信長公記、ほぼ史実。


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公の生涯

 ◆

 

 天正の世も末に近い頃。

 

 安土の山に築かれたる巨城は湖水を望む高台に聳え立ち、その天守は五色の瓦に彩られ、陽光を浴びては極楽浄土の如き輝きを放っていた。

 

 信長公はこの城の深奥、黄金を鏤めた茶室にて、一人の異形の寵姫と対峙するのが常であった。

 

 森蘭ギャルという名の、まことに奇妙不可思議なる女である。

 

 彼女の肌は南洋の黒檀を思わせるほどに濃く、艶やかなる小麦色に焼き締められている。その肢体は豊満という言葉ですら足らぬほどに肉感的であり、とりわけ胸元の膨らみは薄衣を透かして今にも溢れ出んばかりの勢いをもって迫り来るものであった。

 

 南蛮渡来の香油であろうか、麝香にも似た甘く重い香りが彼女が動くたびにふわりと漂う。それが公の鼻腔をくすぐり、冷徹なる理性を蕩けさせるのであった。髪は濡れた烏の羽色ではなく、不思議なことに白銀とも亜麻色ともつかぬ色に染め抜かれている。それを無造作に束ねては極彩色のかんざしを突き刺していた。

 

「ねえノブー。マジでその茶碗どーなん? アタシ的にはもっとこう、キラキラしたやつのほうがアガるんだけど」

 

 公は茶筅を振るう手を止める。じっとその奔放なる姿を見つめた。茶道の精神やわびさびの静寂、それら一切を土足で踏み荒らすような物言いである。だが公の眼差しに怒気はない。むしろそこには一種の諦念にも似た安らぎと、底知れぬ依存の色が滲んでいた。

 

「蘭ギャルよ。お主にはこの井戸の茶碗の良さが分からぬか。この歪み、この土の味わいが」

 

「んー、わかんない。つーかさ、それよりネイル見てよ。今回超可愛くない? 爪に家紋入れてみたんだけど、ウケる」

 

 彼女が差し出した指先は長く鋭く、毒々しいまでの紅に彩られている。確かに織田の木瓜紋が金粉で描かれていた。公はその手を自身の無骨な掌に取り、まじまじと眺めた。爪の先まで手入れが行き届き、生命力に満ち溢れている。その指先が天下人の心臓を鷲掴みにしているのだ。公はふと、己がこれまで積み上げてきた屍の山を想起しかける。だが蘭ギャルの体温がそれを遮断した。

 

「お主の手は温かいな」

 

「当たり前じゃん。てかノブの手、冷たすぎ。血行悪いんじゃね? もっと野菜とか食べなよ」

 

 公はこの女の言葉に不思議な魔力が宿っていることを知っていた。それは単なる若さゆえの戯言ではない。時折、古の賢人が憑依したかと疑うほどの鋭い理が含まれているからである。

 

 時は遡り、元亀二年のことであったか。比叡の山々が敵対勢力を匿い、公の覇道に立ちはだかった際のことである。公の怒りは頂点に達し、全山を焼き払わんとする激情に駆られていた。僧俗男女を問わず、撫で斬りにせよとの命が下されんとしたその刹那。陣幕の奥よりあくびを噛み殺しながら現れたのが蘭ギャルであった。

 

「ちょ、ノブ。マジで山焼く気? キャンプファイヤーにしてはデカすぎでしょ。引くんだけど」

 

 公は血走った眼で彼女を睨みつけた。神仏をも恐れぬ魔王の形相であったが彼女は全く怯む様子を見せない。自身の派手な爪をいじりながら言った。

 

「あのさ、アタシのママの彼氏が言ってたんだけどー。『怒りをもって師を興すべからず』だっけ? なんかそんな感じ。怒って戦争始めるとか、マジでコスパ悪いし。あとで後悔してもリセットできないよって話」

 

 公の脳裏に雷光の如き衝撃が走った。それは遥か昔、大陸の兵法家が遺した至言そのものではないか。「主は怒りをもって師を興すべからず、将は慍りをもって戦いを致すべからず」。なぜこの南蛮かぶれの小娘がそのような言葉を知っているのか。問い質そうとする公を制し、彼女は豊満な胸を公の腕に押し付けるようにして甘えた声を出した。

 

