【増える火の意思、減る休日】(side:奈良ダエン)
むせ返るようなインクの匂いと、分厚い書類が擦れる乾いた音が、会議室のピリついた空気をわずかに突いていた。
「本日をもちまして、換金所殲滅を目的とした各国の共同作戦を、終了といたします」
長机の上座で、うちはイズミが澄んだ声で宣言した。表向きは波の国の『シラカワ商会』代表代行として振る舞う彼女の手元には、数え切れないほどの決裁書類が積み上がっている。
「作戦の総括です。波の国と茶の国の目標については、木ノ葉、雲、霧の三ヶ国合同部隊があたりました。草隠れは木ノ葉とのみ合同、滝隠れと砂隠れについてはそれぞれ単独での作戦行動となりました。情報漏れを防ぐため、最初の襲撃だけは各国の予定時間を完全に合わせ、同時多発的に強襲をかけ、その後の制圧・掃討も概ね事前の取り決め通りに進みました」
イズミが視線を巡らせると、波と茶の国での合同作戦に参加していた雲隠れのマブイが涼しげな目元を伏せ、心底疲労しきったような、重いため息を吐き出した。
「イズミ殿。私を窓口にしていただいた事前の交渉は、実に完璧でした。ヨフネ局長の作成されたこの賞金の配分案にも、実務担当としては一切の不満はありません」
マブイはそこで一度言葉を切り、こめかみを指で揉みほぐした。
「ですが……作戦の終盤になって、うちの雷影様が利益の分配と遺体の所有権について、権利拡大を主張したせいで、予定よりも早く作戦を終了することになりました。その点について、私個人として謝らせて下さい。申し訳ありませんでした」
「あー……」
マブイの悲痛な報告に、会議室の空気が一瞬にして妙な同情へと染まった。
本来であれば、暁という組織への警戒を共有せず、情報を秘匿しがちだった雲隠れが金ばかりを要求するのは筋が通らない。結果として、作戦は事前の予定よりも早期に打ち切りとなった。
ただし、この作戦による金銭的な利益は当初より目減りしていたため、費用対効果からこの打ち切りを歓迎する声もあった。
同じく合同作戦に参加していた霧隠れの碧は責めるどころか、ひどく苦い顔をして深く頷いた。
過去に水影の暴政や鎖国という理不尽なトップに振り回されてきた霧隠れだからこそ、その苦労は痛いほど分かるのだろう。
「……心中、お察しする。強大な力を持つ影が、現場の実務や事前の根回しを無視して力技で卓をひっくり返す苦労は、我々もよく知っている」
「碧殿……ご理解いただき、感謝いたします」
マブイが伏し目がちに礼を言うと、イズミも労うように微笑んだ。
(……相変わらず、食えない女だ)
部屋の隅で護衛として壁に背を預けていた俺は、内心でひっそりと感嘆の息を吐いた。
マブイは自分たち実務担当者と「同じ側」であるとアピールし、雷影の理不尽さをあえて盾にすることで、見事にこの場の同情を買うことに成功している。
秘密裏にヨフネ局長と手を結び、事前に栄養米の優先販売などの取引を完璧にこなすだけのことはある。したたかさにかけては、うちの局長に引けを取らない。
そんな彼らのやり取りを、草隠れの忍はただ静かに見守っていた。草は木ノ葉とだけの合同作戦だったため、配分で揉める要素すらない。そもそも少し前にうちの局長にやられて、彼らに意思表示の権利など初めから存在しない。
「我々滝隠れは単独作戦でしたので、配分の問題はありません」
長机の端に座っていた滝隠れの忍が、事務的な口調で口を開いた。
「本日はそれよりもイズミ殿、例の取引についてお話を……」
「はい。滝の天然水と腐葉土の件ですね。そちらはシラカワ商会を通じて、引き続き滞りなく買い取りを進めさせていただきます」
滝隠れの忍が安堵の息を吐き、ようやく長かった会議に終止符が打たれた。あの閉鎖的な滝隠れすらも、わざわざ波の国まで足を運び、局長の持ち込んだ『金』の力にしっかりと食いついて今や商売相手となっている。
