ラインハルトに二つ上のお姉ちゃんがいたら。
平和なアストレア家になってほしいなぁと。
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『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアは、世界最強の男だ。
『剣聖の加護』の継承者であり、他にも数え切れぬ加護を宿す。しかも彼は、自ら望む加護すら手に入れることができる。
加護に頼らない剣の才も、また怪物だった。先代『剣聖』テレシア・ヴァン・アストレアですら、その才能を見て震えたという。
その余りの強さから国外への移動を禁止されており、国境付近に近づくことも制限する条約が周辺国家と結ばれている。
強さだけではない。
父や祖母譲りの赤髪と碧眼を備えた容姿は極めて優れており、性格面でも自身の力に溺れることなく、周囲への思いやりにも溢れ、正義感も強い。
まさに完璧超人だ。
そんな彼には、尊敬する人物が数多くいる。
例えば、『剣鬼』と呼ばれ、祖母を『剣聖』の役目から解放した、祖父ヴィルヘルム・ヴァン・アストレア。
例えば、先代『剣聖』として泥沼化していた亜人戦争を終結に導いた、祖母テレシア・ヴァン・アストレア。
例えば、剣の腕には恵まれないながらも、近衛騎士団副団長・アストレア家当主としてその役割を果たしている、父ハインケル・アストレア。
例えば、『最優の騎士』と評され、将来の義兄となるユリウス・ユークリウス。
その他にも現騎士団長のマーコス・ギルダークや、同僚のフェリックス・アーガイルなど。挙げていけばキリがない。
そんな歴代最強と呼ばれる『剣聖』が、世界にたった一人だけ、心の底から恐れる人物がいる。
──アリーゼ・アストレア。
アストレア家の長女であり、ラインハルトの二つ上の姉。
世界に愛された青年が、唯一頭の上がらない相手である。
◇◇◇
満月が輝く夜。貧民街の一角、今にも崩れ落ちそうな廃墟にて。
『腸狩り』エルザ・グランヒルテを撃退し、その最後の攻撃を受けたナツキ・スバルの応急処置も完了した頃。
『剣聖』の前に、一人の女性が現れた。
「ラインハルト」
「はい」
その名を呼ばれ、『剣聖』は顔を青くしながら直立不動で返事をする。
「こんな所で、なにしてるの?」
「……」
「私の記憶では『久しぶりの休日だから一緒に食事でも』って誘われていた気がするのだけど……アストレア領から王都へ出てきた姉を放って、こんな所で何をしているの?」
「……申し訳ありません」
碧い瞳に見据えられ、『剣聖』の口から謝罪が零れる。
「謝れなんて言ってないでしょう? 説明しなさいと言っているの」
それを受けた女性は、柔らかく、包み込むような優しい声で求める。
「……『腸狩り』と対峙しまして、彼女との戦闘によりこのような状態となってしまいました」
「『腸狩り』ね、騎士団でも度々名前が挙がる傭兵らしいけど……ラインハルト」
「はい」
女性が柔らかく名を呼ぶ、対照的にラインハルトの声はひどく強張っていた。
「それはこの惨状の原因であって、私との約束を放置した理由にはならないわよね?」
「いえ、それはそうですが……」
「ならないわよね」
「…はい」
「なら、今貴方は何をすべきかしら?」
「……申し訳ありません。まず一報を入れるべきでした」
女性が微笑みで先を促す。
「……姉上が作った料理は、きちんといただきます」
「もう冷めてるわね。私の分まで」
「姉上の分も僕がいただきます。もちろんその後に2人分作り直すので、遅れましたがご一緒にいかがですか?」
「3人分も入るの?」
「はい。ちょうどいい運動もできたので、問題ありません」
「それじゃあ決まりね」
女性の声は変わらず穏やかなままだったが、『剣聖』には女性が矛を収めたのが解った。あからさまにならない程度に、そっと息を吐く。
「それにしても、『腸狩り』はここまで力を出す必要があるほど強かったの?」
「確かに凄腕の暗殺者でしたが……」
「……が?」
「その……友人に見られて気分が上がってしまって」
「友人」
