(カナ視点/迫る異変)
第10章
(カジヤの介入/意図的な逃走)
第9章
――…
その日も、音から始まった。
朝の台所。
湯が沸く、低い唸り。
皆見さんの足音。
カップが置かれる、陶器の軽い響き。
――いつもと、同じ。
カナはそう言い聞かせながら、指先でテーブルの縁をなぞった。
「……皆見さん?」
返事がない。
不思議だ、と思った。
皆見は、必ず声を返す人だった。
たとえ忙しくても、たとえ離れていても。
「皆見さん」
少し声を強める。
そのとき。
――コン。
どこか、遠くで。
何かが、ぶつかる音。
金属。
乾いていて、硬い。
カナの背筋が、ぞわりと粟立った。
「……?」
音は、建物の外からだった。
しかも、一つじゃない。
靴底が、地面を擦る。
複数。
歩幅が揃っている。
(……来てる)
理由は分からない。
でも、そう思った。
胸の奥が、きゅっと縮む。
――お姉ちゃん。
名前を呼ぼうとして、飲み込んだ。
代わりに、耳を澄ます。
いつも聞こえるはずの生活音が、消えている。
テレビの音も、外を走る車の気配もない。
まるで、世界が息を潜めているみたいだった。
その静けさを、切り裂くように。
――ピピッ。
短い電子音。
直後、重い振動。
ドン、と床が鳴った。
「っ……!」
カナは、思わず身をすくめた。
鼓動が、早い。
自分の心臓の音が、うるさくて仕方ない。
足音が、近づく。
廊下。
ドアの前。
呼吸。
知らない匂い。
男の、低い声。
「……ここだ」
別の声が、答える。
「確認。対象、視覚障害あり」
頭が、真っ白になる。
(……どうして)
問いは、音にならなかった。
ドアノブが、ゆっくりと回される。
その瞬間。
――キン。
鋭い、金属音。
直後、短く、激しい衝撃。
誰かが、ドアの前で倒れる音。
「――ッ!」
怒鳴り声。
銃声。
カナは、耳を塞いだ。
怖い。
何が起きているのか、分からない。
でも、分かることが一つだけあった。
――これは、自分に向けられたものだ。
「……お姉、ちゃん」
震える声で、呟く。
返事は、ない。
ただ。
――どこかで、確かに感じる。
あの日と同じ。
遠くて、苦くて、でも――
(……いる)
姿は見えない。
声も聞こえない。
それでも。
姉が、近くにいる。
カナは、そう確信していた。
そして同時に、理解する。
――この日常は、もう終わった。
静かで、守られた世界は、
音を立てて、崩れ始めている。
――…
第10章
銃声は、壁一枚向こうで続いていた。
短く、乾いた音。
感情のない、仕事の音。
カナは、床に座り込んだまま、動けずにいた。
どこへ逃げればいいのか、分からない。
見えない世界で、走るのは、ただの恐怖だ。
――ガシッ。
突然、誰かに腕を掴まれた。
「……!」
悲鳴が、喉で潰れる。
「静かに」
低く、ぶっきらぼうな声。
男の匂い。
煙草と、油と、雨。
知らないはずなのに、
なぜか“敵”だとは思えなかった。
「立て」
強引だが、乱暴ではない。
「……だ、れ」
「名乗るほどでもない」
一歩、歩かされる。
足元を確認するように、相手は歩幅を合わせてきた。
「段差。三段」
短く告げられる。
カナの胸が、わずかにざわついた。
(……この人)
扉が、開く。
外気。
湿った、夜の匂い。
遠くで、サイレン。
「いいか」
男が、立ち止まる。
「ここから先は、一人だ」
「……え?」
手が、離された。
「まっすぐ行って、左。二百歩。そこに、路地がある」
カナは、混乱した。
「一緒に……来ないの?」
「行かない」
即答だった。
「どうして……」
一瞬、沈黙。
男は、低く笑った。
「俺は、“迎えに来る側”じゃない」
その声に、どこか疲れが滲む。
「君を狙ってる連中は、君自身に用はない」
カナは、息を呑む。
「じゃあ、どうして――」
「“タカザキ”だ」
その名が、空気を裂いた。
「……その人、が」
「ああ」
男は、短く頷いた気配を見せる。
「そいつを炙り出すための、餌」
言葉は、冷たい。
でも、腕を掴んでいた手は、最後まで震えていなかった。
「……お姉ちゃん、ですか」
その問いに、男は答えなかった。
代わりに、ポケットから何かを押し付ける。
「これ」
「……?」
「緊急発信機。押せば、公安と警察が嗅ぎつける」
カナは、両手でそれを握った。
「どうして、そこまで……」
再び、沈黙。
そして。
「……借りを作りたくないだけだ」
男は、背を向けた。
「生き延びろ。それが奴らにとって一番、厄介だからな」
足音が、遠ざかる。
銃声の方へ。
カナは、しばらく、その場に立ち尽くしていた。
風が、頬を撫でる。
夜の音が、戻ってくる。
「……ありがとう」
小さく、呟く。
返事は、ない。
ただ。
不思議と、胸の奥が静かだった。
――逃げろ、と言われた。
――生きろ、と言われた。
それは、命令じゃない。
選択肢だった。
カナは、言われた通り、歩き出す。
一歩、一歩。
見えない道を、確かめるように。
その背後で。
再び、激しい銃声が響き始めた。
まるで―――
誰かが時間を稼いでいるかのように。