒーや粒あん団子を口にしながら本を読んでいる彼が、店に来てから本を取り出さずずっと何かを考えこんでいる。それはいつものリコリコにはない、些細ではあるけれどいつもとは確かに違う点だった。一方、座敷席でボードゲームに興じていた伊藤はそんな藍の後ろ姿をじっと見ながら、
「なんか、今日の藍くん変ねぇ。いつもだったら本読んでるのに、今日はお店に来てからずっとあんな調子だし」
「何かあったんでしょうかね。 あ、お団子食べた」
伊藤と北村の視線の先で藍がようやく粒あん団子を口に運び咀嚼しているが、その際も何かを考え込んでいるような表情だった。藍がこの店に来てからそれなりに経つが、彼のあんな姿は伊藤も北村も見た事が無い。すると、執筆作業に難航していた米岡が藍の後ろ姿を見てにやりと口元にニヒルな笑みを浮かべた。
「ふ、分かったぞ。ありゃあ女だな」
「何トチ狂った事言ってんの米岡さん。藍くんには千束がいるじゃない」
「千束に半殺しにされるぞ米岡」
「馬鹿な事言ってないで早くネタ出した方が良いですよ米岡さん」
「俺君達にそこまで言われるほど酷い事言ったの!?」
女性三人からの呆れ混じりのツッコミに、米岡が悲鳴じみた叫び声を上げる。ボクシングで例えると三人のボクサーからの一方的なタコ殴りである。普通の人間ならばすでに致命傷に近い連撃だったが、米岡はそれにどうにか耐えると三人に自らの考えを述べる。
「でも、その可能性もあるんじゃないかなぁって俺は思うんだよ。だって藍くんって結構天然な所とかあるけど、あの通り顔とか良いでしょ? もしもの話になるけど、伊藤さんと北村ちゃんが高校生の時に同じクラスに藍くんがいたら女子の間で結構話題になったりするんじゃない?」
「……むぅ」
「確かに、それは……」
米岡の言葉に伊藤は難し気な表情を浮かべながらも満更否定できなさそうな反応を見せ、北村も苦笑しながらではあるが似たようなものだった。実際米岡の言った通り少々天然な所はあるものの藍の少女のような中性的な顔立ちそのものは男女問わず人目を惹くものだし、その天然さもミステリアスな所がある彼のギャップとも言える。二人の反応に米岡は「でしょ?」と言いながら、
「だから俺としては、藍くんのその外見に惹かれた他の女の子とちょっと良い雰囲気になって、それで何か悩み事とかあんのかなぁって思うんだよ。恋愛に悩み事ってやっぱり付き物だし」
「……やけに具体的に言うが、そういうお前は恋愛について実体験があって言ってるのか?」
「………………いや、ない……………」
やけに長い無言の後、心なしか非常に悲し気な口調で米岡が小さく呟いた。そんなんでよく物知り顔で言う事ができるな……とクルミは呆れながらため息をつくが、一方で伊藤と北村の二人は米岡のその説も案外馬鹿にできないと思ったようで、
「でも確かに、藍くんのあの様子だと米岡さんの言った通り恋愛関係って事も考えられるわね……」
「ええ……でも私、藍くんは千束ちゃんとすごく良い雰囲気だと思ってたのに……」
「そりゃあ私も同じよ。でも男と女って、時によく分からない反応を生み出すから………」
「おい二人共………」
米岡の言葉を真に受けつつある二人にクルミが言葉を発そうとすると、そんなクルミにいつの間にかカウンター席から離れたミズキが何故か神妙な顔をしながら近づき、
「あんたみたいなお子ちゃまには分からないだろうけどね、男と女ってのは色々あんのよ」
「何しれっとした顔で言ってるんだお前は。聞き耳立ててたのか? 気持ち悪いぞ」
いかにも私は経験豊富な女ですと言うような表情のミズキに軽くイラっとしたらしく、クルミの言葉もいつもより容赦がない。しかし今のミズキには通用しなかったらしく、彼女はクルミのすぐ横に座ると彼女の頭をポンポンと叩きながら、
「でも私は米岡さんの説も意外と間違ってないと思うわよ? 藍くんはあの通り顔は良いし、それを見た他の女から告白されても仕方ないんじゃない? 前に千束からちょっと聞いたけど、千束とたきなと買い物に行った時も逆ナンされたらしいし」
「なるほど、年中男から逃げられてるお前とは大違いだな」
しかしさすがにその言葉は受け流せなかったらしく、ミズキが般若のような表情を浮かべるとクルミは脱兎の如く店の奥へと逃げ、その後をミズキが追いかけ二人の姿が消える。その後店の奥から某国民的アニメで主人公が拳骨を食らった時のような音が聞こえたかと思うと、右手をひらひらと振りながら不機嫌そうな表情を浮かべたミズキと頭頂部を痛そうにさすっているクルミが帰ってきた。
そして二人が元の席に戻ると、二階にいた二人の女性客と千束とたきなの四人が一階に降りてきた。女性客二人が笑顔で千束とたきなに手を振りながらリコリコの扉を開けて外に出ると、「ありがとうございましたー! また来てくださいねー!」と千束が明るく笑いながら右手を大きく振り、たきなもぺこりと綺麗なお辞儀で女性客達を見送るのだった。やがて扉が完全に閉まり、店内にいる面子が顔馴染みだけになると、千束はまだ頭を痛そうにさすっているクルミに目を向けるなり驚いた表情で、
