「しかし、最近は何かと物騒ですねえ」
男は言う。
……いや、その声色のみから、その人物が男だと断定しただけなのだけれども、しかしまあ、彼は立派な男性だ。
長く、赤い髪を後ろで束ねており、上には糊付けのされた皺ひとつないワイシャツと、青を基調としたネクタイに、横の窓から差し込む日光にキラリと光るネクタイピン。下は、汚れのない真っ黒なスラックスに、傷一つない綺麗なベルトと、光沢が目立つ革靴。全体として、几帳面さが現れており、足元から頭の先までの、その規律正しい姿が目を引く。
顔には、シンプルな黒いサングラスを掛けているため、全体の雰囲気は掴めないものの、しかし、鼻筋の通った、均整の取れた美しい、中性的な顔立ちであることが見て取れ、その、男性にしては少し小柄な体格も相まって、声を聞くまでは、女性として認識してしまうような、そんな印象を受ける。
「見ましたか?今朝のニュース」
男は手元のカップを近づけ、コーヒーを少し含み、相対する女性に問う。
「いや。どういう?」
茶色のコートを着た、金髪で端正な顔立ちである、ショートカットのその女性は、ラフな物言いで返す。
「いや、別に」
「……君は回りくどいな」
ほとほと、呆れたような表情を見せる彼女は、カップのコーヒーを一口呑み、木製のテーブルに置かれた、小さなソーサーにそれを戻す。
「でも、言いたいことは分かるでしょう?」
「まあ、そうだな」
「近頃は何かにつけて保険会社が儲かる時代です。この新調されたばかりであろうツヤのあるソファーはもちろん、風能さんのそのティーカップにだって、必ず保険が掛けられているはず」
「そこの小さな花瓶にも、保険を掛けた方がマシかもな」
すぐ横の窓台に置かれた、赤い花の飾られている花瓶にちらりと目配せをし、彼女は含み笑いを浮かべる。
「……しかし、
そう言うと、彼女は腕を組み、改まったような態度を取る。
「何か教えを受けた記憶はありませんが」
表情を変えずに、彼はぶっきらぼうに返した。
「まあ、単なる比喩だ。何にだって例えて表現するというのは、別に可笑しなことじゃないだろう?至って人間的だと言っていい」
右の手のひらを上に向けながら、彼女は同意を求めるように言った。
「にしても的を得ていませんが」
「いーや。私の中では十二分に整合性はとれている。だから何も問題は無い」
彼女は腕を組みなおし、自信有り気に返答した。
「随分と楽天的な物の見方をしていらっしゃるみたいで」
「それ、褒め言葉だぞ」
「……別に貴方のことを貶そうと思って言ったわけじゃありません」
そう言うと、淡々とした表情で、彼はコーヒーを一口、含む。
「ふーん。じゃあ何も問題はないな」
一方で彼女は、してやったりといった顔で、一息置いた後、笑みを崩さないまま、
「では、我が愛しい愛弟子よ」
彼に問う。
「何です?」
彼は依然、表情を変えないまま返す。
「何故?」
「何故、とは?」
「何故、私をここに呼んだんだ?」
すると、彼女は先ほどまでとは異なる、訝しむような表情で彼を見る。
「別に。午後のお暇を、敬愛するお師匠様である
「……右の眉がピクリと動くんだよな」
「何がです?」
「君の癖だよ。嘘を吐く時の」
そう言い、彼女はニヤリと笑う。
しかし、彼は動揺した様子は一切見せず、カップを口元まで運び、コーヒーをそっと口に含んだ。
「それで言うなら風能さん。今、貴方の左頬も少し強張りましたね」
「む」
一瞬、彼女は毒気を抜かれたような表情になるが、しかし、すぐに顔を強張らせた。
「それを言うなら……って、やめよう。千日手だ」
彼女はため息を一つつき、足を組んだ。
「ってか、そもそもがバレバレの嘘じゃないか」
「どの部分がです?」
「全部だよ」
そう言いながら、彼に冷ややかな視線を送る。
「へえ」
彼は嘲るような口調で返す。
「白崎のスッとぼけ方はアレだな」
「何です?」
「正しく、眉間に皺が寄るな」
「そりゃあ、良かった」
彼女はカップに入っていたコーヒーを一口含む。すると、もうカップが空になったことが分かった。
もう一つ、ため息をを吐くと、背筋を伸ばし、そして、真っすぐな視線を彼に向けた。
「……本題を話せ」