各国の曲者たちを相手に、一歩も引かずに事務処理を取り仕切るイズミの姿は、とても十代の少女には見えない。だが、彼女が動かしている強固な仕組みを作り上げたのは、紛れもなく俺たちの上司であるうたたねヨフネだ。
*
他国の使節たちが退室し、分厚い防音扉が閉まると、イズミが机に突っ伏して大きなため息をついた。
「……終わったぁ。ダエンさん、お疲れ様でした」
「お疲れ、イズミ。よく捌き切ったな。しかし、あのマブイって人は本当に厄介だな」
「ふふっ、ヨフネさんも『あの人には誤魔化しが利かない』ってよく頭を抱えていますからね。でも……本当に、この作戦はこれで終わりなんですね」
イズミの言葉に、俺は窓の外、木ノ葉の街並みへと視線を向けた。
それにしても、うちの局長はいつになったら落ち着くのやら。
俺たちと一緒に『猟犬』の部隊で前線を走り回っていた頃、あの人は誰よりも先陣を切り、よく生来の少ないチャクラを切らしてヘロヘロになっていた。だが今は、木ノ葉の外交局長として振る舞い、並の人間では到底かなわないほどの功績を就任早々に叩き出し、その地位を盤石なものにしている。
なにせ、霧隠れの照美メイや砂隠れの我愛羅といった新たな影の就任を、他国である木ノ葉が支持し、裏から手助けしているのだ。普通に考えればあり得ない異常事態だ。
何より大きいのが、これまで採算の取りにくかった遠隔地での任務を、砂や霧に下請けとして依頼できるようになった点だ。
火の国が抱える広大な国境警備に加え、遠隔地の任務まで受けていたことで生じていた深刻な人手不足。それが解消されただけでも、現場からの局長への支持は圧倒的に厚い。
それでも、あの人はどこかのタイミングで木ノ葉の要職から外れる気でいると、ポツリとこぼしたことがあった。
『俺は、あちこちから恨みを買いすぎている』と。
確かに、あの人は自ら悪役を買って出て、厄介ごとの矛先を自分に向けようとしている節がある。悪意を自分に集中させることで、状況をコントロールしやすくしているのは事実だ。
だが、俺たち古参の猟犬メンバーは、誰よりも知っている。
あの人が、味方ばかりか悪意のない第三者に対してすら、優しすぎる人間だということを。部下を決して使い捨てにせず、人を守ることに常に全力なのだと。
そのためなら、悪意ある者には一切の容赦をしない。
そして、俺らの預かり知らないところで、この先数年以内に、忍界を巻き込むような何か大きな何かが起こることを覚悟し、たった一人で備えていることも。
「……ダエンさん?」
「いや。なんでもない」
何も具体的なことは聞かされていない。それでも、長年の付き合いだ。俺の他にも、シスイ、トンボ、ホヘト、サンタあたりはとうに気づいている。
あの人が、密かに焦り始めていることにも。
(局長がいくら恨みを買おうが、俺たちがいくらでも守ってやるさ)
今は外交局の直属護衛として、ヤマトやタシさん、それにフーやネジ、サイといった優秀な若手たちががっちりと護衛についているが、俺たちが訓練で叩き込んだ連携戦術と技量は、確実に彼らの中に息づいている。
局長の頭脳には到底及ばないが、俺たちには俺たちの出来る泥仕事がある。着実にそれをやっていこう。
「さて、残りの事務処理を片付けるか。早く帰って、生まれてくる子供たちの名前の候補でも絞らないとな」
俺が首をポキリと鳴らして立ち上がると、イズミが不思議そうに小首を傾げた。
「ダエンさん、たしか……去年二人目が生まれたばかりですよね? 今度で三人目ですっけ?」
「いや、実は今回は双子なんだ。だから一気に三人目と四人目だな」
「わぁ、おめでとうございます! それは……ますます稼がなきゃですね」
イズミがクスッと笑いながら言うが、俺は内心で深いため息をついた。
(稼ぎなら、猟犬の立ち上げから死ぬほど働かされてるおかげで、嫌ってほど貯まってるんだよなあ……)
「金より、子供たちに会う時間がほしいよ……」
俺が切実に嘆くと、イズミの同情するような、それでいてどこか楽しげな笑い声が、静かな会議室に響いた。
【わたしと猟犬とお茶と】(side:歓楽街代表 エミ)
