波の国、シラカワ商会の巨大な倉庫群の一角。
先週までの凄まじい喧騒が嘘のように、商会内は静まり返っり、積み上げられた書類だけが残っていた。
「まずは、事後処理の第一段階が片付きましたね」
執務用の長机に広げた膨大な書類を整理しながら、うちはイズミが安堵の息を吐いた。
「現物市場に『二重価格制』を敷いておいて正解でした。先物市場がどれだけ荒れ狂おうと、一般領民の手に渡る米の価格を完全に切り離したことで、生活への影響は皆無です。下手をすると闇米が横行する危険もありましたが、今回は現物の供給量が安定していたため、その心配も杞憂に終わりました」
イズミの報告に、俺は深く頷いた。帳簿上の取引という劇薬を市場に持ち込むにあたり、領民への被害を防ぐ安全網の構築は絶対条件だった。その二重価格制は、イズミ自身の発案によるものだ。
「巻き込まれて損害を出した一般の商会への補填手続きも、予定通り進んでいるか?」
「はい。審査を通過した商会に対し、返済義務のない損益補填を発表しました。開示させる条件は三つです」
イズミが指を三本立てる。
「一つ目は、『誰にいくら支払う必要があるか』の証明書。目の前の倒産を防ぐための正確な数字ですね。二つ目は、『過去三ヶ月間の、従業員への給料支払い実績』。これは、実体のある真っ当な商売をしているかの証明です。そして三つ目が、『今後三年間、波の国銀行の監査を受け入れる』という誓約書です」
この三つの条件を満たせば、やましいことのない真っ当な商会はすべて救済される。
逆に、実態のない幽霊商会や裏組織の隠れ蓑など、やましい背景を持つ者は、決してこの条件を呑むことができない。
「すでに、監査を恐れて波の国から逃亡を始めている所がいくつかあります。逃亡の恐れがある先には、事前に猟犬部隊の監視をつけていますし、逃げ損ねた商会にも順次強制査察に入っています。彼らの金の動きを追えば、背後にいる組織の情報が自然と炙り出されるはずです」
「救済策としては完璧だな。だが、お前の追加の提案も効いている」
「ええ。真っ当な商会の中にも、誇り高かったり、他国の権力による介入を警戒して、監査を拒否する動きを想定しましたからね」
イズミは少し誇らしげに胸を張った。
「そういった所には、あえて『返済義務あり、利息なし』の分割払いによる救済の枠組みを創設しました。こちらの枠なら監査は免除されます。もちろん、補填の銭が届く前に倒産しては元も子もないので、当面の資金立て替えも同時に発表してあります」
部屋の隅で護衛として控えていたヤマトが、呆れたような感嘆の声を漏らす。
「徹底していますね……。でも、それだけの補填と立て替えを配るとなると、シラカワ商会側の負担も相当な額になるのでは?」
「そこは問題ありません」
イズミがふふっと笑う。
「今回、波の国では初めてと言っていい大規模な差金取引ということもあり、市場の参加者自体がそこまで多くありませんでした。被害総額を計算しても、シラカワ商会が空売りで暁から巻き上げた莫大な利益だけで、すべて補填可能です」
そして、市場の取引量が低下した絶好のタイミングで、波の国の先物取引市場そのものを一時停止する措置をとった。もちろん、提出された書類に偽装があった場合は、即座に容赦のない査察が入るよう通達済みだ。
「ようやく、終わったな」
俺が疲れた首を鳴らしながら呟くと、イズミがジト目でこちらを睨みつけてきた。
「……お父さん、それはこっちの台詞です。暁の莫大な金が動いた時は、本当にどうなることかとハラハラして、夜も眠れませんでしたよ」
「悪かった。また苦労をかけたな。お前がいなきゃ、あの相場は盤面通りに動かせなかった。ここまで成功したのはお前のおかげだ」
「そんなこと言って……。お父さんがいつから考えていたのかまでは知らないけど、年単位で波の国にこの仕組みを準備してたからできたことよ。私一人の力じゃありません」
イズミはそっぽを向きながらも、声の調子はどこか嬉しそうだ。
