(姉の声/分断)
第12章
(永瀬・皆見の決意)
――…
夜の空気は、冷たかった。
カナは、数えながら歩いていた。
――一、二、三。
靴底が、アスファルトに触れる感触。
遠くで、サイレン。
自分の呼吸。
左。
路地。
言われた通りに、体を向けた、そのとき。
「……カナ」
足が、止まった。
今のは――
「カナ」
確かに、呼ばれた。
それも、知っている声。
喉の奥が、きゅっと縮む。
「……お姉、ちゃん?」
返事は、すぐには来なかった。
でも。
――いる。
背後じゃない。
前でもない。
まるで、音だけが、すぐ隣に並んでいるみたいだった。
「立ち止まるな」
声は、低く、静かだった。
「振り返るな」
涙が、勝手に溢れる。
「……どうして、来てくれないの」
「来てる」
即答だった。
「だから、止まるな」
カナは、唇を噛んで、歩き出す。
声は、少しだけ近づいたり、遠ざかったりする。
「怖い」
「知ってる」
「分からないこと、ばっかりで……」
「それでいい」
足音が、増えた。
追ってくる気配。
別の方向から、銃声。
声が、低くなる。
「次の角で、右」
従う。
「そこから、走れ」
「……一緒に」
「できない」
間が、あった。
ほんの一瞬。
「ごめん」
その言葉に、胸が裂けそうになる。
「……嘘」
カナの声が、震える。
「本当は……来ないんでしょう」
声は、答えなかった。
代わりに。
――ドンッ!!
爆音。
衝撃。
空気が、歪む。
カナは、思わず耳を塞いだ。
――声が、消える。
「……お姉ちゃん!」
返事は、ない。
ただ、遠くで、激しい銃撃。
何かが、壊れる音。
誰かが、怒鳴る声。
すべてが、遠ざかっていく。
カナは、立ち尽くしていた。
震える手で、発信機を握りしめる。
押すべきか。
逃げるべきか。
そのとき。
耳元で、囁くように。
「生きて」
それは、もう音ではなかった。
――祈りだった。
カナは、発信機を押した。
涙を流しながら、走り出す。
――声のした方向とは、逆へ。
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――同時刻
セリは、炎の向こうに立っていた。
銃を持ち、顔を覆い。
――“タカザキ”として。
「こちらタカザキ」
通信機に、低く告げる。
「対象は、こちらだ」
背後で、永瀬が叫ぶ。
「ふざけるな!」
「離脱しろ!」
セリは、振り返らない。
「これが、一番確実だ」
視界が、揺れる。
弾が、掠める。
「……カナ」
誰にも聞こえない声で、名を呼ぶ。
そして、走り出した。
敵を、引き連れて。
皆見と永瀬とは、反対方向へ。
三人は、ここで完全に分断される。
――それぞれが、別の地獄へ向かって。
――――――――――――――
第12章
――…
瓦礫の匂いが、まだ空気に残っていた。
永瀬は、壁にもたれながら無線を叩いたが、返ってくるのは断片的なノイズだけだった。
「……くそ」
視界の端で、人影が近づく。
「永瀬」
皆見だった。
互いの姿を確認した瞬間、言葉は要らなかった。
生きている。
それだけで、一度、呼吸が整う。
「……すまない」
永瀬が、先に言った。
「俺が、止められなかった」
「違う」
皆見は、首を振る。
「彼女が選んだ」
一瞬、言葉が途切れる。
「……だからこそ、放っておけない」
永瀬は、拳を握りしめた。
「取り返す」
短い言葉。
迷いはなかった。
「“タカザキ”を、だな」
「セリを」
皆見は、はっきりと言った。
永瀬は、何も言わなかった。
否定もしなかった。
そのとき。
拍子抜けするほど、軽い足音。
「いい心がけだ」
二人は、同時に銃を向けた。
「……生きてたんだな、永瀬」
男は、両手を上げていた。
夜に溶けるような服装。
飄々とした立ち姿。
「……カジヤ」
永瀬が、低く唸る。
「相変わらず、最悪なタイミングで現れる」
「褒め言葉だな」
カジヤは、肩をすくめた。
「で、あの女は?」
「囮になった」
皆見が答える。
カジヤの口元から、笑みが消えた。
「……そうか」
一拍。
「なら、急がないとな」
「何を知っている」
永瀬が詰め寄る。
カジヤは、指を一本立てた。
「行き先」
二人の視線が、集中する。
「山下埠頭」
その名が、重く落ちた。
「今夜、二十四時」
「……取引か」
「処刑か、どちらかだ」
カジヤは、淡々と言う。
「“タカザキ”を差し出せば、囮にした餌――つまり、カナ・イシカワには手を出さない」
「信じろと?」
永瀬が、吐き捨てる。
「信じなくていい」
カジヤは、視線を逸らした。
「だが、他に道はない」
皆見が、静かに問う。
「……あなたは、どちらの味方なんですか」
カジヤは、少しだけ考えた。
そして。
「“借りを返す側”だ」
そう言って、背を向ける。
「来るなら、二十三時半までだ」
「待て」
永瀬が呼び止める。
「なぜ、そこまで首を突っ込む」
カジヤは、振り返らなかった。
「……昔、見捨てたガキがいてな」
夜に溶ける声。
「今さらだが、借りは重い」
足音が、遠ざかる。
皆見は、永瀬を見る。
「行くよな」
「当たり前だ」
二人は、同時に動き出した。
――失ったものは、多い。
だが、取り返す理由は、もう十分だった。
“山下埠頭”
そこが、次の交差点になる。
――運命が、正面衝突する場所。