女性は『剣聖』から視線を外し、周囲の人物を見やる。
銀髪に紫紺の瞳の少女、エミリアには敬意を持って。
金髪に赤眼の少女、フェルトへは暫しの思考と共に。
少し離れた場所に倒れている巨漢の男、ロム爺には一瞬だけ。
そして最後に、エミリアの傍へ。
見慣れぬ服──ジャージを纏い、腹に横一文字の裂傷を負った、この国では珍しい黒髪の少年、ナツキ・スバルをじっくりと。
「──まあ、王国の危険分子を排除したのだし、これくらいは構わないでしょう」
そうして順繰りに周囲を観察し終えた女性は、軽い口調で言う。
「いえ、排除することは叶いませんでした」
「…貴方が仕留めきれなかったの?」
「はい。確実に仕留めたと思ったのですが、実際には仕留めきれておらず……エミリア様への奇襲、さらには逃走を許してしまいました」
「そう」
女性は生じた驚愕を一瞬で抑え込んだ。『剣聖』への追及を辞め、エミリアへと身体を向ける。
「初めまして、エミリア様。アリーゼ・アストレアと申します。この度は弟の不手際、誠に申し訳ありません」
カーテシーと共に彼女──アリーゼ・アストレアがそう告げる。鮮やかな金の中に一筋の白金色を備えた、背中まで伸びる髪がふわりと揺れた。
宮中晩餐会でも通用する洗練された所作を見せられ、エミリアがあたふたしながら応じる。
「い、いいのよ、ラインハルトのお陰で助かったんだもの」
「そう仰っていただけて何よりです」
アリーゼがはにかんだ笑みを見せる。エミリアの緊張が少し解れた。
「つきましてはエミリア様、今回の一件について経緯を伺ってもよろしいでしょうか?」
「え、ええっと、それはその……」
「……今日はラインハルトも非番ですし、私も帰りが遅い弟を迎えに来ただけです。エミリア様に不利になるような真似はしませんよ」
「そ、そう? ……それじゃあ、えっと、彼女に徽章を盗られちゃって、それを追いかけてここに来たの──」
気まずそうに、さらには纏まりが無く説明するエミリアに、アリーゼは相槌と共に先を促す。
「……なあ」
その傍らで、フェルトがラインハルトへ小声で訊ねる。
「あんた、あれだけ強いのに、なんであれにはビクビクしてんだよ」
「……君は、兄か姉、そのような人物はいるかい?」
「いや、いねえけど」
「じゃあ分からないかもしれないね──弟という生き物は、姉には逆らえないんだよ」
アリーゼは幼い頃から、その小さな体で、騎士団として不在がちな祖父や父親の代わりにと、ラインハルトの世話をしたわけだが。
如何に完璧超人のラインハルトとはいえ、幼少期には相応のやらかしや粗相も経験している。基本的に子や孫に甘い父や祖父母と違い、姉であるアリーゼは幼さ故の正義感を以て、叱るべき時には容赦なくラインハルトを叱った。
──あれは『剣聖の加護』を授かった当初
「昔、お祖母様が育てている庭の花壇を駄目にしてしまったことがあって」
「枯らしたのか?」
「いや」
ラインハルトは僅かに目を逸らした。
「……良いところを見せようと、加減を間違えて庭園ごと吹き飛ばした」
「おい」
フェルトの脳内では、ラインハルトの剣の一振りにより、いかにも金持ちらしく手の込んだ庭園が一瞬で更地になる様子が映し出されていた。
「お祖母様も怖かったけど、それ以上に姉上の、あの穏やかな表情のまま詰められて……それ以外にも色々とあって、どうにもならないんだ」
ははは、と乾いた笑みでラインハルトは告げる。
世界最強と名高い彼にも、恐ろしい物は存在する。彼はアリーゼに怒られるのが本当に怖かった。
「なるほどなぁ。あたしもロム爺には頭上がんねえし、それと同じってわけか」
「そういう事だね」
近衛騎士、『騎士の中の騎士』、『剣聖』、あり得ないほど強い。
そんな彼が見せた意外な人間らしさに、フェルトは軽い調子で笑った。
「──事情は把握しました」
エミリアから事情を聞き終えたアリーゼが小さく頷く。
「ラインハルト、他に何かある?」
「エミリア様は彼──スバルとは行きずりと仰っていましたが、彼はあなたを探していました。渡したいものがあると。事実、こうしてこの場にいることですし、それに……」
