ダンジョンに炎柱がいるのは間違っているだろうか   作:kursk

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大抗争
プロローグ――嵐の前の静けさ


竜の谷から帰還して、季節が一巡した。

その間に、アストレア・ファミリアを取り巻く状況は大きく変わった。

 

杏寿郎はLv.5の最上位に上り詰め、『偉業』次第では、いつLv.6になってもおかしくないところまで辿り着いた。

アリーゼと輝夜も、深層遠征で着々と経験値を貯め、ついにLv.5に達した。リューをはじめとする他の団員も、全員がLv.4になり、団員12名の新興派閥は、押しも押されぬ都市最強ファミリアの一角を占めるに至った。

 

それに応じて、ファミリアのランクもAまで上がったが、人数が少なすぎるとしてS昇格は見送られていた。

杏寿郎がアリーゼと輝夜とともに、二人のランクアップをギルドに報告したとき、ギルド長のロイマンは、口から唾をまき散らしながら喚いた。

 

「いい加減、お前たちもファミリアのメンバーをもっと増やして、深層に潜れ! そうすれば、到達階層が更新され、私のめいせ……げふんげふん、オラリオの名声も高まる! というか、そもそも市中の巡回など第一級冒険者のやることではない!! ガネーシャの眷属にでも任せておけ!」

 

日頃の贅沢で肥え太ったギルド長を横目に、杏寿郎は断言した。

 

「断る! 都市の治安を回復し弱きを守るのは、俺の変わることのない誓いだ。そしてそれは、アストレア様の掲げる正義でもある」

 

「醜い豚が何か叫んでおりますが……あいにくと、豚の話す言葉は学んでおりませんので、悪しからず。デメテル・ファミリアの養豚場に、お仲間を探しに行かれてはいかがでしょうか」

 

輝夜は、着物の裾で口元を上品に隠しながら、穏やかに毒を込めて言い返した。

 

「輝夜、それは豚に失礼だと思うわ! この前、デメテル・ファミリアの直売所で聞いたのだけど、豚は体脂肪を大して蓄えていないらしいわよ!!」

 

アリーゼは、意図せずにナチュラルに煽った。

 

「き、貴様らぁ……!! 貴様らがそんなだから、いつまで経っても、遅々として到達階層がゼウスやヘラの時代に近づかんのだ!」

 

ロイマンが、泡を吹きながら激高する。

 

「ギルドはダンジョンの管理組織にすぎねえんだし、ファミリアの方針にまで口を出される筋合いはねえ。そもそも、治安が回復しねえのは、ギルドが無能だからだろ。アタシらは無償で巡回してんだし、強制任務もこなしてる」

 

ライラが冷静に割って入った。

 

「だいたい、創設4年弱の小規模ファミリアに何を期待しておられるのやら……。到達階層を更新したければ、二大ファミリアにこそ言うべきでありましょう?」

 

輝夜のもっともすぎる指摘に、ロイマンは一瞬、黙り込んだあとで再噴火した。

 

「私が言っていないとでも思っているのか!? いつもいつも、躾のなっていない猫は威嚇するし、あの生意気なパルゥムは言質をとらせん!」

 

「いや、それこそアタシらの知ったことじゃねえんだが……」

 

「とにかく! 強制任務ならやるというのなら、やってもらうぞ!!」

 

ロイマンの罵声を背中に浴びながら、一行はギルドを後にした。

 

 

 

ギルドからバベルに向かう道は、いつも通り活況を呈していた。

周りには、様々な武具に身を包んだ冒険者たちが徒党を組んで歩いており、彼ら相手に商売をしている店からは、ひっきりなしに客引きの声がした。

 

「まあ、とはいえ――ギルド長の言うことも一理あんだよなー」

 

冒険者通りを下りながら、ライラは呟いた。

 

「どういうことかしら、ライラ?」

 

アリーゼが怪訝そうに眼を瞬かせた。

 

「つまりさ。もしアタシらが巡回をせずに、ロキ・ファミリアみたいに遠征に特化していたら、たぶん二人がLv.5になるのはもう少し早かっただろうし、もしかしたら団長は今頃Lv.6になっていたかもしれないってこと」

 

「それはそうだろうが、それは、もはやアストレア・ファミリアとは呼べないだろう」

 

輝夜が目を細めた。

 

「アタシもそう思う。けどな、輝夜。竜の谷で気づいただろ。あれがいずれ解放されて、世界が滅びるかもしれないとなったら、塵芥のような闇派閥をちまちま叩くより、ひたすらダンジョンに潜ってランクアップしたほうが、結局は世界を救うことになるかもしれねえ」

 

「つまり、こういうことか」

 

輝夜が腕を組んだ。

 

「闇派閥を潰して市民の命を救えるが、黒竜を倒せずに滅びるという選択肢と、黒竜を倒せるかもしれないが、そのために市民の命を見捨てざるをえないという選択肢があったとして、どちらを選ぶか――」

 

「そもそも黒竜の封印がいつ解けるか分からねえ以上、絶対にその二択が成立するとは言えないけどな」

 

「ライラの言いたいことも分かる」

 

