「………」
ばさり、ばさり。
黒い飛龍は羽ばたき、対の滑らかな飛膜が悠々と上下する。
龍の翼は女の髪より美しく、黒猫よりも妖しい。
そしてその上を、高速で風を切る音そのものが前から後ろへと転がってゆく。
眼下に広がるのは、木々の一つ一つが床に落ちた楊枝の如く矮小に見える、快晴の冬の森。
地平線まで続く雪かぶりの針葉樹林の匂いが、酒瓶にも似た先細りの面立ちの龍の頬を撫でる。
厳冬を厳かに引き立てる青臭い芳香は、絶大な開放感と同時に、今自分が行っている取り返しのつかない行為のリアリティを高めた。
きっと、これからの人生では、この匂いを嗅ぐ度に今この瞬間を鮮明に思い出すのだろう。
そういう確信が、今の俺にはあった。
◇◇◇
「取り返しのつかない行為」とは何か。
その正体を今一度確かめるべく、じろりと後ろ目に地上を確認してみる。
すると、既にゴマ粒じみて小さく見える元仲間の面々が、未だに俺を指さしながら地上でキャイキャイと騒ぎ立てているのが目に映った。
そう、「取り返しのつかない行為」とは、その実大したことはなく、ただの恒久的な家出だ。
「ぎゅ〜ん………」
自身のうんざりした気持ちを表現するように、金属を擦り合わせるような高音の鳴き声が漏れ、嘆息の代わりに落胆したような鼻息が溢れる。
どうしてこうなってしまったのか。
誰かに嫌な気持ちにさせられた記憶と、過去の自身の失態が、8mmフィルムのように脳裏へ投影される。
悪夢のような家畜生活から抜け出してやったという解放感と、それでもねちっこく残るちょっとした後悔の板挟みとなっているのを自覚する。
俺は何がしたいんだ。
ぐちゃぐちゃになった思いと、この先どうするのかという自問の中で、1匹の痩せた龍は揺れていた。
◇◇◇
…全ての発端は、安易なクラス転移を食らってしまったこと。
体育の座学を受け、この後柔道場に向かうというところの、皆で芋臭いジャージを着て廊下に整列し、諸注意を聞く時間と言えば伝わるだろうか。
そんな寒い真冬の一限に、低身長ゆえに列の最前列で震えていたところを、俺はこの世界へ飛ばされてしまった。
目の前の教師の胸元で揺れるホイッスルをぼうっと眺めていたら、突然周囲の床がグリーンバックばりの蛍光色に染まりだし、その後は驚いて叫ぶ間もなく、気がついたら知らない場所に立っていた。
よくある玉座の間のような所には召喚されず、四方を囲む砦の中庭にポンと放り出されたのが印象深い。
まあ、テンプレ通りのチートスキルを持った未熟な人間兵器数十人を王の目の間に放つのは普通に考えておかしい。
なのでここまでは分かる。
だが、その後が問題だった。
何故か俺だけが恐ろしげな黒紫の飛龍の姿で召喚されてしまったのだ。
◇◇◇
今思えば、突然の召喚に動揺するあまり、大きな龍の身体を勢いよく動かして辺りを動物的に確認してしまったのが良くなかった。
召喚前は最前列に並ばされていたこともあり、緊張した兵士達からすれば、突然目の前に興奮したドラゴンが現れたという状況だ。
当然ながら、召喚の責任者らしき人物には大慌てで逃げられてしまい、なんと俺は口を開く間も与えられることなく矢を射掛けられる。
こういうことも事前に想定されていたのか、用意周到に城壁の上に設置されていた弩が迅速に放たれ、俺は生まれ変わって5秒も経たずに新品の前足へ風穴を開けられた挙句、石畳に釘付けにされた。
人間視点で考えれば割と妥当な行為である。
現在の人類では到底勝てそうにない化け物が突然目の前に現れたのだから。
だが、突然呼び出されただけの一般被害龍たる俺にとっては、全く関係のない事情である。
当然、まだ何もしていないのにも関わらず強烈な苦痛を与えられたことにより、俺は更にパニックの深みに嵌りながら痛みに叫んだ。
しかし、その声は今までのような高飛車ショタガキボイスではなく、どこかフェミニンな龍の金切り声と化していた。
そこで俺はようやく気が付く。
