万象、紙に綴れば   作:Mebius217

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第19話:脳内物質(ドーパミン)と、生存本能

 

 

 

朝の清々しい光が薄いカーテン越しに差し込む中、眞白は薬品の匂いが漂う静かなベッドの上で目を覚ました。

 

「う〜ん……あれ、ここどこ?」

 

真っ白な天井を見上げながら、寝ぼけた頭でポツリと呟く。数秒後、昨日の激闘の記憶と、全身を駆け巡ったあの熱がフラッシュバックし、「あ、そうだ。保健室だ……」と現状を理解した。

 

ゆっくりと身体を起こそうとした瞬間、全身の筋繊維が悲鳴を上げた。昨夜、眠る前に地獄のようなストレッチをしてから寝たとはいえ、一度限界を迎えた筋肉は、寝ている間に再びカチコチに固まってしまっていた。

 

「んん〜っ……いっだ……」

 

眞白はベッドから降りると、痛みに顔をしかめながら両足を広げ、念入りにストレッチを再開する。

 

「眞白? 起きたのか」

 

ふと、背後から声をかけられた。振り返ると、白衣のポケットに手を突っ込んだ家入が、保健室の奥から歩いてくるところだった。

 

「あ、家入先生! おはようございます」

 

元気よく挨拶を返した直後、眞白はふと、ある違和感に気がついた。

 

「あれ、家入先生って私のこと、名前で呼んでいましたっけ?」

 

これまで「綴」と呼ばれていたはずだが、今確かに下の名前で呼ばれた気がしたのだ。不思議そうに小首を傾げる眞白に対し、家入は悪戯っぽく口角を上げた。

 

「何だ、嫌だったか? 綴」

「い、いえ! そんなことありません!」

 

眞白は慌てて両手を振り、顔を赤らめる。

 

「ちょっと気になっただけですので! むしろ、そっちの方が家入先生と仲良くなれた様に感じて……う、嬉しいです」

 

恥ずかしそうにはにかみながら本音を漏らす眞白を見て、家入は満足そうにフッと微笑んだ。

 

「硝子でいい。眞白だけ下の名前じゃ不公平だろ」

「ッ! ……しょ、硝子先生!」

 

眞白はパッと顔を輝かせ、感動したように改めてその名前を口にした。年齢こそ離れているものの、ここまで対等に、親しく言葉を交わせる友人と言える存在は、眞白にとって非常に珍しかった。一ヶ月も寝食を共にすれば良くも悪くも距離が近くなるのは当然だが、これまで一人で学生生活を送ってきた眞白にとっては、心が温かくなる希少な体験だったのだ。

 

「あ、そうだ。改めて、昨日はありがとうございました」

 

浮かれた気持ちを引き締め、眞白は姿勢を正して深く頭を下げた。昨日、脳が焼き切れる寸前だった自分の命を繋ぎ止めてくれた恩人への、心からの感謝だった。

 

「そうだ、ちゃんと感謝しろよ」

 

家入は気怠げに首の後ろを掻きながら、少しふざけた調子で言った。

 

「厳密には、これから任務に行った時は毎回私に土産を買ってくること、だな」

「お、お土産……。案外現金ですね」

 

眞白が苦笑いしながら呟くと、家入は「まぁ任務に出るようになれば金ならいくらでも貯まるからな。特にお前の場合は」と呆れたように笑う。 そして、家入は白衣のポケットから手を出し、少しだけ真面目な瞳で眞白を見つめた。

 

「それに、土産を渡すっていう『帰る目的』もできるだろ。……もうこんな無茶はするなよ」

 

その静かな言葉には、暗に「無茶して死ぬな、ちゃんと生きて帰ってこい」という、医者として幾多の死を見送ってきた彼女なりの、切実な祈りが込められていた。

 

「しょ、硝子先生……」

 

その不器用で深い優しさに触れ、眞白は感動のあまり目尻にうっすらと涙を浮かべた。

 

「ほら、いつまでも固まってないで軽くシャワー浴びてこい。朝飯食いに行くぞ」

 

しんみりした空気を嫌うように、家入はくるりと背を向けて保健室のドアに向かって歩き出した。

 

「は、はい! 硝子先生!」

 

眞白は満面の笑顔で頷き、彼女の少し後ろを小走りで追いかけた。

 

 

 

   *

 

 

 

「グッモーニーン!!」

 

バンッ! と勢いよく教室のドアが開き、鼓膜を震わせる五条の無駄にでかい声が響き渡った。

教室の中には、すでにシャワーを浴びてスッキリし、朝食も食べ終えた眞白と家入が呆れ顔で待機していた。

 

「ってことで! 早速こちらの家入大ッ先生から、反転術式の特別授業をしてもらいまーす!」

 

五条は一人でテンションを爆発させながら、家入の背中をぐいぐいと押して教壇へと誘導する。

 

「はぁ……なんで朝からそんなテンション高いんだよ、お前は」

 

家入は深い深いため息を吐きながら、チョークを手に取った。

 

「じゃあ早速始めるか。眞白、お前が今知ってる限りでいい。反転術式の解説をしてみろ」

 

家入からの問いかけに、眞白は背筋をピンと伸ばして真剣な表情を作った。

 

「はい。まず前提として、一般的な『呪力』とは負の感情から生まれる負のエネルギーです。この所謂『負の呪力』は、対象を強化あるいは破壊するのには長けていますが、対象を治癒することはできません」

 

眞白は、先日資料庫で読み漁った記述を頭の中で整理し、現代的なアレンジを加えながら流暢に説明を続ける。

 

「そこで、負とは逆位置に存在する『正の呪力』の出番です。この呪力は、負のエネルギー同士を掛け合わせること……現代的に言うと、『マイナス×マイナス=プラス』となるように負の呪力を反転させることで、対象を治癒し、生命を生かす回復の力とすることができます。そして、この一連の呪力操作のことを『反転術式』と言います」

 

家入は眞白の完璧な解答に満足そうに頷き、黒板に要点をさらさらとまとめていく。

 

「その通り。模範解答だな」

 

チョークの音を響かせながら、家入は背越しに語った。

 

「さっき眞白が言った通り、正の呪力は負の呪力同士を掛け合わせることで生まれる。イメージは人それぞれだけどな。この呪力操作こそが長年呪術師たちを悩ませてきた極めて高度な技術と言える……らしい。私はその苦労を知らないからな」

「知らないって……硝子先生は、特に訓練とかしないでできたってことですか?」

 

眞白が目を丸くして尋ねると、家入はあっけらかんと答えた。

 

「あぁ。私の場合は普通に呪力を操作する延長で、気づいたらできてたからな。高専に入学して五条達にぐちぐち詰められるまで、そんな大層な技術だとは知らなかったよ」

 

そう言って、家入はジト目で教室の後ろに立つ五条を睨んだ。

 

「いや〜、僕もあの頃は若かったからね〜」

 

当の五条は、後頭部で手を組みながら全く反省の色を見せずにヘラヘラと笑っている。

 

「なっ! 五条先生! まさか硝子先生をいじめてたんですか!?」

 

眞白がキッと非難の目を向けると、五条は大袈裟に両手を振って弁明した。

 

「いじめてない!いじめてない! それに、硝子がただ虐められるようなヤワな人間に見える? あの後めっちゃ怖かったんだから!」

「……まぁ、確かに」

「おい」

 

あっさりと納得した眞白に、家入が呆れたようにツッコミを入れる。教室の空気は、すっかりいつもの穏やかで騒がしい日常を取り戻していた。

 

「硝子って昔っから全然変わんないよね〜」

 

五条が揶揄うように言うと、家入は面倒くさそうに息を吐いた。

 

「お前も人のこと言えた立場じゃないだろ」

 

