――見えない世界は、まだ安全だった。
――…
朝が来たことは、光ではわからない。
カナにとって朝は、音で始まる。
廊下を歩く靴音。
遠くで開くドア。
それから、一定のリズムで鳴る換気扇の低い唸り。
ここは安全だと、大人たちは言う。
何度も、何度も。
「大丈夫だからね」
「もう怖いことは起きないよ」
その言葉を、カナは信じたいと思っていた。
――信じたいと思うことと、安心できることは、別なのだと知りながら。
ベッドの脇に置かれた白杖に、そっと指先で触れる。
冷たい感触。
ここにある。今日も、ちゃんと。
「……カナさん?」
声がした。
皆見さんだ、とすぐにわかる。
歩くとき、ほんの少しだけ右足を引きずる癖があるから。
「起きてます」
そう答えると、安心したように息を吐く音が聞こえた。
「朝ごはん、もうすぐできるよ。今日は――ええと、天気もいいらしい」
“らしい”。
その言葉が、カナの胸に小さく引っかかる。
天気は、いつも“らしい”。
空の色も、雲の形も、誰かの言葉でしか知ることができない。
メキシコにいた頃も、同じだった。
違うのは、ここには父も母もいないということだけ。
食堂の椅子に座ると、スプーンが食器に触れる音がする。
スープの匂い。
少しだけ、香辛料が強い。
「……これ、辛い?」
「え? あ、ごめん。少しだけ、ね」
皆見さんは、慌てたように言った。そういうところが、カナは嫌いじゃなかった。
食事の途中、不意に、遠くで何かが落ちる音がした。金属が床にぶつかる、乾いた音。
びくりと、体が跳ねる。
「大丈夫だよ。ただ物を落としただけ」
そう言われても、心臓の鼓動はすぐには収まらない。
音は、いつも記憶を連れてくる。
夜中の怒鳴り声。
割れるガラス。
泣き声と、泣くことすら許されなかった静けさ。
「……ごめんなさい」
思わず、そう言ってしまう。
「どうして謝るの?」
皆見さんの声は、少しだけ困っていた。
「……びっくり、したから」
言葉にすると、それだけのことなのに。
――自分が“守られる側”であることを、忘れてはいけないと思ってしまう。
食事が終わると、決まって聞かれる質問がある。
「今日も、姉のこと考えてた?」
カナは、少しだけ黙った。
考えない日は、ない。
でも、考えていると言うと、空気が変わるのを知っている。
「……名前、思い出せないんです」
本当は、違う。
思い出せないのではなく、思い出すのが怖い。
姉の声。
姉の手。
それらを思い出すたび、必ず“別れ”がついてくるから。
「でも……生きてるって、思ってます」
それだけは、嘘じゃなかった。
なぜかはわからない。
根拠も、証拠も、ない。
それでも、胸の奥で、確かにそうだと感じている。
――
その日の午後、施設の外が、少し騒がしかった。
いつもより足音が多く、無線の音が頻繁に聞こえる。
「何か、あったんですか」
カナが尋ねると、一瞬の間があった。
「……念のため、だよ」
その“間”が、答えだった。
――夜。
布団に入っても、眠れなかった。
見えない闇の中で、カナは耳を澄ます。
遠く、確かに聞こえたのは――
知らない、男の声。
低く、冷たい声で、誰かが言った。
「――確認した。標的は、ここだ」
息が、止まる。
その瞬間、カナははっきりと思った。
自分は、
“守られている”のではない。
狙われている。
――…
眠れない夜は、音が多い。
建物が軋む音。
遠くを走る車の低い唸り。
誰かの寝息。
カナは布団の中で、息を整えようとしていた。
そのときだった。
――違う。
言葉になる前に、そう思った。
いつも聞こえている音のはずなのに、今夜はどこか、違和感がある。
足音。
静かで、重心が低い。
警備の人たちの足音とは、少し違う。
ゆっくりで、無駄がない。
それなのに、なぜか――懐かしい。
胸の奥が、きゅっと縮む。
「……?」
カナは、そっと体を起こした。
足音は、廊下で止まったまま動かない。
誰かが、立っている。
それだけで、わかる。
息遣いが、近い。
怖いはずなのに、不思議と体が固まらなかった。
代わりに、胸の奥から浮かんできたのは、ずっと封じていた感覚だった。
――大丈夫。
誰かに、そう言われた気がした。
記憶の中の声かもしれない。
夢の続きかもしれない。
それでも。
この“感じ”を、カナは知っている。
昔、夜中に目が覚めたとき。
怖くて声も出せなかったとき。
必ず、同じ気配があった。
触れられたわけでもない。
声をかけられたわけでもない。
ただ、そこに“いる”という確信。
「……おねえ、ちゃん?」
小さく、呼んだ。
返事はない。
足音も、もう聞こえない。
しばらくして、廊下を巡回する別の足音が遠ざかっていく。
現実が、戻ってくる。
カナは、布団の上で両手を握りしめた。
今のは、なんだったのだろう。
誰かが通っただけ?
怖さが見せた幻?
それでも、胸の鼓動は、さっきよりも落ち着いていた。
不思議だった。
怖い夜なのに、
ひとりじゃない気がした。
翌朝、皆見さんに聞かれた。
「昨夜、何か変わったことはなかった?」
カナは、少しだけ考えてから答える。
「……誰か、いました」
皆見さんの息が、止まる気配がした。
「でも、悪い人じゃ、なかったです」
言い切ると、自分でも驚くほど、確信があった。
皆見さんは、何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
カナは、心の中でそっと繰り返す。
――生きてる。
理由なんて、いらない。
見えなくても、わかることはある。
その“気配”は、
間違いなく、
姉のものだった。