杏寿郎が、二人の会話に割って入った。

 

「今ここで市民の命を救ったとしても、黒竜を倒せなければ、結局、全ては無駄になるかもしれないということだろう」

 

杏寿郎は、4年前よりも少しだけ活気を取り戻した街並みを眺めた。

 

「だがな、ライラ――。俺たちがダンジョンに行く回数を増やした程度でどうにかなる相手なら、そもそもザルドたちが倒していただろう。Lv.9やLv.8がいるファミリアが挑んで勝負にすらならない戦いだったというなら、そんな常識的な解決策ではどうにもならん」

 

「それは、まあそうだな」

 

「それに、もし俺たちが自分の想いや意志をねじまげて合理的に見える解決に縋ったとして、そのとき俺たちは生死をかけた試練に勝てるだろうか? 少なくとも、俺は、母やアストレア様に恥じるような生き方をしていたら、ザルド相手に生き延びることはできなかったと思う」

 

「そんなお兄様、想像できないわ!!」

 

アリーゼが杏寿郎の腕に抱きついたまま、叫んだ。

 

「けっきょく、神血はその人間の潜在的な資質を引き出すだけのもの。だとすれば、当人の性質に反することを無理やりやったところで、飛躍は見込めないということか……」

 

輝夜は合点がいったとばかりに、うなずいた。

 

「難しく考える必要なんてないわ! 要するに、さっさと闇派閥をぶっ飛ばして、ガンガン深層に挑戦すればよいのよ!! 私たちならできるわ!」

 

アリーゼが呆れるほど楽観的な展望を示す。

 

「そうだな。たぶん、それが俺たちに最も適したやり方だろう。――それに、ダンジョンに潜れない分、ザルドとは毎朝やりあえる」

 

杏寿郎がアリーゼの紅髪をなでた。

 

「フフン、さすが私! お兄様、もっと撫でて!」

 

「あれで、対外的には、ファミリアで雇った料理人ってことで、何とかなってんだよな。つーか、神ヘルメスの手引きがあったとはいえ、アイツを通している時点で、オラリオの検問がザルすぎんだろ」

 

ライラが呆れたように混ぜ返した。

 

「ほんと、ザルドさまさまよね。ご飯は美味しいし、お兄様と一緒にザルドと戦うだけで、ステイタスはどんどん上がるし。リオンだって、もう少しステイタスを上げて『偉業』をなんとかすれば、もう第一級冒険者よ!」

 

「オラリオのことには一切かかわらないどころか、そもそも『星屑の庭』から出る気もないらしいけどな。逆に言えば、アタシらが総出で留守にしても、アストレア様の安全は絶対に保証されるってことだ」

 

「残り少ない命を、俺たちの成長のために使ってくれているのだ。ロイマンのことはどうでもいいが、ザルドだけは後悔させないように力をつけないとな」

 

杏寿郎が、改めて決意を述べた。

 

「さしあたっては、次の遠征だな。Lv.5が3人いるんだし、もう少し資金が貯まったら、バロールの顔くらい拝みに行きてえ」

 

「ザルドも言っていたわ。今のお兄様なら、ウダイオスを一人で倒せるだろうし、そうなればランクアップできるかもしれないって」

 

「そうだな。ザルドからは、早くLv.6になれと言われている。次の遠征は、資金と物資を貯めたら、ウダイオスの次産間隔に合わせて49階層まで降りよう」

 

 

 

四人が決意を新たに本拠に帰ると、意外な客人が待っていた。

 

「突然で悪いね、杏寿郎。相談したい用件があって、少し待たせてもらっていたよ」

 

応接間で杏寿郎たちを待っていたのは、パルゥムの勇者だった。

 

「久しぶりだな、フィン! それで、用件とは何だ?」

 

杏寿郎はフィンに向かい合って、ソファに腰を下ろした。

隣にはアストレアが腰かけ、アリーゼ、輝夜、ライラの3人は別のソファに座った。

マリューが、手際よく紅茶を注いで回った。

 

「近々、深層への遠征を計画していてね。49階層の大荒野(モイトラ)まで降りるつもりだ」

 

――49階層。

まさに、アストレア・ファミリアが次の遠征で目標としている階層だった。

 

「主力として、僕とリヴェリア、ガレスに加えて、Lv.4のノアール、ダイン、バーラたち。後衛の魔導士はそれなりにいるんだけど、正面を突破できる戦力がもう一枚ほしいのと、何よりも全体回復を使えるヒーラーが不足しているんだ」

 

フィンは、静かにロキ・ファミリアの現状と遠征隊について説明した。

 

「そこで、君と、そこのマリューの力を借りたい」

 

マリューは、お盆を下げて退出しようとしていたところで、いきなり名前を呼ばれて、驚いたように振り返った。

 

「おやおや、まさか勇者様が、できたばかりの弱小ファミリアに助けを求めるとは――。世も末でありますねぇ」

 

輝夜が嫌味ったらしい口調で割って入った。

 