チョークを置き、家入はふと遠くを見るような目をして、昔を思い出しながら語り継いだ。

 

「入学当初の五条は、夏油……もう一人の同期と喧嘩ばっかだったからな。それでできた傷を治すのが私の当分の役目だったよ。まぁ、すぐに二人が打ち解けたせいで、更に面倒なことになったけどな」

「へぇ〜、喧嘩ばっかり……。その夏油さんって方と五条先生って、仲良しなんですね」

 

眞白は純粋な好奇心から目を輝かせ、無邪気に尋ねた。

 

「その方は、今も呪術師をされているんですか?」

 

ピタリ、と。教室の空気が、一瞬にして凍りついた。

 

「あー……硝子。話、逸れてるよ」

 

五条の口から出たのは、先ほどまでの飄々とした態度とは打って変わった、ひどく冷たく、真面目な声色だった。表情こそ微笑を保っているように見えるが、目隠しの奥から放たれる気配には、一切の感情が抜け落ちていた。

 

「……はぁ。悪い、今の話は忘れてくれ」

 

家入もまた、五条の雰囲気に気づいたのかバツが悪そうに、そしてどこか呆れたようにに五条から目を逸らし、誤魔化すように黒板へと向き直った。

 

(……ッ!)

 

二人の劇的な態度の変化に、眞白の背筋に冷たい汗が伝った。

空調の音がやけに大きく聞こえるほどの、重く冷たい沈黙。

 

(そりゃ……こんな危ない仕事していたら、何もないはずないよね……)

 

「夏油」という人物の身に何が起きたのか。死別か、それとも何か別の悲劇か。眞白は遠くも近くもない勘違いを巡らせながらも、これ以上は絶対に踏み込んではいけない地雷なのだと、沈黙の理由を深く納得して飲み込むのだった。

 

先ほどのどこか重く凍りついた空気を強引に打ち破るように、家入は黒板を軽く叩いて居住まいを正した。

 

「……話を戻すが。綴が言った様に基本的には反転術式とか言っているが、やってることは単なる呪力操作の応用に過ぎない」

 

家入はチョークを置き、教壇から眞白の顔をじっと見下ろすようにして再び説明を始めた。彼女の視線は眞白の呪力の流れを探るように細められている。

 

「眞白なら黒閃も経験しているし、持ち前の呪力操作の精度ですぐできるもんだと思ったが……こいつと同じか」

 

家入はふぅと短いため息を吐きながら、教室の後ろで壁に寄りかかっている五条へとジト目を向けた。

 

「何それ〜。眞白がセンスないってこと? ひど〜い」

 

五条は今でこそ反転術式を無意識レベルで回せる最強だが、学生時代に全くできなくて苦労した自身の過去は完全に棚に上げ、ここぞとばかりに眞白を揶揄ってきた。目隠しの奥で、面白がってニヤニヤと笑っているのが容易に想像できる。

 

「セ、センスが……ない……」

 

五条からあっさりと「センスがない」と認定されたと思い込んだ眞白は、わかりやすく肩を落とし、露骨にどんよりと落ち込み始めた。

 

「はぁー、やる前からそんな落ち込むな」

 

呆れ顔の家入は、白衣のポケットから何かを取り出した。パチン、と医療用のゴム手袋をはめる音が響く。そして彼女は、銀色の医療用トレーと共に、鋭く光る一本の『メス』を眞白の机の上にコトリと置いた。

 

「ほら、メス」

「……? ……ッこ! ……こここ、これ……は?」

 

突然目の前に置かれた冷たい刃物を見て、眞白の思考が一時停止する。直後、自分が今から何をやらされるのかを瞬時に理解し、顔からサッと血の気が引いた。明らかな冷や汗を流しながら、小刻みに身体を揺らして激しく動揺し始める。

 

「これはって、さっきも言ったがメスだ。これなら多少深く切っても綺麗にくっつく」

 

家入は一切の躊躇いもなく、ぶっきらぼうに恐ろしいことを言い放つ。

 

「……綺麗にくっつくって、い……一体これで、な、何を……」

 

どうか自分の勘違いであってくれ。眞白はそう心の中で強く願いながら、ガタガタと怯える声で家入を見上げた。

 

「何だ、眞白の割に勘が鈍いな」

 

家入は、まるで今日の昼飯のメニューでも決めるかのように何でもない顔で答える。

 

「これで、スパッと手早く実技訓練ってとこか」

 

「スパって!? 私の指を、スパってことですか!?」

 

眞白は目を見開き、椅子から転げ落ちそうになりながら悲鳴を上げた。

 

「スパってやると言っても、ほんの指先を少し切るだけだよ。痛みも殆ど感じないはずだし、実際それが一番わかりやすいんだよ」

 

家入は眞白の悲鳴を完全にスルーし、机の上に多少血がこぼれてもいいように、清潔な布やガーゼをテキパキと準備し始める。その手際の良さが、逆に眞白の恐怖を煽った。

 

「い、いきなりですか!? そ、そんな、せめて何かコツとか教えてください!」

 

涙目で必死に食い下がり、教壇に身を乗り出すようにして詰め寄る眞白。その必死な剣幕に、家入は少しだけ作業の手を止めた。

 

「コツ? コツか〜……」

 

家入は少し考えるような素振りを見せた後、後ろで壁に寄りかかっている五条の方へ顔を向けた。彼女の脳内で、かつての五条と現在の眞白の呪力がリンクしていく。

 

「多分だけど、眞白と五条って呪力操作が精密すぎるから、変に考えすぎてるんだよ」

 

軽く考察を述べた後、家入は眞白に向き直った。

 

「もっとなんとなくで、大雑把で良いから。『ひゅー』とやって『ひょい』だよ。ひゅー、ひょい」

 

家入は、人差し指を空中でくるくると回しながら、完全に擬音語だけの独特な掛け声を発した。

 

「ひゅー……? ……ひょい?? ……ひゅー?????」

 

言われた通りに手のひらの上で呪力を集め、文字通りに「ひゅー」とくるくるさせてみるものの、眞白の頭の中は完全にクエスチョンマークで埋め尽くされていた。理論派には到底理解できない、眞白とて感覚派と言ってもいいが家入のような生粋の感覚派だけが持つ言葉の壁だった。

 

「っく……プハハハハハ!!」

 

そのちぐはぐなやり取りを見て、教室の後ろにいた五条が突然腹を抱えて爆笑し始めた。

 

「はぁー、それ久しぶりに聞いた。いやーやっぱ硝子に頼んでよかったよ!」

 

五条は笑いを堪えきれない様子で、肩を震わせながら心底楽しそうに言う。

 

「何笑ってんですか!」

 

自分がからかわれていることに気づいた眞白は、手のひらでくるくるさせていた呪力を「グシャッ」と握り潰すような動作をして、五条へのイラつきを露わにした。

 

「あ、そうだ! 五条先生も学生の頃は使えなかったんですよね!? どうやって使えるようになったんですか!?」

 

眞白は反撃とばかりに、五条に向かって凄むように問い詰めた。最強である彼にも弱点や苦労があったはずだ。それを聞き出せば、何か突破口が見えるかもしれない。

 

「えー、僕?」

 

五条は少し考えるような所作を見せると、こめかみに人差し指をトントンと当てた。

 

「頭含めた全身をザックザクのグッチャグチャに切り付けられて、まじで死ぬかと思った時に頑張ったらできた」

 

何か思い出したくない最悪の記憶を引っ張り出したように、五条はひどく苦い顔をしてそう言い放った。

 

「逆になんでそれで死んでないんですか!?」

 

