バグのヒーローアルカディア   作:胡麻蝉あぶら

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117話 イグナイテッドアロー

 

エンデヴァーのヒーロー事務所。

日頃は数多くのプロヒーローやサイドキックたちが忙しく立ち回り、活気と熱気に満ち溢れているこの場所が、今日に限っては静寂に包まれていた。

 

広大な執務室の中にはたった二人。

轟炎司とその長男、轟燈矢である。

 

その空間を満たしていたのは再会の喜びなどではなかった。

 

息の詰まるような苦悩と行き場のない怒り。

そして過去の因果がもたらした悲しみが、二人の間をドロドロと渦巻いていた。

 

エンデヴァーは執務机に両肘を突き、両手で自身の顔を覆い隠したままうなだれていた。

 

大火事の事故で死んだとばかり思い込んでいた長男の、奇跡的な帰還。

それどころか彼は裏社会にいながらも立派に人を救う大人へと成長し、かつて自らを苦しめ続けた体質の問題すらも乗り越えていたのだ。

 

親として思うこと、言いたいこと、そして謝らなければならないことは山のようにある。

 

にもかかわらず。

エンデヴァーは今、燈矢の顔をまともに見ることができず、ただ床を見つめることしかできなかった。

 

彼の動揺に呼応するように巨体を包む炎が弱々しく、あるいは突発的に激しく揺らめく。

ひどく不安定に明滅を繰り返していた。

 

あの告発映像。

それが何者かによる悪意の捏造であることは分かっている。

今目の前に、火傷の痕が塞がった本物の燈矢が立っているのだから。

 

しかし。

映像の中で語られた、エンデヴァー自身の過去を否定することはできない。

そして今のエンデヴァーにとって、自らの魂を切り裂くように痛めつけている事実がある。

 

それは彼自身の蒔いた過去の呪いと身勝手な野望のツケに。

何の罪もない燈矢が巻き込まれ、悪意の底へと引きずり込まれようとしていることだ。

 

あの告発映像の主役に、轟燈矢という存在が選ばれた理由。

それは、最も手っ取り早くエンデヴァーを社会的に殺すための致命傷となるからに他ならない。

 

 

(……俺は。俺は、どこまでこの子を苦しめれば気が済むんだ……)

 

 

過去、エンデヴァーの身勝手な期待と拒絶が燈矢の心を壊し、苦しめた。

 

そして今。

エンデヴァーの背負うナンバーワンとしての重圧と、過去の所業という名の亡霊。

その二つが、燈矢の人生を再び地獄へと縛り付けようとしている。

 

いつまで、俺は彼を縛り付けてしまうのか。

 

あの悪趣味な映像を作った黒幕がいるのだとしても、エンデヴァーの心は底なしの自己嫌悪の沼へとと沈み続けていた。

 

事務所の専属弁護士や広報担当のサイドキックたちはエンデヴァーに対し、こう進言してきた。

 

 

『記者会見を開いて事実関係を認めるような対応をすれば、それ自体が社会的な大問題となります』

 

『ここは憮然とした態度で黙殺し、これまで通りヴィラン退治の活動を続けるべきです。そうすれば、あれはヴィランの卑劣な策略だったのだと、いずれ世間のイメージダウンも解消されるはずです』

 

 

なるほど。

それはトップヒーローの事務所を運営していく上でのリスクマネジメントだ。

 

もしここでエンデヴァーがヒーローの仮面を脱ぎ捨て、轟炎司という一人の人間としての謝罪や映像に対する訂正を行ってしまえば。

厳格で一切の妥協を許さない炎の化身という、エンデヴァーのイメージは崩れ去る。

 

世間の批判を完全に無視し、何も語らずに背中だけで結果を示し続ける。

 

ファンは一時的に離れるかもしれないが、いずれ「エンデヴァーはあの最悪の逆境の中でも、決して折れることなくストイックに戦い続けた本物のヒーローだ」という、好意的な流れに世論が傾く可能性は十分にある。

彼がこれまで築き上げてきた実績は、それほどまでに巨大なのだ。

 

 

(……だが……燈矢は、どうなる?)

 

 

エンデヴァーが保身を選び、沈黙を貫いた場合。

轟燈矢という青年は。

これから先、この社会のどこで生きていこうとも。

 

永遠に大量殺人鬼としてのレッテルを貼られたままになるのか?