「そうは言うけれどね、【大和竜胆】。君たちのファミリアは、Lv.5が3名、Lv.4が9名もいる。世の人は僕たちのことをオラリオの2大ファミリアというけれど、僕は3大ファミリアと呼ぶべきだと思っているよ」

 

二人の言い合いを聞きながら、杏寿郎は少し考えた。

たしかに、ロキ・ファミリアには、正面から深層の敵を受け止めて粉砕できるような前衛がガレスくらいしかいない。もちろん、フィン自身も最前衛として動けるだろうが、彼の持ち味は槍を使った遊撃だろう。

だから、正面戦力が心元ないというのは嘘ではない。

 

だが、それ以上に――深層で通用するレベルの治療師がいないのが、致命的なのだろう。

リヴェリアなら回復も引き受けられるだろうが、最大の火力担当に回復も担わせるのは好ましくはない。

それに対して、最近、マリューは二つ目の全体魔法を発現している。

つまり――。

 

「狙いはマリューか」

 

輝夜も、杏寿郎と同じ結論に達したのだろう。 

冷ややかにフィンを見つめた。

 

「杏寿郎の力を借りたいというのも嘘ではないよ。それに――これは君たちにとっても有益な話だと思うよ」

 

フィンは腕を組みながら一人一人を見まわした。

 

「マリューも輝夜たちの隣に座るといい。これは、君にも関係することだ」

 

杏寿郎が、所在なさげに立ち尽くすマリューに告げた。

 

「僕の見るところ、君たちも、49階層まで降りる遠征を計画しているんじゃないかな?」

 

「さすがは一族の勇者様だぜ。アタシらの考えていることは、お見通しってわけだ」

 

ライラが肩をすくめた。

 

「別に、そう大層なことじゃないさ」

 

フィンは余裕の笑みを浮かべた。

 

「さっきも言ったように、君たちは、僕たちと並ぶ戦力を持った派閥だ。当然、ロイマンからも色々と言われているだろう? そうなると、降りられるところまで降りようとするのは、不思議なことじゃない」

 

「――で、それが、どう私たちにとって有益になるという話とどうつながる、勇者?」

 

輝夜は、なかば話の落ちを理解しつつ、先を促した。

 

「簡単な話だよ。僕たちが、君たちに先立つ形で遠征に行くんだ。杏寿郎とマリューが着いてくれば、ちょうど良い予習になるだろう? もちろん、僕たちの遠征の仕方を実地で見て学ぶ絶好の機会でもある。遠征で情報がどれほど重要か、知らない君たちではないはずだ」

 

ニヤリと笑うフィンに、輝夜は舌打ちをした。

 

「それに、当然、二人にはかなりの報酬を支払うつもりだ。ドロップアイテムでもヴァリスでも良いし、何なら魔導士の動き方についてリヴェリアが教えるというのもアリだ。君たちは、なぜか前衛は良い訓練をしているみたいだけど、後衛はそうもいかないんじゃないかな?」

 

輝夜は、胡散臭い笑みを浮かべる生意気なパルゥム相手に、再度の舌打ちをした。

とはいえ、新興派閥にすぎないアストレア・ファミリアにとっても、利が多い提案だった。

 

「俺自身は、引き受けても良いと思っている。とはいえ、これについては、マリューの意見を聞きたい。――マリュー、君が一番の当事者だ。どうしたい?」

 

マリューは、所在なさげに座っていたが、杏寿郎に声をかけられると、ふわりとほほ笑んだ。

 

「そうですね……。私たちにとっても良いお話のようですし、アストレア様と団長が受けても良いとお考えでしたら、異論はありません。一人だったら怖いですが、団長と二人ですから……」

 

重要な話のはずなのに、「団長と二人」という語り口は、微妙に艶めいていた。

アリーゼと輝夜は、さりげなくお互いに目配せをした。

杏寿郎は乙女たちの駆け引きに気づくこともなく、横に座るアストレアを向いた。

 

「アストレア様はいかがお考えでしょうか」

 

眷属たちの乙女心を眺めながら、あらあらと微笑んでいたアストレアであったが、特に異論はなかった。

 

「私も、それでよいと思うわ。こういう時代ですもの、協力できる派閥同士で協力していくのは、とても大切よ」

 

その一言で、ファミリアの方針は定まった。

 

「それは良かった。報酬については、改めて詰めさせてもらってよいかな? それなりに色を付けるつもりではいるよ」

 

フィンはにこやかに笑い、立ち上がると、杏寿郎に握手を求めた。

 

「ああ、微力を尽くさせてもらおう。当日は、よろしく頼む」

 

杏寿郎も、堂々と握手を返した。

フィンは満足そうに頷き、『星屑の庭』を後にした。

 

 

 

 

 

 

それから10日後の、出発の朝――。

バベルの前で、団員が見送りに並んだ。

 

「お兄様、気をつけてね! 美しい私がいない間に、マリューに取られたりしないでね!!」

 

アリーゼが、碧い瞳を潤ませながら叫んだ。

本気なのか冗談なのか分からない台詞に、ライラが呆れ顔をし、マリューがほんのりと顔を赤くした。

 

「気を付けて行ってこい、杏寿郎」

 