身を呈してエミリアを守った、と言いかけてラインハルトは口ごもる。声高にそう主張することは、彼の行動の気高さを貶めるように思えたからだ。
「命を懸ける理由なんて人それぞれ。エミリア様の知らないところで、彼に救われたと思う出来事があったのかもしれないわね」
アリーゼは、スバルとエミリアの双方を称え、それから改めて安らかな寝顔をさらしているスバルのことに水を向ける。
「彼の身柄はどうしましょうか。よろしければ、当家の方で客人として扱いますが」
「……ううん。こっちで連れ帰ります。その方がはっきりするし、仮にロズワールの関係者じゃないにせよ、私を助けてくれたことに変わりはないもの」
結びに「心遣いはありがとう」と声を掛けられ、アリーゼは目礼で応じる。
「ここはどういう扱いになるの?」
「付近はしばらく立入禁止になるでしょう。無駄骨になる可能性が高いですが、騎士団に『腸狩り』の手配書も出させます」
「あの女の子や、お爺さんは?」
「エミリア様の不利になるような真似は致しません」
「そう……なら、ここから先は私に任せて貰える?」
「かしこまりました」
了承を受け取り、エミリアは歩き出す。ラインハルトの隣にいた金髪の少女もまた、その歩みに対して覚悟を決めたように向き直る。
「あのお爺さんは、あなたの家族?」
問いかけにフェルトは唖然とした顔を作った。おそらく、彼女の予想したどんな言葉とも違う言葉をかけられたからだろう。
二人の事情を知らないラインハルトであっても、彼女たちの間にあるのが友好的な親交の積み重ねでないのはうかがい知れる。
出鼻をくじかれた形になったフェルトは、気を取り直すように頬を掻いた。
「そ、そーみたいなもんだ。ロム爺はアタシにとって、たったひとりの……うん、じーちゃんみてーなもんだな」
「そう。私の家族もひとりだけ。肝心なときに眠りこけてるし、起きてるときには絶対にそんなことは言えないけど」
「アタシだって、起きてるロム爺にこんなこと言えねーよ」
フェルトはエミリアから一度視線を逸らし、また向き直る。その赤い双眸には弱々しい光を灯っていた。
「もっと、すげーきつくくるかと思ってた」
「そう、ね。さっきまでのままなら、そうだったかもしれないけど。毒気抜かれちゃったのかもね。だから少しだけど、あの子の顔に免じてあげる」
仕方ない、と苦笑してエミリアは肩をすくめる。
そんな彼女の仕草と、眠るスバルを指差されてフェルトはしばし顔を伏せ、それから「ごめん」と小さく謝罪を口にした。
「命を助けてもらったんだ。恩知らずな真似はできねー。盗ったもんは返す」
「ん、そうしてもらえると助かるわ。私もこのお兄さんをけしかけるのは、すごーく気が咎めるし」
「騎士の中の騎士、そんな奴と追っかけっこなんて正気じゃねー。アタシより足が速い奴を初めて見たぜ、びっくりした」
注がれる視線に、一歩下がって二人を見守っていたラインハルトは微笑みで応じた。フェルトは懐をまさぐりながら、
「んじゃ、返す。──大事なもんなら、今度から盗られねーように隠せよ」
「あなたにその忠告されるのってへんてこな気分ね。……できれば、今回だけじゃなくもうこんなことはやめてほしいけど」
「そりゃ無理な話だ。言っとくが、アタシは今回だってアンタが命の恩人だから返すって考えてるだけ。悪いことしたとは思ってねーし、やめる気もねーよ」
エミリアの願いをすげなく断って、フェルトはその表情に強かな笑みを浮かべる。
彼女の年齢でするには痛ましさすら感じる横顔だ。そんな彼女の主義主張を聞きながら、アリーゼも、ラインハルトですらこれを無言で受け入れる。
決して見逃すべき状況でないのはわかっている。が、他に彼女たちにどんな生き方ができるというのか。対案も出さずに正論だけ振りかざすのは都合がよすぎる。
そう考えられる程度には、騎士としてラインハルトは王都を見てきたつもりだ。王都にこそにないが、実質的な領主としてその腕を振るっているアリーゼは言うまでもない。
それはエミリアにも察せられたのだろう。少しだけ儚げに目を伏せると、そのことについて彼女は言及せずに手を出し、