白粉と香水、上質な煙草の匂いが混ざり合う。提灯の明かりが落ちる通りには、三味線の音と人々のざわめきが絶えない。
ここは波の国が誇る、忍界最大級の歓楽街。
そして私、エミは現在、この巨大な夜の街を束ねる『歓楽街の代表』として、合議制議会に名を連ねている。
「エミ代表。例の品々、手配通り無事に納品されました」
執務室に控えていた若い衆の報告に、私は短く頷いて納品書に目を通した。
リストに並んでいるのは、木ノ葉の外交局長となったヨフネさんが、最近になって他国から波の国へと引っ張ってきた極上の特産品たちだ。
滝隠れの長から直接買い付けたという、果物のように澄んだ香りがする極上の酒と、チャクラを微量に含んでいるとされる極上の天然水。そして、砂漠の国から仕入れた希少な美容オイル。
これらはいずれも、私が取り仕切る歓楽街や高級宿において、途方もない額の金を落とさせるための最高級の武器となる。
「ヨフネさんは、本当に凄いわね」
私は呆れと感嘆の入り混じったため息を吐き、煙管をくゆらせた。
水、酒、美容。これほど重要なものを次々と見つけてきては、この国を恐ろしい速度で発展させていく。
ヨフネさんの卓越した手腕を思い返すたび、私は彼と初めて会った、あの日のことを思い出すのだ。
*
かつて、大国に怯えたこの国の大名は、民を見捨ててさっさと国を逃げ出した。
私達家族も父親が病で亡くなったこともあり、母親に連れられて一度はこの国を離れた。そして、波の国が変わり始めたタイミングで戻ってきた。
大名がいてもいなくても……むしろ、彼らのような古い権力がいない状況だったからこそ、この国はヨフネさんが作った新しい仕組みによって、豊かに発展したのだ。世の中、本当に何が起きるか分からない。
あれはまだ、ヨフネさんが木ノ葉の『猟犬部隊』の隊長だった頃。あの「米騒動」が起きる、一年以上前のことだった。
当時の私は、ただの仕立て屋上がりの小娘だった。飲み屋で働いていた友人と共同出資して、この波の国ではまだ少なかったキャバクラを立ち上げた。一夜の情を売る遊郭とは違い、洗練された会話と教養、そして男たちの見栄を満たす社交の場だ。
経営はそれなりに上手くいっていたけれど、友人が茶の国の有力な御用商人の若旦那に見初められ、結婚して国を出ていってしまった。
結果として、未経験の仕立て屋だった私が一人で経営者になる羽目になった。
それまでは仕立て屋としての腕を活かし、友人の要望に応える形で私が手がけたドレスは、界隈の遊女や芸妓たちの間で大人気となっていた。
そのため、仕立て屋としての仕事も忙しかったし、素人が口を出すよりは良いだろうと、友人の元でお店を任されることもあった子にお店を任せることにした。
しかし、それは間違いだった。その子は自分が好き勝手にできると勘違いしてしまい私利私欲に走り、権力を笠に着て他の女の子たちをいじめたせいで、優秀な子たちが次々と辞めてしまった。
結局、その子をクビにして私が直接店に顔を出すようになり、客足は少しずつ戻ってきたものの……全盛期の頃の熱気には、遠く及ばなかった。
そんなある夜。友人と結婚した茶の国の若旦那が、一人の忍を連れて私の店を訪れた。
それが、ヨフネさんだった。
「……少し、店が寂しくなりましたね」
かつて常連だった若旦那が、心配そうに尋ねてきた。私は隠しても仕方がないと、これまでの経緯を包み隠さず話した。すると若旦那は、隣に座っていたヨフネさんに向かって聞いた。
「そうだったんですね。ヨフネさんなら、どうやって人を集めますか?」
まるで晩御飯の献立を聞くかのように、軽い調子で尋ねたのだ。
この業界について素人とはいえ、この国の仕組みを考えた彼の話なら聞いてみたいと思い、私はすがるような目で彼を見た。
「自分もあまりこういう所には詳しくないのですが……」
そう前置きしてから、ヨフネさんは隣に座る若旦那へ呆れたように視線を向けた。
「はあ……わかりました。貸し一つですからね?」