輝夜が万感の想いを込めてささやき、杏寿郎の手を握りしめた。

切れ長の瞳が、一瞬だけ揺れたのを、杏寿郎は見逃さなかった。

 

「マリューを、お願いします」

 

リューが生真面目に頭を下げた。

 

最後に、アストレアが杏寿郎の前に立った。

団員たちが見守る中、アストレアは杏寿郎の首に両腕を回した。

杏寿郎も、アストレアの身体に腕を回し、正義の女神の細い身体を包み込むように抱きしめた。

胡桃色の髪が朝の風に揺れ、花の香りが杏寿郎の鼻腔をくすぐった。

 

アストレアは、杏寿郎の胸から顔を上げた。

藍色の瞳が、至近距離で杏寿郎を見つめる。

そして、爪先立ちになって、杏寿郎の頬にそっと唇を押し当てた。

柔らかく、温かい感触が、杏寿郎の頬に残った。

 

「……無事に帰ってきてね。必ず」

 

切実な声だった。

杏寿郎は、ひときわ強く、アストレアを抱きしめた。

 

「必ず帰ります。約束します」

 

団員たちは、息を呑んだ。

主神が、衆人環視のなか、恋人のように団長と抱き合っている。

誰もが二人の想いは知っていた。けれども、まさかバベル前の広場で周囲の目を気にせずに想いを確かめ合うほどだとは思っていなかった。

アリーゼの碧い瞳が見開かれ、輝夜はニヤリと笑みをこぼし、リューは耳を真っ赤にした。

 

 

 

実際――。

この一年間で進展したのは、団員の練度だけではなかった。

杏寿郎は、ザルドの助言を受けて、アストレアを何度も食事に誘った。

 

最初の逢瀬は、竜の谷から帰還して数日後のことだった。

杏寿郎は、朝食の後、団員たちが訓練に散った食堂で、アストレアに声をかけた。

 

「アストレア様」

 

「何かしら、杏寿郎」

 

食器を片づけていたアストレアが、振り向いた。

エプロン姿で微笑む女神は、どこから見ても初々しい新妻のようだった。

 

杏寿郎は、一瞬だけ口ごもった。

戦場でもないのに、心臓が少し速くなっていた。

 

「本日、お時間をいただけますか。少し――街を歩きたいのですが」

 

「街を? 見回りかしら」

 

不思議そうに応じるアストレアを前に、杏寿郎は、一呼吸置いた。

 

「いえ、その――」

 

そして、真っ直ぐにアストレアの藍色の瞳を見た。

 

「アストレア様と二人で、街を歩きたいのです」

 

食堂の空気が、一瞬、止まった。

朝の陽光が窓から差し込み、浮遊する塵が金色に輝いていた。

その光の中で、アストレアの瞳が、わずかに見開かれた。

 

「ふたりで?」

 

「はい。ずっと、遠征続きでしたので。たまには、のんびりと」

 

アストレアは、しばらく杏寿郎の顔を見つめていた。

胸の奥で、何かが小さく鳴った。鋭い女神の直感が、これが何を意味するかを即座に理解した。

天界で永遠を過ごした処女神でさえ、この瞬間だけは、心臓が跳ねることを止められなかった。

 

「――ええ、もちろんよ」

 

アストレアは、嬉しそうに微笑んだ。

 

「二人きりで街を歩くなんて、ファミリアができてすぐの頃みたいね。嬉しいわ」

 

いつもの、主神としての落ち着きをたたえた声だった。

けれど、食器を拭く手が、ほんの一瞬だけ、止まっていたことに、杏寿郎は気づかなかった。

藍色の瞳の奥が、かすかに潤んでいたことにも――。

 

 

 

 

午後のオラリオは、春の陽光に満ちていた。

メインストリートは行き交う人々で賑わい、露店からは焼き菓子の甘い香りが漂っていた。

 

「変わったわね、この街も」

 

アストレアが、感慨深げに呟いた。

かつて路地裏にうずくまっていた人々の目に、少しだけ光が戻っていた。闇派閥の横暴に怯えるだけだった市民たちの間に、小さな、けれども確かな活力が芽吹いていた。

アストレア・ファミリアが守り続けた、その成果が、街のそこかしこに息づいていた。

 

私服に着替えた女神は、星空のような藍色のワンピースに、白い薄手のショールを羽織っていた。普段の女神然とした装いとは違って、どこか恋する乙女の艶やかな色香が漂っていた。

 

「はい。まだまだ課題はありますが――少しずつ、良くなっています」

 

杏寿郎も、簡素な装いだった。

 

「下界に降りて、あなたに神血を授けたあの日から――私は、ずっと、あなたの歩みを見てきたわ。一番近くで――」

 

アストレアは、少しだけ杏寿郎との距離を縮めた。

ショールの裾が、杏寿郎の腕にかすかに触れた。

どちらも、そのことには触れなかった。

 

「俺も――ずっと、アストレア様の傍におりました」

 

声は静かだった。いつもの溌溂さは影を潜め、代わりに、深い温もりが滲んでいた。

 

「これからも、傍におります」

 