「え、何クルミ。どしたの?」
「……ミズキに殴られた」
「えー? ちょっとミズキぃ、いくらいつまで経っても彼氏ができないとか、年中男に逃げられてるとか言われても殴っちゃ駄目よぉ、ホントの事なんだから 」
「お前もぶん殴ってやろうかゴラァ」
呆れ混じりの千束の言葉に、ミズキが青筋を浮かべて右の拳をミシリ! と音が出るほど強く握りしめる。まるでさっきの状況を見ていたような言葉だが、悲しきかなそれほどまでにミズキの男運の無さはリコリコメンバーには周知の事実なのである。ここまで来るともはや泣いていいレベルだ。
「それより、アンタの方こそマズいんじゃない? このままだと、アンタの藍くんがどこぞの女にかっさらわれるかもしれないわよ?」
「……? どういう意味ですか?」
右拳の力を抜きながらも、まだ顔をしかめているミズキの言葉を聞いたたきながきょとんとした表情を浮かべ、千束もたきなと同じような表情を浮かべている。すると伊藤が神妙な顔で、
「それがね千束、かくかくしかじかなの」
「ほうほうなるほど、かくかくしかじかなんですかい」
「……あの、最初からきちんと説明してもらって良いですか? 千束も分かって合わせてるふりはやめてください」
たきなが冷めた視線を二人に向けながらツッコミを入れると、伊藤は苦笑を浮かべ、千束の方もペロリと舌を出して悪戯っ子のような笑みを見せる。たきながやれやれと言いたそうなため息をつくと、それを見た伊藤がようやく先ほどまでの経緯を説明し始めた。するとやはりと言うべきか、伊藤の話が進んでいくごとに千束の顔が徐々に曇っていく。そして説明が終わると、千束は冷や汗を垂らしながらもどうにか引きつった笑みを浮かべて、
「い、いやいやいや藍くんに好きな女の子が出来たとかそんなわけがないじゃないですかいやだなぁもう伊藤さんあははははははははは」
………一同の予想通りと言うべきか、どうにか笑っているが実はとてもテンパっているのが傍目からでもよく分かる。口調は早口だし、体はかすかに震えているし、今も冷や汗がダラダラと流れているし。するとそんな千束の様子を見たミズキがまるで先ほどのお返しだと言うようにすごく楽しそうな笑顔で追い打ちを開始した。
「でも、藍くんすっごく綺麗だし~。料理上手だし~。告白する女の子が一人や二人いてもおかしくないんじゃな~い? あ、でもそうなったら千束はもうお役御免か~。ようこそ~、失恋女子の世界へ!」
「ち、違うし! お役御免になんてならないし! 大体藍くんが他の女の子から告白なんてあるわけがないし! 絶対!」
「それはそれでひどいだろ」
半ば涙目になりながらの千束の発言にクルミが半眼になりながらツッコミを入れる。藍が女子に告白されたかもしれないと言われて混乱しているのは分かるが、それにしたって言い過ぎである。まずありえないと思うが、藍が聞いたら頭を軽く小突かれてもおかしくない。また、そもそもお前は一度や二度の失恋じゃないだろと非常に楽し気な様子のミズキにも思ったが、さっきに続いてまたこんな事を口にしたら今度こそ頭蓋骨が陥没しそうなので、クルミはお口にチャックをした。天才ハッカーは危機察知能力が重要である。するとミズキは変わらずにニヤニヤと楽し気に笑いながら、
「そこまで言うんだったら、藍くんに直接聞いてきたら? 『やりたい事最優先』なんでしょ~?」
「……っ! じょ、上等じゃわ! 白黒はっきりしちゃるわこんにゃろう!」
ミズキに人差し指を勢いよく突きつけると、千束は一同に見守られながら藍が座るカウンター席に歩み寄って行った。そして数回深呼吸をし、やや引きつりながらもどうにか笑顔を作り尋ねる。
「ね、ねぇ藍くん。さっきから何か難しそうな表情してるけど、悩み事?」
「……僕、そんな顔してました?」
きょとんとした表情を浮かべて、藍が逆に尋ね返してくる。どうやら無自覚だったらしい。その言葉に千束が頷くと、「そうですか……」と藍は呟き再び困った様子で、
「確かに、悩み事と言われればそうですね。その事についてずっと考えていましたので……」
「あ、あのさ……。それってもしかして、女の子絡みだったりする? 例えばその……クラスの女の子と仲良くなったとか」
さすがに告白されたのかと直球で聞く事はできず、千束の質問はやや遠回りなものになった。だが藍の方は千束が何故そのような質問をしてきたのか分からなかったようで、眉をひそめて彼女の顔を見ながら言った。
「……? ああ、なるほど。別にそういうわけじゃないですよ。そもそも僕と仲の良い女の子は今のところは千束さんとたきなさんだけです。それ以外に仲の良い女の子はいません」
直後、千束の表情が先ほどとは一転、たった今人生で最良の事が起きたというような満面の笑顔に変わったかと思うと、嬉しさのあまり藍の肩をバシバシと勢いよく叩き始めた。突然の千束の奇行にさすがの藍も戸惑いの表情を浮かべるものの、千束はそれに構わず、
「だよねー! あー良かった! ありがと藍くん! 私は藍くんの事信じてたよ!」
「……何の事ですか?」
「んーん! 何でもない! 藍くん、これからもずっと私達と仲良しでいようねー!」