若旦那が笑いながら頷くのを確認すると、彼はゆっくりと私に向き直り、静かに見据えた。
「ではお話をする前に一つ確認したいんですが、貴女はここをどういうお店にしたいのですか?」
この質問への答え方で、今後が決まる気がして緊張が走ったが、少し考えながらなんとか答えた。
「本音を言えば高級店にしたいです……でも、それが難しいことは分かっています。高級店にするにはここは色々足りていません」
そう、今はまだ出来ることをやるしかないのだ。
「私もそう思います」
「でも単価を考えると……といつもそこで悩んでいます」
内装にしても、女の子達にしても、既存の高級店に比べれば質が落ちてしまう。それに高級店には長い間ご贔屓にしてくれるお客さんが底支えしている。
「今、この国の金持ちには三種類います」
ヨフネさんは静かな声で問いかけてきた。
「今、この国で大金を持っている人間は三種類に分けられる。長く富を築いてきた『名家や伝統ある商家』、商売で急成長した『新興商人』、そして賭事野で一山当てた『観光客』だ。……この中で、一番狙うべき層はどれだと思う?」
「えっと……賭事野で勝った人たちでしょうか?」
「いや、彼らが手にしたのは一時のあぶく銭だ。手っ取り早い快楽を求めて、大半は遊郭へ流れる。それに一度来ても再現性がない彼らの儲けをあてにするのは怖い。狙うべきは『新興商人』です。彼らは金を持っているが、名家が通う既存の高級店には紹介制で入れない。行き場を失った莫大な金を持て余している」
ヨフネさんはゆっくりと口を動かし、核心を突くように私の目を見た。
「次に、彼らが求めているのはなんだと思う?」
「可愛い女の子でしょうか?」
「もちろんそれもありますが、本質はもっと見えないものだと思います」
「見えないもの?」
「ええ、彼らは虚栄心、自己顕示欲、承認欲求を満たしたいんです」
淡々と語られる言葉に、私は思わず身を乗り出した。
「そのためにはどうしたら……?」
「これはあくまで例なんですが、お店の中に階層を作るのは面白いかもしれませんね」
「階を分けるのですか?」
「いえ、あくまで同じ空間です。お店の入り口側を一番低くして、あえて階段を作り、中段と上段を作るんです。例えば一番低い所が七割、中段を二割、上段を一割程度の割合にします」
「ただ位置を高くするだけですか?」
「はい。ただし、中段以降に上がるためには条件があります。中段は普通の席より高い席料を払えば、基本的にはどなたでも入ってもらえます。しかし、上段に座るには、それまでのお客の信頼と貢献、つまりいくら使ったかによって、認めた人のみに座る権利を買わせてあげるのです。そしてさらに高い席代や指名料を貰うんです」
「なるほど。でも中段の割合を増やした方が良いんじゃ……」
「いえ、この仕組みで重要なのは下段がしっかり埋まることです。そうすることで、中段よりも上に座った人は下段の彼らよりも凄いんだと虚栄心が満たされるんです。そして、下段や中段の方は、より多くお金を使い上段に上がろうとする」
私は息を呑んだ。ヨフネさんはまるで何かを思い出すかのように、スラスラとアイディアを出してきた。素人? まさか彼がこれほど具体的な、人間の欲望を金に換えるえげつない仕組みを言って来るとは思わず、私は完全に聞き入ってしまった。
「あとは従業員の女の子ですが、教養を身につけさせて下さい。ただお酒を注ぐだけの子では、いずれ消費されて終わる。政治や経済の会話にもついていける、知的な女性を育てるんです。見た目の美しさだけではなく、内面も磨いて質を上げるんです」
「……なるほど」
「さらに、下戸の客への対応です。茶の国の上質な茶葉を使った極上の冷茶などを酒と同じか、それ以上の値段を取る。酒を飲めない客からも、高い利益率で回収する仕組みを作るんです」
素人が色々言ってすまんな、と微笑むヨフネさんに、私はすっかり圧倒されていた。ここまで見事に儲かる仕組みを言語化されると、その聡明さに感嘆するほかない。