そんな俺たちのやり取りを見ていたヤマトが、ふと口を開いた。
「なんだか、本当に親子のようですね。二人とも」
「なっ……!」
イズミが顔を真っ赤にして、バサリと手元の帳簿で顔を隠した。帳簿の奥から「ヤマトさんまで変なこと言わないでください!」とムスッとした抗議の声が漏れる。しかし、すぐにコホンと小さく咳払いをし、彼女は元の生真面目な仕事の顔を取り戻した。
和やかな空気が流れていた、その時。
倉庫の重い鉄扉が、鈍い金属音を立てて開かれた。うちはシスイ率いる猟犬部隊と、俺の護衛中隊のメンバーたちが、次々と入室してくる。
空気の緩みが一瞬で吹き飛び、研ぎ澄まされた血とチャクラの気配が倉庫を満たした。現場の忍としての鋭い緊張感だ。
「局長。指示通り、追跡中の者を除く全部隊が待機完了しています」
シスイの報告を受け、俺は机から立ち上がった。
「ああ、ありがとう。これからのことを話す前に、聞いておきたいことがあれば聞いてくれ」
若手の中隊メンバーたちは、俺の顔を見るなり、聞きたいことが山ほどあるという表情を浮かべていた。
「今回、正直何が起きていたのか全部は分かりません。ただ、幾つ『欺瞞情報』を入れたんですか?」
護衛中隊の前列にいたサイが、空気を読まずに不思議そうに首を傾げて尋ねてきた。
「欺瞞情報なんて一つもないぞ」
俺が平然と答えると、サイだけでなく、キバやサスケも驚いたように目を見開いた。
「すべて、向こうが勝手に勘違いして自滅しただけだ。……『栄養米』の開発、そして製造過程で米の消費量が増加するのは、お前たちも知っての通り本当の話だ」
「でも、その情報を草隠れがピンポイントで盗み出したのは出来すぎじゃねえか?」
キバの疑問に、俺は頷く。
すこし、次代を担う彼ら自身の戦術眼を養わせるための時間にしよう。
「あの情報は、俺たちが草隠れを訪問するより前に、彼らの密偵がすでに波の国へ潜入して掴んでいたんだ。当然、こちらですぐに拘束した。そして、俺が草隠れの里で『相場が上がる時期を教える』と約束した時点で、いち早くサイに指示を出し、拘束していた密偵をわざと脱走させ、直後に商会の警備をガチガチに固めさせた」
「なんでそんな回りくどいことをしたんだ?」
腕を組んだサスケが、鋭い視線を向けてくる。
「人は、敵から無条件で与えられる情報は疑う生き物だ。だが、自分が命がけで掴んだ情報……ましてや、敵に拘束され、命からがら逃げ出してまで得た情報となれば話は別だ」
「なるほど……。信憑性を極限まで高めるために、わざと『盗ませた』のか」
サスケが納得したように息を吐く。
「でも先生、どうしてその情報が都合よく暁に渡るって想像できたんスか?」
キバが身を乗り出してくる。
「それも事前に誘導していたのさ。草隠れという里は、息をするように他国へ情報を売り買いする。確実な情報を掴ませれば、必ずどこかへ売ると踏んだ。俺たちが草隠れを訪問して武力を見せつけたのも、それが理由だ」
「武力を見せたことと、情報が売られる先が関係あるのか?」
「大有りだ。木ノ葉の圧力を見せつけられた直後に、彼らが大蛇丸と接触して情報を売れば、今度こそ木ノ葉からの完全な制裁を受ける。だから大蛇丸への接触は考えにくくなる。仮に大蛇丸に売ったのなら、それはそれで我々の標的が大蛇丸に変わるだけだったがな」
俺の言葉に、サスケがギリッと拳を強く握りしめた。兄であるイタチの真実を思い、大蛇丸の資金をこそ削りたかったのだろう。
「次のお得意様といえば岩隠れだが、彼らは波の国に商会を置いていない。今から拠点を用意して資金を集めるのは物理的に難しいため、情報の売り先から除外される。そうなれば、残る選択肢は自分たちの息のかかった商会か、最近波の国に進出してきて金を持っていそうな傭兵集団『暁』だけだ。情報の選択肢を、あらかじめ狭めておいたのさ」
「誘導、か」
シノが冷静に呟いた。