自身の身体がザックザクのグッチャグチャになるスプラッタな状況を鮮明にイメージしてしまった眞白は、目尻に涙を溜め、恐怖に震えながら驚愕の叫び声を上げた。参考になるどころか、絶対に真似してはいけない生存ルートである。

 

「そりゃー僕、……最強だから?」

 

五条が目隠し越しに完璧なキメ顔を作って言い放つ。

その言葉を聞いた瞬間、眞白の中の恐怖による震えと涙がスッと引っ込んだ。

 

(ウザッ……)

 

「ウッ……」という声まで口から出かかったところで、眞白はハッとした。目の前の男がどれだけ腹立たしくても、一応は特級呪術師であり自分の教師なのだ。眞白はパシンッと両手で物理的に自分の口を塞ぎ、暴言をギリギリのところで抑え込んだ。

 

「……今『ウザッ』って言った!? 『死ねばいいのに』って言った!? ……硝子! 眞白がグレちゃった! どうしよ〜!!」

 

五条は目敏くその気配を察知すると、わざとらしいオーバーリアクションで驚き、教壇に立つ家入の肩を両手で掴んでぐわんぐわんと揺さぶり始めた。

 

「ンな! そこまで言ってません! それにギリギリ抑えました! ですよね硝子先生!?」

 

眞白も負けじと家入の反対側の肩を掴み、弁明するようにぐわんぐわんと揺らし始める。二人で家入を挟み込み、しばらくの間ワーワーと子供のような言い合いを続けていたが――不意に、両肩を激しく揺らされている家入の口から、明確な「舌打ち」が聞こえた。

 

「……うっざ」

 

家入のその低く冷たい一言が教室に響き渡った瞬間、空間が絶対零度の雰囲気に支配された。

 

「「すみませんでした」」

 

眞白と五条はスッと真顔に戻り、見事なユニゾンで声を揃えて謝罪し、家入からパッと手を離した。

 

「あ、一応補足だけど」

 

気まずい空気を変えるように、五条は人差し指を立てて話し始めた。

 

「実際に死にかけたことある術師とない術師では、呪力操作のキレが違うからね。死っていうのは生物にとっての終わり。つまり、そこから齎される生存本能による、文字通り『死に物狂いの足掻き』は馬鹿にならないよ」

 

五条は先ほどまでのふざけた態度とは打って変わり、教師としての真面目な顔つきで解説を続ける。

 

「黒閃と同様、場合によってはそれ以上に、呪力の核心をより深く掴めるタイミングの一つだ」

「眞白も一回くらいは死にかけたほうが今後のためになるかもね」

 

五条がそう結論づけた直後、ふと何かを思い出したように指をパチンと鳴らした。

 

「そういえば昨日死にかけてたじゃん! 覚えてないの?」

 

五条にそう聞かれ、眞白はハッとして首を傾けた。極限状態での黒閃の感覚は残っているが、その直後に脳がオーバーヒートを起こして倒れた時の記憶だけが、見事にすっぽりと抜け落ちていたのだ。

 

「え。……いや〜、覚えて……ないです」

 

必死に記憶の糸をたぐる素振りをするものの、全く何も思い出せず、眞白はガッカリしたように答えた。

 

「じゃあノーカンかぁ〜、ガンバ!」

 

五条は再びふざけた調子に戻り、無責任に軽いエールを送る。

 

「の、ノーカン……」

 

せっかく死にかけたのに何も得られていないという残酷な現実に、眞白は更に深く、どんよりと肩を落とすのだった。

 

「はぁ……悪ふざけはそこまでにしろ。気分転換にはなっただろ」

 

家入は短く息を吐き、これ以上の脱線を断ち切るように空気を変えた。彼女は銀色のメスを手慣れた指先でくるりと持ち直すと、無慈悲な視線を眞白へと向ける。

 

「じゃあ、ほら、手を出せ」

 

それは眞白にとって、死刑宣告の始まりに等しい一言だった。

 

「も、もうちょっと待ってください!」

 

悲痛な叫びを上げ、眞白は両手を胸の前でギュッと握りしめる。深く、長く深呼吸を繰り返し、どうにかして目の前の現実から意識を切り離そうと試みた。やがて、痛覚や恐怖を麻痺させるためか、能面のように感情を消し去った無表情を作り上げると、震える右手をゆっくりと家入に向かって差し出した。 家入はその手を軽く掴み、指先を固定する。

 

「人差し指の腹を軽く切るぞ」

「……タイミングはどうする?」

 

家入が事務的な声で尋ねると、眞白は顔の筋肉を引き攣らせたまま答えた。

 

「1、2の3で、お、お願い……します」

 

表情こそ無に徹しているものの、声は情けないほど上ずり、身体は小刻みにピクピクと震えていた。

 

「3秒な、了解」

 

家入が短く応じると、教室に張り詰めたような静寂が落ちる。

眞白の耳には、自身の激しい心音が異様なほど大きく響いていた。青ざめた額からは、じっとりと冷や汗が滲み出ている。

 

「じゃあ、数えるぞ」

 

家入はわざと間延びした声で、もったいぶるようにカウントダウンを宣言した。

眞白は、自身の人差し指にジリジリと近づいてくる鋭利な刃先を、穴が開くほどの眼力で凝視する。

 

「……いーち」

 

家入の唇がその言葉を紡いだ、まさにその瞬間だった。

ブスッ、という生々しい感触と共に、家入の持つメスが一切の躊躇いなく眞白の人差し指に突き刺さった。 眞白は信じられないものを見たように目を限界まで見開き、メスが刺さったままの自分の指と、目の前の家入の顔を交互に見た。

 

一瞬の、完璧な静寂。そして――。

 

「………2と3は!?」

 

教室中に、眞白の裏返った絶叫が木霊する。

 

「知らないな。女は『1』だけ覚えておけばいいんだよ」

 

家入は謎のハードボイルド理論を飄々と言い放ち、眞白の人差し指からスッとメスを抜いて銀色のトレーに無造作に放り投げた。

 

「何言ってんですか!?」

 

涙目で猛抗議する眞白の声に被さるように、家入の後方から腹の底から湧き上がるような男の爆笑が響き渡った。

 

「ブッ、アッハッハッハハハ!!!」

 

五条は腹を抱えて笑い転げ、くの字に曲がった身体をなんとか起こして眞白の方を見る。

 

「ほ、ほら早く反転……術式、ックフ」

 

肩を震わせ、今にも吹き出しそうになりながら治癒を促す五条。

 

「な、納得はいきませんが……ッ!」

 

眞白は理不尽さに頬を膨らませつつも、メスで切られた指先に視線を落とす。人差し指の腹からは、ぷっくりと赤い血の玉が溢れ出していた。

 

「と、とりあえず呪力を……ひゅー、ひゅー」

 

眞白は教えられた擬音を口の中で反芻しながら、傷口の周辺に呪力を集め、文字通り「ひゅー」と動かしたり、「ひょいっ」と持ち上げたりして、不器用に操作を試みる。

 

「ひゅーとやってひょいだぞ。ひゅーひょい」

 

家入は腕を組み、眞白の苦戦ぶりを横から声をかけながら見守っていた。

 

「ム、ムムム〜……」

 

眞白は傷口のある指先に全呪力を集中させ、ぐっと力むように目を閉じる。意識をさらに一点へと研ぎ澄ませていった。

 

数分後。 傷口が塞がる気配は一向になく、眞白は額に汗を浮かべ、顔を顰めながらひたすら指先へと呪力を送り込み続けていた。

 

一方の五条は、進展のない状況にすっかり飽きてしまったらしい。眞白からスッと視線を外すと、ポケットから携帯を取り出し、画面をスクロールして暇を潰し始めていた。

 

「……教師なんだから、お前も何かアドバイスしたらどうだ」

 