「焼くのやめてさー。包囲して兵糧攻めにしちゃえば? その方がじわじわ効くし、絵的にも残酷じゃなくてスマートじゃん。ね、そうしよ? 終わったら美味しいスイーツ食べに行こうよ」

 

 その肢体の温もりと、甘い香りに包まれた時であった。公の中の修羅は奇妙なほど急速に霧散していったのである。焼き討ちは中止された。山は焼かれず、ただ厳重な包囲網が敷かれた。結果として比叡山は降伏し、多くの文化財と人命が灰燼に帰す運命を免れたのである。明智光秀などは涙を流して安堵し、公の慈悲深さを讃えた。だが公自身は狐につままれたような心地であった。

 

「蘭ギャル、お主、何者だ」

 

「えー? ただのギャルだし。ノブの秘書的な?」

 

 彼女はケラケラと笑い、ビロードのマントを羽織って去っていく。戦場とは思えぬ軽やかな足取りであった。その背中を見送りながら、公は予感せずにはいられなかった。得体の知れぬ運命の歯車が彼女によって書き換えられていることを。

 

 ◆

 

 季節は巡り、天正六年。

 

 有岡城にて荒木村重が謀反を起こした折もまた、蘭ギャルの存在が歴史の暗部を塗り替えた。公は村重のみならず、その一族郎党や侍女に至るまで数百名を磔にし、干殺しにするという凄惨な処刑を計画していた。尼崎の七松におけるその準備が進む中、蘭ギャルは不機嫌そうに公の膝の上に座り込み、頬を膨らませていた。

 

「ノブ、あんさー。皆殺しとかマジで趣味悪くない? ドン引きなんだけど」

 

「裏切り者には死をもって償わせねばならぬ。それが天下の法よ」

 

「法とか知らんけどさ。アタシのママの彼氏が言ってたよ。『敵を滅ぼす最良の方法は彼らを友とすることだ』って。どこの国の偉い人か忘れたけど、そういうマインドのがカッコよくない?」

 

 遠い異国の賢人であろうか。公はその言葉の響きに再び己の狭量を恥じるような感覚を覚えた。恐怖による支配は脆い。恐怖は反発を生み、反発は新たな裏切りを呼ぶ。

 

「それにさー。あんなに沢山殺したら、幽霊とか出そうでキモいじゃん。夜トイレ行けなくなるよ? ノブ、お化け嫌いでしょ」

 

「……余は魔王ぞ。化け物など恐れぬ」

 

「はいはい、強がり乙。とにかく、処刑ナシ。村重のおっさんは逃げたんだから残された奥さんとか子供とかは許してあげなよ。その方が『ノブ様マジ神』ってなって、好感度爆上がりだし。SNSあったらバズるよ」

 

 公は深いため息をついた。彼女の豊満な太腿に手を置き、その滑らかな感触を確かめる。殺戮への衝動は彼女の肌の弾力の中に吸い込まれ、消えていくようであった。

 

「……分かった。蘭ギャル、お主の申す通りにしよう」

 

 処刑は中止された。荒木一族は追放処分に留まり、命を救われた者たちは公の温情に咽び泣き、その慈悲は諸国に伝播した。かつて「第六天魔王」と恐れられた男はいつしか「慈愛の覇王」として民衆の支持を集めるようになっていた。

 

 家臣団の間でも蘭ギャルの存在は公然の秘密となっていた。羽柴秀吉などは彼女を「あの方は天竺か南蛮の菩薩が姿を変えて現れたに相違ない」と真顔で語る。徳川家康に至っては彼女に密かに大量の饅頭や菓子を献上し、機嫌を取っていた。彼女の正体を怪しむ者は少なくなかったが誰もそれを口に出して咎めようとはしなかった。

 

「まあ、蘭ギャルだしな」

 

 それが織田家中における合言葉の如くなっていた。彼女が軍議の席で化粧を直していようと、公の膝を枕に昼寝をしていようと、誰も文句を言わない。なぜなら、彼女がいる限り、公は理性的であり、無茶な出兵や粛清を行わないからである。家臣たちにとって、彼女は最強の安全装置であり、守護神ですらあった。

 

 ◆

 

 ある夜、安土の天主にて、公は杯を傾けていた。月は湖面に映り、白銀の光を投げかけている。蘭ギャルは窓辺に腰掛け、足をブラブラさせながら金平糖を齧っていた。ちなみにこの金平糖は家康より献上されたものである。

