光を渡した夜   作:Haruyama

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(カナ視点/不安な日常)



――見えない世界は、まだ安全だった。


第1章 見えないもの

――…

 朝が来たことは、光ではわからない。

 

 カナにとって朝は、音で始まる。

 

廊下を歩く靴音。

遠くで開くドア。

それから、一定のリズムで鳴る換気扇の低い唸り。

 

 ここは安全だと、大人たちは言う。

 何度も、何度も。

 

「大丈夫だからね」

「もう怖いことは起きないよ」

 

 その言葉を、カナは信じたいと思っていた。

 

 

――信じたいと思うことと、安心できることは、別なのだと知りながら。

 

 

 ベッドの脇に置かれた白杖に、そっと指先で触れる。

 

冷たい感触。

ここにある。今日も、ちゃんと。

 

「……カナさん?」

 

声がした。

皆見さんだ、とすぐにわかる。

歩くとき、ほんの少しだけ右足を引きずる癖があるから。

 

「起きてます」

 

 そう答えると、安心したように息を吐く音が聞こえた。

 

「朝ごはん、もうすぐできるよ。今日は――ええと、天気もいいらしい」

 

 

“らしい”。

 

 

その言葉が、カナの胸に小さく引っかかる。

天気は、いつも“らしい”。

 

 空の色も、雲の形も、誰かの言葉でしか知ることができない。

 メキシコにいた頃も、同じだった。

 違うのは、ここには父も母もいないということだけ。

 

 食堂の椅子に座ると、スプーンが食器に触れる音がする。

 

スープの匂い。

少しだけ、香辛料が強い。

 

「……これ、辛い?」

「え? あ、ごめん。少しだけ、ね」

 

 皆見さんは、慌てたように言った。そういうところが、カナは嫌いじゃなかった。

 

 食事の途中、不意に、遠くで何かが落ちる音がした。金属が床にぶつかる、乾いた音。

 びくりと、体が跳ねる。

 

「大丈夫だよ。ただ物を落としただけ」

 

 そう言われても、心臓の鼓動はすぐには収まらない。

 音は、いつも記憶を連れてくる。

 

 

夜中の怒鳴り声。

割れるガラス。

泣き声と、泣くことすら許されなかった静けさ。

 

「……ごめんなさい」

 

 思わず、そう言ってしまう。

 

「どうして謝るの?」

 

 皆見さんの声は、少しだけ困っていた。

 

「……びっくり、したから」

 

 言葉にすると、それだけのことなのに。

――自分が“守られる側”であることを、忘れてはいけないと思ってしまう。

 

 

 食事が終わると、決まって聞かれる質問がある。

 

「今日も、姉のこと考えてた?」

 

 カナは、少しだけ黙った。

 考えない日は、ない。

 でも、考えていると言うと、空気が変わるのを知っている。

 

 

「……名前、思い出せないんです」

 

 本当は、違う。

 思い出せないのではなく、思い出すのが怖い。

 

 

姉の声。

姉の手。

それらを思い出すたび、必ず“別れ”がついてくるから。

 

 

「でも……生きてるって、思ってます」

 

 それだけは、嘘じゃなかった。

 

 

なぜかはわからない。

根拠も、証拠も、ない。

それでも、胸の奥で、確かにそうだと感じている。

 

 

――

 その日の午後、施設の外が、少し騒がしかった。

 いつもより足音が多く、無線の音が頻繁に聞こえる。

 

「何か、あったんですか」

 

 カナが尋ねると、一瞬の間があった。

 

「……念のため、だよ」

 

 その“間”が、答えだった。

 

 

 

――夜。

 

 

 布団に入っても、眠れなかった。

 見えない闇の中で、カナは耳を澄ます。

 遠く、確かに聞こえたのは――

 

知らない、男の声。

低く、冷たい声で、誰かが言った。

 

 「――確認した。標的は、ここだ」

 

 息が、止まる。

 その瞬間、カナははっきりと思った。

 

 

 

自分は、

“守られている”のではない。

狙われている。

 

 

 

 

――…

 

 眠れない夜は、音が多い。

 

 

建物が軋む音。

遠くを走る車の低い唸り。

誰かの寝息。

 

 

 カナは布団の中で、息を整えようとしていた。

 

 

 そのときだった。

 

 

 

――違う。

 言葉になる前に、そう思った。

 いつも聞こえている音のはずなのに、今夜はどこか、違和感がある。

 

 

足音。

静かで、重心が低い。

警備の人たちの足音とは、少し違う。

ゆっくりで、無駄がない。

 

 

 それなのに、なぜか――懐かしい。

 胸の奥が、きゅっと縮む。

 

 

「……?」

 

 カナは、そっと体を起こした。

 足音は、廊下で止まったまま動かない。

 

誰かが、立っている。

それだけで、わかる。

息遣いが、近い。

怖いはずなのに、不思議と体が固まらなかった。

 

 

 

 代わりに、胸の奥から浮かんできたのは、ずっと封じていた感覚だった。

――大丈夫。

 

 

 誰かに、そう言われた気がした。

 

 

記憶の中の声かもしれない。

夢の続きかもしれない。

 

 

それでも。

この“感じ”を、カナは知っている。

 

 

昔、夜中に目が覚めたとき。

怖くて声も出せなかったとき。

 

必ず、同じ気配があった。

触れられたわけでもない。

声をかけられたわけでもない。

ただ、そこに“いる”という確信。

 

 

 

「……おねえ、ちゃん?」

 

 

 小さく、呼んだ。

 

 

返事はない。

足音も、もう聞こえない。

 

 

 しばらくして、廊下を巡回する別の足音が遠ざかっていく。

 現実が、戻ってくる。

 

 

 カナは、布団の上で両手を握りしめた。

 今のは、なんだったのだろう。

 

誰かが通っただけ?

怖さが見せた幻?

 

 

 それでも、胸の鼓動は、さっきよりも落ち着いていた。

 不思議だった。

 

 

 怖い夜なのに、

 ひとりじゃない気がした。

 

 

 

 翌朝、皆見さんに聞かれた。

 

「昨夜、何か変わったことはなかった?」

 

 カナは、少しだけ考えてから答える。

 

「……誰か、いました」

 

 皆見さんの息が、止まる気配がした。

 

「でも、悪い人じゃ、なかったです」

 

 言い切ると、自分でも驚くほど、確信があった。

 皆見さんは、何も言わなかった。

 

 ただ、静かに頷いた。

 カナは、心の中でそっと繰り返す。

 

 

――生きてる。

 

 

理由なんて、いらない。

見えなくても、わかることはある。

 

 

その“気配”は、

間違いなく、

姉のものだった。

 

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