「でも……それを実現するための改装費や教育費が……」
私が口ごもると、ヨフネさんは隣の若旦那を見て、ニヤリと笑った。
「大丈夫ですよ。この人が出してくれますから。普段歓楽街に近寄らない俺をわざわざここへ呼んだのは、そういうことでしょう?」
若旦那は、バツが悪そうに頬を掻いた。
「バレましたか。ヨフネさんに提案を出させて、私が金を出してエミさんの店を救う。それが最も角が立たない近道だと思ったんですよね」
「それもあります。……が、別に俺から良いアドバイスが出なくても良かったんでしょう?」
「え?」
若旦那が不思議そうに首を傾げると、ヨフネさんは静かに言った。
「普段こういう場所に近寄らない俺が、茶の国の有力な御用商人である貴方と一緒に来店した。その事実だけで、この店には十分にハクがつく」
ヨフネさんはグラスを置き、若旦那に向かって意味深に微笑んだ。
「まあ、貴方にはこの先、お米についてお願いすることがあると思うので。これで少しは頼みやすくなったと思うことにしておきましょう」
「……ほどほどにお願いしますよ」
二人の間で乾いた笑い声が起きた。その時の私は、彼らの話が何を意味しているのか、まだ明確には理解していなかった。
*
翌日から、私は一時店を閉めた。ヨフネさんは素人の思いつきだと笑っていたが、私は彼のアドバイス通りに店を大改装すると即決した。
結果として紆余曲折はあったが、波の国随一の店へと生まれ変わった。若旦那が言った通り「木ノ葉の猟犬のトップが足を運んだ店」という噂が、さらなる客を呼び込んだ。
私があの日の会話の意味に気づいたのは、あの日から一年以上が経ち、「米騒動」が起きた時だった。
茶の国が備蓄米をシラカワ商会に大量放出するという取引に応じた。その結果、空売りを仕掛けていたシラカワ商会は莫大な利益を上げ、暁の資金は見事に焼き尽くされた。
あの時の備蓄米を動かした中心人物こそが、茶の国の有力な御用商人……あの若旦那だったのだ。
あの夜、ヨフネさんは若旦那の思惑を完全に見抜いていた。それでも、恩を売るために誘いに乗り、提案までしてくれた。
けれど――。
実は、若旦那がヨフネさんを店に連れて来るように仕向けたのは私だった。それも若旦那に気づかれないように。
あの夜の数週間前。波の国へ向かうという旦那様の予定を知らせてきた友人への返事に、私はあえて自虐的にこう書き添えたのだ。
『あんたが抜けて店は寂れちゃったけど、逆に今なら誰も来ないから、旦那様が大事な取引相手と密談するにはうってつけよ』と。
それを読んだ友人は、強がっている私に罪悪感を抱き、まんまと若旦那に泣きついてくれた。そして若旦那は私の狙い通り、木ノ葉の隊長をこの店に呼び込んでくれ、お店に箔をつけることができた。
ヨフネさんからアイディアを貰うことができたのは想定外の幸運だったが、それも上手く活用して私はのしあがることができた。
かつて大国に怯え、国を捨てて逃げ惑うしかなかった仕立て屋の娘が、今や夜の街の頂点として、一国の運営に口出しすることができるようになった。
お母さん、ありがとう。こんな面白い時代に私を産んでくれて。
そう思いながら、滝の国からやってきたお酒に私は口をつけた。
【兄弟として】 (side:カンクロウ)
夜明け前の風影邸の屋上。
吹き抜けるひんやりとした風が、かすかに湿った匂いを運んでくる。かつてこの里を覆っていた、鼻腔を焼くような乾いた砂と、うっすらとこびりついた血の匂いではない。それは間違いなく、土と命が放つ青臭い匂いだった。
「……また少し、芽が増えたな」
屋上の手すりに両手を預け、眼下に広がる里の情景を見下ろしていた我愛羅が、ぽつりと呟いた。その横顔には、かつての張り詰めた殺気はなく、年相応の微かな安堵が浮かんでいる。
隣に立つテマリが「そうだね。まだ朝晩は冷える。あんまり身を乗り出すなよ」と、かいがいしく我愛羅の肩に羽織を掛け直した。
(……最近、テマリの奴、我愛羅に過保護気味になってきてねェか?)