 

「ノブー。天下統一したら何すんの? ハワイとか行かない?」

 

「ハワイ……? 南蛮の島か。悪くないな」

 

 公は微笑んだ。かつては焦燥のみが心を支配していた。五十年の命、夢幻の如くなり、と舞った日々が嘘のようである。今の公の心には満ち足りた静寂があった。

 

「お主はずっと、余の傍におるのか」

 

 ふと、公は不安に駆られて尋ねた。彼女の容貌は出会った頃から少しも変わっていない。老いることもなく、衰えることもない。その永遠性に公は時折、人間ならざるものの冷たさを感じることがある。

 

「んー? まあね。ノブが死ぬまでいてあげるよ。アタシ、一途だし」

 

 彼女はニカっと笑い、白い歯を見せた。

 

「それにママの彼氏が言ってたし。『愛とは互いに見つめ合うことではなく、共に同じ方向を見つめることだ』って。なんか、ロマンチックじゃない?」

 

「……お主のママの彼氏は何人おるのだ」

 

「さあ? 百人くらい?」

 

 軽口を叩きながら、彼女は公の元へと歩み寄り、その首に腕を回した。甘い匂いが公を包む。公はその腰を抱き寄せ、彼女の重みを確かめる。天下など、この温もりに比べれば些末なことのように思えた。

 

 ◆

 

 やがて運命の日、天正十年六月二日が訪れた。別の世界線において、本能寺の変と呼ばれる変事が起きるはずの、その日。

 

 明智光秀に謀反──……の動機など微塵も存在しなかった。光秀は過労に喘ぐこともなく、公から理不尽な折檻を受けることもない。蘭ギャルの提案による「週休二日制」と「福利厚生の充実」によって、心身共に健全であったからである。

 

「上様、中国攻めの手筈、整いましてございます」

 

 光秀は清々しい顔で報告した。本能寺の変は起きなかった。信長公は京での茶会を楽しみ、蘭ギャルと共に鴨川の河原で花火をしただけであった。

 

「花火、ちょー綺麗じゃん! 映えるわー」

 

「うむ、悪くない。だが儚いな」

 

「儚いからいいんじゃん。散る桜、残る桜も散る桜、ってね」

 

 公は苦笑し、夜空に消えゆく火花を見上げた。死の影は遠のき、ただ生への賛歌がそこにあった。

 

 その後、公の覇道は誰にも止められることなく進んだ。毛利は降り、上杉も膝を屈し、九州、東北までもが織田の旗の下に統一された。戦国の世は終わりを告げ、パックス・オダ・トクガワナとでも呼ぶべき長き平和の時代が幕を開けたのである。

 

 そうして天下が統一された日、安土では三日三晩にわたる祭りが催された。城下には酒が振る舞われ、異国の楽隊が奏でる音楽に合わせて民衆が踊り狂う。天主のバルコニーからその様子を見下ろす信長は齢五十を超えていたがその眼光はいささかも衰えていなかった。隣には出会った頃と変わらぬ若さを保つ蘭ギャルがいる。彼女の時間は止まっているかのようだ。あるいは彼女だけが別の理の中に生きているのかもしれない。

 

「ねえノブ、見てよあのアホ面。みんな超楽しそう」

 

 蘭ギャルが指差す先ではかつての敵も味方も入り乱れて踊っている。秀吉が猿のような奇声を上げて跳ね回り、家康が腹を抱えて笑っていた。光秀は額の汗を拭いながら穏やかな笑みを浮かべている。

 

「これがお前の言うサーカスか」

 

「そ。最高じゃん。アタシ、こういうの好きよ」

 

 蘭ギャルは信長の肩に頭を乗せる。その髪からは遠い異国の花のような、甘くむせ返る香りが漂う。信長はその腰に手を回し、引き寄せた。この女の肉体は温かく、柔らかく、そしてどこか現実離れしている。

 

「貴様は老いぬな」

 

 信長が呟くと、蘭ギャルは悪戯っぽく舌を出した。

 

「ギャルは永久不滅だし。てか、ノブも最近若返ってない? アタシのエキス吸ってるからかなー」

 