ねー、と言いながら藍の右手を両手で握りしめると、本当にすごく嬉しそうな表情で言い、藍の方も変わらず戸惑いながら「そうですね」とだけ返した。とりあえず、藍の方の悩み事が女性関係でない事に伊藤や北村、米岡はほっと安堵の息をつき、クルミはやれやれと呆れたように肩をすくめ、たきなもクルミと同じような反応を見せてはいたが、実は内心では少しだけ千束と同じような気持ちだったのはたきなのみぞ知る秘密である。なお、ミズキだけは「えー違うの? つまんなーい」と不満げにブーイングをしていた。そういう所である。
「でもさ藍くん。だとすると、悩み事って何?」
藍の悩み事が女性関係でない事が安心し、すぐに元の調子を取り戻した千束は藍の横のカウンター席に腰を下ろしながら尋ねる。米岡とミズキの予想が外れた以上、藍の悩み事は必然的にそれ以外の事になるからだ。すると藍はやはり困ったような表情で、
「別に深刻な悩みというわけではないのですが……。一つどうしても気になっている事がありまして……」
「なになに? それならこの千束さんにお任せあれ! どんなお悩み事もすぐに解決してみせましょう!」
そう言って張った胸を右手の拳で軽く叩くと、ぽよんと彼女の豊かな乳房が軽く揺れた。その様子を見た藍はぱちくりと瞬きを一度すると、千束の顔を見つめ、
「……それなら、千束さんに一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「ん、何でも聞いて! 一つだけじゃなくて、二つでも三つでも! 千本ノックばっち来い!」
「いえ、質問したいのはお一つだけですのでそれは大丈夫です。では、お聞きしたいのですが………」
腰に両手を当ててむふんと自慢げな笑みを見せる千束、苦笑を浮かべながらも優し気な眼差しでそんな二人を見つめるミカ、元の席に戻ろうとするミズキとゲームや仕事などそれぞれの作業に戻ろうとするクルミや伊藤達。藍と千束への興味を失いつつあった一同の前で、藍は今彼の心を支配している悩み事に関わる質問を口にした。
「―――千束さんはキスをした事があるでしょうか」
千束は派手に咳き込んだ。
藍のその質問に反応したのは千束だけでは無かった。いや、というよりもこのリコリコという店内で、彼の人となりを知る人物達全員があまりに藍らしくない質問に耳を疑った。まぁ、今この店内に彼の人となりを知らない人間など一人もいないのだが。
ミカは驚愕のあまり藍の顔を見つめ、接客に戻ろうとしたたきなは目を見開いて藍を凝視し、ミズキはスクープを嗅ぎつけた新聞記者のような好奇心を抑えきれない表情を浮かべ、クルミは藍が正気を失ったのではないかと心底疑い、常連客の伊藤や北村、米岡は自分達の耳がおかしくなった事を疑った。それほどまでに衝撃的すぎる発言だった。
一方、藍からの質問を受けた千束はひとしきり派手に咳き込むと、顔を真っ赤に染めて、
「な、なななななな何言ってんの何言ってんの何言ってんの?!」
「………? あ、すみません。よく聞き取れなかったみたいですので、もう一度聞きますね。千束さんはキス、つまり接吻を他の方としたことが……」
「いや聞こえてるから! じゃなくて! そういう事じゃなくて!!」
すーはーと数回深呼吸してようやく心を落ち着かせると、まだ若干赤みが残っている顔で藍に尋ねる。
「何で藍くんの悩み事を解決するのに、私のキ、キスの経験が関わってくるの?」
「……そうですね。確かにそれについて少し説明した方が良いですね。実はかくかくしかじかなのですが」
「ごめん藍くん、それだと全然分かんない」
「……? しかし、千束さんと伊藤さんは言葉を交わさなくても、時々こうして意思疎通をしてますよね?」
どうやら先ほどと同じようなやりとりを以前この店で行った際に、それを藍に見られていたらしい。何となくさっきのたきなの気持ちが分かった千束は藍に、残念ながらそれはタダのノリだという事を説明すると彼も納得したらしく、なるほどと呟いてからようやく事のあらましを説明してくれた。
藍の悩み事について要約すると、つまりこういう事だった。
最近自宅での映画鑑賞が趣味に加わり、昨夜もある恋愛映画を見ていたのだが、クライマックスで主人公とヒロインが互いの感情を伝えあい、最後に口づけを交わすシーンを見て、藍はふと思った。
何故こういう映画で互いの気持ちを伝える時、決まってキスを行うのかと。
藍自身、キス……つまりは接吻という行為が何を意味しているかぐらいはさすがに分かる。親愛や愛情などを示すときに行うものであり、口と口で行うものもあれば頬に口づけを行うものなど、種類が豊富な事も一応知っている。なので、キスを行う意図や心理はなんとなく分かるのだが……その映画を見て、藍の中に更なる疑問が膨れ上がったという。藍は腕組みをしながら形の良い眉をひそめて、
「日本映画でもキスは行いますが、洋画の場合はキスシーンが多いんですよね。昨夜の映画でも、結構な頻度でキスシーンが出ていました」
「あ~……。まぁそれは、文化の違いとしか……」