かつては末の弟を恐れ、震えながらも不器用に気にかけていた姉の姿を知っているだけに、俺は内心でひっそりと苦笑した。
だが、悪くない。血の匂いしか知らなかった我愛羅が小さな命の芽吹きを喜べるようになり、こうして穏やかなやり取りができるようになったことが、兄として何よりも誇らしかった。
視線の先、里のあちこちにそびえ立つのは、巨大な網だ。
砂漠特有の強烈な寒暖差によって生まれる朝霧が、その網に触れて結露し、下部の管へと吸い込まれていく。ポタポタという音こそ地表には聞こえないが、太い配管を通って地下の巨大な貯水タンクへと水が絶え間なく流れ落ちていく確かな気配が、このひび割れた里の底で、確かに脈打っていた。
砂隠れの緑化計画は、当然だが最初から上手くいったわけじゃなかった。水不足という根本的な問題を解決しないことには、一歩も先へは進めなかったのだ。
そこで呆れるほど突飛な解決策を提案してきたのは、やはり木ノ葉の外交局長であるうたたねヨフネだった。
『朝方に見た蜘蛛の巣に水滴がついているのを見て、思いつきました』
地上に巨大な網を張り巡らせ、そこから地下の貯水タンクへ配管を繋ぐ。最初は半信半疑だったが、いざ設置してみれば、嘘のように網に水滴が結露し、信じられない量の水が集まっていくのを見た時は「こんなに簡単に水が集まるのかよ」と絶句したものだ。
そこからも、木ノ葉から数多くの提案がなされた。
居住区から離れた実験場では、まさか里から出た生ゴミまで利用して土壌改良のテストを行うとは思いもしなかった。実地試験を行い、改良し、新たな問題が発生してはまた修正する。終わりの見えない試行錯誤の日々。それでも、里を中心とした円形状に、少しずつ性質の違う植物を段階的に植えていくことで、ようやく砂漠に植物が根付いてきたのだ。
その過程で、我愛羅は誰よりも動いた。
配管の泥さらいから、実験場での不衛生な土いじりまで、普通の忍なら鼻をつまんで嫌がるような裏方の作業を、文句一つ言わずに率先してやってのけた。
当然、過去の所業から我愛羅を怖がる者や、恨みを持つ者もまだいる。だが、その誠実な姿勢が確かな支持を集め、結果として緑化の完全な成功を待たずして、我愛羅は風影に就任した。里は間違いなく、良い方向へ動き出している。
「……そろそろ、風影のお披露目に向けて本格的に動かないとな」
俺の呟きに少し後ろに控えていたかつての俺達の担当上忍であるバキが、低い声で応じた。
「ああ。我愛羅様、木ノ葉の外交局長殿に相談したところ、友好の証として『木ノ葉と砂の共同開催』による中忍試験を勧められました。二部構成にして、開催場所を両国で分けてしまおう、と。今後、その方向で調整が進むでしょう」
「自国開催か。燃えるじゃんか」
俺はニヤリと笑った。
今回の中忍試験に向けて、砂の戦力はかつてないほど充実している。木ノ葉の……いや、『猟犬』の訓練手法を取り入れた下忍の指導は、驚きの連続だった。徹底的に無駄を省き、過酷で、嫌になるほど鍛え上げられる。そのやり方を吸収した砂の下忍たちは順調すぎるほど育ち、今回は過去最多の人数を試験に送り込むことになりそうだ。
だが、木ノ葉から学んだのはそれだけではない。
俺が何よりも驚愕したのは、傀儡使いの本場である俺たちが考えもつかなかったような、木ノ葉の『傀儡運用』だった。
*
(……傀儡を使って、上空から爆撃だと? 冗談じゃねェ)
初めて合同演習でそれを見せつけられた時、俺はからくり師として強烈な反発と、それ以上の恐怖を覚えた。
頭上を覆う、異様なほど無骨な凧の影。それは人型ですらなく、ただ空を飛んで火薬を落とすためだけに造られた無機質な兵器だった。
次の瞬間、起爆札の爆発音が連続して荒野を揺らした。熱風が頬を焼き、舞い上がった砂煙が視界を完全に奪う。降り注ぐ無数の炎と爆風を前に、防ぐ手立てなど何一つなかった。
傀儡ってのは、この過酷な環境で人間の忍の代わりとして開発された。人型に偽装し、一見無害に見える仕掛けの中に致死の毒や刃を隠し持たせ、敵を欺き殺す。そこにこそからくりの浪漫があるんだろうが。
最初から空を飛ぶ無骨な凧を作って、安全な上空から火薬をばら撒くなんて、美学への冒涜だ。
だが……戦術としての圧倒的な有効性は、実戦を潜り抜けた忍として認めざるを得なかった。からくりの浪漫もクソもねェ、ただ効率よく敵を殺し、自軍の被害を減らすためだけの冷徹な仕組み。あんな情け容赦のないやり方を平然と押し通す連中に、勝てるはずがなかったのだ。
木ノ葉崩しで砂が木ノ葉に敗北したのは偶然ではなく、必然だったと思い知らされた。しかも木ノ葉は、そのやり方すらも惜しげもなく俺たちに教えてきた。
*
「……本当に、随分と里は豊かになったな」
我愛羅が再び呟く。その言葉通り、里の経済は以前に比べれば格段に良くなり、通りを歩く住人たちの顔にも笑顔が増えた。我愛羅の功績として、風影への支持も高い。
だが――。
俺はバキと、ほんの一瞬だけ無言で視線を交わした。
バキの目にも、俺と同じ重苦しい色が宿っている。
(このままで、本当に良いのか……?)