再度、改まった雰囲気で、彼女は言った。
「もう少し、お喋りしません?」
一方で、彼は余裕そうに、あくまで落ち着きを保ったままの態度で、返答した。
「嫌だ、と言ったら?」
「一杯、奢りますけど?」
「……酒みたいに言うなよ」
逡巡した後、彼女は手を上げ、一番近くにいた礼儀正しそうなウエイトレスを呼び、コーヒーを一杯頼んだ。
数十秒後、コーヒーポットを持ったウエイトレスが、彼女のカップにそっとコーヒーを注いだ。香ばしい蒸気が立ち上がり、静かにカップの縁を満たしてゆく。わずかに浮かぶ泡が揺れるたび、窓から差し込む光に反射して、淡い輝きを放つ。
淹れ終えると、ウエイトレスは小さく礼をし、それに呼応するよう、彼女も頭を下げた。
「さて、風能さん。最初なのか、途中なのか定かでありませんが」
ウエイトレスが立ち去った後、彼は表情を変えないまま、続ける。
「話を戻しましょう。最近は特に物騒ですね」
「ああ、まあ。そのおかげで、私も忙しいよ」
そう言い、彼女はカップを唇に近づけ、熱いコーヒーを一啜りする。
「水面下であったはずの争いも、近頃では表面上にまで及ぶこともしばしばです」
「恐ろしいなあ」
共感しているような、しかし、どこか無関心そうに彼女は返した。
「ここで、ある一人の男の話をしましょう」
彼女は小さく相槌を打ち、了承した。
「さて、彼は所謂反社会的勢力の一般構成員でした。しかしながら、彼の毎日は凄惨と言っていいもの。組織の幹部になじられ、先輩には暴力を振るわれ、仕事では周りの人々から襤褸雑巾のように扱われる……ああ、何と悲惨な日々でしょう」
そう言いながらも、しかし依然として表情は変わらず、気にも留めていなさそうだ。
「そりゃあ、かわいそうだ」
「しかし、彼は組織に縋るしかありません。今更堅気になって、真面目に働くことなど、非道に生きること知らない彼にとっては、それこそがまさに修羅の道でしょう。何より、辞めた後、組織に何をされるのか……夜、安心して枕に自らの頭を預けることだって、きっと出来ません」
「お先真っ暗だな。例えば、彼みたいなのを支援する機関を、国が設けてもいいんじゃないか?」
そうだ、と手を打ちながら、ニヤリと笑う。
「どういうことです、それ?」
「長い相槌みたいなもんだ。続けてくれ」
しかしまあ、勿論のこと、真面目な考えではなかったらしい。
少し間を開けたのち、彼は続ける。
「……ところが、そんな彼にも転機が訪れます。ある日、日銭を稼ぐために“仕方なく”名前すら知らない、誰かさんのお家へ物色をしに行った時のことでした。タンスや小棚をあさり、金目の物を兎に角かき集める彼。どうやら、彼の入った家の宿主は、結構な富裕層らしく、集めた金品を売り払えば、数か月――いや、一年ぐらいは遊んで暮らせそうです」
「おお、そりゃラッキーだ」
「頬をほころばせながら、採集に没頭する彼でしたが、しかし、その中で、奇妙な物を見つけます」
それを聞き、頷きながら、彼女はカップを手に取り、まだ熱いままのコーヒーをそっと一口含む。
「それは、小さなUSBでした。別に、形状に不可思議な点はないし、至って普通の、家電量販店へ行けばすぐに類似品の見つかりそうな USBだった訳なのだけれども、しかしすべての物がきちんと整理されている家の中で、そんな小さなUSBが大きな棚の奥に、他の物に紛れるようにして置いてあった、という事実が、どうしてか気がかりでなりません」
「奇妙だな」
「もちろんそれも拝借し、六畳一間のぼろぼろのマイハウスへ持ち帰り、真っ先に中身を確認してみる彼。すると、偶然か、それとも幸運の女神のお導きを受けたのか、何とそれは、彼の属する組織の敵対勢力――すなわち、政府の機密情報そのものでした」
「なんとまあ」
「彼にとっての天佑神助に他ならぬそれがあれば、組織は敵対勢力との争いにおいて、かなり有利に駒を進めることが可能でしょう。政府の重要な役人の個人情報、現在企てられている計画、組織に対する今後の動向、等々……。重箱の隅々をもカバーするような、ありとあらゆる情報が、そこには入っているのでした」
「まさしく、大手柄だな」