千束も洋画は好きだが、確かに日本映画と比べるとキスシーンが多いと感じる事はある。しかしそれは今言ったように文化の違いとしか言いようが無い。しかし藍の疑問はそれだけではないようで、
「それ以外にも、最後のラストシーンのキスは今までのと違う気がしました。なんというかこう、とても長いというか、感情がいつもよりもこもっているというか……」
「……ねぇ藍くん。ちなみにその映画のタイトルって分かる?」
千束から問われた藍が素直に映画のタイトルを口にすると、千束だけではなく二人の会話を密かに聞いていたリコリコの店員と常連客達が納得しつつもまるで頭痛を抑えるように眉間に手を当てたり、苦々しい表情を浮かべていた。唯一
今藍が口にした映画のタイトルは、当時話題になったという事もあり伊藤達の記憶に残っている。その際にその映画の評判も何回か耳にしたのだが、話題となった理由はシンプルながら人を引き付ける脚本、俳優の演技や音楽の素晴らしさなどもあるのだが、他に理由となったのが今藍が言ったキスシーンだった。
率直に言えば、他の映画よりもキスシーンに力が入っていた。当時の口コミにも脚本や俳優の演技の他にも、『キスシーンがすごい』『他の洋画よりも力が入ってる』『彼氏と一緒に来てたけど、キスシーンがすごくねっとりしてた』といった類の感想が多く書かれていたほどである。
ちなみにこの時ミズキは当時彼女が夢中になっていたイケメン俳優がこの映画の事を気に入っているという事を知るや否や、もしもその俳優と出会えた時に話題になるんじゃね? という考え(妄想)で映画を見に行ったのだが、内容が内容だけに館内はほぼ九割がカップル状態、さらにその翌週にその俳優が結婚したという知らせを聞き、ありったけの罵詈雑言をその俳優と映画に吐き出した後周囲がドン引きするぐらい泣きじゃくるのをミカが慰め、さすがの千束も表面上はミズキに優しくしながらも将来こんな風にはなりたくないなぁとしみじみ思った。
閑話休題。
「それで、ラストシーンのあのキスを見て、最初はどうしてあんなキスを行ったのかよく分からなかったのですが、ふと思ったんです。もしかしてキスというのは僕が考えている以上に奥深いものなのではないかと。しかし僕には残念ながらキスの経験が無くて」
「ばんざぁい!」
「どうしたんですか、千束さん?」
「う、ううん! 何でもない! どうぞ、話を続けて?」
話の途中で突然両腕を上げた千束を不思議そうな目で見つめながらも、言われた通り藍は話を続ける。
「キスというものがどういうものかを知りたくても、僕はキスの経験がありません。それでずっとその疑問が頭の中をぐるぐるしてしまって……。それで、千束さんにもしもキスの経験があれば何か良い答えが得られるのではないかと思ったのですが……」
「あ、あー……。そういう事だったのね………」
最初は驚いたが、こうして聞いてみるとなんともまぁ藍らしいと言うか……何とも言えない質問であった。大抵の人間ならば話す際に少し恥ずかしさを感じたりするものだが、目の前の彼にはそういった様子は一切見られない。本当に天然というか、純朴というか……まぁそれが藍らしいと言えば藍らしいのだが。
「それで、千束さんはキスをした事があるのでしょうか。あるとしたら、キスとは一体どのような感じなのでしょうか」
「えっ!? え、えっと……それは………」
ずいと自分に少女のようにも見える綺麗な顔を近づけてくる藍に、今の話題の事もあって千束は顔を先ほどと同じぐらい赤くすると、困ったように両手の指をつんつんと合わせる。
そう言われても、藍が納得する答えを出す事など千束にはできない。このリコリコで働いている年月が長い事もあり、世間の事に関しては本部のリコリスやここに来る前までのたきなよりも知ってはいるが、恋愛経験となるとそれこそからっきしなのである。いや、正確には藍の事もあるのでまるっきり駄目というわけではないのだが、それでも精々素人に毛が生えたレベルだ。いかに電波塔のリコリスと讃えられても、そういった面では他のリコリスと大差がないのである。なので、キスを交わした経験など当然あるはずがない。……一応、キスを交わしたい相手ならいるのだが。それも今目の前に。
「千束さん?」
そのキスを交わしたい相手が純粋な目で千束を見つめると、千束は顔を赤くしながらちょっとしどろもどろな口調で、
「えっと……その、ごめんね藍くん。私もキスをした事無いんだ。だから、正直な所私もよく分かんない」
「そうでしたか……」
すると分かりやすく、しょんぼりとした表情を浮かべて落ち込んでしまった。藍の悩みを解決すると言った手前非常に申し訳ない気持ちに駆られるのだが、こればっかりはどうしようもない。いくら叩いても、今の千束からキスに関する知識や経験などどうあがいても出てこないのである。
「では千束さん、どなたかキスの経験がある方などに心当たりはないでしょうか? その方にお聞きすれば、何か分かるかもしれないのですが……」
「う、うーん……。そうだねぇ……」