今はいい。ヨフネという得体の知れない、だが確実に約束を重んじる男が木ノ葉の舵を取っているうちは。
しかし、この先もし木ノ葉と仲違いしたらどうなる?野心的な者が火影になればどうなる?
経済を始めとした何もかもが、木ノ葉に依存しすぎている。首根っこを掴まれていると言ってもいい。その事実に気づくたび、未来への強烈な不安が背筋を這い上がるのだ。
俺たち砂隠れには、自立できるための『何か』が絶対に必要だ。木ノ葉の施しに甘んじるだけの弱小国ではないと、証明するだけの力が。
そうでなければ、いつか我愛羅が政治の波に飲み込まれてしまう。弟が泥にまみれて守り、育てようとしているこの里を、兄である俺たちが守らなきゃならねェんだ。
「……我愛羅、テマリ。まずは今回の中忍試験、俺たちの下忍に木ノ葉の連中をきっちり出し抜かせてやるぜ」
俺の決意を込めた言葉に、我愛羅は静かに振り返り、テマリは好戦的な笑みを浮かべた。
本家の意地を見せてやる。木ノ葉から得たものに、砂の過酷な環境で培った毒と罠の技術を掛け合わせた新世代の力で。
そして俺自身も、からくり師としての浪漫と殺傷力を完璧に両立させた、極上の傀儡を組み上げてやる。
夜明けの光が、湿り気を帯びた砂の里を眩しく照らし始めていた。
【久しぶりの中忍試験】 (side:テンテン)
合同中忍試験の一次試験、そして木ノ葉隠れの里から砂隠れの里へのレースで足切りされるという二次試験を突破した夜。
砂隠れの里に用意された受験生用の大部屋宿舎は、合格の喜びに沸き返っていた。
「いやぁ、過酷な砂漠の移動は腹が減って死ぬかと思ったよ……! うん、この砂隠れの串焼きもいけるね!」
部屋の中央では、秋道チョウジが息をつきながらも豪快に肉を頬張っている。その横では、ロック・リーが熱い涙を流してガッツポーズを決めていた。
「オオオオ! 過酷なリハビリを乗り越え、再び皆と死線を越えて合格を分かち合える……! 我が青春に一片の悔いなしィィ!」
他の木ノ葉の面々も、安堵と疲労が入り交じった笑顔で歓談している。
私は、壁際で静かに腕を組むネジの隣に立ち、少し呆れながらもその賑やかな様子を見守っていた。うるさいなぁと思いつつも、大怪我から復帰したリーが元気に馬鹿をやっている姿を見ると、心の底でホッと安堵している自分がいる。
(……過酷な砂漠、ね)
私は心の中で小さくため息をついた。
確かに、容赦なく照りつける太陽と、体力を奪う乾いた砂の海を越える生存競争は、並の下忍にとっては地獄だったはずだ。
けれど、自ら望んでヨフネ局長の護衛中隊に身を置いている私たちからすれば、あの程度の移動は『少し長めの軽いランニング』に過ぎない。
局長直属の猟犬の訓練は理不尽そのものだし、任務の過酷さはこんなものではない。極限の死線と任務の持つ底知れない暗さを嫌というほど味わわされていれば、ただ砂漠を走るだけの試験でへばる気など微塵もしない。
ふと視線を巡らせれば、猟犬の息がかかった『変則班』の面々も、皆涼しい顔をしている。
部屋の反対側では、香燐が静かに感知を広げ、サクラが医療具を点検し、サスケは坐禅を組んでチャクラのコントロールを確認している。サクラの医療と香燐の広域感知という完璧なバックアップが、死角からの不意打ちを完全に潰している。だからこそサスケは、自身の超火力を叩き込むことだけに専念できる。ナルトという不確定要素がいなくなった分、一切の隙がない恐ろしい砲台陣形って感じね。