アストレアは、何も言わなかった。

ただ、春の陽だまりのような温かい笑みを浮かべた。

肩と肩の距離が、さらに少しだけ近づいた。

 

 

その夕刻、二人は、オラリオ中心部の高級料理店に足を運んだ。

バベルの麓に佇む、石造りの瀟洒な店だった。

冒険者のたまり場のような喧噪はなく、柔らかな魔石灯が照らす店内は、落ち着いた大人の空気に満ちていた。白い布の敷かれたテーブルに、銀の食器と細いグラスが並んでいる。

壁際には大きな絵画が飾られ、窓からはバベルの塔が夕映えに染まるのが見えた。

 

窓際の席に通された二人のもとに、赤い葡萄酒が運ばれてきた。

深い紅色の液体が、グラスの中でゆっくりと揺れた。

 

「こういう店に来るのは、初めてね」

 

アストレアが、グラスを手に取りながら言った。

 

「いつもは、皆と一緒に食堂で食べるばかりでしたから」

 

杏寿郎がアストレアを見つめながら、応じた。

 

「ええ。だから、少し――新鮮だわ」

 

アストレアの頬が、ほんの微かに赤く染まっていた。

それは、きっと葡萄酒のせいだけではなかった。

 

二人きりの食事。

これまでも、主神と団長として、家族として、いつも近くにいた。けれど、こうして二人きりで向かい合い、ゆっくりと語らう時間は、それほど多くなかった。

日々の巡回、ダンジョン探索、団員の指導、遠征の準備――常に、やるべきことがあった。二人の間には、常に「ファミリア」があった。

 

この夜は、それがなかった。

二人の間にあるのは、お互いの存在だけだった。

 

魔石灯の淡い光が、アストレアの顔を柔らかく照らしていた。

藍色のワンピースの肩口からは、鎖骨の線が覗き、胸元の大胆な切れ込みからは、豊かな胸が今にも零れ落ちそうだった。

 

見慣れたはずの女神の姿が、今夜はいつもとは違って艶めかしく見えた。

その事実が、杏寿郎の気持ちを揺さぶっていた。

 

「アストレア様は、下界に降りたったとき、どのような気持ちでしたか」

 

杏寿郎が、料理に手をつけながら尋ねた。

 

アストレアは、少し考えた。

グラスの中の葡萄酒を見つめながら、記憶を辿っていた。

 

「正直に言うと、不安だったわ」

 

「不安、ですか」

 

「ええ。天界では、何でも見通せた。正義も不義も、すべてが俯瞰できた。でも、下界に降りたら、全知の力を失って、何も見通せなくなった。その中で、本当に私の正義を貫けるのか――怖かったわ」

 

アストレアは、グラスを傾けた。

葡萄酒が唇を湿らせ、薄い唇がかすかに紅く光った。

 

「けれど、あなたに出会って、その不安は消えた」

 

「俺に?」

 

「ええ。あなたは、母君の教えだけを胸に、ひたむきに正義を貫こうとしていた。目の前の誰かを守ろうとする姿を見て、私は思ったの。ああ、これが下界の正義なのだと。完璧でなくていい。ただ、目の前の人を守ろうとする、その一歩一歩が正義なのだと」

 

アストレアの藍色の瞳が、魔石灯の光の中で、深く透き通っていた。

杏寿郎は、その瞳に魅せられていた。

長い付き合いのはずの女神がみせる、成熟した色香に当てられていた。

 

「あなたが最初の眷属で、本当に良かった。あなたがいなかったら、私はきっと、もっと迷っていたわ」

 

「もったいないお言葉です。俺こそ、アストレア様に出会えなければ――」

 

杏寿郎は、一度、言葉を切った。

 

「あのとき、俺は、母上の教えを守りたいと思いながら、どうすれば良いか分かりませんでした。そんな俺を拾い上げて、生きる意味を与えてくださったのが、アストレア様でした」

 

杏寿郎の紅と金の瞳が、アストレアを映した。

女神の直感などに頼らずとも、目の前に座っている男が、熱を込めて自分のことを見つめているのが分かった。

アストレアの手が、テーブルの上で微かに震えた。

 

「杏寿郎……」

 

「俺の魂は、アストレア様に救われたのです。だから俺は――この命が尽きるまで、アストレア様のもとにありたいと思います」

 

魔石灯の光の中で、向かい合う二人の影が、テーブルの上で静かに揺れていた。

杏寿郎は自覚していなかったが、その一言は、愛の告白に等しかった。

アストレアは、目を潤ませて燃えるように実直な眷属の瞳を見つめ続けた。

 

ワインで頬を染めたアストレアは、帰り道、さりげなく杏寿郎の左腕を抱きしめた。

細い腕が、鍛え上げられた前腕に絡みつき、胡桃色の髪が杏寿郎の肩に触れ、ほのかな花の香りが漂った。

 

「……こうしていると、安心するの」

 

アストレアは、そっと呟いた。

主神と眷属という立場を忘れたわけではない。ただ、二人きりの夜だけは、アストレアは一人の女になった。

 