「ええ、大手柄です。それを上納することができれば、きっと今までの窮屈な生活とはオサラバです。暴言を吐かれたり、殴られたり、蹴られたり……しかし、これからは違います。周りからは丁重に扱われ、尊敬の眼差しを受けながら――いや、むしろやっかまれるのかもしれませんが、しかし、今の泥水を啜るような日々からはきっと脱却できるでしょう」
彼が言い終えると、彼女は無言のまま頷き、視線を窓の外に逸らした。そして、微かにため息を吐いた。
「……それで、君はあれか」
「ええ、勿論」
彼は頷いた後、視線をゆっくり彼女に戻すと、
「その奪取が目的です」
そのように続けた。
「俺から見て右奥の、黒いニット帽を被った、ガラの悪いTシャツとジーンズを着たあの男。俺が彼の“ボス”とやらを装ってここに呼びました。USBの受け渡しを行って欲しい、とね」
そう言いながら、彼はテーブル席に座る、一人の男性客をひそやかに指さした
彼女は首だけを向けて、その服装や人相を確認する。
うまく一般人に紛れているし、所作動作にだって、特段おかしな点はない。しかし、よくよく見ると、どことなく悪人であるような、そういう雰囲気を感じた。
「そりゃあご苦労」
振り返ったままの体勢で彼女は言う。
「あの男のズボン。左右のポケットに膨らみがあります。おそらく、片方は財布と携帯で、もう片方には自衛用の拳銃が入っていることでしょう。しかし、USBを入れられそうなポケットや小物入れなんかは、一切見受けられません」
「だから、お目当ての物は、そのどちらか一方に一緒に入っていると」
「ええ」
サングラス越しに寄越した視線を感じ、大体の意図が伝わったようで、彼女は小さく、数回頷いた。
「……確かに、まさかそんな重要な電子機器を、銃と一緒に入れるとは考えづらい」
「まあ、そもそも、そんな重要なものをズボンのポケットなんかに入れるな、というのはその通りなんですがね」
「楽観的っぽいもんな。彼」
「悪口ですよ、それ」
そうか?、と若干の当惑を混ぜながらも、しかし、余裕そうに彼女は首を傾げ、コーヒーを一口含む。
「しかし、どうやって拳銃を抜かせるか、そしてどうやってブツを奪うのか、だが……」
彼女は悩まし気な表情で、頬杖をつきながら考え込んだ。
「……ところで、風能さん。貴方は、警備局の特別調整官。さらに、その中でも抜群に優秀ときている。立件件数も数知れず、組織にとって、正しく目の上のたん瘤どころか、皮膚癌と言ってもいいのかも」
上目遣いに次の言葉を待つ彼女に対し、彼は続ける。
「だからまあ、貴方は組織中に顔が割れていることでしょう」
「まあ、私美人だしな」
自信に満ち満ちた表情で、彼女は答えた。
「そこはどうでもいいんですが、しかし、そんな貴方が、敵対勢力の重要人物である貴方が、今ここで、周囲の目を引き付けるような、大胆な行動に出てみれば、彼はどうしましょうか?」
平然とした表情の彼の問いかけに対し、彼女は思考を巡らせる。そもそも前提に引っかかるものがあるけれども、しかしまあ、一つ一つの選択肢を手繰り寄せるよう、丁寧に考え、合点のいく答えを導いた後、
「……きっと、この状況が罠なんじゃないかと、勘ぐるだろうか?」
そのように答えた。
「ええ。だからこそ、その主犯であろう貴方に向けて、彼は一方のポケットから銃を抜くことでしょう。それに、もし貴方を殺すことができたとすれば、それもまた大手柄です」
「従って、彼は必ず銃を抜く、と」
「ええ。そして、その混乱に乗じて、俺が彼のもう片方のポケットから、バレないよう、スルリと、盗人の如くUSBを回収する、というのが算段です」
成程。彼女が呼ばれた理由は分かったし、その算段についても、納得できるものではあった。
「いやまあ、理解はできるが、しかし……」
しかしながら、彼女の胸中には、小さな、いや、随分と大きな違和感というか、腑に落ちない点が引っかかっていた。
「何です?」
「私の負担が重すぎないか?あの男と対峙しなきゃいけないわけだし、それに、今から公衆の面前でストリップショーでもやれと?」
不服そうな雰囲気で、眉を顰めながら彼に問いかける。