藍の眼差しに千束がちらりと伊藤達の方に視線を向けるが、残念ながら彼女達は気まずそうな表情を浮かべて顔を逸らしてしまった。しかしそれも当然である。もしも今千束に向けられている藍の質問の矛先が彼女達に向けられれば、この場で自分のキスの経験を暴露しなければならない。そして悲しきかな、彼女達の中でそんな甘酸っぱい思い出を持った人間は一人もいないのだ。下手をすれば、キスの経験どころか彼らの心の傷を開きかねない。そんな残酷な事を千束にできるはずが無かった。
しかしそうなると話を聞けそうなのは必然的にリコリコの店員達になるが、正直言ってこちらも望み薄である。クルミはキスどころか恋愛にはまったく興味が無いだろうし、ミカはもしかしたらあるかもしれないが彼の事なのでうまくはぐらかす可能性の方が高いし、仮に彼が藍のために真面目に答えてくれたとしてもミカの事を良く知っている千束としては答えを聞く方が怖いのでそちらにはあまり話を振りたくない。たきな? 論外。
と、話を聞けそうな人間が一人もいない事に千束が思わず頭を抱えていると、そんな千束の耳にすごく余裕を持っているというか、すごくムカつく声が聞こえてきた。
「まったく、キスの経験の一つや二つで悩むなんてお子ちゃまねぇあんた達は」
そう言いながらこの中で最もキスの経験が無さそうな人物―――ミズキは千束とは反対側の藍の隣に座ると、頬杖をつきながら非常に余裕のある笑みを浮かべた。千束としてはすごくムカつく笑顔でしかなかったのだが、藍からするとすごく頼もしい顔に見えたらしく俯かせていた顔を上げてミズキに尋ねた。
「もしかして、ミズキさんはキスをした事があるんですか?」
「ふ、そりゃあお子ちゃまのあんた達とは違うもの」
「おおっ」
心から感心したような声を出すと共に、ミズキを見つめる藍の目に尊敬の色が浮かぶ。一方、日頃の中原ミズキという人物を良く知っている千束とたきな、クルミは非常に疑わし気な眼差しでミズキを見た後、彼女にバレないようにこっそりと座敷席に集まりひそひそと話し始める。
―――あんな事を言ってますけど、ミズキさん本当にキスをした事があるんですか?
―――いやいやたきな、あるわけないじゃん。あのミズキだよ? 行き遅れと書いてミズキと読む、あのミズキだよ? そもそもキスをする相手がいないでしょ。
―――って事はあいつ、十歳年下の男に自分はキスをしましたって嘘のマウントかましてるのか? 面の皮が厚すぎるだろ。
―――お化粧はきっと厚いのにねー。
………もうミズキに聞かれたら二人共ブチ殺し確定ものの台詞だが、幸い藍にマウントを取っているミズキに聞こえてはいないようだった。と、そんなミズキの嘘に気づかない純真な藍は素直に尊敬の眼差しで彼女を見つめ、
「ではミズキさん。キスというのは一体どのようなものなのでしょうか。僕が知らないだけで、とても奥深いものなのでしょうか。教えてください」
するとミズキは頬杖をつきながら、藍から見るとすごく優し気な表情を浮かべて、
「まぁ、少し落ち着きなさい。あんたにはまだキスのなんたるかは分からないでしょうけど、その内分かるようになるわよ。ただ一つ言えるのは、キスっていうのは一言じゃ言い表せないものなの。ま、私から言える事はそれだけね」
悪戯っぽい口調で言いながらミズキは藍の額をちょん、と軽く人差し指で小突く。その姿に藍はまたもやはぁー、と息をついて感心したようだったが、千束達から言わせれば分かり切ったような事を言っているが中身は何もない同然である。まぁ、ミズキ自身キスの経験などないのでそれも仕方ないだろう。それよりも、そんなミズキの嘘を素直に信じ切ってしまっている藍の方がずっと不憫である。藍は俯くと口の中で何やら呟き始め、
「………なるほど。キスというのは一言では言い表せないんですね。でも、それでもやはり気になるものは気になりますし……。そうだ」
そこで藍は顔を上げると、千束達から密かに非難の眼差しを送られているミズキに視線を向けた。なお、ミズキはさっき自分が言った言葉にとても酔っているらしく、非常に自慢げなドヤ顔だった。
「ミズキさん、一つお願いがあるのですが」
「んー? なぁに藍くん。今私すごく機嫌が良いから、できる事ならなんでも聞いちゃうわよ?」
「おお、そうですか。それなら良かったです。ではミズキさん。お願いしたいのですが―――」
二人の会話が交わされている中、千束はやれやれと言うように肩をすくめると伊藤から空のコップを受け取り、アイスコーヒーのお代わりを彼女に聞く。すると伊藤が嬉しそうにお代わりを注文し、注文を受け付けた千束がお盆の上にガラスのコップを乗せたまま二人の横を通り過ぎようとした時、藍がまっすぐミズキの顔を見て尋ねた。
「―――僕とキスをしていただいても良いでしょうか」
―――天竺藍という戦闘爆撃機から、とんでもない爆弾がリコリコ店内に投下された。その威力は、先ほどまでの白けた空気を吹き飛ばすにはあまりに十分すぎた。