ああ、なんだか知らないけど、俺はまた…
◇◇◇
「ええい、やめい!!まずは様子を見んか馬鹿者共!」
城壁沿いのベランダに立つ偉そうなジジイが恐慌状態の兵士達に一喝すると、俺はようやく的当て状態を脱した。
幸いバリスタはそれ以上撃たれず、矢も鱗に大部分が弾かれたものの、おろしたての飛膜がズタズタの血まみれである。
攻撃した兵士達も無事ではなく、無意識に苦痛に暴れたのであろう長い尾に数人轢かれてしまっていた。
銀色の混じる肉塊が点々と床石を汚す。
名も知らぬが、立派な胴鎧が踏まれた缶のように陥没してしまっている男がいた。
彼は俺を怒りで充血した目で睨みつけていた。
他にも、幾人かが。
明らかに助からぬであろう外傷を抱え、倒れ伏したまま、様々な感情を持って俺を見ていた。
まだ何が起こったのか理解していないクラスの皆も、誰かが咄嗟に張ったであろう防御膜の中で立ち尽くすばかり。
そして俺は、突然の静寂にも痛みで気付けず、「ぐぁ〜〜」だの「くぇ〜〜」だのとひんひん泣き叫んだ。
こちらを睨む目、恐怖に泳ぐ目、混乱する目。
たくさんの目が俺を見るのに、誰も"
前足の手のひらが氷のように冷たくなり、普段の数十倍のように感じられる鼓動が血管を走る度にドクドクと血が溢れる。
キリストが磔刑に処されるシーンを見たことがあるだろうか。
まさにあのような大出血である。
異常に鮮やかな視界の中でそれを発見した瞬間、あまりに衝撃的な光景に精神の限界を迎え、俺はとうとう意識を飛ばしてしまった。
「だッ、誰ぞ回復系の異能を授かったものはおらんかッ!兵士、何をしている…!逃げたアホを呼び戻…!!」
ずしんと崩れ落ちた頬に、ぼんやりと冷えた石畳の感触を感じる。
興奮した体温には冷たくて気持ちがよかったのを覚えている。
瞼が重たくなり、瞳がとろんと沈殿し、痛みや聴覚が引き潮のように過ぎ去ってゆく。
王のように見える壮健そうな老人の切羽詰まった叫び声が、耳の縁に引っかかり、そして零れ落ちた。
新世界は暗転し、俺は一時の安寧へ逃れる…
◇◇◇
まあ、その後は、何はともあれと言わんばかりにテンプレ通りの展開をなぞった。
事態を収拾するべく、俺を除くクラスメイト一行はドナドナと一時収容施設へ移送され、俺は俺で分析系の能力者の診断の結果人間であることが発覚し、無事に色々と癒してもらうことができた。
まあ、拘束で雁字搦めのまま1日放置されたが。
また、死ぬ寸前の兵士たちも、急にテンプレ通りに異能の使い方を理解したクラスメイトの美少女に完全に治療して貰えたらしく、これまたテンプレ通りに彼女を聖女様として崇めているようだ。
かくいう俺も彼女に治してもらったのである。
明らかにビビられていて傷ついたが。
以降は謝罪やら状況の説明やらによってあっという間に時間が経過し、結果的に俺は一応無事に「勇者達」の1人として迎えられることになる。
◇◇◇
「勇者達」に加えられてからも、まあ、やはり概ねテンプレ通りにやっていた。
流石に危険視されたのか、俺は猿轡のような拘束をされ、必ず騎乗者とサドルを乗せて行動することになったが。
要するに空飛ぶ戦う馬である。
俺、ちゃんと人間の意識あるんだけどな。
不満を述べようにも、轡に邪魔されてムグムグという声しか出せず、そもそも人の声帯を持たないので人語を発することもできない。
前足で地面に字を書こうにも、石畳にばかり着陸する上、そもそもクラスメイト以外は日本語が分からない。
そして騎乗者は既存の飛行生物の経験がある異世界人である。
ごく稀にあるクラスメイトの女子が乗ってくれることがあり、その時は小躍りするほど嬉しかった。
その時しかまともなコミュニケーションができないのだから当然だ。
彼女が厩舎を訪れる度に、俺は泣いたり笑ったり、とにかく甘えまくっていた。
高慢ちきだった自覚のあるクソガキも、流石にこうなると弱かった。
