―――…
手術室の灯りは、セリにはもう白い塊にしか見えなかった。
ぼんやりとした輪郭。
にじむ天井。
(……まだ、少し残ってるか)
そう思った瞬間、胸の奥が、ずきりと痛む。
「……書類は」
掠れた声に、医師が一瞬ためらってから答える。
「すでに登録されています。あなたの意思として」
皆見が、横で拳を握りしめている。
「……本当に、いいのか」
セリは、視線を彼女の方へ向ける。
正確には、向けた“つもり”だった。
「いいんだ」
短く言い切る。
「私の目は、もう“逃げるため”にしか使ってこなかった」
一拍置いて。
「でも、あの子は違う」
カナの顔が浮かぶ。
見えない世界で、それでも必死に前を向いていた少女。
「……世界を、ちゃんと見てほしい」
皆見は、何も言えなかった。
医師が、静かに告げる。
「提供後、視力は完全に失われます。回復の可能性はありません」
「……うん」
セリは、目を閉じる。
「それでいい」
麻酔が、ゆっくりと身体を侵食する。
最後に思い浮かんだのは、
幼い日の記憶でも、血の匂いでもなかった。
―——「お姉ちゃん」
あの、声。
それだけで、十分だった。
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世界が、光を取り戻す。
カナは、ゆっくりと瞬きをした。
「……まぶ、しい……」
初めて見る“色”は、痛みを伴っていた。
白。
青。
人の輪郭。
涙が、止まらない。
「……見える……?」
震える声。
医師が、穏やかに頷く。
「手術は成功しました」
皆見が、そっと手を握る。
「カナ……」
カナは、必死に周囲を見渡す。
「……お姉ちゃんは?」
沈黙。
その沈黙が、答えだった。
「……助かったんだよね?」
皆見は、言葉を選ぶ。
「……生きてる」
それは、嘘ではなかった。
「でも……」
続く言葉が、喉で詰まる。
カナは、すべてを悟ったように、ゆっくり息を吐いた。
「……光、もらっちゃったんだ」
初めて見る世界が、歪む。
「代償、だよね」
誰も、否定できない。
――その夜。
カナは、一人で病室を抜け出す。
歩く。
確かめるように。
廊下の窓に映る、自分の姿。
見える世界は、確かに美しかった。
でも。
「……返せないね」
小さく、呟く。
視力は戻った。
けれど、それは“贈り物”じゃない。
奪ったものだった。
だからこそ。
「……生きるしか、ないよね」
それが、姉から受け取った、
唯一の“命令”だった。
――
数値が、下がり続けていた。
「……出血が止まりません」
医師の声は、淡々としている。
だが、モニターの音は嘘をつかない。
酸素飽和度。
血圧。
どれもが、限界を示していた。
「輸血を――」
「在庫が足りない」
遮る声。
「型が特殊だ。今すぐ確保できる血液はない」
皆見は、足元が揺れるのを感じた。
数時間前、
セリは“死んだ”ことになった。
もう、名前も、過去もない。
(……それでも)
それでも、ここで死なせるわけにはいかない。
「……本人の意思は?」
医師が、小さく問う。
皆見は、答えられなかった。
セリは、意識がなかった。
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暗闇。
それは、恐怖ではなかった。
音も、匂いもない。
(……ああ)
セリは、ぼんやりと思う。
(これ、楽だな)
もう、走らなくていい。
隠れなくていい。
誰かの命令を待つ必要もない。
(……カナ)
名前を思い出す。
胸の奥が、ほんの少し、痛む。
(……見えてるかな)
世界を。
光を。
そこで、意識が、ふっと遠のく。
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「……一致します」
突然、誰かが言った。
「血液型、適合します」
皆見が、振り返る。
医師の手元のデータ。
「……家族です」
その言葉が、重く落ちる。
選択肢は、ひとつしかなかった。
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針が、腕に刺さる。
カナは、じっとそれを見つめていた。
見えるからこそ、逃げなかった。
「……少し、怖い?」
看護師の問いに、首を振る。
「……ううん」
本当は、怖い。
でも、それ以上に。
「……私の、血」
小さく呟く。
「まだ、役に立つんだ」
それは、祈りだった。
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赤が、流れる。
管を通って、
セリの身体へ。
数値が、わずかに、持ち直す。
モニター音が、変わる。
「……反応、出てます」
医師の声が、少しだけ明るくなる。
皆見は、息を吐いた。
(……戻ってこい)
誰にともなく、願う。
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セリは、夢を見た。
光はない。
でも、あたたかい。
(……なんだ、これ)
懐かしい、感覚。
昔、手を引いてくれた人の体温。
血の、鼓動。
(……生きてるな)
そう、理解する。
そして、意識の底で、微かに思った。
(……また、借りたか)
命を。
妹から。
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夜明け前。
医師が、静かに告げる。
「……峠は越えました」
完全な回復ではない。
奇跡でもない。
ただ、生き延びただけ。
皆見は、椅子に座り込み、
しばらく立ち上がれなかった。
――…
その病室で。
名前のない女が、
もう一度、息をしている。
光を失い、
血を受け取って。
それでも。
まだ、生きている。