「いや、別に。今からテーブルの上に威風堂々と立って、ちんたら服を脱ぎなさいよ、と言っているわけではありません」
「じゃあ、他に?」
すると、サングラスも相まって、月の裏側のように読み取れない、今までの表情を少し崩し、口角を若干上げて、
「風能さん。強盗の経験はありますか?」
「……同等かそれ以上だな」
呆れたような口調で、彼女は返した。
「いや、しかし、強盗というのはなかなか良い手でしょう」
「どういう?」
彼女は、釈然としない視線を投げかけるが、彼は全く意に介していない様子で、続ける。
「政府の忠実な、それはそれはロイヤルティ溢れる忠犬である風能さんが、その正義に背くような強盗という手段を取るだなんて、絶対にありえません」
「……同じような単語が三つほど聞こえたし、更にそのうち一個は侮蔑のような表現だった気がするのだけれども……しかし、それが何だ?」
「だからこそ、彼はこの状況が罠だって、絶対に気付きます」
堂々とした態度で、彼は言った。
「……絶対、もっといい手段がありそうなものだけれど」
ため息を一つ吐き、肩を落とす。そして、少しの間、視線を落とした後、彼女は彼を睨みつけるように視線を向ける。
「勿論私は、ただ働きするつもりはない」
「じゃあ、もう一杯奢りましょうか?」
「……もう帰っていいか?」
彼女は呆れかえった目で彼を見つめ、またまたため息を一つ、落とした。
「強情ですねえ」
「何処がだ」
すると、少し間を開けたのち、では、に続けて、
「俺の報酬の二分の一で、どうですか?」
「幾らになる?」
「ご想像に」
彼の口元が三日月を描いた。
彼の報酬、となると、それがどれだけ莫大な額なのかは、容易に想像ができた。
直接彼自身に聞いたことはないのだけれども、彼がいかに優秀であるか、そしてどれほど様々な機関に重宝されているかを考えるに、交渉上手である彼が、積むことのできる報酬金の桁の数は、彼女のそれよりも、随分と多かろう。
そして、その2分の1が、どうやら報酬であるらしい。
……ためらうべき点は随分と多いが、まあ、悪い話ではない。
「……銃はあるの?」
「勿論」
そう言うと、彼はテーブルの上に、手入れの行き届いた、綺麗な拳銃を差し出した。
「ではでは、俺は一旦お手洗いに行ってきますね」
そんな彼の言葉には、間違いなく、思わせぶりな含みがあった。
まだ熱さを保ったままのコーヒーを少し口に含んだ。そして、決意を固めるよう、グッと飲み込む。刺激と言っていい、確かな温かさを、喉元に感じた。
「……了解。ハニー・バニー」
「誰がです?」
「白崎のその愛くるしい容姿には、ピッタリだと思うけれど」
あくまで平静を保ちながら、余裕そうに、そんなことを言ってやった。
でも、彼は依然、表情を変えずに、席を立つ。そして、去り際に、ボソッと呟いた。
「武運あらんことを」
「……武士か?」
そして、彼が席を立ってから、約一分後。
「……ヤバいな。正しく、もう嫌になりそうだが」
脂汗がスッと額から流れ落ちる。
慣れないことをするわけだし、最悪、殺されてしまうかもしれない。
でもまあ、金のためだと考えると、随分と気が楽になった。
息を一つ吐き、決意は固まった。
――テーブルを叩き、一気に立ち上がる。そして、
「騒ぐな!強盗だ!」
手元の銃を両手でしっかりと構える。
「ちょっとでも動いてみろ!」
その銃口を四方八方へと向ける。
「一人残らず脳みそぶっ飛ばすぞ!」
割と様になってるんじゃないか?だなんて、一斉に自らに向けられた、周りの店員や客の怯えた視線を受けて思い、ひそかに笑みを浮かべた。
空気が一段と重くなり、恐怖が辺りを漂う様子が、感覚的に理解できる。その中心が自分だという事実に、罪悪感が胸中のほとんどを支配するが、しかし、微かな高揚感が全身を駆け巡るような、そんな熱を確かに感じた。
自分は実は潜在的に悪人なんじゃないか、だなんて、柄にもないことを考えながら、様々な脅し文句とともに店内中を歩き回り、戦慄した表情を見せる人々に、それぞれ銃口を向けていく。
そろそろ、本当に板についてきたのではないか、といったところで。
――“男”は、堂々と席から立ち上がった。