「それに、もし草隠れが暁に売らず、岩や他の闇市に情報を流していたとしても、俺たちはその市場の資金を吸い上げて木ノ葉の利益にするだけだった。だが、お前たち猟犬に暁の商会を常時監視させていたおかげで、草隠れが暁に接触した瞬間に、罠を『対暁』に切り替えることができたんだ」
俺の解説に、キバが「なるほどな」と感心したように頷く。
「しかし、経験豊富なはずの暁の金庫番が、なぜそんなに簡単に相場の高騰を信じたんです?」
サイの質問に、周囲のメンバーも同意するように頷く。
「滝隠れに『半額』で売ると約束した備蓄米のおかげさ。俺は滝隠れに直接持って行けばいい米を、あえて一度、木ノ葉から波の国のシラカワ商会へ、人目を避けるように大量に輸送させた」
「……ああ。あらかじめ新商品の情報を知っている者からすれば、波の国に米が集積されるのを見れば、『製造のために大量の米を運んでいる』と確信するわけか」
サスケが合点がいったように呟く。
「そうだ。その後、波の国に集めた米は、時空間忍術で巻物に封印して滝隠れに納品した。この『波の国への不自然な米の集積』も、暁の連中が自らの監視網で得た情報だ。そして、木ノ葉の仮想敵である雲や岩がその情報を知らず、現金を用意する動きを見せなかったことが、彼らの確信をより強固なものにした。まあ、実際には岩は地理的に不参加で、雲については秘密裏にこちらと手を結んでいたんだがな」
「その雲隠れは、なぜ協力してくれたんですか?」
サイの兄であるシンが、静かな声で質問を投げかけた。
「それは事前に、栄養米の試作品を雷影の側近であるマブイ殿に渡し、今後の生産分の二割を雲隠れに優先的に販売すると約束したからさ。その代わり、今回の相場には一切乗らないでほしいこと、そして合図に合わせて適正価格での備蓄米の放出を行ってほしいと頼んだんだ」
「なるほど。……あと、茶の国とはいつの間にやり取りしてたんです?」
シンの重ねての問いに、今まで黙っていたイズミが一歩前に出た。
「そちらの根回しは私が担当しました。既に茶の国とのパイプはヨフネさんが築いていましたので価格交渉だけですが。もっとも茶の国は今年、米が大豊作になるという情報を掴んでいたので、だぶつくであろう古い備蓄米を、新米より少し安い価格で大量購入すると約束して、放出の合意を取り付けていたんです」
「……それで、草隠れと暁にあえて一旦利益を上げさせて慢心させ、さらに『兵糧丸にも転用できる』といった追加の情報を流させて限界まで資金を突っ込ませた後で、一斉放出で底なしの借金を負わせた。そういうからくり、ということだな」
シノが、すべての伏線を総括するように言った。
俺は頷き、そして中隊と猟犬部隊の全員を見渡した。
「そうだ。そして……これで幕引き、とはいかないのは、全員分かっているな?」
俺の凄みがこもった声に、全員の顔つきがスッと引き締まり、無言で力強く頷いた。
「経済戦での決着はついた。ここからは、猟犬部隊および各国との合同による『武力作戦』となる」
俺は倉庫の壁に掲げられた巨大な地図を指差した。
「波の国から逃げ出した悪徳商会の追跡と捕縛。押収した資産や帳簿の精査。そして……敵のもう一つの巨大な財源である、闇の『換金所』への一斉襲撃だ」
いよいよ、暁の物理的な息の根を止める戦いが始まる。
俺は全員の顔を真っ直ぐに見据え、声を張り上げた。
「これより、全部隊、作戦を開始するぞ!」
「はっ!!!!」
静まり返っていた巨大な倉庫に、若き忍たちの士気に満ちた力強い号令が轟いた。経済から戦場へ。木ノ葉の反撃が、ついに火蓋を切った。
*
波の国、シラカワ商会本部。
執務室に広げられた巨大な地図の前で、俺は全軍の配置状況を示す夥しい数の駒を見つめていた。
「雲、木ノ葉、霧、砂、草、滝、6つの里にある裏換金所へと突入準備が完了したようです。また、波の国および茶の国の目標には合同部隊が準備を完了させています」
雲側の代表として商会に滞在している雲隠れのマブイが、手元の資料から顔を上げて報告した。彼女の表情には、今回の大規模な作戦がようやくここまで来たという達成感と疲労が微かに滲んでいる。
