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最初に戻ってきたのは、音だった。
機械の低い唸り。
布が擦れる気配。
人の呼吸。
セリは、目を開けようとして、やめた。
(……開けても、意味ないな)
そう思ったからだ。
闇は、変わらない。
黒ですらない。
ただ、“ない”。
「……起きてるかい?」
皆見の声。
セリは、小さく頷いた。
「……見えない」
確認するように言う。
「うん」
皆見は、嘘をつかない。
「もう、戻らない」
「……そっか」
不思議と、取り乱しはしなかった。
覚悟は、していた。
登録書類に、署名した時点で。
「……時間、分かる?」
「朝。もうすぐ」
セリは、息を吸う。
空気の冷たさで、朝だと分かる。
「……カナは」
皆見は、一瞬、言葉を探す。
「安全な場所に移った」
それが、すべてだった。
再会の可能性を、
その一文が、静かに否定する。
「……そう」
セリは、それ以上、聞かなかった。
(……それでいい)
心の奥で、何かが静かに閉じる。
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退院後、セリは“別の名前”を与えられた。
知らない音の並び。
呼ばれても、まだ自分だと実感できない。
FBIの保護下。
小さな部屋。
白い壁。
段差のない床。
「……安全だな」
そう呟くと、少し笑えた。
何年も、命が狙われ続けた人間の感想としては、
あまりに平和だ。
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見えない生活は、不便だった。
コップを倒す。
壁にぶつかる。
方向を間違える。
何度も、苛立つ。
でも。
音に、敏感になる。
空気の流れが、分かる。
人の感情が、
声の揺れで伝わってくる。
(……世界、うるさいな)
それが、正直な感想だった。
見えていた頃より、
ずっと。
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ある日、皆見が言う。
「……手紙が来た」
セリは、身体を強張らせる。
「……誰から」
「……渡せない」
沈黙。
その沈黙が、答えだった。
「……そっか」
セリは、頷く。
聞かない。
読まない。
それが、約束だった。
(……生きてる)
それだけで、いい。
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――夜。
ベッドに横になり、天井のない闇を見つめる。
(……見えない世界、か)
想像していたより、
悪くない。
色はない。
輪郭もない。
でも。
恐怖も、過去の映像も、見えない。
血の色も。
母の最期も。
撃たれる瞬間も。
それらは、すべて、
音と記憶の奥に、薄れていく。
(……これでいい)
セリは、静かに思う。
光は、もう要らない。
あの子が、持っているなら。
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世界のどこかで。
カナは、空を見ている。
その空を、
セリは、もう見ない。
でも。
同じ時間を、生きている。
それで、十分だった。
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――…
最初に違和感を覚えたのは、色だった。
カナは、窓辺に立ち、街を見下ろす。
空は青い。
信号は、赤くて、黄色くて、緑。
人の流れ。
表情。
影。
「……多すぎる」
呟きが、零れる。
見えない頃、世界は“音と気配”だった。
整理されていた。
今は違う。
すべてが、一度に押し寄せてくる。
視界の端で、誰かが笑う。
誰かが、睨む。
誰かが、スマートフォンを叩く。
(……疲れる)
それが、本音だった。
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医師は言った。
「順調です。拒絶反応も、ありません」
皆見は、頷く。
「……本人は?」
「……少し、戸惑っているようです」
それも、想定内だった。
だが、カナは口にしなかった。
“見えるようになったのに、しんどい”なんて。
そんなこと、
言ってはいけない気がした。
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ある日。
鏡の前に立つ。
初めて、はっきりと見る自分の顔。
黒い瞳。
少し、姉に似ている輪郭。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
(……返して)
誰にも聞こえない声。
目じゃない。
時間だ。
選択権だ。
――「一緒にいる未来」を。
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夜になると、夢を見る。
知らないはずの顔。
でも、懐かしい声。
姿は、ぼやけている。
いつも、手を伸ばす直前で、消える。
目覚めるたびに、分かる。
(……会えない)
それが、代償だった。
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カナは、見ることを学び直す。
必要なものだけを、見る。
見なくていいものは、視線を落とす。
世界との距離を、
自分で調整する術。
それは、姉が一生かけて身につけた
“生き延びる技術”と、どこか似ていた。