鼻先を女の子に抱かれて泣き、普段は生肉のみの所をその日だけは人の食べるような食料を微量ながら提供され、爪に土が詰まって汚れるほど話し込む。
まあ、脈があるのかと勘違いしてうっかり童貞臭い告白をして以降、彼女はぬいぐるみペニス現象を起こしたのか、二度と俺の元を訪れることはなかったが。
結局彼女も俺ではなく飛龍に会いに来ていたのだ。
数週間後、またしても孤独に戻ってしまったことを悟った俺は、毎日寝る前に少し泣くようになった。
日没に合わせて寝るので、翌日の明朝が恐ろしかった。
明日も俺は単なる暴力装置として人を殺めなければならない。
猿轡に擦れた口の端から、血の味が広がった気がした。
◇◇◇
暴力装置。
その言葉の通り、俺は龍としてただの暴力装置にされることが多かった。
名も知らぬ誰かに轡を引っ張られ、自由なき空を飛び、名も知らぬ何者かを轢き殺す。
運が良ければ、鎧を着た人間達の重さと痛みに耐えながら、軋む細い背骨を労りつつ、ちょっと隣の町に移動するだけのこともあった。
しかし1番多いのは、やはり生き物を殺す仕事であった。
騎乗者の操作で開く口枷を筆頭に、管理された殺戮兵器として稼働するのは、当然ながら良い気持ちにはならない。
油臭い人の血、獣臭い動物の毛、あるいは逃げ惑う背中。
正直なところを言えば、そういう同族たちの骨を砕くポリポリした食感だけは、途中から少し気に入ってしまっていた気もする。
だが、やはり内臓というヌルヌルがぎっしり詰まった鉄の味がする水風船がおいしい訳もなく。
仕切り壁を取っ払った馬小屋のような建物に戻る度に、俺は飲水の桶で口を濯いだ。
もちろん水が汚れるので、汚れごとがぶがぶ飲み込まざるをえない。
その結果、水分多量で催してしまった時などは、匂いをしばらく我慢する覚悟でそのまま床材のおがくずらしきものに垂れ流す。
当たり前だが龍用のトイレなどは無い。
もちろん最初はかなり抵抗があった。
ここでクソ垂れろってことかよ!?と、伝わりもしないのに日本語で床材を掘って何日も訴え続けたこともあった。
だがまあ、飼育員さんからすれば「そんなこと言われましても」である。
馬鹿ではないので、彼らは俺の書いた日本語を模写し、クラスメイトに読んで貰ったようで、俺の要求を理解してもらえはした。
が、巨大な水洗トイレを作るわけにもいかず、妥協案として糞尿の掃除を俺が居ぬ間にやってもらうことになった。
目の前で自分の垂れ流したクソを掃除されるのは確かに可哀想という落とし所である。
ちゃんと配慮してくれた手前、更に文句を言う訳にもいかず、俺はもう何も言えなかった。
また、食事に関しても似たようなもので、毎日朝晩に潰した家畜を1頭丸ごと与えられるのが通常であった。
しかし、これに関しては感謝している。
俺の為だけに毎日2頭も貴重な家畜を潰してくれているのだ。
人間サイド的には赤字ギリギリの相当な好条件であろう。
とはいえ生肉は生肉。
何かを噛み殺したり、轢き潰したりして帰った後にはかなり厳しいものがあった。
かなり初期の段階から燃費が悪いこの体では拒食が死に直結することに気が付いていたので、何も言わずに食べていたが、正直死にたくなるほど辛かったのが印象深い。
その分、例の来なくなってしまったクラスメイトの女子がごく稀に持ってきてくれていた人間の食べ物のありがたみが増すことは、説明に難しくないだろう。
◇◇◇
長々と愚痴を連ねてしまって申し訳ないが、実の所ここまではジャブである。
俺にとって真に辛かったのは、砦事件の直後から俺の中身が人間であることが周知されていたのにも関わらず、全く人間扱いされることが無かった点だ。
要するに動物枠の面白乗り物ペット扱いをされていたのだ。
何かしらの切実な理由から駄々を捏ねても悪いことをしたペットの扱いでシバかれ、勇者達が何かしらの功績を上げた際のパーティーなんかも当然のようにハブである。
ここには転生前の自分の行いが大きく影響しているだろう。