その自由すぎる態度に呆れ果てた家入が、チクリと釘を刺す。

 

「アドバイスねぇ……。さっきも言った通り、これに関してはイメージが重要になるんだけど、人それぞれだしなぁ」

 

五条は携帯から視線を外し、少し考えるような素振りを見せる。

 

「うーん……」

 

と考えながら眞白の顔を眺めていた五条の口元が、ふと、ニッコリと邪悪な弧を描いた。何か良からぬことを思いついた顔だ。

 

「いいこと思いついた!」

「おい、何するつもりだ」

 

携帯を片手に持ち、ニコニコと笑いながら眞白へと近づいていく五条に、家入は嫌な予感を覚えて声をかける。

 

「何って、アドバイスだよ。アドバイス」

 

五条は眞白の真正面まで移動すると、六眼を通して彼女の指先に集まる呪力の流れを見つめた。

 

(相変わらず、呪力操作の精度はすごいな)

 

まるで一つの芸術作品のように緻密に編み込まれたその呪力の形を、五条は心の中で素直に賞賛する。

 

「眞白、そのまま続けながら聞いて」

 

五条は、極限まで集中している眞白の邪魔をしないよう、普段の軽薄さを消した静かな声色で語りかけた。

 

「もう眞白は知ってると思うけど、呪力は一般的に『腹で回す』って表現されるよね。でもそれは、あくまで負の呪力に限る話」

 

最強の呪術師としての至極真面目な理論を口にしながら、五条は胸元で携帯のカメラアプリをこっそりと起動させる。

 

「僕の感覚っていうか、実際、僕と硝子の正の呪力を観察しててわかったんだけどさ。反転術式は『頭で回す』んだよね」

 

そう言うと、五条は自身の人差し指をスッと伸ばし、目を固く閉じている眞白の額の中心に優しく当てた。

 

「ム?」

「指先だけじゃなくて……わかる? 今、僕が触れてる場所。頭でもちゃんと呪力を回して、イメージを集中させるんだ」

 

五条がもっともらしいトーンでそう告げ、指先を離す。

 

「ムムム……」

 

すっかりその言葉を信じ切った眞白は、言われた通りに額のあたりへ意識を集中させ始めた。

 

「そうそう、いい感じ。それを意識して、もっと集中させて」

 

五条がさらに声をかけると、眞白は眉間にぐっと深い皺を寄せた。頭部に意識を集中させようとするあまり、必然的に顔面の筋肉にも力が入っていく。

 

「もっと、もっと集中して! ほらほら!」

 

五条の煽りを受け、眞白はこれでもかというほど顔を顰め、全神経を注ぎ込む。

 

「まだまだいけるッ! ほら、もっと顔に力入れてッ!」

 

もはや「呪力の集中」ではなく、完全に「顔に力を入れろ」という物理的な指示にすり替わっていたが、極限状態の眞白はそれを疑うことなく愚直に実行してしまった。

 

「ム、ムムムゥ〜〜!」

 

眞白は低く唸りながら、顔のパーツを中央に寄せるように全力を込める。顔面はだんだんと赤く鬱血していき、力みのあまり自然と口が半開きになり、食いしばった歯列が剥き出しになる。

呪術師としての矜持をかなぐり捨てた、およそ人に見せられない究極の変顔が完成した、次の瞬間だった。

 

『カシャッ』

 

静かな教室に、無情なカメラの電子音が鳴り響いた。

 

「……カシャ?」

 

さすがに不審に思った眞白が集中を解き、ゆっくりと目を開く。

そこには、片手で口元を覆って必死に笑いを堪えながら、もう片方の手でこちらに携帯のレンズを向けている五条の姿があった。

 

「……ク、ククク……プハッ!」

「傑作だよ! 最高にいい顔撮れたよ! ほら見てよ硝子!」

 

五条はついに堪えきれなくなり、腹を抱えて大爆笑しながら家入の方へと駆け寄っていく。

 

「……お前、珍しくまともなアドバイスをしたと思ったら……」

 

家入はその画面に映る酷すぎる変顔を見て、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。

 

「五条、お前は眞白に殴られるべきだ。今すぐに」

 

家入は冷酷にそう宣告すると、笑い転げる五条の手からスッと携帯をひったくり、スタスタと眞白の目の前へと移動した。

 

「……? おや、もう準備は万端みたいだぞ」

 

家入は、ギリギリと音を立てて握り込まれた眞白の拳を見た。そこには、先ほどまでの比ではない凄まじい密度の呪力が集束している。

家入の口元に、「ざまぁみろ」とでも言わんばかりの意地悪な笑みが浮かんだ。

 

彼女は無言のまま、五条から奪い取った携帯の画面を眞白の目の前に突きつけた。そこには、赤面して歯を剥き出しにした自身の最悪な変顔が、高画質で鮮明に写し出されていた。 その一枚の写真は、限界まで圧縮された眞白の怒りの引き金を、完璧に、そして盛大に引くことになったのだった。

 

眞白は、無言のままゆっくりとパイプ椅子から立ち上がった。

ピキッ、と額に青筋が浮かび上がっているというのに、その表情だけは完璧な、そして底冷えするほどニッコリとした笑みを張り付けている。彼女のハイライトの消えた瞳は、一切の逃げ道を塞ぐように五条の姿を正確に視界へと収めていた。

 

「……表に出てください、五条先生」

 

眞白は両の拳から陽炎のような呪力をボワッと立ち上らせながら、親指で窓の外の校庭をクイッと指し示す。そして、ジリジリと獲物を追い詰めるように五条へと歩み寄った。

 

「えー、眞白ってば寂しんぼ? 一人で行きなよ」

 

対する五条は全く悪びれる様子もなく、ポケットに手を突っ込んだまま不敵な笑みを浮かべ、火に油を注ぐように軽薄な言葉で煽り返す。 狭い教室の中に、眞白の殺気立った呪力と五条の底知れない呪力が充満していく。空間そのものが軋むように重くなり始めた、まさにその時だった。

 

異常な気配を感じ取ったのか、廊下からドスドスと重い足音が聞こえ、教室のドアが勢いよくガラッ! と開け放たれた。

 

「何の騒ぎだ! 悟!」

 

凄まじい剣幕で飛び込んできたのは、夜蛾学長だった。そしてその後ろからは、のっそりとパンダが顔を覗かせている。

 

「げっ、学長!?」

 

このタイミングでの天敵の登場に、五条は流石に予想外だったのか、肩をビクッと跳ねさせて嫌そうな顔を作った。

 

「はーい。五条が眞白を虐めて、眞白がキレました」

 

張り詰めた空気を読まない、どこか気の抜けた声。家入が場に全くそぐわないマイペースな雰囲気のまま、夜蛾に向かってあっさりと五条の悪行を告げ口した。

 

「なんだと? 悟、術式を解け。……指導だ!」

 

夜蛾は額に青筋を浮かべ、ゴキキ……と自身の巨大な拳を硬く握り込みながら、五条を真っ直ぐに睨みつける。

 

「ちょっ、勘弁してよ! 僕もう指導されるような歳じゃないでしょ!? ちょっと眞白の緊張をほぐそうとしただけでさァ……」

 

流石に焦りを見せた五条が、両手をヒラヒラと振りながら夜蛾から後ずさるように距離を取ろうとする。しかし、その背後からスッと冷たい声が浴びせられた。

 

「これで3対1。いえ、パンダさんも合わせて4対1ですね!」

 

いつの間にか背後に回り込んでいた眞白が、更に呪力を立ち上らせて完全に五条の退路を断っていた。

 

「お、オレも入ってんのか?」

 

突然名指しされたパンダが、夜蛾の背後からひょっこりと顔を出し、困惑したように自身の顔を指差す。完全に巻き込まれ事故である。

 