「今回叩く拠点だけでも百を超えます。半数はダミーや廃棄された拠点かもしれませんが、これほどの規模を同時に動かすとは……」
「まあ、人員は余裕はないですけどね。主力は規模の大きい主要拠点を割り当ててあります。ただ、その他は若手を中心としたフォーマンセルになってしまいましたけどね」
俺は地図の端、後方に配置されたタシ率いる医療・支援班の駒を一瞥し、傍らに控える通信班の部下に視線を向けた。
「目標は予定時間になり次第、同時に叩かせる。波の国と茶の国の合同部隊については、押収した資金は経費を差し引いて山分け、遺体の扱いは事前の取り決め通りだ。各部隊長には通達してあるな」
「はい」
「よし、時間だ。作戦開始」
俺の号令は、通信班の忍術を介して各戦線の部隊長へと一斉に伝達された。各国に点在する裏社会の換金所へ向け、同時多発的な強襲の火蓋が切って落とされる。
*
(side:うちはサスケ)
火の国国境付近。鬱蒼と生い茂る深い森に隠された巨大な廃倉庫を、夜の闇が包み込んでいる。
俺は、木々の陰からその静まり返った標的を鋭く睨みつけていた。
今回の強襲において、シスイら猟犬のベテラン勢は別の大規模拠点の制圧に向かっている。この拠点を落とすのは俺、ネジ、シノ、キバの四人だ。
「換金所周辺、見張りが五。地下にも微弱なチャクラ反応がある」
シノが静かに呟き、無言で袖口から黒い影を放った。
「……寄壊蟲、展開完了」
湿った腐葉土の上を這い進んだ蟲たちは、換金所に張り巡らされたチャクラの感知網を音もなく食い破り、見張りの忍たちが持つ通信用の巻物までも気付かれずに無力化していく。
「敵の耳と目を完全に塞いだ。ネジ」
「白眼!」
シノの合図と共に、ネジが目の周りに青筋を浮かべ、分厚い壁の向こう側を透視した。
「正面入り口の裏、隠し扉の先に起爆札の連動トラップ。地下の隠し通路に伏兵が二名。……すべて見えている。罠を迂回し、最短ルートで制圧する」
「逃げ道は俺と赤丸が塞ぐぜ。一匹も逃がさねえ!」
キバが獰猛な笑みを浮かべ、赤丸と共に建物の裏手へと駆け出す。
「行くぞ!」
索敵と退路封鎖が完了した瞬間、俺は切り込み隊長として先陣を切った。
かつての俺なら、己の力だけを頼りに、罠も伏兵も構わず正面から単独で突っ走っていただろう。だが今は違う。
「右の扉の裏に一人! そのまま抜けろ!」
ネジの的確な指示通りに、俺は一切の迷いなく踏み込む。死角からの不意打ちを完璧に見破られた敵は、迎撃の体勢をとる間もなく、俺が纏う千鳥と圧倒的なスピードの前に次々と沈んでいく。
「な、木ノ葉だと!?」
「どこから入ってきやがった!」
血の匂いと、地下特有の淀んだ空気が漂う閉鎖空間。暗闇の中で千鳥の青白い閃光が弾け、甲高い音が敵の悲鳴をかき消していく。混乱する敵陣のど真ん中を、俺は無駄のない体術の踏み込みで次々と蹴散らしていった。
(……信じられないほど、楽だ)
焦げた匂いを感じながら、俺は内心で驚愕していた。
もし俺一人でここを襲撃していれば、見えない罠を警戒し、逃げる敵を追いかけ、無駄な体力とチャクラを激しく消耗していただろう。
だが今は、ネジの眼が死角を消し、シノの蟲が敵の連携を断ち、キバが逃げ道を塞いでいる。俺はただ、目の前の敵を最短で仕留める「刃」になればいい。
単独の暴力では決して辿り着けない領域。今この瞬間、これと全く同じ一方的な蹂躙が、各拠点で同時に行われているのだ。
完璧な情報と連携によって場を支配し、敵を一方的に蹂躙する。ヨフネさんが木ノ葉に仕込んだ『組織戦』は、確実に成果を出している。
「……制圧完了だ」
最後に残った抜け忍の鳩尾に手刀を叩き込んで気絶させ、俺は短く息を吐いた。
「サスケ、こっちだ」
瓦礫の奥からネジの声がした。彼が白眼で視線を向けているのは、真新しい壁の一角だ。
「壁の裏側に、偽装された隠し金庫がある。帳簿らしきものも見えるぞ」
俺は無言で千鳥を手に纏わせ、壁ごと金庫の扉を破壊した。中には厳重に封がされた分厚い帳簿と、数枚の書状が隠されていた。