そして、ズボンの“右ポケット”から、拳銃を取り出した。
正しく、彼の狙い通りだった。
……まあしかし、問題はここからだ。
男の右手の人差し指が、拳銃のトリガーを引く、その瞬間——彼女は咄嗟にしゃがみ込む。すると、大きな銃声が店内に響き渡ると同時に放たれた、金色に輝く銃弾は、空を切り、艶やかな木目のフローリングを貫いた。
「やっぱり、警戒はしておかなくっちゃなぁ」
彼女が肝を冷やすような間を開けず、男は言った。
「あんた、調整官の風能だろ?」
男は自信ありげに、まるで全てを見透かしているかのような表情で、続ける。
「どうしてそんな大胆な策を講じたのかは分からねえが、策に溺れる、と言ったところか」
やっぱり楽観的な野郎だな、なんて考えながら、彼女はゆっくりと立ち上がり、ズボンに付いた埃を払く。
「それに、こりゃまた相当に運が良いみたいだ。めんどくせえ手間を省けるんだからよ」
「……そりゃ、喜ばしい」
なんとなく、引っかかる部分はあるが、しかし、あれこれ考えている暇はない。全神経を集中させ、男の一挙手一投足を観察する。
確かに、いかにも威風堂々と言った立ち振る舞いではあるが、しかし、銃を構えるその指先は、微かに震えている。
成程な、と呟いた後、一気に走り出し、とりあえず、男からある程度の距離を取り始める。すると、また一発、銃弾が背後から飛んでくる。しかし、それを予期していたかのように、体を一瞬屈ませると、弾丸は彼女の前方の壁に突き刺さった。
ふと、冷汗が頬を伝う。
何せ、こういう経験はあまりないし、さらに、随分久々ときている。最近はデスクワーク続きだったために、若干鈍ったこの体で、この死線をうまく抜けることが出来るだろうか?
自らに問うてみても、あまり自信は無さそうなわけだから、本当に考え無しだな、と、過去の自分を呪った。
……ところで、端的に言えば、彼女の今の役割は時間稼ぎだ。すなわち、どうにかして男からの攻撃を避け続けなくてはならない。そのためには、自らを隠し、狙う先を攪乱できるような道具が有用になる。例えば――ということで、すぐ横にあった二人席用の木製テーブルを拝借する。ちょうど、彼女の体格程度なら、覆い隠せそうな程の甲板の大きさだった。
そして、その支柱を持ち手のように持ち、傘を広げるかのように、男に向けて構える。
すると、少し前に放たれていたらしい、2発の銃弾は、前方のテーブルにめり込み、木の繊維を割く音が聞こえた。表面を貫いた瞬間、破片が弾けるように飛び散り、衝撃が手に伝わったものの、自らの肉体をえぐるような、鈍い感触は無い。
あちゃー、店内の物を壊してしまったよ、と頭を抱えそうになるが、しかしまあ、彼曰く、保険とやらが掛かっているらしいし、大丈夫だろう。
そんな無駄話はともかくとして、ところで、と先ほど渡された銃を甲板の上から右手で構え、威嚇射撃の為に、男のちょうど真横当たり目掛け、彼女は引き金を引く――が、しかし、寸前でやめる。
最初から、なんとなく察してはいたが、きっとこの銃には弾丸が一発だって込められていない。トリガーを引いたところで、現れるのは、彼女を嘲るかの如き、乾いたクリック音のみだろう。
重量もそうだし、彼のやり方からして、こういう機会に扱う拳銃に、実銃としての役割を備えさせるとは思われない。もしかすると、ガスガンだとか、エアガンだとか、そういう類の玩具である可能性もある。
まあしかし、だからこそ、この銃が空だと、男に悟られるのは、随分と損だ。何せ、この銃を構えた先にいる男は、若干怯んでいるような、恐怖を感じているような、そういう表情を見せているのだから。
――膠着状態が十数秒続き、沈黙が空間を支配する。
お互いの視線と銃口が向かい合う緊張状態の中で、しかし、彼女は確かな憤りを感じていた。
「……まだなのか?」
勿論、いまだに現れない彼のことだ。
凡そ、2分は男と対峙しているはずだ。さっさと化粧室から出て、さっさと男の左ポケットから、目的の物をこそっと盗めばいいものを、しかし、一向に姿を見せない。
彼の能力や性格を鑑みるに、行動が非常に難しいだとか、怖気づいただとか、そんな可能性は考えられない。では、何故……?