「おい、ちょっと待て。その計算だと私も入ってないか?」

 

家入もまた、パンダ同様に自分が計算式に組み込まれていることに気づき、怪訝そうに片眉を上げた。

 

「ねぇちょっと! さすがに不公平すぎない!?」

 

四面楚歌の状況に、五条が抗議の声を上げる。

 

「恨むなら、五条先生自身を恨むことですね!」

 

眞白が怒りの声を上げて五条に接近すると、それに合わせるように夜蛾も正面から五条の逃げ道を塞ぐように大きく踏み込んだ。

 

「パンダ! サポートを任せたぞ!」

「マジでやんのか!?」

 

夜蛾の鋭い指示に驚きつつも、パンダは即座に臨戦態勢をとって夜蛾の背中を追う。

 

「おっと、じゃあ私は退散だ」

 

これ以上巻き込まれるのは御免だとばかりに、家入は白衣の裾を翻し、小走りで教室から飛び出して素早く廊下へと避難した。 家入が後ろ手でピシャリとドアを閉め、少し離れた壁際に座り込んで一息ついた直後――背後の教室から、4人が駆け回る激しい物音と怒号が聞こえ始めた。

 

ドゴンッ! ガシャアアアン!

 

「ちょっ、学長! 顔はやめて顔は!」

「逃げるな悟ゥ!」

 

しばらくカオスな打撃音が鳴り響いた後、突如

 

「ぐわあァァァァァアアアアアア!!」

 

という情けない叫び声と共に、教室のドアが内側から派手に突き破られた。

木の破片と共に廊下まで勢いよく転がり出てきたのは、サポートに入ったはずのパンダだった。

 

「いてて……」

 

パンダがお尻をさすりながら立ち上がり、再び教室に戻ろうとしたその時。今度は「きゃああっ!」という眞白の叫び声が聞こえ、パンダに正面からぶつかる形で教室から飛んできた。

 

ポスンッ。

 

「……あれ? ふわふわ……って、パンダさん!? すみません! すぐ退きます!」

 

パンダの豊満な毛皮のクッションのおかげで無傷だった眞白は、ハッとして慌ててパンダの巨体から離れようとした。

 

「大丈夫だ、心配すんな」

 

パンダは器用に親指を立てて、全く問題ないことを男前にアピールした。

 

「よし、次は挟み撃ちで行くぞ、眞白!」

「はい!」

 

パンダが気合を入れ直して教室に向かうと、眞白も元気な声で返事をしてそれに続いた。再び二人が教室に突入し、ドガッ! バキッ! と更に激しい物音が響き渡る。 またしばらくすると、廊下の奥からカサカサと奇妙な音が聞こえてきた。数体の可愛らしい、しかし異様な気配を放つ小さな影――夜蛾の呪骸たち――が現れ、座り込んでいる家入の前をテクテクと歩いて、そのまま開けっ放しの教室の中へと列をなして入っていく。

 

その数十秒後。

教室の中から、一際大きな「ゴチン!」という鈍い音が響いた。

 

「……もうそろそろかな」

 

家入は立ち上がり、突き破られた教室のドアの隙間から、のんびりと教室内を覗き込んだ。 教室の中は、机や椅子がなぎ倒されて竜巻が通り過ぎた後のような酷い有様になっていた。

そしてその惨状の中心で、五条が頭に見事な大きなたんこぶを作り、両足を数体の呪骸にガッチリと取り押さえられた状態で、夜蛾から強烈なチョークスリーパーをかけられていた。

 

その隣では、パンダがプロレスのレフェリーの真似をして床を叩きながら、楽しげにカウントダウンを行っている。

 

「自業自得ですよ!」

 

眞白はそれを見下ろしながら、術式を解かれて無防備になっている五条の頬を直接指でブスブスと突き刺していた。その口元は、無様な最強の姿に思わず笑いを堪えてプルプルと震えている。

 

「ギブ! ギブだってば! ストップストップ! ちょ、眞白! それ地味に痛いんだけど!」

 

五条は夜蛾の太い腕をバシバシと叩いてギブアップを叫びながら、執拗に頬を突いてくる眞白に向かって文句を垂れる。

 

「なんだ、思った以上に愉快なことになってるな」

 

家入が散らかった教室に入り、その光景を見てクスッと笑いながら言った。

 

「ちょっと硝子〜、助けてよ〜。眞白のことも、ほんのちょーっと揶揄っただけじゃんか〜」

 

五条が子供のように駄々をこね始めると、夜蛾はようやくチョークスリーパーの拘束を少しだけ緩め、深くため息をついた。

 

「お前という奴はいつもいつも……」

 

夜蛾の重苦しい説教が始まる。

 

「教師としての自覚が足りんと言っているだろう! 死の淵から戻ったばかりの生徒を労うどころか、何故からかって怒らせる! そもそも神聖な授業中に携帯をいじるな! お前のその軽薄さがいつか足元を掬うことになると、何度言えば……」

「やーい、怒られてやんの」

 

夜蛾の長い説教をBGMに、家入は拘束されたままの五条をいい気味だとばかりに揶揄った。

そして、ふと事の発端である眞白の方へ顔を向けようとした時――教室に、奇妙な笑い声が響いた。

 

「プッ! アッハッハッハ! ……クッ! フフフフ……フヒヒヒ……」

 

笑い声の主は、眞白だった。最初こそ大声で快活に笑い出したものの、途中で「学長が説教している前で大笑いしてはいけない」と理性が働いて笑いを抑え込もうとした結果、逆に腹の底から漏れ出るような不気味な笑い声になってしまっているのだ。

 

(おいおい、いくら五条が自業自得とはいえ、あんな変な笑い方されると流石に可哀想になってくるな……)

 

家入は、ここまでツボに入って笑い転げる眞白の姿を物珍しいものを見たと感じながら、ほんの少しだけ五条に同情しかけた。

しかし次の瞬間、この大騒ぎの発端はそもそも五条の悪ふざけ(変顔盗撮)であることを思い出す。

 

(……いや、ならないな)

 

同情心を一瞬で捨て去った家入は、先ほどの思いを心の中で即座に撤回した。

 

「いいぞ、もっと笑ってやれ」

 

家入は視界の端で情けない姿の五条を捉えながら、必死に笑いを堪えて肩を震わせる眞白に向かって、心底楽しそうにそう言い放った。

 

「へ? ……あ、すみません!」

 

家入の心底楽しそうな声にハッとした眞白は、引き攣っていた自身の両頬にペタッと手を当て、慌てて変な笑い声を止めて頭を下げた。

 

「別に謝ることなんてないさ。悪いのは全面的にこいつだしな」

 

家入は、未だに夜蛾にチョークスリーパーで締め上げられている五条を顎でしゃくり、眞白に非が全くないことを伝えた。

 

「それにしてもいい笑いっぷりだったな。よっぽどこいつへのストレスでも溜まってたか?」

 

家入がニヤリと笑いながら問いかけると、眞白は熱くなった頬を掻きながら、少し照れくさそうに視線を落とした。

 

「あの……なんていうか、すごく楽しくなっちゃって。こういうの、何度やってもやっぱり新鮮で」

 

先ほどまでの殺気立った空気はすっかり消え去り、眞白ははにかむように柔らかな笑顔を浮かべる。散らかった教室、怒鳴る学長、騒ぐパンダ、そして最強の呪術師たち。一見すればただのカオスだが、その光景が今の眞白にとってはたまらなく心地よかった。

 

「なんだ、五条を虐めてそっち側にでも目覚めたのか?」

 