 

 

(……言いたくない……過去の罪を、世間に晒したくない……)

 

 

己の築き上げてきたすべてが、砂上の楼閣であったと認める恐怖。

 

 

(……いや……違う、言いたいのだ……俺の過去はどうでもいい。燈矢は、あいつは、あんな虐殺なんて絶対にやっていないと……大声で世間に叫びたい)

 

 

だが。

いったい誰が、その言葉を信じてくれるというのか。

 

 

(……俺は……利己的な夢のために家族を壊した、ろくでもない過去を持つ男だぞ……そんな最低な男が庇う、長男なんだぞ……?)

 

 

大衆はエンデヴァーが嘘をついていると、息子を庇うための見苦しい言い訳だと冷笑するに決まっている。

真実を語れば語るほど、燈矢は世間の悪意という炎に焼かれることになる。

 

絶対的な詰み。

 

轟炎司の呼吸が次第に浅く、速くなっていく。

酸素が足りなくなり、消え入りそうに小さく燃える炎のように。

 

 

彼の広くて分厚い背中は今、この世界で最も惨めで小さく見えた。

 

 

 

 

 

そんな父親の姿を。

燈矢は壁に寄り掛かる形で静かに見つめていた。

 

幼い頃、あれほどまでに巨大で輝いて見えた憧れの父。

その父が今、過去という呪縛に絡め取られ、身動き一つ取れずに立ち止まっている。

 

自分が己の炎で火傷を負い、「もう夢を諦めろ、別の道を見つけろ」と言ったあの時の父よりも。

今の彼はひどく小さく、脆く見えた。

 

その背中を見た瞬間。

燈矢の脳裏に、かつてこの家で同じように立ち止まった女性の姿が重なった。

 

 

(……あの時の、母さんだ)

 

 

どこまでも運命に流され、抵抗することもできず、何もできずに動かなくなってしまった母、轟冷。

今の父はまるで氷のように己の熱を冷まし、後悔という名の凍土の中で動けなくなっている。

 

ああ、そうか。

燈矢は唐突に、一つの心理を理解した。

 

 

母も、今の親父と同じだったのだ。

 

 

氷叢の家から金で買われ、政略結婚という形でこの家にやってきた。

 

たとえその後に、二人の中に歪ながらも確かな愛が芽生えていたとしても。

母の立場は、狂気的な夢に取り憑かれた夫の暴走を止められるほどの権力や足場を持っていなかった。

 

夫の夢を阻みたくない。

期待に応えたい。

しかし、壊れていく子供たちを見るのは耐えられない。

 

その矛盾した地獄の板挟みの中で、彼女は静かに狂っていくしかなかった。

 

では、その両親から生まれた子供たちはどうか。

 

氷叢の血は濃い。

轟家の子供たちは、生まれた時は白髪と赤髪が混ざっていることが多いが、成長するにつれて、その髪は徐々に氷叢の血を示す白へと染まっていく。

 

それは単なる遺伝の法則ではない。

あの氷叢の家が背負う、冷たくて重い宿業そのものを、肉体に宿しているという証明であった。

エンデヴァーの炎の野望は結局のところ、氷叢の血の濃さという遺伝子の壁の前に敗北を義務付けられていたのだ。

 

後から考えれば。

焦凍以外の子供たちが炎の個性を完璧に受け継げなかったのは、決して彼らが失敗作だったからではない。

むしろ氷叢の血の強さを考えれば、それは順当で当たり前の結果でしかなかったのだ。

 

轟家という呪われた檻の中では。

父も、母も、そして子供も。

 

 

誰もが己の過去と血に縛られていた。

 

 

燈矢は静かに顔を上げた。

彼の青い瞳にはただ、自分が為すべきことを見据えた力強い光だけが宿っている。

 

彼は踵を返して、無言のまま執務室のドアへと向かって歩き出した。

 

 

「……待ってくれ!」

 

 

その後ろ姿を見たエンデヴァーが弾かれたように顔を上げ、すがるような声で叫んだ。

 

 

だが、燈矢は立ち止まらなかった。

彼の中で次の目的地が決まっていたからだ。

 

それに、これでお別れではない。

 

ドアノブに手をかけ、振り返ることなく。

燈矢は穏やかな声で告げた。

 

 

「……またね、お父さん」

 

 

その言葉を残し、燈矢は足を進めた。

 

向かう先は一つ。

難羽から、念のためと場所だけは知らされていた。

だいぶ前に一度聞いたきりだったが、彼はそれをはっきり覚えている。

 

 