ミカはあまりの事に口を大きく開けて絶句し、伊藤や北村、米岡達は驚きのあまり硬直、クルミは青く染まった恐怖の表情を藍に向け、たきなの顔は先ほどまでの呆れ顔からまるで能面のような無表情になり、二人のそばを通り過ぎようとしていた千束の体が凍り付いたように止まったかと思うと、彼女の両手からお盆とコップが離れて重力に従って落ち、パリンという音を立ててガラスのコップがご臨終した。普段のリコリコでは想像できないあまりに惨い光景であった。
しかし何よりも衝撃を受けているのは、言われた当人のミズキであろう。彼女は一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、次の瞬間顔を真っ赤にして、
「あ、ああああああんたいいいいいい一体なななななな何をいいいいいいいいい言って」
当然の事だがかなり動揺しているらしく、先ほどまで浮かべていた余裕が木っ端微塵になり言葉がとてもどもっていた。だが藍の方はそんなミズキどころか周りの惨状など一切気にせず、いつも通りのぽやんとした顔で、
「はい。ミズキさんはキスの経験があり、それは一言では言い表せないものだと言いました。しかし僕はキスがどのようなものか知りたいと思いました。それなら、キスの経験があるミズキさんとキスをすれば、その言い表せないものが何なのか分かるのではないかと思ってお聞きしました。それでどうでしょうか。キスをしていただいても良いでしょうか」
「え、えっと……それは……その……」
ある意味藍らしい突飛な発想に、さすがのミズキも顔を赤くしてゴニョゴニョと口の中で呟いているが言葉になっていない。しかしそれも当然だろう。先ほどまでは余裕を装っていたミズキだが、キスの経験で言えば彼女も千束やたきなと変わらないチェリーである。そんな彼女に藍からの下心も何もない提案はあまりに強烈すぎたのだ。すると、ミズキの様子を見て何を勘違いしたのか藍があっと声を上げて、
「でも確か、キスにも種類があるんでしたね。それならフレンチ・キスというものの方が良いでしょうか。それなら僕のようなキスの初心者にも向いてそうですし」
ガンッ!! と米岡が派手に座っていた机に額を打ち付け、ミカがゴホゴホッ!! と強く咳き込んだ。
―――その言葉の聞こえから藍はフレンチキスを触れあうようなキスと誤解しているようだが、中身はまるっきり正反対のものであり、恋人同士が互いの舌と舌を絡め合う濃厚なキスの事である。つまり藍は、キスもロクにした事が無いアラサーの女性にそういうキスをしましょうかと言っているのである。自分もキスをした事が無いのに。
藍の無知もあるとはいえ、ここまで来るとその純粋さは恐怖ですらあった。そして藍はずいっ、と顔を赤くしているミズキに顔を寄せた。
「それで、していただけるのでしょうか。ミズキさん」
すると、そんな二人にクルミ達から全力の制止の声がかけられた。
「待って藍くん! 落ち着いて! 一度立ち止まって冷静になってよく考えて!! もっと自分の体を大切にして!!」
「ミズキさんも落ち着いて! いくら何でも結婚相手ができないからってそれはマズいって! 相手は年の離れた男の子だよ!? ミズキさん的には美味しいかもしれないけど、まだ高校生だよ!?」
「やめろ藍!! ファーストキスの相手がミズキなんて人生最大の汚点だぞ!? 後になって絶対に後悔するぞ!? 時間は二度と巻き戻せないんだぞ!!」
―――制止の声というよりも、もはや犯罪者への説得の言葉のようだった。クルミなどもうほとんどミズキへの罵倒である。この後正気を取り戻したミズキが殺しにかかってもまったくおかしくはなかった。
一方、ミズキの方はミズキの方で頭がぐるぐると混乱しつつも、藍の提案を素直に受ける事が出来ずにいた。そりゃそうである。彼の提案を受ければ確かにファーストキスは経験できるかもしれないが、下手をしたら『未成年男子とキスをした変態アラサー女』というレッテルを貼られかねないのだ。いくら年中結婚相手に飢えているミズキでも慎重になるだろう。それを証明するように、心の中では彼女の理性と本能の象徴である天使と悪魔が必死に戦っていた。
『―――キスをするのです。今なら合法的にキスができます。しかも相手は料理上手で中性的、将来超有望な男の子です。キスをしないという選択肢はありえません。さぁ、接吻をするのです。え? どんな風に? そりゃあもう互いの記憶に一生残る濃厚なやつを一発』
『キスしちゃいなさいよ~。ファーストキスの相手がこれなら誰にだって自慢できるわよ~。しかもうまくいけば、将来の夫ができたも当然よ~? 未成年? 大丈夫大丈夫! これ藍くんと合意だから! まったく問題ナッシングってもんよ!!』
訂正。理性の象徴たる天使などどこにもいなかった。いるのは本能の象徴たる悪魔と悪魔だけである。アラサー間近になって結婚相手がいない事を長い間千束に弄られ(しかも最近はそこにクルミという新手が加入)、毎晩酒を相手にむせび泣いているミズキに、
そしてミズキはブチ切れそうな理性を総動員して精一杯余裕を保つと、歓喜の笑顔を必死にこらえながら、
「そ、そうね。藍くんがそこまで言うなら、別にしてあげるのも大人の務めかもね。で、でもさすがに人目がある前でするのは恥ずかしいから、ちょっと店の奥で………」