俺はすぐに帳簿を手に取り、中身に目を通す。
「……どうした、サスケ」
シノが不審げに尋ねるが、俺は答えず書状の記述を睨みつけた。
そこには、地図とおそらく詳細な位置に関する情報が暗号化された状態で記載されていた。だが問題なのは、その地図だ。
(間違いない……木ノ葉の里内だ。それも、複数ある)
最も安全であるはずの自分たちの足元に、すでに敵の拠点が入り込んでいる。波の国から指揮を執るヨフネの想定すら超える事態かもしれない。
「すぐに切り上げるぞ」
俺は即座に懐から巻物を取り出し、忍鳥を口寄せした。距離が離れすぎているため、通常の無線は波の国まで届かない。
「局長に報せろ。『木ノ葉の里内に、暁の関連拠点が複数存在する』と」
俺は殴り書きしたメモと発見した書状、そして地図を忍鳥の足に結びつけ、夜空へと放った。一直線に波の国へと飛んでいく鳥を見送り、俺は部隊の三人を振り返る。
「急ぐぞ。支援班と合流する!」
圧倒的な勝利の余韻は、完全に吹き飛んでいた。俺たちは森を蹴り、後方の合流地点へと駆け出した。
*
波の国、シラカワ商会本部の会議室。
作戦開始から数時間が経過し、夜明けが近づいていた。冷え込んだ空気の中、窓から飛び込んでくる忍鳥の羽音と、報告書の紙が擦れる乾いた音だけが室内に響き続けている。インクの匂いに微かな血の鉄臭さが混じり、徹夜で情報の処理に追われる室内の疲労感をより一層濃くしていた。
「……各地の制圧部隊より、続々と報告が上がってきています」
猟犬部隊の本部指揮を担う奈良ダエンが、集約した巻物を手に口を開いた。彼の顔にも、長時間の指揮による疲労の色が微かに滲んでいる。
「赤い雲の外套を着た者との接触報告はゼロです。遭遇の兆候すらありません」
「だろうな」
俺は冷めきった茶を一口すすり、卓上の地図に視線を落とした。
あれだけ大規模な資金を動かしていた暁の金庫番だ。これほど派手な強襲を受ければ、真っ先に身を隠して嵐が過ぎるのを待つはずだ。だが、幹部との無駄な交戦による味方の被害を防げたのは大きい。
「それよりも局長、気になる報告が共通して上がっています。ダミーや既に廃棄された拠点を除いた、稼働中のほぼすべての拠点からです」
ダエンが数枚の書状を机の上に並べた。それは、サスケたちからも報告があった暗号化された地図の写しだった。
「解析班を急がせていますが、大まかな座標はすでに割り出せました。これらはいずれも、火の国をはじめとした各国の中心部や、主要都市の近郊を指し示しています」
その報告に、室内に詰めていた通信班の忍たちが「こんな国の足元まで侵入されていたのか」とざわめいた。
だが、俺はダエンと目を合わせ、静かに首を横に振った。
「……出来すぎだな。末端の使い捨て拠点に、ご丁寧に重要拠点の地図をいくつも残しておくはずがない」
「ええ。我々の戦力を分散させるための陽動、あるいは罠に誘い込むための囮と見て間違いないでしょう」
ダエンも同意見のようだ。だが、厄介なのはその囮の「質」だった。
「とはいえ、絶対にそんな場所に拠点がないと断言しきれないのが、敵の狡猾なところだ。無視するわけにはいかない。暗号の解析を進めつつ、囮と仮定した上でも探索部隊を向かわせる必要がある」
「……お待ちください。少しよろしいでしょうか」
俺たちの会話に割って入ったのは、雲隠れのマブイだった。彼女は机上の地図と暗号の写しを交互に見比べ、微かに眉をひそめている。
「今回襲撃した末端拠点も、この暗号が示す新たな地点も……いずれも、人里から離れたアクセスの悪い場所が多すぎます」
「人目を避ける隠れ家なら、必然ではないか?」
俺が問うと、マブイは明確に首を横に振った。
「隠れるだけならそれで済みます。しかし、彼らの目的を考えてください。彼らは場合によっては『遺体』を運び、数千万両単位の『現金』を準備しなければならない。遺体は重く、すぐに腐敗して匂いも出ます。それを山奥から人力で運び続けるのは、どう考えても非効率的です。大量の荷を一度に、かつ人目を避けて運べるアクセスの良い拠点が、必ずどこかにあるはずです」