 信長は否定しなかった。実際、蘭ギャルと共にいると、体の中から力が湧いてくるのを感じる。彼女は信長の生命力を糧にしているのか、あるいは信長に活力を与えているのか。それは誰にも分からない。ただ、家臣たちは変わらぬ主君とその傍らにある永遠の若さを保つ黒い愛妾を見て、密かに噂し合うのだった。「あれは天から遣わされた天女か、あるいは魔性の類か」と。しかしその結論はいつも同じ言葉に落ち着く。

 

「まあ、蘭ギャルだし」

 

 と。

 

 ◆

 

 しかし神ならぬ、あるいは魔王ならぬ信長公も、少しずつ老いていった。白髪が増え、皺が刻まれ、その背中は小さくなった。しかしその傍らには常に変わらぬ若さと美貌を誇る森蘭ギャルの姿があった。彼女は相変わらず派手な小袖を着崩し、意味不明な南蛮言葉を操り、公を「ノブ」と呼び捨てにしている。

 

 そんなある冬の日。雪の降る安土の庭を眺めながら、公は病床に伏していた。死期が近いことを悟っていたが心は穏やかであった。蘭ギャルが林檎を剥いている。その手つきは危なっかしく、皮は厚く、形はいびつであった。

 

「ほらノブ、あーんして」

 

 差し出された林檎を口に含む。甘酸っぱい果汁が喉を潤す。

 

「……蘭ギャルよ」

 

「ん? なに湿っぽい話はナシだよ」

 

「お主に出会えて、余は楽しかったぞ」

 

 公の声は掠れていた。蘭ギャルは手を止め、公の顔を覗き込んだ。その瞳には初めて見るような真剣な光が宿っていたかのように見えたがすぐにいつもの軽薄な調子に戻った。

 

「知ってるし。アタシも楽しかったよ。ノブ、意外と可愛いとこあるしね」

 

「……ママの彼氏の言葉を最後に一つ、聞かせてくれぬか」

 

 公の願いに彼女は少し考え込み、やがて悪戯っぽく微笑んだ。

 

「んー、じゃあこれ。『来た、見た、勝った』。誰の言葉だっけ? 忘れたけど、ノブにぴったりっしょ」

 

「来た、見た、勝った、か……。ふふ、短くて良い」

 

 公は満足げに目を閉じた。天下を取り、戦乱を終わらせ、そして何より、この不思議な女を最後まで愛し抜いた。我が生涯に一片の悔いなし、とは誰の言葉であったか。公の意識は静かに闇へと沈んでいったがその最期まで蘭ギャルの手は公の手を握り締めていた。

 

 ・

 ・

 ・

 

 信長公の崩御後、森蘭ギャルの行方を知る者はいない。葬儀の場にも姿を見せず、まるで煙のように消え失せたともあるいは南蛮船に乗って海を渡ったとも噂された。一説によれば、彼女は歴史の節目節目に現れ、英雄たちの傍らでその軽薄な口調で世界を救い続けているのだという。

 

 安土の城跡には今も夏草が茂り、風が吹き抜けるばかりである。だが耳を澄ませば、風の音に混じって、ケラケラと笑う女の声と、「マジウケる」という奇妙な言葉が聞こえてくるような気がしてならない。

 

 歴史という巨大な奔流の中で彼女だけが永遠の「今」を生きていたのかもしれない。あれは戦国の世が生んだ幻影であったか、あるいは時空を超えて彷徨う愛の精霊であったか。真実はあの湖の底深く、あるいは彼女の塗ったマニキュアの輝きの中にのみ、封じ込められているのであろう。

 

 ただ一つ確かなことは織田信長という男が彼女の助言によって修羅の道を外れ、人としての温もりを知ったまま生涯を終えたという事実のみである。歴史書には記されぬ、しかし確かに存在した、奇妙で愛おしい日々の記憶。それを知る者はもはや誰もいない。

 

 されど、我々は想像することができる。黄金の茶室で豹柄の着物を着た黒い肌の美女と、天下人が交わした他愛のない会話を。

 

「ねえノブ、次生まれ変わったらさー、一緒にタピオカ飲みに行こうよ」

 

「タピオカとは何だ」

 

「んー、黒くてモチモチしたやつ。美味しいよ」

 

「……ふん、悪くない」

 

 そんな声が遠い空の彼方から、今も響いているようである。

 

 それは血塗られた歴史のページに落とされた一滴の鮮やかなインクの染みの如く、我々の心に消えぬ余韻を残し続けるのであった。

 

(了)


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