その隣にいるキバ達も、猟犬の訓練を潜り抜けた者特有の、静かで張り詰めた空気を纏っている。前まではあんなに落ち着きのなかったキバと赤丸が静かに周囲を窺い、ヒナタが警戒する横で、元『根』のシンが静かに微笑んでいる。局長の地獄の特訓を生き抜いた二人だけでも脅威なのに、死線を越えてきた暗部上がりのシンが加わっているのだ。ヒナタの絶対防御を崩すのは困難を極め、その隙に機動力のあるキバに陣形を荒らされれば、シンに音もなく狩られる。あそこは絶対に手出し無用の近接特化班ね。
そして、サイが加わったのはイノ達のところだ。チョウジが食事でひたすらカロリーを蓄え、サイがイノを素直に「美人さん」と褒めながら墨をすり、イノは照れている。一番緊張感が感じられない班ね。ただ、シカマルが抜けて頭脳プレイや火力が落ちるかと思いきや、大間違いだ。成長したチョウジの物理破壊力に、サイの航空戦力と手数が加わって、制圧力を得ている。イノが医療と感知でサポートに回ることで、陸空両用の隙のない部隊に化けている。
(局長はこの中忍試験を利用して、化け物じみた木ノ葉の若手たちを他国に見せつける腹積もりね。相変わらず、底知れない人だわ)
そんな采配の中で、私たち『ガイ班』だけがメンバーを組み替えられずにそのまま出場できた理由は明白だ。長く苦しいリハビリから完全復活を遂げたリーの暴走を阿吽の呼吸で抑え込めるのは、私とネジしかいないという局長なりの計らいに違いない。
「テンテンさん」
不意に声をかけられ、視線を向けると、日向ヒナタが周りを気にしながらこちらへ近づいてきた。その声色に、私とネジは一瞬で護衛任務の顔つきへと切り替わる。
「どうしたの、ヒナタ」
「……今日の道中、滝隠れの集団の中に『あの子』がいました」
ヒナタが声を潜めて告げた言葉に、私は背筋が凍る思いがし、ネジは僅かに目を細めた。
私の脳裏に、先日滝隠れの里の長と土や水の取引で会談した際の光景が蘇る。外交の場に『外の忍っスか!? 友達になるっス!』と、無邪気な笑顔で飛び出してきた褐色の少女。
「……他国の人柱力が、なぜ一介の受験生として試験に混ざっている?」
ネジが鋭い視線を巡らせる。人柱力は里の最高軍事機密であり、最終兵器だ。それを他国が関わる中忍試験に放り込んでくるなど、普通に考えれば正気の沙汰ではない。
「異常事態だ。念のため、すぐに局長に報告を入れるべきだな」
「それが……」
私は呆れたようにため息をついた。
「局長は今、火の国の大名の所へ行っているはずよ。連絡を入れても、すぐには動けないかもしれないわ」
「だが、試験会場に人柱力がいる事実は無視できない。木ノ葉に残って後方支援を取り仕切っているタシさんに、サイの墨鳥で報告を入れておこう」
ネジの提案に、私とヒナタは頷き、サイの元へ向かった。サイの描く墨鳥は、指定した目的地にある専用の巻物へ飛び込むことで文字となり情報を伝える仕組みであり、極めて秘匿性が高く迅速な通信手段だ。
窓の外に目をやると、砂隠れの冷たい夜の闇が広がっていた。
明日からは、あの広大な『魔の砂漠』を舞台にした、巻物争奪の三次試験が始まる。
人柱力の参加という不確定要素はある。だが、私の心に不安はない。
私の隣には、普段の護衛任務で互いの死角を完全に預け合う連携を築いたネジがおり、死の淵から蘇り、かつて以上の熱量を取り戻したリーがいる。
どんな相手が立ち塞がろうとも、私は私なりの時空間忍術を武器に、必ず中忍の座を勝ち取ってみせる。護衛中隊として数々の死線を潜り抜けてきた私たちに、死角はないのだから。