その言葉に、俺とダエンは同時に口を閉ざした。
言われてみれば、当然の理屈だ。現場の制圧や情報戦ばかりに目が行き、最も重く厄介な『モノの運搬』という大前提を見落としていた。
「……マブイ殿の仰る通りだ。陸路で大荷物を運べば必ず足がつく」
ダエンが顎に手を当てて盤面を睨みつける。
「しかし、陸路でないとすれば……手がかりがありません」
「いや、あるぞ」
俺は地図上の河川や海岸線を指先でなぞった。
「水運だ。人目を避けて大量の荷を運び、いざという時は船を出して複数の逃走経路を確保できる場所」
俺の言葉に、部屋の隅で腕を組んで黙っていた男が、静かに口を開いた。
「なるほど。それなら辻褄が合いますね」
かつてのガトーカンパニーを引き継ぎ、現在は海運業を管理している霧隠れの忍、碧だ。彼はゆっくりとテーブルに近づくと、懐から独自に書き込まれた分厚い海図を取り出して広げ、地図上のいくつかの中継地点を無骨な指で叩いた。
「海路や港は、私の専門分野です。正規の航路から外れた不審な船の動きや、使われていないはずの廃港に出入りする者たちの情報は、いくつか私の情報網にも入っています。そこを洗えば、本命の拠点が特定できるでしょう」
その言葉を聞き、俺の中で点と点がはっきりと線になった。
暁の本当の流通網は、海と川にあったのだ。
「決まりだな。波の国周辺は引き続き合同部隊に探索させる。マブイ殿、碧。雲と霧の部隊も、各里の新たな水運拠点への強襲に向けて急ぎ再編を頼む」
「承知しました」
二人の頷きを確認し、俺はダエンに向き直った。
「ダエン。囮の地図が示す火の国内の探索は、猟犬部隊に任せる。ただちに人員を割いてくれ」
「承知しました。……若手のフォーマンセルはどうしますか?」
「ヤマトたち護衛中隊ごと、一度波の国へ呼び戻せ」
俺は卓上の駒を一つ掴み、地図の特定の位置へ力強く置いた。
「火の国内陸の探索は、機動力と追跡に長けた猟犬に一任する方が効率が良い。俺自身もヤマトたちと合流し、碧の情報で浮上した怪しい拠点のひとつ……火の国と波の国を繋ぐ『大橋』から程近い地点の捜索に、共に当たるつもりだ」
「適材適所ですね。了解しました。すぐに帰還命令と部隊の再編指示を出します」
ダエンが足早に通信班の元へ向かう。
徹夜の重い空気が漂う会議室に、外から冷え切った風が吹き込んだ。ここから先、安全な後方からの指揮だけでは済まない。俺は立ち上がり、身支度を始めた。
*
波の国と火の国を繋ぐ大橋から程近い、川縁に建つ古びた掘立小屋。
周囲には似つかわしくない立派な桟橋が伸びており、水運の拠点としては絶好の隠れ蓑だった。
俺は少し離れた木の上に身を潜め、眼下の小屋を見下ろしていた。
『ネジ、中の様子はどうだ』
俺は山中フーの「心伝身の術」を介し、念話で前衛のネジに問いかけた。無線のインカムは周囲の音を阻害するため、このような奇襲行動かつ相手が強大である場面では、直接脳内に響く念話の方が圧倒的に有利だ。
『……白眼で確認しました。地下に巨大な空間があり、中に人がいます。ただ、結界に阻まれて上手く見えません。三人? いや、七人か?』
『えらく幅があるな』
『……はい、五つのチャクラが異常に近く、まるで重なっているように見えます。結界の影響かと思われます』
その報告を聞いた瞬間、俺は確信した。間違いない、暁の『角都』だ。
『香燐、お前の感知ではどうだ』
『ごめんなさい、こちらも結界のせいか、チャクラが入り混じっていてよく分からないわ』
俺は短く息を吐き、念話で全体に指示を飛ばした。
『よく聞け。俺はこのまま離れた位置で狙撃態勢に入る。タシの医療班とフー、ヒナタ、香燐は俺の支援として周囲に展開しろ。前衛はサスケ、ネジ、キバ、シン、トルネでいく。ヤマト、シノ、テンテン、サイは中距離からの支援だ』
