――家族という名の、最後の敵。
――…
潮の匂いが、濃くなった。
カナは、それで分かった。
(……海)
靴底が、硬い地面から、ざらついたコンクリートに変わる。
遠くで、金属が擦れる音。
低く唸る、重機のエンジン。
“山下埠頭”
誰にも教えられていないのに、そう思った。
心臓が、早鐘を打つ。
怖い。
何が起きているのか、分からない。
どこに誰がいるのかも、分からない。
それでも、足は止まらなかった。
「……お姉ちゃん」
小さく、呼ぶ。
返事は、ない。
けれど。
風が、向きを変えた。
血の匂い。
焦げた金属。
そして――
(……いる)
根拠はない。
でも、確信だけがあった。
突然、足元が揺れる。
「っ……!」
段差。
躓き、手を伸ばす。
――ガン。
掌が、冷たい鉄に当たる。
コンテナだ。
壁伝いに、指を滑らせる。
銃声が、響いた。
近い。
耳を塞ぎたくなる衝動を、必死で抑える。
(逃げない)
逃げるために、来たんじゃない。
足音が、複数。
男の声。
「……いたぞ」
別の声が、低く笑う。
「ガキか。“タカザキ”も、随分と甘くなったな」
血の気が、引く。
でも、足は止まらない。
「お姉ちゃんは……」
声が、震える。
「……どこ?」
一瞬。
空気が、変わった。
「――伏せろ!」
聞き覚えのない声。
次の瞬間、銃声。
悲鳴。
誰かが倒れる音。
爆音が、夜を裂く。
衝撃で、地面に転がる。
耳鳴り。
世界が、遠い。
それでも。
「……カナ」
今度は、はっきりと聞こえた。
あの声。
幻じゃない。
「……お姉ちゃん!」
泣きそうになるのを、堪える。
「動くな」
掠れている。
苦しそうな声。
「そこに……いろ」
「嫌だ」
即答だった。
「一人に、しない」
足を引きずる音が、近づく。
血の匂いが、濃くなる。
カナは、手を伸ばした。
闇の中。
何も見えない。
でも。
――触れた。
震える指先が、温度を掴む。
「……見えないままでも」
カナは、言った。
「ちゃんと、分かる」
指が、握り返される。
弱く、でも、確かに。
その瞬間、カナは悟った。
ここに来たことは、間違いじゃなかった。
この人は、
“タカザキ”じゃない。
自分の、姉だ。
遠くで、再び銃声。
包囲網が、音を立てて迫る。
それでも。
――二人は、同じ場所にいた。
視えなくても。
名前が違っても。
――もう、離れなかった。
第18章
――…
最初に割って入ったのは、銃声だった。
――バンッ!
カナの肩が、びくりと跳ねる。
「伏せろ!」
永瀬の声。
次の瞬間、皆見がカナを抱き寄せ、地面に伏せさせた。
「大丈夫、動くな」
銃声が、重なる。
規則的で、無駄がない。
「……永瀬」
セリが、掠れた声で呟く。
「生きてたか」
「死なせるかよ」
永瀬は、セリの前に立つ。
「取り返しに来た」
皆見が、息を整えながら言う。
「もう、一人で背負うのは終わりです」
四人が、初めて同じ空間に揃った。
カナは、状況が分からないまま、ただ声と気配を辿る。
そのとき。
拍手の音が、夜に響いた。
――パン、パン。
「感動的だ」
落ち着いた男の声。
年季の入った、余裕。
足音が、近づく。
「やっと、揃ったか」
セリの体が、僅かに強張る。
「……叔父さん」
その名を呼んだ瞬間、空気が凍った。
「久しぶりだな、セリ」
羽生 信也――ハブ。
ヴェリア最高幹部。
影の中から、ゆっくりと姿を現す。
「随分と、厄介な置き土産を残してくれたよ。君の父―…スバルは」
セリは、歯を食いしばる。
「……父の名を出すな」
「はは」
ハブは、愉快そうに笑った。
「その怒り方、そっくりだ」
銃を持つ手下たちが、円を描く。
完全な包囲。
永瀬が、低く息を吐く。
「公安が来る」
「来ているさ」
ハブは、指を鳴らした。
その瞬間。
――サイレン。
拡声器の声が、夜を裂く。
『こちら公安警備局!武器を捨て、投降せよ!』
ハブは、肩をすくめた。
「タイミングがいい」
そして、カナを見る。
見えないはずの視線が、刺さる。
「君が、カナか」
カナは、皆見の腕を掴む。
「……誰」
「君の叔父だ」
セリが、低く答えた。
「違う!」
ハブが、即座に否定する。
「血のつながりはない。だが、運命は深い」
ハブは、セリに近づく。
「君は、私の最高傑作だ」
その言葉に、皆見が叫ぶ。
「ふざけるな!」
「感情論だ」
ハブは、冷たい目を向ける。
「彼女は、“タカザキ”として完成している。今さら、普通の人間に戻れると思うか?」
セリの視界が、揺れる。
カナの手が、震えながらセリを探す。
セリは、そっと握り返す。
「……私は」
声が、かすれる。
「“タカザキ”じゃない」
ハブは、鼻で笑った。
「なら、証明してみせろ」
その瞬間。
――バンッ!!
銃声。
誰が撃ったのか、分からない。
だが。
セリの身体が、前のめりに崩れた。
「……っ!」
「セリ!」
カナの悲鳴。
血が、地面に落ちる音。
公安が、突入する。
閃光弾。
怒号。
銃撃戦。
すべてが、混線する。
ハブの笑い声が、混乱の中に溶けていく。
「さあ、選べ。生きるか、役に立つか――」
その声が、途切れた。
永瀬が、吠える。
「全員、伏せろ!」
光と音が、夜を飲み込む。
その中心で。
セリは、倒れたまま、カナの手だけを握り続けていた。
離すまいと、必死に。