家入がからかうように冗談めかして言う。

しかし、その軽口に対する五条からのいつもの反論はなかった。五条は夜蛾に拘束されたまま、先ほどから驚いたような顔で目を見開き、何も言わずに眞白の姿を穴が開くほど凝視していたのだ。六眼を通して何か信じられないものを見ているような、そんな異様な視線だった。

 

「なっ! 違いますよ! そういうんじゃありません!」

 

五条の視線の意味など知る由もない眞白は、家入の言葉に顔を赤くし、両手をパタパタと振って慌てて否定した。

 

「その……高専に来るまでは、こんな風に遠慮なく騒いだりできる友人とか、いませんでしたから。案外、こうやって騒ぐのも楽しいなって」

 

眞白は、一人で静かに過ごしていたほんの数ヶ月前を懐かしむように、少し遠くを見る目をして語る。

 

「それに、昨日の試験があったからか……ここに来てよかったなって、昨日死ぬ気で頑張ってよかったなって再確認できて。だから、その……みなさんには本当に感謝してるんです」

 

眞白は胸の前で両手をぎゅっと組み、目の前にいる規格外で不器用な仲間たちへ、胸の奥から湧き上がる温かい感情と共に、今改めて心からの感謝を伝えた。

 

「なんだ。笑い出したかと思えば、急に湿っぽくしやがって」

 

家入は照れ隠しのように軽く笑い、フッと息を吐いた。

 

「急に頭の中にたくさんの気持ちが、言葉が溢れてきて……今ここで伝えなくちゃって、いてもたってもいられなくて。……なんででしょう?」

 

眞白は自身に起こっている奇妙な感情の高ぶりと、脳内が異様に冴え渡っている感覚に困惑し、首を傾げて考え込む仕草をした。

 

「悟! 私の話を聞いているのか!」

 

一方、全く反省の態度を見せず、ただひたすらに眞白を見つめて放心している五条に対し、夜蛾がさらに怒鳴り声を上げた。

 

「ちょ、待って学長! タイム! ストップ!」

 

五条はハッと我に返り、夜蛾の太い腕をバシバシと叩いて強引に拘束を解かせると、ひどく真面目な声色で家入に声をかけた。

 

「硝子! 眞白の指、確認して」

「指? あぁ、そういや切ったな。一応早めに治療しとかないと、いくら傷が浅かろうが跡がつくかもしれないからな」

 

五条の切羽詰まったような言葉で、家入は反転術式の指導のために眞白の指にメスを入れたことを思い出した。治療を施そうと、白衣のポケットに手を入れながら眞白へと歩み寄る。

 

「あ! そうでした! じゃあ硝子先生、お願いしま……て、あれ?」

 

眞白も同様に傷のことを思い出し、家入に指を差し出そうとした瞬間――ある明確な違和感に気づき、ピタリと動きを止めた。

 

「ん? どうしたんだ? 早く見せてみろ」

 

家入が不思議に思いながら急かすように言う。

 

「あれ、さっきメスで傷つけたのって……人差し指ですよね?」

「なぜか、傷が見当たらなくて……」

 

眞白は自身の人差し指の腹をキョロキョロと何度も確認しながら、困惑したように家入を見上げた。

鋭利な刃先が突き刺さり、血が溢れていたはずの箇所は、まるで最初から何もなかったかのように、傷跡一つなく完全に塞がっていたのだ。

 

「反転術式だよ」

 

その時、静まり返った教室の中に、五条の確信に満ちた呟きが鮮明に響いた。

 

「ッ! 見せてみろ!」

 

顔色を変えた家入が、眞白の手を乱暴に掴み取る。人差し指だけではない。よく見ると、先ほどのパンダたちとの乱闘でできたはずの細かい擦り傷や軽い打撲痕すらも、わずかに白い呪力を纏いながらシュワシュワと音を立てて消えていくのが視界に入った。

出力こそ極めて微弱だが、これは間違いなく『反転術式』による治癒現象そのものだ。

 

「間違いない。傷も治療されてる」

 

家入は目を見張り、改めてその事実を堂々と宣言した。

 

「……へ? ほ、本当ですか!?」

 

自身の身体で何が起こっているのか全く理解できていない眞白は、目をぱちくりとさせて戸惑う。

 

「うん、本当。間違いなく眞白から正の呪力が溢れてる。……でもその反応って、まさか無自覚?」

 

五条は、信じられないものを見るような、あるいは呆れ果てたような表情で眞白に尋ねた。

 

「無自覚っていうか……傷が治ってるのも、今気づいたんですが……」

 

眞白は自分が何かおかしなことをしてしまったのかと、少し申し訳なさそうに身を縮めて呟く。

 

「悟、わかるか?」

 

夜蛾が眞白の反応を注視しながら、どういう理屈でこの現象が起きたのかを五条に尋ねた。

 

「いいや、流石の僕でもチンプンカンプン。そもそも、無自覚で反転術式を回してるのが、僕からしたら『なんで?』だよ」

 

六眼を持つ五条でさえも、この直感的すぎる現象のメカニズムを瞬時に言語化することはできず、心底不思議そうに首を振って考えるのを諦めた。

 

「そ、そんなぁ〜……」

 

せっかくできたのに理由がわからないという事実に、眞白はあからさまにガッカリと肩を落とした。

 

「まぁ、無自覚でも使えたことには変わりないんだ。そんなに残念がらなくても、すぐに自分の意志で使えるようになるだろ」

 

家入は、落ち込む眞白の背中をポンポンと叩いて優しく慰める。

 

「その通りだ。たった一度の実技指導で、自覚がないとはいえ反転術式が使えたことは事実に変わりはない。十分に賞賛に値する成果だ。誇りなさい」

 

夜蛾も家入の言葉に深く頷き、厳格な表情を崩して眞白の並外れた才覚を真っ直ぐに褒め称えた。

 

「そうそう。普通の術師なんて、一生かけても使えない人が殆どなんだ。眞白は十分才能あるんだから、まずは素直に喜んだらどうだ?」

 

家入が改めてそう促すと、眞白の顔にパァッと明るい色が戻った。

 

「み、みなさん……ありがとうございます! 私、使えました! 反転術式!」

 

家入と夜蛾に褒められた嬉しさと、呪術師としての大きな壁を一つ乗り越えた達成感が混ざり合い、眞白は満面の笑顔を咲かせて無邪気に喜んだ。

 

「……あ、出た。正の呪力」

 

眞白が大袈裟に喜んだ瞬間、五条の『六眼』は、彼女の身体から再びチリチリと溢れ出す正の呪力をはっきりと視認した。

 

「え! またですか!? 今、使おうとすら思ってませんよ!?」

 

意識すらしていないのに勝手に漏れ出た正の呪力に、眞白自身が一番驚いて両手を見つめる。

 

「驚いてないで、早くその感覚を掴むのに集中してみたらどうだ?」

 

家入は自身も驚きを隠せない様子だったが、この千載一遇の機会を逃すまいと、すぐさま眞白に発動の感覚を記憶するよう急かした。

 

「ッ! はい!」

 

眞白は元気よく返事をし、目をギュッと閉じて眉間に皺を寄せた。自身の内側、溢れ出る正の呪力へと全神経を集中させようと力む。

 

「……消えた」

 

数秒後、五条が無慈悲に呟いた。

 

「なんで!?」

 

眞白が目を見開き、パニックになったように叫ぶ。

 

「ップ! 何漫才してんだよお前ら」

 

そのあまりにもテンポの良い間抜けなやり取りに、家入が思わず吹き出しながらツッコミを入れた。

 

「してませんよ!?」

 

眞白は必死に否定しながら、再びウンウンと唸り声を上げて呪力をひねり出そうと格闘を始める。

「うーん……」

 