兎に角、苛立ちが募る。
そして、少し立ち位置を変えようと、後ろに下がった次の瞬間――。
彼女の後ろ足が、先ほどテーブルを拝借した際、勢い余って倒れた椅子に取られてしまった。
――有体に言えば、盛大にズッコケた。
背中から床へと勢いよくぶつかり、全身を巡る衝撃と同時に、ある種の恥ずかしさが血中を伝う。
本当にみっともない感じの姿であり、従って、ありとあらゆる個所が無防備で、対峙する男からしてみれば、絶好の機会であった。
少しの距離を開けて、愉快そうに口角を上げる男が、彼女に対し銃を構える。
正しく、死神が背後を取っているような、そういう状況な訳ではあるのだけれども、しかし彼女は、あくまで澄ましたような表情で、
「……慣れないことはするべきじゃないな」
引き金を引くその人差し指が、若干震え、躊躇いを見せているのを、見逃さなかった。
「君もそう思うだろ?」
そう言うと、男が今まさにその引き金を引くという、そんなタイミングで、彼女は片手に持っていた拳銃を、敵対する銃目掛けて、勢いよく投げつける。
すると、正面に構えられていた銃は、大きく弾かれ、彼女の脳天を捉えるはずだった弾丸は、明後日の方向へと直進していく。
そのまま、空を裂きながら進む弾丸は、幸運では断じてないし、だからと言って、不運でも絶対に無いし、まあ、どっちでもいいことなのだし、語るべきことではないのだけれど、なんと、窓台に置かれてある、綺麗な一輪の花を咲かせる、その小さな花瓶を、見事に打ち抜いた。
瑞々しく、光沢のある陶器は、弱弱しい破砕音とともに砕け、その白い破片が光を弾きいて輝きながら、四方へと散っていく。取り残されていたように、水は遅れて吹き出し、花は宙へと放り出される。
――ああ、これは弁償する必要があるのだろうか。
そんなくだらないことを考えながらも、しかし至って冷静に、彼女は目の前で呆気にとられたままの男の方に走り出し、これまでの鬱憤を晴らすかのような、見事なまでの回し蹴りを、阿保面に叩き込んでやった。
すると、男は狼狽え、手に持っていた銃を床に落とす。その隙を見逃さずに、彼女は男に飛び掛かり、身動きを封じるよう、床に抑えつけた。
さて、報酬は今よりもっと割高で請求してやろうか、と、男の左ポケットから物を抜き出すが、しかし……
「……ない」
入っていたのはシンプルな折り畳み財布のみ。その中を確認しても、念のため右ポケットの方も確認しても、しかし彼の目的としていた物は、一切見当たらなかった。
「おい、例のブツは?」
少しの焦燥感を漂わせながら、詰問気味に、彼女は男に問う。
「な、何のことだ?」
一方で、男はどこか当惑しているような表情に見えた。
「とぼけるな。相手方の、大事な大事な機密情報の入ったUSBのことだよ」
「USB?あんた、何かと勘違いしてるんじゃ……」
彼女は男が先ほど床に落とした拳銃を手に取り、それを勢いよく後頭部に押し付ける。
「マ、マジだって……ンなもん、心当たりがない……」
しかしながら、男の反応は、彼女の期待していたものとは全く異なった。まるで、初めて聞く理念やら概念を前に、困惑せざるを得ないような、そういう類の面持ちだった。
「……君、どうしてここに来た?」
まさか、と思い、彼女は男に聞く。
「ボ、ボスに呼ばれてきたんだ」
「曖昧だな」
押し当てていた銃を、更に後頭部にめり込ませるように、力を込める。
すると、男の、うぅ、という情けないうめき声の後、
「……依頼の交渉の為だよ」
「何の?」
「だ、だから、依頼を受けるに当たる、詳しい情報とか、報酬とか、そういう……」
しかしまあ、こっちの心当たりは十三分ぐらいはありそうだったので、