寄り添って歩く温もりを、杏寿郎もまた、愛おしく思った。

大きな手をそっと添えて、アストレアの手を包んだ。

見上げるアストレアの藍色の瞳は、星の光を映して、揺れていた。

 

 

この最初の逢瀬以来、二人きりでワインを傾けながら語り合うのが、アストレアと杏寿郎の双方にとって、ささやかな楽しみになっていた。

 

 

もちろん、星乙女たちは、二人の逢瀬にすぐに気づいた。

帰宅したアストレアの頬が上気していたし、杏寿郎と目が合うと、藍色の瞳がほんの僅かに潤んだ。

明らかに、二人の間に流れる空気が、主従のそれではなくなっていた。

 

「お兄様も、アストレア様も、じれったいわ!! 早くアストレア様を押し倒して、あのお胸を堪能すればいいのに! 何なら、私が代わりにしてもいいわ!!」

 

ある夜、アリーゼが叫んだ。

食堂で、杏寿郎とアストレアが出かけた後の、女だけの時間だった。

 

「おい、アホ副団長、不敬だろう!」

 

ライラが呆れたように応じたが、実のところ、じれったさを感じていたのはアリーゼだけではなかった。

 

団員たちの間には、暗黙の了解があった。

アストレアが一線を越えるまでは、自分たちは杏寿郎に手を出さない。

だが、女神が杏寿郎と褥を共にしたら――あとは、仁義なき戦いである、と。

 

それを全員が理解していて、誰も口には出さなかった。

 

 

だからこそ――。

ロキ・ファミリアの遠征に同行する杏寿郎を抱きしめるアストレアを見たとき、星乙女たちは思ったのだ。

――衆人環視のなか、甘い雰囲気を出し合って抱き合うくらい好き合っているのなら、早く一線を越えてほしい。そうしないと、いつまで経っても、自分の番が回ってこないではないか――と。

大した主神愛だった。

 

 

 

団員たちの想いを他所に、杏寿郎とマリューは、フィンたちに合流した。

 

「来たか、杏寿郎。今日はよろしく頼むぞ」

 

ガレスが杏寿郎の背中をバンと叩いた。

 

「ああ、ガレス。こちらこそ、よろしく頼む!」

 

リヴェリアも、杏寿郎とマリューに歩み寄った。

 

「杏寿郎、ガレスとともに前線を支えてくれ。それと――」

 

翡翠色の瞳がマリューを見つめた。

 

「マリューは、私の側にいてもらおう。私は治療師ではないが、魔導士の動き方で聞きたいことがあれば、いつでも相談にのろう」

 

「はい、よろしくお願いします」

 

マリューは、穏やかに一礼した。

 

 

 

遠征隊はダンジョンへ降りた。

下層までは、ロキ・ファミリアにとっても、杏寿郎たちにとっても、庭のようなものだった。

杏寿郎は前衛に加わりつつ、合間に、フィンの指揮を観察した。

無駄のない指示で、状況に応じて、常に最適な布陣を敷いていた。

学ぶことは多かった。

 

一方のマリューは、後方でリヴェリアの横を歩いた。

オラリオ最強の魔導士が隣にいるだけで、心臓が口から飛び出しそうだったが、リヴェリアは意外にも丁寧に話しかけてくれた。

 

「マリュー、お前の第二魔法は持続回復型だと言っていたが……並行詠唱はできるか?」

 

「歩く程度なら維持できます。全力で走ると、集中が途切れてしまいますが……」

 

「それだけできれば、十分だ。深層では私の隣にいろ」

 

マリューは「はい」と力強く頷いた。

 

 

36階層までは、治療師の出番自体がなかった。

Lv.5が4人という過剰戦力を前にしては、下層のモンスターといえど敵ではなかった。

 

しかし、広大な白宮殿に入ると、いよいよ遠征隊はパーティとしての連携を意識するようになった。

 

スパルトイやスカル・シープの大群が次々に襲いかかり、突如として隣の壁からバーバリアンの集団が生まれる。

ガレスが前線の中央を固めるなか、杏寿郎は炎の呼吸を駆使して、モンスターを素早く殲滅していった。

一体一体の脅威はそれほどではなかったが、とにかく数が多かった。

 

「【慈星の甘露、夜露の満ち、絶えることなき光の川よ】。【千筋の星の流れが癒しの律を知る。育みの光は万傷を、静かに、絶えず潤す】」

 

マリューは、リヴェリアの護衛が守りやすいよう、ゆるやかに動きながら、超長文の詠唱を続けた。

スカル・シープが忍び寄ろうとしたときも、スパルトイがいきなり近くで生まれたときも、詠唱は止まらなかった。

 

――治療師は、身の安全をパーティーに委ね、ただ治療に専念すればよい。それができなくなったとき、パーティは終わる。

 

それが、アルフィアに骨の髄まで叩き込まれた教えだった。

 

「【そして満ちよ、川と化せ。傷の充填、痛みの滲透。涸れは彼方に、星の光河へ。愛しき星の御名をもって――満たせ】――【アルマ・ステラリス】!」

 