五条は腕を組み、顎に手を当てながら低く唸った。目隠しの奥の『六眼』は、先ほどから眞白の身体を巡る呪力の流れを克明に捉え続けている。

 

(見た感じ、眞白が喜んでる時に正の呪力が出てるんだけど……負の感情と違って正の感情、ようはポジティブな感情から呪力が生まれることはないはず。いや、絶対にない)

 

五条はこれまでの呪術の絶対的な常識と、目の前で起きている事象を照らし合わせ、眞白の反転術式の構造を論理的に推測しようと思考を巡らせた。

 

(自覚がないのは意味わかんないけど、無意識で反転術式を回すのは、まだわかる。でも、その様子じゃ自身に縛りを課しているわけでもなさそうだしな)

 

五条が自身の知識を引っ張り出しながら、ぶつぶつと口に出して推測を続けていると、その言葉を耳にした眞白がふと気になったように首を傾げた。

 

「デフォルトで反転術式が備わっている術式なわけでもないし……」

「反転術式が前提の術式? そんなのがあるんですか?」

 

眞白からの純粋な質問に、五条は視線を彼女へと戻す。

 

「実際見たことはないけど、過去にはそういう術式を持った術師もいたみたいだよ」

 

五条はそう答えてから、再び眞白の呪力に意識を集中させた。

 

「でも、眞白の術式は違う。『折紙呪法』に反転術式は備わっていない」

 

六眼に映る彼女の生得術式の構造を改めて隅々まで確認し、五条はきっぱりと断言した。

 

「じゃあ、なぜですか?」

 

眞白がさらに問いを重ねる。自身の身に起きている奇跡の理由を、どうしても知りたかった。

 

「まぁ、眞白の特異な脳の影響だと思うんだけど……」

 

五条は頭をガシガシと掻き、深く考え込むように再び顎に手を当てた。

 

「うーん……特異な脳、正の呪力、ポジティブな感情……」

 

先ほど視た眞白の情報を口に出して反芻しながら、五条は教室の天井を見上げてさらに思考の海へと潜っていく。

その横で、白衣のポケットに手を入れた家入が、静かに口を開いた。

 

「ポジティブね。いくら脳の構造が特異だって言っても、人間の基本構造に違いはないはずだ」

 

医師としての見地から、家入は五条の思考に介入する。

 

「呪力は負の感情……つまりストレスから漏れ出る澱のようなものだ。なら、逆に『ポジティブな感情』が肉体や脳に及ぼす生理的な影響はなんだ?」

 

家入は少し視線を落とし、自問自答するように呟く。彼女の頭の中で、医学と呪術の知識が猛スピードで交差していく。

 

「興奮状態、気分の高揚、多幸感……。脳の報酬系が刺激された時に分泌されるもの……アドレナリン、グルタミン酸。いや、もっと快楽に直結するものか? セロトニン、オキシトシン。それに……」

 

家入はいくつか頭に浮かんだ医学用語を整理しながら呟き、ふと一つの明確な仮説に行き着いたようにハッと声を上げた。

 

「まさか、ドーパミンにエンドルフィンか!」

「ドーパミンにエンドル……? ……それって確か」

 

家入の突然の閃きに、五条が便乗するように声をかける。

 

「あぁ。極限の集中力や学習効率を爆発的に高める作用がある脳内物質だ」

 

家入がその役割について端的に説明した瞬間、五条の頭の中で全てのピースがカチリと音を立てて完璧に組み合わさった。

 

「……なるほどね。それらの脳内物質によって、眞白の特異な脳は常人よりもさらに高い集中力と演算能力を引き出した。そして限界を超えてオーバーヒートしそうになった脳を冷やすため、『脳の冷却』という生存本能、あるいは防衛本能が、最適解である反転術式を導き出した。そしてそれを……マイナス×マイナスの超絶難易度の呪力操作を、バックグラウンド処理で勝手にやってのけたってわけか」

 

家入からのヒントを得て、五条は一気に自身の推測を展開し、結論へと辿り着いた。

 

「今まで反転術式が発動しなかったのは、反転術式への理解がそもそも足りていなかったから。今回の硝子の授業がきっかけで、理論という最後のピースが揃ったってことかな」

 

スラスラと紡がれる五条の仮説に、家入も完全に納得したように深く頷く。

 

(全く、この子の脳は……いや、綴眞白という生物の構造そのものが、呪術師として優秀すぎる。まさに、呪術師になるために生まれてきたと言っても過言じゃない)

 

五条は目隠しの奥で、底知れぬ才能を見せつける目の前の教え子を、心の中で手放しに称賛した。

 

(それにこの構造……今までは、脳のボルテージが上がると冷却が追いつかなくなって自爆寸前になっていたけど。これからはポジティブな感情を保ちさえすれば、脳が勝手に反転術式を回して、常に脳を治療してくれる)

(まぁ、出力がまだ微弱だから昨日ほどの無茶な動きをしたら同じ結果になるだろうけど……この反転術式があるとないじゃ、大きく戦術が変わってくる)

 

五条は、これからの眞白の劇的な成長に確かな期待を膨らませた。

そして、自身の推測に一区切りつけると、先ほどまでの真面目な特級呪術師の顔から、いつものおちゃらけた軽薄な顔へと一瞬で切り替わった。

 

「いや〜! まさか無自覚とはいえ、一発で反転術式を使えちゃうなんてね! さすが僕の見込んだ生徒だけあるね!」

 

五条は嬉しそうにパンッと手を叩き、明るい声を上げた。

 

「そんなこと言って、実は悔しいんじゃないか?」

 

その五条の変わり身の早さに、家入がニヤリと意地悪な笑みを浮かべて煽りを入れる。

 

「五条なんて、2年になってやっとできたんだからね。でも眞白は、呪術を知ってからまだ2ヶ月程度だ。私なら悔しくて夜しか寝れないよ」

 

不完全とはいえ、たった2ヶ月で反転術式を習得した眞白と、かつて死にかけてようやく習得した五条を露骨に比べてからかう家入。

 

「……別に? 僕の場合は必須ってわけじゃなかったし」

 

五条は露骨に口を尖らせ、負け惜しみのように早口で反論を始めた。

 

「眞白の場合はないと死ぬし、自覚なしだし、出力弱いし、あっても弱いし」

 

悔しくない、全く気にしていないと言い訳をするように理由を並べ立てながら、息を吸うようにナチュラルに眞白を罵倒する五条。

 

「私、今すごく貶されてる?」

 

自分の快挙の話題からいつの間にか飛び火してきた理不尽な悪口に、眞白はジト目を向けて反応した。

 

「そもそも! 僕が先生ってところも大きいよね! ほら、僕最強だし!」

 

五条は眞白の冷たい視線を完全に無視し、両手を広げて一人でテンションを上げながら自画自賛を始める。

 

「でも、五条先生がしたことって、最後のアドバイスだけじゃないですか」

 

あんな変顔の写真を撮るというふざけた真似で手柄を横取りされてたまるかと、眞白はすかさず口を挟んだ。

 

「それが重要でしょ? 実際、その後に反転術式ができるようになったんだから」

 

五条はさも当然のことのように、胸を張って言い放つ。

 

「それは……そうですが……」

 

結果だけ見れば確かにその直後に発動したため、眞白は反論の言葉に詰まってしまった。

目の前の底抜けに頭のおかしい男の、あのふざけた行いのおかげで、万年の呪術師を悩ませる反転術式を使えるようになった。その事実がどうしても納得いかず、眞白はギリギリと悔しそうに歯噛みするのだった。

 

「じゃあ、眞白も反転術式を使えるようになったことだし、少し休憩を挟んでから組み手しよっか」

 

五条はパンッと軽く手を叩き、教室に漂っていた感傷的な空気を一瞬にして切り替えた。

 

