――触れないはずのものが、確かに近づいてくる。
――…
朝は、いつもと同じ音で始まった。
食器の触れ合う音。
誰かの笑い声。
テレビのニュースが、低い音量で流れている。
だからこそ、最初の異変に気づいたのは、偶然だった。
――静かすぎる。
人が多いはずの時間帯なのに、足音が少ない。
代わりに、聞き慣れない電子音が、短く鳴った。
ピッ。
その音の意味を、カナは知らない。
でも、胸の奥がざわついた。
「……?」
白杖を手探りで掴んだ、その瞬間。
――ガンッ。
鈍い衝撃音が、建物全体を震わせた。
遅れて、悲鳴。
「伏せて!」
誰かの怒鳴る声。
床に押し倒される感触。
カナの耳元で、激しく呼吸する音がした。
「カナさん、動かないで!」
皆見さんだ。
声が、少しだけ震えている。
連続する破裂音。
耳を塞ぎたくなるほど大きくはない。
でも、それが“銃”だと、なぜかわかった。
音が違う。
重くて、冷たい。
廊下を走る足音。
何かが壊れる音。
「侵入者、複数!」
「裏口から――!」
飛び交う言葉は、意味を結ばない。
ただ一つだけ、はっきりと聞こえた。
「――タカザキだ」
その名前が、空気を変えた。
空気が、凍りつく。
大人たちの呼吸が、一斉に乱れる。
「タカザキ……?」
カナは、思わずその名を繰り返した。
知らないはずの名前なのに、胸の奥が、嫌な音を立てる。
まるで、触れてはいけないものに、触れてしまったような。
皆見さんの腕に、力がこもる。
「聞くな。何も聞かなくていい」
でも、聞こえてしまう。
無線越しの叫び。
「目標は――」
「違う、あいつの狙いは――」
言葉は途中で途切れ、何かが倒れる音がした。
カナの視界は、最初から暗い。
それなのに、今はもっと、深い闇に落ちた気がした。
そのとき。
――あの、足音。
昨夜と同じ、低く静かな足音が、近づいてくる。
混乱の中でも、カナははっきりとそれを認識した。
走らない。
慌てない。
まるで、最初からここに来ると決めていたみたいに。
「……っ」
皆見さんが、息を呑む。
その足音は、部屋の前で止まった。
一瞬、すべての音が遠ざかる。
そして、低い声が、ドア越しに落ちてきた。
「――カナ・イシカワは、ここか」
名前を、正確に呼ばれた。
心臓が、強く跳ねる。
逃げなきゃ、と思うのに、体が動かない。
でも。
恐怖よりも先に、胸に浮かんだのは、別の感情だった。
――違う。
この声は、
昨日、感じた“気配”とは、違う。
冷たくて、硬い。
そこに、迷いがない。
皆見さんが、銃を構える気配がした。
「下がれ! 彼女には――」
言葉の途中で、ドアが破られた。
爆音。
風圧。
床に叩きつけられる衝撃。
悲鳴の中で、誰かが叫ぶ。
「タカザキだ――!」
その瞬間、カナははっきりと理解した。
この名前は、
姉ではない。
姉を、追い詰める名前だ。