簡単に言えば、俺は舐められていて、雑に放っておいても勝手に自己完結するヤツだと思われていた…というか、周囲の人間にとって、俺は人間ではなく、俗に言うマスコット的存在であったのだ。
今だからこそ自身を客観的に見れるが、今思えば当時の俺は、金持ちな家に生まれた坊やのくせにクラス1番の低身長で、なのに気ぐらいだけは異様に高く、出来もしない事に対しできらぁとキャンキャン吠え立て、予定調和的に当然失敗し、友人にケツを拭いてもらうようなヤツであった。
そして常にそんな調子であり、良くも悪くも変人として1目置かれてしまっていた。
だが、そんな振る舞いをしていても、俺が決定的に嫌われることはなかった。
なぜなら俺は顔が良かったから。
正直に言えばかなりコンプレックスだったのだが、美少女然としたボーイッシュな美形で、常に挑戦的な表情を浮かべていたらしい。
俺はベ〇ータに憧れていたので、常に野心的であろうとしていたのだ。
だが、クラスメイト達から見ると面白メスガキ尊大ショタだったらしい。
というか、ベ〇ータ云々の前に、そもそも俺は普通に冷酷で性格の悪い陰キャであり、常に周囲の人のことをうっすらと見下していたし、本当の意味で心を開いて歩み寄ってくれる友人を受け入れようともしなかった。
そして、変に人の気持ちが分かるせいで周囲の折衝に走ってしまい損をしてきたタイプでもあった。
この唐突な自白から察したと思うが、俺には最初から友人と呼べる存在がいなかったのだ。
自分で言うのもなんであるが、当時俺の周りにいた人は、俺のファンか、俺の擁護者である。
つまりは俺を"俺"という存在として見ておらず、俺の振る舞いから記号的に付与された「面白メスガキ尊大ショタ」というスティグマに魅せられた人々が、当時の俺の友人と呼べた存在である。
徹頭徹尾、人から龍になった後もその前も、俺を一人の人間である「俺」として見てくれる人は、いなかったのだ。
ある時、
彼女らは悲しげにおがくずに埋まる
彼女らは少しでも
彼女らは最後にとっておきの贈り物として、
何度伝えても、何を言っても、彼らは
どこまで行っても俺は俺ではなく、1匹の龍として扱われていたのだ。
◇◇◇
なので、俺はもう、成金高飛車サイコパス男の娘ドラゴンというイメージ通りの付与されたアイデンティティを受け入れてしまう事にした。
俺は成金なので、権威や力に溺れて思うがままに権能を振るう。
俺は高飛車なので、誰の下にも付かず、屈さず、媚びず、常に自分のためだけに行動する。
俺はサイコパスなので、誰のことも気にしないし、理解できない。
俺は男の娘なので…………
………
……
…ここは思いつかないのでパスしてしまうことにする。
なお、俺は龍になっても線が細い小柄のままである。
もちろん人間比で見れば充分大きいが、鎧を着た男が数人乗るだけでべちょりと潰れてしまう程度の大きさだ。
なので王にパッと見でメスと勘違いされ、メスの名前をつけられてしまっている。
あえてその名をここで発表することは癪に障るのでしないが、ファンシーであることは伝えておく。
まあオスと言われればイケメンにも見えるらしいが、正直なところ自分でもメスにしか見えない。
そして黒と紫のグラデーションというなんかエロい体色をしている他、あくびがネコに似ており、薄く長い舌がなんかエロいらしい。
もちもちとしており、しっとりと濡れ、先細りに尖ってるのだとか。
揺れる水盤では自身の姿を見ることは叶わなかったが、水盤の中の自分は確かに気品のある高飛車なメスの龍という感じであった。
全く嬉しくないが。
俺は普通にノンケなのだ。
◇◇◇
……なんの話をしていたんだったか。
…
ああ、そう!
つまるところ、
俺は成金高飛車サイコパスの最強オスドラゴンなので、
こんなしょぼくれた穴蔵に閉じ込められる道理はない。
よって、俺は、ここから、逃げだす!
自由を手にするのだ!!!