己の母。

轟冷が入院している、あの病院へと。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……まさか、こうなるとは思わなかったがな……ッ」

 

 

氷を生成しながら燈矢は悪態をついた。

 

夕暮れの空が、狂気のような赤い炎によって包み込まれているというのに。

破壊された病室の中はまるで空調でも稼働しているかのように涼しかった。

 

病室の床から天井に向かって、氷の壁が部屋の半分を遮断するように屹立していた。

 

燈矢が廊下の奥から女の悲鳴を聞きつけ、この部屋に飛び込んできた瞬間に放った氷。

その氷の壁が盾となり、窓側から迫り来る業火から部屋の奥にいた母、冷の命を守り抜いたのだ。

 

氷の壁の奥で冷は床にへたり込み、ガタガタと震えていた。

 

長きにわたる病院での生活で、外界の出来事から隔離されていた彼女は自分の目の前で何が起きているのか、その状況を理解してはいない。

ただ、過去のトラウマを抉るような恐ろしい赤い炎と、恐ろしい悪意に自分が巻き込まれたことだけは本能で理解し、怯えていた。

 

燈矢は透明な氷の壁越しに、窓辺に立つ下手人の姿を見据えていた。

 

 

(……笑えねぇ冗談だぜ)

 

 

そこに立っていたのは。

 

燈矢自身と同じ背格好。

そして、顔の輪郭や目鼻立ちまでが似た男。

さらにその全身は赤黒く爛れた火傷の痕と継ぎ接ぎされた皮膚で覆われていた。

 

ただ、腕に宿る赤い炎が偽物であることを示している。

 

燈矢は氷越しにその偽物の姿を見て。

不思議と、怒りよりも深い感慨を覚えていた。

 

 

(……あいつは……俺だ)

 

 

もしもあの日、自分がボスの難羽に拾われず。

 

世界の真実を知ることもなく、ただ父への復讐の炎だけで己の命を燃やし尽くしていたとしたら。

 

焦凍に己の復讐を相談することもなく。

 

父の背中を押し、抱きしめることもできなかった自分がいたとしたら。

 

 

あの窓辺の偽物は、最悪の可能性の果てに行き着いた自分(荼毘)の姿であった。

 

だが。

 

 

(……俺は、ここにいる)

 

 

かつての白い肌を取り戻した自分。

 

父の炎を否定し、母の氷の力を受け入れ、自分のものとした自分。

 

 

過去に縛られるのではなく、未来を救うために前を向いて歩き出した本物の轟燈矢()が、ここにいる。

 

 

「……下がってな、母さん」

 

 

燈矢は震える冷を床に座らせたまま、自身の両腕を真っ直ぐに前方へと突き出した。

 

 

燈矢は、ずっと不思議に思っていたことがあった。

 

 

焦凍は半冷半燃という個性により、右半身から氷を、左半身から炎を、それぞれ独立して放出することができる。

 

現在、燈矢自身も氷の個性を完全に発現させ、自由に出せるようになっている。

そして元々持っていた蒼い炎の火力は、焦凍のそれを凌駕するほど強力だ。

 

しかし燈矢の能力は、焦凍のそれとは根本的に構造が違っていた。

 

自分の放つ炎の熱に皮膚が耐えきれずに火傷を負ってしまうという、熱に弱い体質だと宣告された。

 

だが、あの山火事の際。

自らが原因となった大火災の中心にいたというのに彼は命を落とさず、生き残った。

治療があったとはいえ、炎の海から救出されるまでの間、彼の肉体はなぜ完全に炭化せずに原型を留めていたのか。

 

その答えは。

彼の肉体の内と外で、体質が分かれていたからだ。

 

確かに外部(皮膚)だけで考えれば熱に弱いのだろう。

しかし、内部(体内)

体内は、氷の因子によって冷却されることで守られてきたのだ。

 

言い換えれば。

彼の本当の個性は、内冷外炎。

 

 

体内での絶対零度の生成と、体外への超高熱の放出。

体質とは別の、それが彼の個性である。

 

 

身体の奥底から極低温の氷を生成し、自身の腕を分厚い氷の装甲で包み込んでいく。

 

それは単なる氷の盾ではない。

熱に弱い皮膚を氷の層によって耐熱補強するための自己防衛システム。

 

この氷の皮膚さえあれば、火傷のリスクなど気にする必要はない。

限界を設けず、本気の炎を放つことができる。

 

 

「……フウウウゥゥゥ……ッ」

 

 