【魔導】の発展アビリティによって、大きな魔法陣が輝きを放ち、天から細かい光の粒子が降り注いだ。

一度の回復量こそ多くないものの、広範囲の対象に、持続的に自動治癒を施し続ける破格の魔法だった。

ロキ・ファミリアのLv.3やLv.4の前衛は、傷を負ってもポーションに頼ることなく、モンスターの大群を捌き続けた。

 

 

そして――。

フィンが、杏寿郎とマリューを含む全体の連携の確認と調整を終えて、「リヴェリア」と叫ぶと、【九魔姫】の魔力が37階層に吹き荒れ、戦闘は終わった。

 

 

一行は、そのまま39階層のセーフポイントで夜営を取った。

仮設の天幕を張り、交代で見張りに立つ。

 

遠征隊の中で、アストレア・ファミリアからの参加は杏寿郎とマリューの二人だけだった。

当然のように、二人は同じ天幕を使った。

杏寿郎が、天幕の中に毛布を敷き、刀の手入れをしていると、マリューが暖かいお茶を持ってきた。

 

「団長、お疲れ様です」

 

杏寿郎がマグカップを受けとると、マリューは遠慮がちに杏寿郎の隣に座った。

 

「ありがとう、マリュー。今日の戦闘でも、君の回復に助けられた。フィンもリヴェリアも、素晴らしい治療師だと絶賛していたぞ」

 

「嬉しいです。そう言ってもらえると、励みになります」

 

マリューは照れたように、ふわりと笑った。

杏寿郎より少し年上で、ファミリアの中では最年長だった。

団員のお姉さん的な存在で、おっとりとした優しさと、アストレアに迫るくらい豊かな胸の持ち主だった。

 

だが、そのマリューの表情がすぐに翳った。

天幕の布越しに聞こえる、深層の低い唸りのような音が、不安を掻き立てていた。

 

「マリュー。大丈夫か?」

 

杏寿郎が、マリューの顔を覗き込んだ。

 

「……正直に言うと、少し怖いです」

 

マリューは膝を抱えて、小さくなった。

 

「深層には、これまでも何度も来ましたが、いつまでたっても慣れません」

 

「まして、今回は、いつものメンバーはいないからな……。正直、俺とて怖い」

 

「団長が怖いと思うことなんて、あるんですね」

 

マリューは驚いたように、顔を上げた。

黒に近い紺色の長い髪がふわりと揺れた。

 

「もちろんだ。ダンジョンは怖い。それでも、仲間がいるから潜れる」

 

杏寿郎の率直な言葉が、マリューの緊張を幾分かほぐしていた。

 

「……団長」

 

マリューは思い切って、想いを告げた。

 

「その……寝るとき、抱きしめてもらえませんか」

 

杏寿郎は、一瞬、目を瞬かせた。

 

「深層の音が怖くて、一人だと眠れそうにないんです。壁の向こうからずっとモンスターの気配がするような気がして……。団長の腕の中にいれば、きっと大丈夫だと思うので」

 

マリューは、頬を紅潮させながら、碧がかった瞳で杏寿郎を見つめた。

怯えは本物だったし、杏寿郎に抱きしめてほしいという願いも本物だった。

 

「……分かった。そうしよう」

 

杏寿郎は迷わなかった。

仲間が怖がっている。ならば、安心させるのが団長の務めだった。

 

「明日からが本番だ。もう寝よう」

 

杏寿郎はマリューに語り掛けると、毛布を重ね、横になった。

マリューが恐る恐る、その隣に横たわると、杏寿郎はマリューの身体を引き寄せ、腕に抱いた。

マリューは、杏寿郎の胸に顔を埋めた。

鍛え上げられた胸板の向こうで、杏寿郎の心臓が規則正しく脈打っていた。

 

深層の暗闇は怖い。壁の向こうのモンスターの気配が怖い。

でも――今、この瞬間だけは、世界で一番安全な場所にいると感じた。

 

杏寿郎の腕は大きくて、温かかった。

――今は、この腕の中にいるのは、私だけ。

マリューの心臓が、急に速く打ち始めた。

 

ときおり首筋に当たる杏寿郎の吐息が、くすぐったくて、甘かった。

背中を優しく撫でまわされるたびに、身体の奥底から、じわりとした熱が込み上げた。

 

――好き。

 

いつからだろうか。

気が付けば、この少しだけ年下の団長に、好意を持つようになっていた。

杏寿郎が団員全員に向ける太陽のような笑顔を見るたびに、自分だけに向けてほしいと思った。

 

普段は、奥の奥に仕舞い込んでいる感情だった。

アストレア様にも、アリーゼにも、輝夜にも、敵わない想いだった。

 

でも、今夜は。今夜だけは――。

 

マリューは、いっそう強く杏寿郎の胸に顔を押し付けた。

この温もりがいつまでも続けばいいのにと思った。

 

「マリュー。落ち着いたか?」

 

杏寿郎の穏やかで優しい声が、頭の上から降ってきた。

 

「……はい。もう、大丈夫です」

 

嘘だった。

心臓は早鳴りのままだったし、頬は火照っていた。

杏寿郎の胸から顔を離したくなかった。

それでも、マリューは微笑んだ。

 

