――生きるために、名を捨てた女。
――
銃声が止んだことは、距離でわかる。
音が消えた。
それだけで、失敗ではないと判断した。
彼女は、古い倉庫の影に身を潜めたまま、ゆっくりと呼吸を整える。
左腕が、じくじくと熱を持っていた。
浅い。動ける。
――予定通り。
誰にも聞かせないように、小さく息を吐く。
自分の体調を把握するのは、癖になっていた。
ポケットから錠剤を取り出し、舌の上に転がす。
水は使わない。慣れている。
“タカザキ”。
その名前が、無線越しに聞こえてきたのは、ついさっきだ。
笑いそうになって、やめた。
使い捨ての名前。
恐怖を集めるためだけの、記号。
それを“自分”だと思われているうちは、まだ利用価値がある。
携帯が、短く震えた。
『派手にやったな』
カジヤだ。
声だけで、顔が浮かぶ。
「計画通り。誰も、私を見ていない」
『……ああ。警察も公安も、完全に“タカザキ”を追い始めた』
「なら、十分だ」
通信を切ろうとした、そのとき。
『妹、近かっただろ』
指が、一瞬止まる。
「……触れてない」
『知ってる。触れたら、お前は戻ってこない』
余計なことを言うな、と言いかけて、飲み込んだ。
代わりに、静かに言う。
「彼女は、見る必要がない」
『……目、か』
沈黙。
彼女は、壁にもたれかかり、ゆっくりと目を閉じた。
――暗闇は、昔から変わらない。
六歳のとき、
目の前で、母は殺された。
泣く暇も、声を出す暇もなかった。
次に与えられたのは、銃と、新しい名前。
生きるために、従うしかなかった。
生き延びるほど、罪が増えた。
それでも、あの子だけは――
「……」
思考を、強制的に切る。
感情は、後でいい。
今は、生き延びる。
携帯を取り出し、別の番号を呼び出す。
海外回線。
数コールの後、低い男の声が応じた。
『――話せ』
「《ヴェリア》の内部情報を渡す。幹部の動線、資金洗浄ルート、次の標的」
『条件は』
「私の“死亡”」
一拍。
『……名は?』
彼女は、少しだけ考えた。
そして、初めてその名を口にする。
「タカザキ」
電話の向こうで、誰かが息を呑んだ気配がした。
『了解した』
通話は、それだけで終わった。
携帯をポケットに戻し、立ち上がる。
足は、まだ動く。
時間は、少ない。
それでも、心の奥に、どうしても浮かんでしまう声があった。
――おねえちゃん?
昨夜、確かに聞こえた。
幻じゃない。
夢でもない。
彼女は、唇を噛む。
会ってはいけない。
名乗ってはいけない。
“姉”として生きる資格は、もうない。
それでも。
「……生きろ」
誰にも届かないように、そう呟いた。
名前を捨てた女は、
再び闇の中へと歩き出す。
世界は彼女を、
“タカザキ”と呼ぶ。