燈矢は両手のひらを合わせ、前方に突き出した氷の腕を構えた。

その両腕を包み込む氷が、まるで獣の顎のように大きく口を開く。

 

その氷獣の喉の奥底から、白く輝く蒼炎が漏れ出した。

 

それを合図に、部屋を二分していた氷の壁が溶け落ちる。

壁が消えた瞬間、窓辺にいた偽物が狂気に満ちた笑みを浮かべ、再び致死の赤い炎を冷に向かって放とうとする。

 

しかし、偽物の笑みは、燈矢の構えから放たれるプレッシャーの前に絶望と恐怖の顔へと引き攣った。

 

 

 

「──イグナイテッド……アローッッ!!!」

 

 

 

空間が破裂したかのような轟音。

燈矢の突き出した氷獣の顎から、超高温に圧縮された蒼い光の矢が一直線に放たれた。

 

それは単なる炎の放射ではない。

レーザーのような指向性を持った、純粋な熱エネルギーの穿孔攻撃である。

 

光の矢は偽物が放とうとした赤い炎を貫通し、そのまま偽物の腹部を打ち抜いた。

熱と衝撃波が偽物の身体を吹き飛ばし、窓の外、空中へと弾き出す。

 

 

「ギャアアアアアァァァァッ!!!」

 

 

肉が焼ける匂いと熱さに絶叫を上げながら。偽物は地上に向かって落下していく。

燈矢は窓枠の縁に立ち、落下していく男を見下ろしていた。

 

 

その時、夕空を切り裂くような速度で赤い残像が動き、落下していく偽物を捕獲したのが見えた。

 

 

残像はそのままの速度で反転し、燈矢の立つ病室の窓辺へと舞い降りた。

ホークスである。

 

 

「……ありがとう」

 

「……ナイスキャッチ。……危うく人殺しになっちまうとこだった」

 

 

顔に焦燥と安堵の涙の痕を残したホークスは、震える声で燈矢に感謝の言葉を述べた。

 

しかし、燈矢は吹き飛ばした後のことは全く考えていなかった。

感謝したいのは彼の方である。

燈矢は照れ隠しのように冗談めかして笑い、気絶した偽物の身柄をホークスに任せた。

 

 

安全が確保され、燈矢は背後を振り返った。

病室の中は先ほどの炎と氷の衝突によって、とても患者が休めるような状態ではなくなっていた。

 

状況が分からず、困惑して震える母を抱き起こす。

 

 

その時、廊下の奥から爆発音を聞きつけた複数の看護師や医師たちが、血相を変えて病室へと駆け込んできた。

 

 

彼らは部屋の惨状と助け起こされている冷の姿を見て、安堵の表情を浮かべた。

そして冷を抱きかかえている見知らぬ青年に向かって、不審と感謝の入り交じった声で素性を尋ねた。

 

看護師たちは、誰も目の前の青年が告発映像を流したあの轟燈矢であるとは、微塵も思っていなかった。

 

それはそうだろう。

あの映像のインパクトは絶大であった。

視聴者の脳裏に焼き付いているのはあの火傷痕の怪物の顔である。

 

目の前にいる青年は極めて健康的な若者だ。

彼らがこの青年とあの映像を結びつける要素など、一体どこにあるというのか。

 

しかし、燈矢はここで己の素性を隠し、無関係な人間を装うつもりはなかった。

 

今、自分がここで名乗り出れば、不要な混乱招くことになる。

言うべきではないと、彼は理解していた。

 

それでも。

 

 

「俺は」

 

 

燈矢は顔を上げ。

看護師たちに、そして己の腕の中にいる母に向かって。

 

憑き物が落ちたような、晴れやかな笑顔を見せた。

 

 

 

 

「……俺は、轟家の長男。……轟冷(お母さん)の、息子です」

 

 

 

 

その言葉に看護師たちは呆気にとられ、言葉を失って固まった。

冷もまた、目の前の青年の顔をじっと見つめ、その瞳の奥に宿るあの子の面影を見つけ出し、息を呑んだ。

 

燈矢は母の身体を看護師の腕へと託すと。

彼らの横を素早くすり抜け、燃えカスが舞う廊下へと飛び出し力強く走り出した。

 

 

 

(俺は、もう過去の亡霊じゃない)

 

 

 

己の罪を背負い、父の呪縛を解き、母を守り抜いた。

今、この瞬間から。

正しく。

 

 

 

 

「俺は、轟燈矢だ」

 

 

 

 

 





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