「ミズキ」
ポン、と手が背後からミズキの肩に置かれると同時に感情が全くこもっていない声がミズキの鼓膜を揺らし、その声にミズキはまるで背中に氷の柱を直接突っ込まれたような冷たいものを感じた。もう何年も一緒にいるというのに、声の主がこんな声を出すのは初めての事だった。ミズキが恐る恐る振り向くと、そこには顔中に青筋を立てた千束が無表情でミズキの顔を見ていた。
ひぃっ!? とミズキの口から声が漏れた直後、ミズキの肩を掴んでいる千束の手に万力の如く力が込められた。ミシィ! という形容しがたい音が聞こえたかと思うと、掴まれている肩に激痛が走る。このままだと、肩の骨を思いっ切り粉砕されそうである。
そして、さらに別方向から殺意が込められた冷たい視線がミズキに向かって放たれた。千束からその方向に恐る恐る目を向けると、そこにはたきなが同じような目でミズキをじっ……と見ていた。その目の冷たさや恐ろしさはまるで某ホラー映画の長髪の女性だが、彼女よりも今のたきなの方がミズキにはずっと怖かった。彼女の顔を直視したら、その女性もきっと全速力で逃げ出すだろう。ミズキが二人の視線に挟まれていると、彼女達の唇が小さく動く。声は発せられていないはずなのに、何故か二人の声がミズキにははっきりと聞こえてきた。
―――ミズキさん、下手な事を言えばどうなるか分かってますよね?
―――今日も家のベッドでぐっすり寝たくないの? ミズキ。
二人の声なき声にミズキは冷や汗をダラダラ流しながらこくこくと頷くと、突然奇妙な行動を取り出したミズキに訝し気な表情を浮かべている藍の顔に視線を戻し、ヤケクソ気味の笑い声を上げて、
「いやーごめんね藍くん! 冗談よ冗談! ちょっとからかったのよ! だってほら私大人だし!? まだ子供の藍くんとはキスできないっていうかぁ? 藍くんじゃ私にはちょっと不釣り合いと言うかぁ? だからごめんねぇ! あははははははははははっ!」
本当は不釣り合いどころか超したいのだが、自分の命が文字通りかかっているこの状況でそんな事は口が裂けても言えない。するとミズキの言葉を受けて、藍は「そうですか……それなら仕方ないですね……」としょんぼりした顔になった。そして先ほどまで無表情だった千束はすごく嬉しそうな表情で、たきなは仏頂面に見えるがどこか満足げである。助かったとはいえ、自分のファーストキスという大きな魚を逃したミズキは今にも血の涙を流しそうな表情で唇を強く噛み占めていた。だが生憎キスが出来なかった事を悔しがっているのはミズキだけで、他の面々は先ほどまでの地獄みたいな状況が落ち着いた事に安堵しているようだった。これでようやく、一件落着。
………であれば、良かったのだが。
「では、申し訳ないのですがクルミさん。パソコンを一台貸してもらっても良いでしょうか?」
と、何故かミズキに断られた藍がクルミにそんな事を尋ねた。先ほどまでの爆弾発言がまだ頭に残っているクルミがやや警戒した様子で「……別に構わんが、一体何をするつもりだ?」と尋ねると、藍は純粋な好奇心が浮かぶ右目をクルミに向けながら、
「はい。僕もこの前知ったのですが、インターネットには質問をすればたくさんの人がその質問に答えてくれる掲示板のようなものがあるんですよね? その掲示板にキスの経験というのはどういうものなのか、もしくはこんな子供の僕でもよろしければキスをしてくれるどなたかがいないか質問すれば、もしかしたら」
ポン、と今度は藍の肩に背後から肩が置かれた。藍が振り向くと、そこにはいつの間に背後に回り込んだのか笑顔の千束と無表情のたきなが立っていた。千束は笑顔のまま明るく、しかしまったく感情が込められていない声で、
「藍くぅん。ちょ~っとお店の奥行こうか?」
藍の肩に置かれた手には先ほどのミズキのような剛力は込められていないもの、その声には有無を言わせぬ迫力が込められていた。さすがの藍も今の千束に逆らうのは危険だと鋭い勘が告げたのか、やや緊張した面持ちで「……ええ、良いですよ?」と素直に頷いた。一方、藍の言葉を確認したたきなはぐるりとミカに感情のこもっていない視線を向けて告げる。
「店長、すみません。そういう事ですのでしばらく離れます」
「あ、ああ………」
まだ客がそんなに入っていないという事もあるが、何よりもたきなののっぺりとした声音に反対する事も出来ず、ミカが了承すると千束とたきなは無抵抗の藍を連れて店の奥へと姿を消した。何故か、今のミカたちにはそれが死刑執行人が死刑囚を連れて歩く姿に重なって見えた。
そして三人が消えて行った店の奥をミカ達が見ていると、やがて店の奥から千束とたきなの怒声が聞こえてきた。
―――良いですか藍さん!! キスというのは見も知らない他人とみだりに行うものでありません!! キスというのはもっと深い関係になった人と行うものです!! しかもネットでそういう事をする人を捜してしようとするなんて言語道断です!! え、私にキスの経験ですか? い、今はそれは関係ないでしょう! とにかく!! 今後ああいう行動は一切控えてください!! 聞いてるんですか!?