周囲の森に展開した中隊のメンバーたちが、息を潜めたまま静かに配置につく。
『敵は超A級の賞金首の可能性が高い。どんな術を使ってくるか分からない。十分に警戒しろ』
『了解しました』
『テンテン、例の風船はまだあるか?』
『あと二つです』
『なら、それを使って爆破する。設置を頼む。起爆はこちらでする』
『了解よ。任せて!』
『飛び出してきた敵はヤマトが拘束しろ。爆破したら作戦開始だ』
各員の配置が完了したのを視界の端で確認し、俺は右腕にチャクラを集中させた。
――狐火
テンテンが建物に貼り付けた水素と酸素の混合気体である『爆鳴気』を仕込んだ風船を二つを起爆した。
大気が爆発的に膨張し、凄まじい熱風が川面を叩きつける。目を開けていられないほどの閃光と鼓膜を震わせる轟音と共に、掘立小屋は木端微塵に吹き飛んだ。
土煙が晴れる中、地下空間から三つの影が飛び出してきた。
『木遁・大樹林の術!』
待ち構えていたヤマトが素早く印を結び、腕から伸びて木が二人の影をあっけなく拘束する。
『二人を拘束しました!』
『上出来だ』
残る一人は、黒い外套に身を包んだ巨漢だった。土煙の中から現れたその男は、予想通り、角都だった。
「……俺の金を奪った挙句、換金所まで嗅ぎ回る木ノ葉の猟犬どもが。死にたいようだな」
莫大な損失と拠点の壊滅に、角都の瞳は明確な殺意に満ちていた。飛段が一緒にいないことを喜ぶべきか、同時に捕縛するチャンスを逃したと悔やむべきか。だが、今は目の前の化け物を確実に仕留めることが先決だ。
『サスケ、行け!』
俺の念話と同時に、前衛のサスケが地を強く蹴り出し、音を置き去りにするような踏み込みで肉薄した。疑似経絡の手術によって劇的に跳ね上がったチャクラ出力が、彼の速度をかつてない領域へと押し上げている。
千鳥の大気を裂くような駆動音が響き渡る。サスケは愛用の忍刀に高密度の雷遁を流し込み、角都の死角から斬り伏せようとした。
「甘いぞ、小僧」
角都の腕が黒く変色する。土遁・土矛による極限の硬化。
刃と硬化した腕が衝突し、火花と共に空気が軋むような不快な音が響いた。次の瞬間、サスケの忍刀が、強化された千鳥の膨大なチャクラと角都の極限の硬度に耐えきれず、細かく砕け散って弾け飛んだ。
「なっ……!」
武器を失い、サスケの動きが一瞬止まる。
『ヤマト、援護しろ!』
ヤマトが木遁で角都を拘束しようと動くが、角都の背中から異形の仮面がせり出し、猛烈な火遁の炎を吐き出して木遁を瞬時に灰に変えた。
炎の壁を突き抜け、角都の拳がサスケへ迫る。そこへ、白眼を起動したネジが滑り込み、八卦掌で角都の腕を正確に弾き返してサスケを守った。
『テンテン! 俺の刀を出してサスケに渡せ!』
『はいっ!』
俺の指示を受け、中距離にいたテンテンが素早く巻物を展開した。かつて大蛇丸から戦利品として奪い取った名刀。
「サスケ! 受け取って!」
テンテンが投擲した『草薙の剣』が、空を切ってサスケの元へ飛ぶ。サスケはそれを見事な身のこなしで空中で掴み取った。
「……これなら、どうだ!」
草薙の剣の神気に、サスケは渾身の千鳥を流し込む。青白い雷光が刃を包み込み、そのまま角都の土矛をいとも容易く貫通した。
刃は角都の胸を深々と貫き、その本体である一つ目の心臓を完全に破壊した。
だが、心臓を貫かれたはずの角都は口から血をこぼしながらも倒れず、先ほど動いていた火の仮面が、サスケとネジへ向けて至近距離から火遁を放とうとチャクラを練り上げた。
前衛に一瞬の戦慄が走る。
だが、俺の狙撃態勢はすでに整っていた。
「消し飛べ」
放たれた超電磁砲の閃光が、大気を切り裂き、角都の火の仮面を正確に撃ち抜いた。仮面が粉々に砕け散り、炎のチャクラが霧散する。
『……敵の体内には、独立したチャクラが複数あります!』
後方で全体を俯瞰していたヒナタが、念話で即座に情報を共有した。
『たった今、二つが潰れましたが、まだ「三つ」の心臓が残っています!』