「君の脳みその方は、本当にぶっ飛ばしても構わないのだが?」
「わ、分かった。言うよ。言うから……」
すると、観念したような、バツが悪そうな、そういう表情で、男は続ける。
「……あんたを殺すっていう、そういう依頼だよ」
瞬間、彼女の喉がひりついた。
「私を、殺す……?」
背筋を冷たいものが伝ったのは、彼女の名前が、誰かさんの“絶対殺すリスト”に含まれていて、それが本当に実行に移されかかっていた、という事実を認識し、戦慄したからだというのも勿論ある。しかしながら、大部分は、どうやら自分は、他の“誰かさん”に騙され、見事なまでに利用されたらしい、ということを確信したからだった。
彼女は、男が身動きを取れぬよう、近くにあったテーブルシートなんかで手足を縛り、そして『不審な動きを少しでもすれば、ぶっ飛ばすよ』とだけ残して、店の奥にある化粧室を確認しに行った。
すると予想通り、そこには誰一人おらず、特筆すべき点でいえば、上部の換気用のすりガラスが、人一人がちょうど通れそうなぐらいに開かれていた、ということだけであった。
勿論、トイレから出て、店の外も確認しに行くけれど、しかしまあ、向こうの歩道に数人の通行人が見えるだけであり、全くの無駄骨だった。
「ハァ……ツイてないな……」
やっぱり、慣れないことをするもんじゃないなと、心の奥底から思った。
* * *
曰く、“ツイてない”日から、数日後。
陽射しが、柔らかく町中を照らすような昼下がり。澄み切った空の下で、ベンチに腰掛け、足を組みながら、優雅に煙草を吹かす、赤く長い、艶やかな髪を後ろで結ぶ、黒いシンプルなサングラスを掛けた男が一人。
「こんにちは、子猫ちゃん。真昼間から良いご身分だな」
すると、何処から来たのか。金髪の端正な顔立ちの女性が、嫌味ったらしく彼に話しかけた。
「……ハニー・バニーはどうしたんです?」
「そんなもん、あのカフェに捨ててきたよ」
そう言いながら、彼女は彼の隣へと、ごく自然に腰掛ける。
すると、彼女は途端に眉を寄せ、不機嫌そうな眼差しを、彼に向ける。
「……何故だ?」
「何故、とは?」
スッとぼけた態度を取る彼を、彼女は依然睨み続ける。
「……報酬はすでに振り込んでいるハズですし……」
十数秒、眼圧を強めるのを止めない彼女に屈したかのように、彼は肩を落とした。
「はぁ……分かりましたよ」
「何のため息だよ」
手元の煙草の火を消しながら、その煙を眺めて、どこか名残惜しそうに見送った後、彼は語り始めた。
「……本当の目的は、あの男の、所謂“ボス”の確保でした」
足を組むのを止め、代わりに腕を組んで、彼は続ける。
「彼らがあのカフェで、依頼の交渉を行う、という情報は掴めていましたから、問題は、どう穏便にその人物を確保するか、です」
「全くもって騒がしくはあったけれど」
「しかし、それは店の中のみです。外は違います」
「……ま、そうか」
彼女は視線を落とし、妙に腑に落ちたようだった。
「彼らが交渉するはずだった依頼の内容は、風能さんの殺害。時間ちょうどにカフェに来てみれば、“ボス”とやらから見えるのは、その対象と依頼相手が殺しあう姿。一般人であれば、すぐさま距離をとるような、そんな剣呑な目の前の様相に対して、“カレ”はどこか愉快そうに店の前で立ち止まっていましたから、まあ、すぐに“ボス”だって分かりましたよ」
その後は彼からすればきっと簡単だ。麻酔針を使ったりだとか、クロロホルムを含ませた布を顔に押し当てたりだとか、まあ、手段は分からないのだけれども、すなわち、何かしらで気を失わせてから、快く送迎してあげた、みたいな感じだろう。
「……で、捕らえた“カレ”は今後どうなるご予定で?」
