別れ
テラ暦10■■年。
終わりの見えない戦火が大地を焼き続ける、魔族の王国。
黒き尖塔が立ち並ぶ王城の中庭には、冷たい風だけが吹き抜けていた。
「……本当に行ってしまうの? ――ミュトロゴス」
澄んだ声が、その名を呼ぶ。
声の主は、英雄であり魔王。
サルカズの未来を背負う魔王――テレジアだった。
彼女の視線の先では、一人の夢魔が旅装を整え、王城の門へ向かおうとしていた。
銀にも白にも見える長髪を揺らし、整った顔立ちには穏やかな笑みを浮かべている。
その笑みだけが、別れの場にはあまりにも似つかわしくなかった。
「おや」
夢魔の男――ミュトロゴスは足を止める。
「テレジア殿下。斯様な者を、わざわざ見送りに来られるとは」
肩をすくめるように微笑むと、手にしたアーツユニットの杖で、石畳を軽く叩いた。
乾いた音が、静かな中庭へ響く。
「……うん。申し訳ないけれど、僕はここを出ていくつもりさ」
その声音は穏やかで、どこか肩の荷が下りたようでもあった。
引き留められることなど、初めから期待していない。
そんな諦めすら滲ませている。
テレジアは数歩だけ歩み寄る。
「どうして?」
その問いに、ミュトロゴスは空を仰いだ。
灰色の雲が、カズデルの空を覆っている。
「理由なんて、いくらでもあるさ」
小さく笑う。
「皆が皆、自分こそがサルカズの未来を知っていると信じている。……そんな場所に、夢を見ることしか能のない夢魔がいても仕方ない」
「そんなこと――」
「あるとも」
テレジアの言葉を、彼は柔らかく遮った。
怒りも皮肉もない。
ただ、長い年月を生きた者だけが持つ静かな確信があった。
「僕はね、殿下」
杖の石突きを再び鳴らす。
「王には向いていない。軍師にも、政治家にも、英雄にもね」
夢魔の瞳が細められる。
「けれど、一人の旅人にはなれる」
王城の門へ視線を向ける。
その先には荒野が広がり、戦争があり、滅びゆく集落があり、それでもなお生きようとするサルカズたちがいる。
「だから僕は、彼らの夢を見届けに行く」
テレジアは何も言えなかった。
この男は、一度決めたことを覆さない。
それを知っていたからだ。
しばらく沈黙が続く。
ミュトロゴスは振り返らなかった。
ただ、手にした杖を静かに握り直し、どこか遠い景色を見つめるように目を細める。
「……それに」
ぽつり、と。
独り言のように言葉を零す。
「君は、一度決めたら梃子でも動かないだろう?」
テレジアは答えない。
答えられなかった。
夢魔は夢を見る種族だ。
だからこそ、誰よりも”未来”を恐れる。
「この先に待つどんな苦難も……君はきっと、受け入れてしまう」
風が吹き抜ける。
王城の尖塔に掲げられた黒旗が、重くはためいた。
「民のためなら」
「サルカズのためなら」
「未来という火に、自らを薪として焚べることすら……きっと君は出来てしまう」
その声は責めるものではない。
諦めでもない。
ただ、未来を知る者だけが抱く、深い悲しみだった。
テレジアは唇を結ぶ。
否定したかった。
「そんなことはしない」と。
だが、その言葉は喉元で消えた。
否定できない。
自分がその選択をする人間であることを、誰よりも自分自身が知っていたからだ。
ミュトロゴスは小さく笑う。
……■■のこともあるし。
その名だけは、誰にも聞こえぬよう呟かれた。
長い年月を共に歩いた友。
あるいは、夢魔が知る、決して口外できない存在。
その名を思い浮かべるだけで、彼の笑みはほんの少しだけ寂しげになる。
「夢魔の私は」
杖の石突きが、石畳を軽く叩く。
「ここでは、お払い箱と言ったところかな」
王庭は変わった。
剣を掲げる者が重んじられ、知略を巡らせる者が権勢を握る。
夢を語る者に居場所はない。
まして、人の心を覗き、未来の兆しを見てしまう夢魔など。
平穏な時代には重宝されても、■■の時代では忌避されるだけだ。
「だから行くよ」
彼はようやく振り返った。
その笑みは、別れを惜しむものではなく。
これから始まる長い旅路を受け入れた旅人の笑みだった。
やがてテレジアは、困ったように微笑んだ。
「……また帰ってきてくれる?」
その問いに、ミュトロゴスは少しだけ目を見開き、やがていつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「もちろん」
それは嘘ではない。
だが、約束でもなかった。
「夢魔は案外、帰る場所を忘れない生き物だからね。君が選ぶ未来を、せめて遠くから見届けよう」
「魔王テレジア」
その言葉だけを残し、夢魔は再び歩き出す。
杖が石畳を叩く音は、次第に遠ざかり、やがて王城の静寂へと溶けていった。
テレジアは最後まで引き止めなかった。
引き止めれば、彼はきっと困ったように笑うだけだと知っていたから。
だから魔王は、小さく、本当に小さく呟く。
「……さようなら、ミュトロゴス」
その声は、夢魔の耳には届かなかった。
魔王は、その背中が城門の向こうへ消えるまで、ただ黙って見送っていた。
「こんな所で会うなんて、奇遇だね」
「――ミュトロゴス。生きていたとは」
「あはは。そんな顔をしないでくれよ。僕は元気さ。君はどうなんだい、賢き獣殿」
「その奇妙な呼び名をやめろ。……はぁ。テレジア殿下が、お前を案じていたのは知っている。だが……なぜ、サルゴンにいる?」
「いや。そもそも、最近巷を騒がせている占い師というのは……まさか、貴様かっ!」
「(*サルカズスラング*)――あれほどアーツの悪用は止めろと、先王時代にも言った筈だが」
「言っただろう?僕は元気さと。私の方は、少々厄介なことになっているけどね」
「貴様の一人称の使い分け等、どうでも良い。厄介事になってるのは変わらんだろうが」
「お陰で、俺がここまで来る羽目になった原因が貴様とはな。腹立たしいが……手間が省けた」
「おや?それはまた」
「別件だが、こちらで庇った同胞への追っ手を、未だ撒けずにいる。被害は抑えたい。……ミュトロゴス。お前が協力すれば、その厄介事引き受けてやる」
「へぇ。責任感のある君が、そんなことを言うなんて……それくらい面倒ってことかい?」
「龍門弊も、支払おう。正式な依頼として組んでも良い。……相手は、サルカズの■■■を連れてる」
「洗脳系のアーツも使いはする。だがそれよりも……叶うならば、……楽にしてやりたい」
「ふぅん。中々、贅沢な使い方をするね、追っ手とやらは。まぁ良いさ。交渉……いや、契約成立だね。宜しく、賢き獣殿」
「その呼び名は、なんなんだ一体」
「はは、別に良いじゃないか。好きに呼べ、と最初に言ったのは君の方だろう」
「……そうだったか?」
「忘れたのかい?ああ、あれは、君の方からだったよ。――間違いなくね」