―――たきなの言う通りだよ藍くん!! ネットの世界には怪しい人や信頼できない人がうようよいるんだから、そんな書き込みなんてしちゃ絶対に駄目!! しかも藍くんすごく綺麗な顔してるんだから、もしも顔写真とか乗せたらたくさんの変な人があれこれ口八丁で近づいてキスしようとしてくるよ!? 藍くんはもうちょっと自分の事を自覚しなさい!! え、でも自分なんかとキスしてくる人なんて、それぐらいしないと見つからないかもしれない? ああもう!! そういう所だよ!! もっと自分を大切にしなさい!!
と、店の奥で仁王立ちをする二人が正座する藍に向かってお説教する姿が目に浮かぶようだった。二人の大声の合間に、藍の弁明するような声が小さくこちらまで聞こえてくるのがさらに解像度を上げる。千束とたきなのお説教と藍の弁明をBGMにしながら、米岡がポツリと言った。
「………なんか、浮気がバレた夫と、それに怒る奥さんと愛人みたいだな」
「その場合、奥さんは千束ちゃんで、愛人はたきなちゃんになるんですかねぇ」
「やめなさいよ、縁起でもない……。でも、まさか藍くんがあそこまでピュアだとわねぇ……。今時の高校生にしては、ちょっと純粋すぎるというか、あそこまで純粋だと逆に珍しいよね。箱入り息子ってああいう子の事を言うのかな」
「―――あるいは、外の世界をまったく知らずに育てられた実験動物」
しん………とクルミの一言で、座敷席とその周囲の空間だけが異様な静けさに包まれた。聞こえてくるのは、店の奥で珍しくしどろもどろな調子で弁明をしようとする藍と、そんな彼にお説教をする千束とたきなの声だけだ。すると、まるでその場の雰囲気を明るくするように米岡がおどけた声音を出す。
「い、嫌だなぁクルミちゃん。いくら何でも冗談キツイって」
「………そうだな。すまない」
どうやらクルミも少し言い過ぎだと思っていたようで、素直に謝罪の言葉を口にした。それに米岡だけではなく伊藤や北村もようやく笑みを浮かべ、その場の空気が少しばかり軽くなる。だが、クルミだけは頬杖をつきながら何かをじっと考えこんでいるようだった。常連客達には気づかれないようにクルミの様子を確認したミカとミズキは互いに目を合わせると、やれやれと言うように肩をすくめてからミズキが言う。
「ま、確かに珍しいけど世の中色んな人がいるんだし、藍くんのような男の子がいても不思議じゃないでしょ」
「………まぁ、そうなんだが」
「それよりクルミ。さっきあんたどさくさに紛れてなんつった? ん?」
それを聞いたクルミは素早く立ち止まると店の奥に逃げようとするが、生憎今は三人が使っているので逃げる事も出来ない。となるともう、逃げる先は二階しかなかった。逃げても生き延びる時間が少し増えるだけだが、ここまで来たらもう全力で逃げるしかない。小さな体を必死に動かして二階に逃げようとするクルミをミズキが鬼の形相で追いかけ、それを見たミカと常連客達が苦笑する。やがて二階からやはり頭を痛そうにさするクルミと不機嫌そうな顔のミズキ、それからさらに数分後に疲れ切った様子の藍とぷんすこ怒りながらも可愛らしく頬を膨らませた千束とたきなが帰ってきて、ようやくリコリコは元の平和な雰囲気に戻ったのであった。
―――その数日後の事だった。
東京都内にいるサードリコリスが謎の集団による襲撃を受けて死亡したという知らせが、DAに届いたのは。
原作のリコリコではミズキさんのキスの経歴に関してはまったくもって不明なのですが、今作ではまだファーストキスも未経験という形で書かせていただきました。もしも経験がありましたら非常に申し訳ない事をしたので、今謝罪いたします。ミズキさん、マジでごめんなさい(土下座)。