ちょっぴり口角を上げながら、皮肉っぽく彼女は聞いてみると、
「さあ?」
抑揚はあるけれど、どこか無関心さが伝わるような声で、彼は返した。
「……詰まるところ、私は白崎に良いように使われた、ってワケか」
少し間を開けた後、彼女は再度眉を顰めて、言った。
「そりゃあ、人聞きが悪いですね。共同作業ですよ」
「では、何であんな大層な作り話をもってして、私を騙したんだい?愉快な愉快な赤狐くん?」
にこりと笑っては見せるものの、明らかに怒気を孕んだ雰囲気で、彼女は問うた。
「どこぞの商品名みたいな呼び方ですけれども」
そう言うと、一つ咳払いをし、少し間を置いた後、
「ま、その方が色々と都合が良いですし、それに……」
視線を上げ、おそらく、彼女の目をしっかりと見つめながら、
「全部言っちゃうと、風能さん、真面目にやらないでしょ?」
差し込む陽を反射し、妖しく輝くサングラスの奥の目は、きっと嗜虐心を湛えていて、いたずらっぽく笑っているのだろうな、と、なんとなく理解できた。
それは即ち、とっても、
「……癇に障るな」
「そりゃ、どうも」
そう言うと、彼は正面を向き直し、いつも通り、淡々とした表情で、ゆっくりと足を組む。
しかし、ふと、横目に見てみるその姿は、異質なはずなのに、何故か町全体と一体化し、互いが調和しあっているような。例えば、一つの綺麗な絵画を見ているような。
温かい風が一つ吹き、彼の長く、艶やかな髪がふわりと舞う。そして、翻ったそれに乗せられた、さわやかで心地良い香りが、鼻腔をくすぐる。柔らかな光の中で、一際目を引く彼を見て、一つ、呼吸が遅れた。
つまり、醜悪たる精神の持ち主であるはずの彼の、その特異とも言うべき美しさに、どうやら目を奪われてしまったらしかった。
「……しかし、白崎よ」
思いがけず、腑抜けてしまった顔を正し、再度彼に問う。
「何です?」
「足りないのだが?」
そう言うと、腕を組み、堂々とした態度を取り始めた。
「報酬なら全額振り込んだと言いましたけど」
「いーや。まだ足りないな」
すると、右手の人差し指をピンと立てて、
「もう一杯、奢るって言ったろ?」
「……それもですか?」
「むしろ、優しい方じゃないか?」
不服そうな彼に詰め寄るよう、顔を近づけて言った。
「……今から?」
「勿論」
そう言い、彼女はゆっくりとベンチから立ち上がる。
ため息を吐いた彼も、しかしながら抗うような様子はなく、でもやっぱり面倒くさそうな表情で、ゆっくりと立ち上がった。
そうして、二人は肩を並べて、静かに照らされる街の中へと歩き出す。
目的地は……まあ、あのカフェということだけは無いだろう。
「しかし、年下に奢られる、というのは、どうなんでしょうねぇ?」
彼は嫌味っぽく彼女に聞く。
「でも、保険があるんだよ」
「何にですか?」
本当に疑問に思っているのかよく分からない表情をしているけど、どうやら答えを知りたいらしい彼に対し、彼女は悠然と、
「君と過ごすティータイム、にだよ」
してやったり、みたいな感じに言ってやった。
「そりゃどうも」
しかし、そんなにべもない反応だと、少々面白みに欠けた。
「……やっぱり、白崎は背が低いな」
「いや、貴方が言えたことじゃないでしょ」
「そうか?私は平均身長ぐらいはあるけど?」
「……左頬が少し強張りましたね」
「どういう意味?」
「俺の身長は、女性の平均身長より少し高いぐらい。対して、貴方は俺よりも数センチは低い」
「む。それで言うなら……いや」
すると、彼女はニヤッと笑いながら、
「こんな終わりのない、くだらない話、まだ、続けるか?」
対して彼は、いつも通り淡々と、
「いーや。辞めましょうか」