ヒナタの情報を元に、前衛の部隊全員が即座に角都の本体から距離を取った。そして心臓を貫いた死体には目もくれず、背中に隠された残りの脅威を確信したかのように、死角を潰す包囲陣形を敷いて警戒態勢に入る。
「……!?」
知るはずのない秘密を前提としているとしか思えない部隊の無機質な連携を目の当たりにして、角都は驚愕に目を見開いた。
「もしや俺の術を知っているのか? 誰から聞いた?」
角都の質問には誰も答えない。
これ以上聞いても無駄だと悟ったのだろう。角都は背中の外套を破り捨て、大量の黒い触手と共に、残る三つの「仮面のバケモノ」を一斉に展開した。
『動揺するな! 連携して各個撃破するぞ!』
俺の念話に、中隊の全員が応じる。
暴れ出した雷の仮面が、広範囲の雷遁を放とうと上空へ飛び上がろうとする。
『逃がしません』
ヤマトが即座に木遁を這わせ、仮面の動きを強固に捕縛した。その一瞬の隙を突き、サイの兄であるシンが音もなく死角から接近。無表情のまま愛刀を仮面の眉間に深々と突き刺し、破壊した。
同時に、水の仮面が強力な水遁の波を前衛へ向けて放つ。
『シノ!』
『……分かっている』
ネジの八卦空掌を撃ち出し、水遁の波を真っ向から相殺して吹き飛ばす。そこにシノが放った無数の寄壊蟲が波状攻撃のように襲いかかり、水の仮面に群がってチャクラを吸い尽くし、乾いた音を立てて崩れ落ちさせた。
『残り一つだ!』
追い詰められた最後の風の仮面が、後方で支援に回っていた手薄なテンテンへ標的を定め、空から猛烈な速度で突進してきた。
『させないよ』
サイが巻物に走らせた墨の鳥三匹が、空中で風の仮面に激突する。バランスを崩した仮面が、地上へと墜落していく。
その落下地点で待ち構えていたのは、サスケだった。
草薙の剣を軸に、莫大なチャクラを集中させて作り上げた巨大な千鳥の剣。サスケはそれを上段から真っ直ぐに突き出した。
貫かれた最後の風の仮面は、断末魔を上げる間もなく消し炭となった。
「俺の……命が、こんなガキどもに……」
角都の口から大量の血が吐き出されるくぐもった音が漏れる。すべてのストックを失い、本体も致命傷を負った角都が、信じられないという表情で崩れ落ちる。大量の黒い糸を地面に撒き散らしながら、暁の金庫番は呆気なく絶命した。
『隊長。……遠くから、急速に接近してくるチャクラがあります』
香燐が念話で警告を発した。
直後、森の奥から太い幹がへし折れる重い破壊音が響き、「おい旦那ぁ! 待たせ……」という大声と共に、三刃の大鎌を担いだ飛段が現場へ姿を現した。
だが、飛段の目に飛び込んできたのは、完全に事切れた相棒の無惨な死体と、誰一人欠けることなく無傷のまま、こちらへ冷徹な殺気を向ける木ノ葉の中隊の姿だった。
飛段は一瞬、大鎌を担いだ姿勢のまま完全に硬直した。状況を理解した彼の顔が引きつる。
「……あ? 冗談じゃねえぞ、クソが!!」
飛段は即座に踵を返し、一切の躊躇なくプライドをかなぐり捨てて、全力で土を蹴り逃亡を開始した。
「逃がすか」
俺はすかさずレールガンを放った。だが、閃光が飛段の背中を貫く直前、地面から突如として分厚い植物の根が隆起し、物理的な盾となって弾丸の威力を殺した。
『追跡できるか?』
『ダメです、チャクラが完全に消えました』
香燐の報告に、俺は舌打ちをして狙撃態勢を解いた。あの植物の防御と、気配を完全に消す手際。十中八九、ゼツの介入だろう。暁の情報網も侮れない。
俺は高台から降り、現場の安全を確認してからテンテンに指示を出した。
「テンテン、角都の死体を巻物に封印しろ。この得体の知れない体の構造は、持ち帰って徹底的に研究する」
「うへー……なんか黒いウネウネが出てて気味悪いんだけど……」
テンテンは露骨に顔をしかめ、嫌そうに文句を言いながらも、手際よく死体を巻物に収納していく。
暁の幹部を一人、完封で仕留めた。ゼツの介入により飛段を取り逃がしたが、まだチャンスはあるはずだ。
この時は、まだそう思っていた。
しかし、実際にはここから約一年半、俺たちが暁の影を掴むことは出来なかった。