「僕は午後から任務でいないし、早いうちに反転術式を回しながら動く感覚に慣らしておかないとね」

「組み手! そうでした。じゃあ私は運動着に着替えてきますので、校庭で待っていてください」

 

眞白は次の目標に向けてパァッと表情を輝かせ、着替えのために弾むような足取りで教室の扉へと向かう。

 

「じゃあ私も仕事があるから、ここでお別れだな」

 

家入も白衣のポケットに手を突っ込み、二人に便乗して素早く退室しようとする。

 

「……待て。解散する前に、重要なことを一つ忘れていないか?」

 

三人がそれぞれ扉へ向かおうとしたその瞬間、背後から夜蛾のひどく低く、凄みのある声が響いた。

 

「「重要なこと?」 」

 

五条と家入の声が見事に重なり、二人は不思議そうに首を傾げて足を止める。

しかし、眞白だけは違った。

 

「あ゛……」

 

眞白は夜蛾が何を言いたいのかを瞬時に察し、この世の終わりのような気まずい声を漏らして肩をビクッと跳ねさせた。

 

「周りを見てみろ」

 

夜蛾は、なぜか全く気づいていない様子の大人二人に呆れ果てながら、顎をくいっと動かして周囲を見るよう促した。

 

五条と家入の視界に改めて入ってきたのは、竜巻でも通り過ぎたかのような惨状だった。先ほどの五条VS眞白、そこに乱入した夜蛾やパンダ、さらには呪骸たちが大暴れしたせいで、教室の一部は床や壁の木材がめくれ上がり、ひしゃげた机や椅子などの備品がそこら中に散乱していたのだ。

 

「…………」

 

自身が暴れた痕跡を気まずそうに見渡した後、最も判断が早く、そして動きが早かったのはやはり『最強』だった。

 

「あ! おい待て五条!」

 

五条が音もなく教室の扉へと移動したのを視界の端で捉え、家入が鋭く声を上げる。

 

「待てと言われて待つバカは居ないよ硝子! 僕は昨日十分掃除したからね! 眞白! あとは頼んだよ!」

 

五条は爽やかな置き台詞を残すと、呪力強化による俊敏すぎる動きで一瞬にして廊下へ逃れ、ピシャリと扉を閉めて鮮やかに脱出していった。

 

「私!? 元を辿れば五条先生のせいでしょ!?」

 

眞白は、既に遥か彼方へ逃げ去った五条に向けて、絶対に届かない怒りの抗議を叫ぶ。

 

「ってことだ眞白。反転術式じゃ怪我は治せても、部屋の汚れは直せない。適材適所ってやつだ」

 

家入は、眞白が五条に気を取られているその一瞬の隙を突き、いつの間にか反対側の扉に手をかけていた。

 

「そもそも私関係ないし。じゃ、頑張れよ」

 

五条と同様の理不尽な言い訳を並べ立て、家入もまたピシャリと扉を閉めて教室から消え去った。

 

「硝子先生まで!?」

 

最後の頼みの綱であった良識人(と思っていた)家入にまであっさりと見捨てられ、眞白は絶望の声を上げた。

 

「はぁ〜……あいつらは、いつまで経っても変わらんな」

 

夜蛾は大きなため息を吐き、大人になってもなお逃げ足の速さだけは学生時代のままの元教え子たちに対して、深く呆れ果てた。

 

「まあいい。今回はパンダも、他の呪骸もいる。心配せずともすぐに終わるだろう」

 

夜蛾は肩を落とす眞白に視線を向け、諦めて手を動かせとばかりに声をかけた。

 

「は、はい……わかりました。パンダさんも、君達も、ありがとうございます……」

 

眞白は諦め混じりに素直に頷き、手伝ってくれるパンダや、足元でカサカサと動く呪骸たちに向けて丁寧にお礼を言った。

 

「少しはあの問題児たちも、綴を見習って欲しいものだな」

 

へこみながらも文句一つ言わず、黙々と散らばったチョークや椅子を拾い集め始めた眞白の姿を見ながら、夜蛾は先ほど逃げた二人に対して再びぼやいた。

 

 

   *

 

 

「ふぅ〜、危ない危ない。掃除は昨日、死ぬほどしたからもう勘弁だよ」

 

少し離れた廊下を歩きながら、五条は昨日、眞白との実戦試験でクレーターだらけになった校庭を直した面倒な記憶を思い出し、胸をなでおろした。

 

「ん? 電話か」

 

五条の足が止まる。ズボンのポケットで携帯が震えているのに気づき、画面を確認して通話ボタンを押した。

 

「はい、五条。……ん? なんだ津美紀? どうしたの?」

 

電話の相手は、自身が面倒を見ている教え子の義姉、津美紀だった。電話越しの彼女の声に耳を傾けながら、五条の顔から先ほどまでの軽薄さが少しだけ抜け落ちる。

 

「そうそう、15時であってるよ。まぁ、心配なのはわかるけど僕がついてるから大丈夫。……なんなら津美紀も来る? 大丈夫だよ。あの子も、もう中学生なんだから。……うん……うん。それじゃあね」

 

五条は保護者のような温かい声で相手と簡単にやり取りした後、携帯をポケットにしまい、目隠しの奥で不敵な笑みを浮かべた。そのまま、眞白との組み手が待つ校庭へと足を進める。

 

「よし。久しぶりに、どれだけ強くなったか確かめるとするかな」

 

五条は、ここにはいない『影』を操る不愛想な少年の顔を思い浮かべながら、ひどく楽しそうに呟いた。

 

「……そういえば、恵も眞白と同じ式神使いだから、何かしらいい影響になったりするかな。よし、今度の任務のついでに会わせてみるか」

 

五条はポンッと手を打ち、名案を思いついたとばかりに独り言を続ける。

 

「まぁそれも、とりあえずは交流会が終わってからかな」

 

五条の思考は、もう時期開催される呪術高専の恒例行事『姉妹校交流会』へと向かった。 呪術界という古臭い泥沼を知ってから、約二ヶ月。

その圧倒的に短い期間で、黒閃を経験し、不完全とはいえ領域を展開し、あろうことか反転術式まで習得してしまった、自分に匹敵する特異な才能を持つ教え子。

 

「さてさて。呪術を知ってから約二ヶ月で、黒閃に領域展開。それに不完全だけど反転術式まで習得した、僕に匹敵する才能を持つ眞白に……あの爺ィたちはどんな反応するかなぁ」

 

常識を粉々に打ち砕く眞白の存在が、硬直した呪術界の上層部にどれほどの波紋を呼ぶか。それを想像した五条の口角は、抑えきれないほどにニヤニヤと吊り上がっていく。

 

「それに……交流会で、眞白にどんなイタズラしてやろうか」

 

五条はさらに悪戯な笑みを深め、これから始まる面白すぎる未来の波乱に胸を躍らせながら、鼻歌交じりで初夏の風が吹く校庭へと歩みを進めていった。

 

 

 





お久しぶりです。
前回の投稿からだいぶ日が開きましたが、タグの通り不定期の投稿です。

最近はいろいろと忙しくしており、時間がまとまって取れずにいたので今回はきりよく1話だけです。

次回からは姉妹校交流会について書いていこうと思うので、多分ですがまた結構な時間が空くと思います。でもその分ボリュームは増えると思うので楽しみに待っていただけると嬉しいです。

ちなみに、今回でやっと原作の何年前のお話なのかを出しました。
虎杖入学時に眞白は4年生になります。(たぶん。計算が間違ってなければ)

こう考えると原作までだいぶ長くなってしまいましたね。
まぁ、気長にやっていこうと思いますので温かく見守っていただけますと嬉しいです。

では、また次回お会いしましょう。
  1. 目次
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