「わかった。……強情ね」
「なにもしねーで食い物がわいてくるならやらねーかもな。そんじゃ、ほらよ」
取り出したそれを掌に乗せ、フェルトはエミリアへ徽章を返そうとして。
──赤いきらめきが過った。
見覚えのある眩い光に、真っ先に反応したのはアリーゼ。
「──え」
「ラインハルト……?」
だが、徽章を握るフェルトの手を、横合いから掴み取ったのはラインハルトだった。
驚きを瞳に浮かべるのは当事者二人だ。彼女たちは揃ってラインハルトを見上げ、そして彼の表情に浮かぶ真剣な眼差しを前に口ごもる。
「い、痛いっつの……放して……」
いやいやと、フェルトは首を振るような弱々しい仕草で抵抗するが、ラインハルトの握力は華奢な少女が振り解けるものではない。
「なんてことだ……」
震える呟き。それはラインハルトの口から紡がれたものだ。
「ラインハルト、一度離しなさい」
その彼に強い口調で命令したのはアリーゼだった。彼女は動揺が抜けきらない弟に、噛んで含めるような口調で言葉を続けた。
「大丈夫、逃げられないことは彼女が一番分かっているわ。それに、彼女はこれからこの国にとって重要な人物となる、無用な蟠りを作ることはないわ」
「分かりました」
ラインハルトはフェルトの腕を離し、一歩下がった。困惑していたエミリアも、歩み寄ってきたアリーゼに譲るように一歩下がった。
アリーゼの碧い双眸に見つめられ、フェルトの紅の瞳が不安に揺れる。
「フェルト様」
「な、なんだよ……それに何いきなり様とか付けてきやがる」
唐突な様付けに加え、先ほどエミリアへ向けていたのと同等の敬意を向けられ、フェルトが強がりだとはっきり判る口調で言い返す。
「貴女には選んでいただきます」
「選ぶ?」
「はい。この場で力尽くで連れ去られ、あの老人を極刑にされるか。あの老人と共に、アストレア家に来るか」
「はぁ!? いきなり何言ってんだよ! しかも極刑って、お咎め無し何じゃねえのかよ!」
「ですから選択肢を用意しています。その徽章は王国において特別な意味を持つものであり、貴女はそれに選ばれた」
「あ……」
エミリアが声を漏らした。アリーゼを睨んでいたフェルトが、エミリアへと視線を移す。
「どうしたよ」
「その徽章、選ばれた5人が触れると光るんだって、最初に言われていたの」
「これか? 確かに光ってるけどよ」
フェルトが徽章を眼前にかざし、その輝きを確かめる。
「そういうわけで、その徽章を盗んだ連座となれば、本来極刑となるのですが……フェルト様がその老人を家族と仰るなら、当家で迎え入れましょう」
平静を取り戻したフェルトに、アリーゼが先ほどより柔らかく、けれど同じ要求を告げる。
「……あたしがついていくんなら、ロム爺も一緒に保護されるんだな?」
「はい。衣食住揃って、昼寝まで付いた客人待遇ですよ」
「そーかよ」
おどけたアリーゼに、フェルトも安堵の息を漏らし軽い口調へと変わる。
「……あたしには甘いもんも付けろよ」
「勿論ですよ、フェルト様」
素直でない了承に、アリーゼは微笑みで応じた。
◇◇◇
「エミリア様。差し出がましいようですが、今晩はアストレア家で休まれてはいかがでしょう?」
「え?」
話が一段落してからの突然の提案に、エミリアが目を丸くした。
アリーゼの視線に釣られて、腹を裂かれたまま地面へ横たわるスバルを見る。
「その少年も重傷です。最低限の応急処置は施されていますが、今夜は安静が必要でしょう」
アリーゼの申し出に、エミリアは何と答えるか悩んだ。そして、悩んだ末に決めた答えも、口に出すことなく消え去った。
「──その必要はありません」
声の方へ意識を向けると、貧民街には相応しくないメイドが一人。気配なく現れた彼女に、ラインハルトを除く3人は気付かなかった。
「ラム!」
桃色髪の下で薄赤の瞳を細める少女──ラムに向けて、エミリアが安堵の声を上げる。
「貧民街に瓦礫の山、その上『騎士の中の騎士』様まで……エミリア様、何故半日はぐれただけでこれだけ厄介事を増やしているのか、ラムには理解しかねます」