思えば成長したゾウが杭を引き抜いて逃げないのはなぜかという逸話そのままである。
先の話題からよく考えると、俺には別に仲良いやつもいないし、よく考えたら俺ドラゴンだからこのままここに居て金とか名誉を貰ってもなんの意味も無い。
というか俺ドラゴンだから単体最強だし外の世界でも余裕で生きていけることが確定している。
流石にクラス全員で束になってかかられたら負けるだろうが、今じゃどいつもこいつもチートハーレムに溺れて下半身の赴くままに所帯持ちである。
今更俺無しで泥んこになって国中駆けずり回ることなんてできないだろう。
しかも俺、よく考えたら一人で飛べるし。
俺が飛んだら誰も追いつけないのは当たり前として、既存のグリフォンのような飛行生物では戦闘力でも航続距離でも相手にならない。
騎乗者が存在する分重たく、遅く、鈍く、1日もすれば着陸して休まなければならず、撃ち落とされると普通に落下死確定であり、つまり無理なのだ。
俺はよくよく考えなくても最初から無敵存在であった。
…いままでなぜこんな茶番に付き合っていたのか理解に苦しむ。
ああ、無理に乗られ続けた腰が痛む。
右前足のバリスタの傷跡もケロイドとなって疼く。
最初から、あの砦に放たれた瞬間に飛び去ってさえいれば、こんな痛みとは無縁だったものを。
!ガシャンッ
俺は厩舎の壁に思いっきり頭を打ち付け、猿轡のような拘束具を破壊する。
ヒンジだらけの繊細な芸術品は、あっさりとバラバラになり、おがくずの中に埋もれてしまった。
勢いを付けすぎて鼻血が出たが、この際どうでもいい。
鬱屈とした厩舎の壁に向かって自由になった龍のアギトを大きく開き、始めに低い大声を出す感覚で喉を開く。
途端に牙の隙間から灼熱の炎が溢れ、声調のピッチを上げてゆくほどにそれは収束し、熱線と化す。
実際に声が出ているわけではないが、俗に言う「ブレス」を放つ体感としてはこんな感じである。
目を守るために意志とは関係なく瞬膜が閉じるため、今壁がどうなったかは分からないが、とにかく壊れるころまで放つ。
やはり何も見えないのは心細い。
こういう時にエイムを担当してくれていたあの女子のことを思い出すが、彼女はもう俺に会ってはくれないのだ。
しばらくすると、ガコンという建屋の崩れる音がしたので、俺は口を閉じ、荒れ狂う炎を喉元に押し込む。
瞬膜をパチリと開けると、目の前には痛いほど鮮烈な青空が広がっていた。
熱線の痕跡に従って雪が溶け、石畳はガラス化し、鉄柵はロウのように床にべたりと倒れている。
溶けた雪由来と思われる水たまりから上がった湯気が、俺の頬を撫でる。
水分が滑らかな鱗にまとわりつき、水滴として首元を伝う。
俺は、自由になったんだ。
…これからは、なんでもできるんだ。
龍の涙は、人知れず水溜まりに溶け込んだ。
◇◇◇
…ということで冒頭の脱走シーンに至った次第である。
俺はこれ以降、とにかく面倒を避け、極限まで自分勝手かつ尊大に生きることに務めている。
追っ手なども初期はまれにあったが、対処に悩みに悩んだ挙句、もうめんどくさいから全員殺すことにすると、あまり来なくなった。
追っ手の次は日本語を仕込まれた説得係の美少女が、さも偶然風に仲間に加わろうとしてくるようになったが、そんなありがちなダル絡み美少女も全部炭の棒に変えてやるようにすると、じきに来なくなった。
ならばとばかりにその次は妖精を改造したと見えるありがちなキモイマスコットも送り込まれてきたが、全てマシュマロのように噛み潰していると、やはり来なくなった。
そんなしゃらくさい奴らはとりあえずゲバルトによって撃退するのがいいのだ。
更にしばらくすると、ごうを煮やした王に邪竜とか悪に落ちたとか吹き込まれたらしい強者が俺を討伐しにやってきたが、普通に上空から熱線を放って完封してやった。
だって俺ドラゴンなんだからいちばん強いんだもん。
人間如きが勝てるわけないだろ?
とはいえ、俺自身は別に人里に火放って回る訳でもなく、好きなように異世界を観光しているだけである。
追っ手や敵しか殺していないばかりか、たまに馬車を襲う山賊などをヒロイズム的な気持ちよさを得る為だけに殺したりしているので、人民からは感謝されている気さえする。
なお、自由になった俺の喫緊の目標は彼女を作ることである。
なんかずっと俺だけ彼女いなかったし。
龍は性豪という伝説に基づく訳では無いが、自由な嫁探しというのも悪くないだろう。
今のところ人間のメスには全てにおいて逃げられており、釣れるのは同族のオスドラゴンばかりなのだが。
オレより強くて可愛くてかっこいいとなるとめちゃくちゃ魅力的らしく、どこに行っても地元の龍に求婚されるのだ。
まあ悪い気はしない。
彼らは俺を俺として見た上で、俺の魅力を感じ、俺自身に求婚しているのだから。
俺俺言ってると訳が分からなくなるが、簡単に言えば俺は俺を好きなやつが好きなのだ。
これからも、俺は俺の俺による俺だけのための尊大な生活を送るだろう。
人殺しの悪夢に目覚め、寝小便を漏らし、肉を食うと吐き気を催すような、そんなちょっとしたメンタルの不調も、じきに良くなる。
常にギリギリと痛む腰痛もそのうち治るし、右前足の巨大なケロイドもそのうち消えてなくなる。
全部、消えて、なくなるんだ。
…全部。
そういう確信が、今の俺にはあった。
探さないでください