そんなエミリアとは対照的に、ラムはじっとりとした目を向けるのだった。
ラムの登場により、その後はスムーズに進んだ。
アリーゼが事のあらましを掻い摘んで説明し、ラムはエミリアへ呆れを浮かばせながら謝意を述べる。
ロズワール邸には治療術士もいるため、アストレア邸での療養はせず、夜のうちに王都を出ることに決まった。また、ラインハルトが念のため護衛の騎士を付けるよう申し出、エミリアたちもそれを受け入れた。
竜車と地竜の預かり所へ向かい、出発の準備を整える。
ラインハルトはフェルトとロム爺を連れてアストレア邸へ向かったため、この場にはアリーゼが見送りに来ている。
「ラムさん、大丈夫ですか?」
「何がかしら」
「体調が優れないようでしたので。辛いようでしたら御者は騎士たちに任せて、竜車の中でお休みください」
ラムが目を細めてアリーゼを見る。特段鋭い視線というわけではないが、警戒していることは隠していない。
「問題ないわ、慣れているもの」
「そうですか」
だが、穏やかなアリーゼの表情に追及は諦め、端的に断る。
対するアリーゼは、穏やかな笑みのまま、こう告げた。
「──少なくともロズワール邸に到着するまでは、体調不良が無くなるといいですね」
瞬間、ラムが目を瞬かせた。
自身の身体を見下ろし、感触を確かめるように両手を軽く握り、肩を回す。
「貴女……ラムに何をしたの」
「私は何もしていませんよ。……体調不良が『勘違い』だったのではありませんか?」
「……そう」
ラムは再び追及を諦めざるを得なかった。その潔さに、アリーゼは「ただ」と付け加えた。
「それほど長くは保たないでしょう。おそらく明朝には、また」
「構わないわ。さっきも言ったけど、慣れているもの」
ラムは一度言葉を切る。
深く息を吸って、吸い込んだ分長く吐く。ただの深呼吸でしかないこの動作も、常時身体を苛む疲労や痛み、不快感が無いだけで、極上のものに感じられる。
「今、ラムは最高に気分がいいの。だから追及も他言もしないであげる」
「ありがとう」
言葉通り上機嫌に薄く笑うラムに、アリーゼもくだけた笑みを返した。
◇◇◇
エミリアたちの乗った竜車を見送って、アリーゼはぽつりと呟いた。
「やっぱり便利なものね」
アリーゼは、鮮やかな金色の髪に一筋だけ混じった白金色の束を指で掬った。
──十五年前、とある魔女を封印し、そして引き千切った力。
アリーゼ・アストレアは、アストレア家の長女でありながら剣の才能がまるでない。戦いには身を置かず、領地経営に精を出している。
だからこそ、この力を使う機会は殆どない。
──便利などという言葉では済まない、理不尽そのものの力。
父も祖父も知らない。
かつて、力を得た直後の彼女を見て、龍剣が鞘から抜けかけた。その異常に気づいた祖母テレシアにだけは、すべてを話し、相談もした。
おそらく、当代の『剣聖』である弟も、同じ理由で姉に何らかの「力」があること自体は察しているはずだ。
「欲を言えばもっと奪いたかったんだけど、あれ以上はね……」
小さく息を吐く。
あれ以上は自分を捧げられなかった。あの子のために、残しておかなければならなかった。
「──ラインハルト」
世界に愛され、世界に英雄を求められる少年。
誰よりも強く、だからこそ誰よりも孤独な男の子。
強い風が吹き、アリーゼの金髪が踊る。
その隙間から空を見上げ、すでに夕闇に沈んだ王都の上空には、完璧に満ちた月が浮かんでいる。
「友人、ね……」
ナツキ・スバル。
ラインハルトは友人が多い。誰にでも誠実で、誰にでも優しい。けれど、あの時の『友人』という言葉は少し違った。あの子が、彼を対等に見ようとしていた。
初対面に過ぎない彼に、弟は何か琴線に触れるものがあったのだろう。
地理的・勢力的問題があり難しいだろうが、二人の仲が深まればそれが一番だと思った。
「もし、世界があの子を追い詰めるなら──」
──その時は、姉である自分が、『剣聖』という呪いを、その存在ごと消してやる
激しく踊っていた金髪が、凪いだ風と共に肩へと落ちる。
静寂に包まれた夜の王都で、アリーゼ・アストレアは何度目かも分からない決意を胸に刻んだ。