「……ありがとうございます、団長」

 

「礼を言うのは俺のほうだ」

 

杏寿郎が、マリューの背中をさすりながら、語り始めた。

 

「マリュー。君にはいつも感謝している。このファミリアがどれだけ君に助けられてきたか、皆が知っている」

 

「そんな……」

 

「いつもアリーゼたちの面倒を見てくれて、戦いのあとには全員の傷を一つ残らず治してくれただろう。ファミリアの最年長として、苦労も多かっただろう。年下ばかりの中で、一人で背負ってきたことも多いはずだ」

 

マリューの目が、じわりと熱くなった。

杏寿郎が見ていてくれたことが、嬉しかった。

 

マリューはいつも後方にいた。アリーゼのように炎をまとって戦うことも、輝夜のように一撃で敵を断つこともできない。

自分の仕事は、傷を治し、支えること――。

それを杏寿郎が認めてくれた。それだけで、十分だった。

 

「……団長こそ。いつも全員のことを考えていて、誰よりも前に出て、誰よりも傷を負って……」

 

「マリューがいてくれるから、俺は安心して戦える」

 

杏寿郎は、少しだけ腕に力を込め、マリューの身体を、より深く抱きしめた。

 

その言葉が、マリューにとっては何よりも嬉しかった。

杏寿郎の腕の中で、優しい温もりに包まれて、マリューは静かに目を閉じた。

 

 

翌朝以降、遠征隊はさらに深く潜った。

火山地帯を切り抜け、アストレア・ファミリアの到達階層を超えて、49階層に降りた。

 

――大荒野(モイトラ)

 

通路を降りた瞬間、杏寿郎とマリューは息を呑んだ。

一面の赤茶色。石も砂もすべてが赤く染まった、茫漠とした大荒野が果てしなく広がっていた。

一本の草木もない。乾いた風と、圧倒的な荒涼だけがあった。

 

マリューが杖を胸に抱きしめた。

杏寿郎がマリューの肩にそっと手を置いた。

 

「マリュー。大丈夫だ、俺がいる」

 

「……はい」

 

マリューの瞳に光が戻った。

抱きしめられて眠った一夜以降、杏寿郎の言葉は、マリューにとって魔法よりも強い力を持つようになっていた。

 

フィンが全員を集めた。

 

「この大荒野を横断して、フォモールにひと当たりして感触を確かめたい。フォモールは百体以上が一斉に来ることもあるらしい。リヴェリアの殲滅魔法で一掃するので、前衛はその詠唱が完了するまで、持ちこたえてほしい。持たないと判断したら撤退する。余裕があればバロールを見に行ってもよいけど、ゼウス・ファミリアの手記によれば、バロールはLv.7相当らしい。ここで無理は禁物だ」

 

「はい、団長!」

 

遠征隊は大荒野に踏み出した。

しばらく行軍を続けると、地面が震え始めた。

 

地平線の向こうから、黒い影の群れが現れた。

 

フォモール。

全高三メートルを超える異形の巨体が、棍棒や石斧を振りかざし、地鳴りを上げて殺到してくる。

百をゆうに超える大群が、赤い大地を黒く埋め尽くした。

 

「ガレスと杏寿郎は、正面で食い止めろ! 他は、後衛を守るように布陣! マリューは持続回復魔法の詠唱を! リヴェリアは、タイミングを見極めて全体攻撃魔法!」

 

フィンの号令と同時に、前衛が動いた。

ガレスの大斧が先頭のフォモールを薙ぎ倒し、杏寿郎の炎が群れを焼く。

ノアールが側面で剣を振るい、フィンが長槍で漏れた敵を処理する。

 

マリューは、リヴェリアの隣で詠唱を始めた。

 

「【慈星の甘露、夜露の満ち、絶えることなき光の川よ】」

 

今回は、37階層での調整と違って、パーティーにあまり余裕はない。

特に、Lv.5以外のメンバーにとっては、一体一体が同格以上の強敵だ。

持続回復魔法で絶えず傷を癒し続けながらでないと、決壊は目に見えていた。

 

ランクアップすればするほど、治療師の責任は重くなる。

そのことを噛みしめながら、マリューは護衛が守りやすいよう位置取りを変えつつ、詠唱を続けた。

 

「ぐッ」

 

フォモールの攻撃を防ぎきれなかった前衛から、早くも呻き声が聞こえた。

一刻も早く治癒を届けなければいけない――。

それでも、マリューは落ち着いて詠唱した。

 

「【千筋の星の流れが癒しの律を知る。育みの光は万傷を、静かに、絶えず潤す】」

 

「早く治癒魔法をくれ! 限界だ!」

 

Lv.4の前衛が音を上げ始めた。

けれども、どれだけ急かされても、詠唱の時間は変わらない。

むしろ、それで動揺して詠唱を中断してしまっては元も子もない。

治療師に何よりも必要なのは、何があろうと詠唱をやめない胆力と覚悟だった。

 

「【そして満ちよ、川と化せ。傷の充填、痛みの滲透。涸れは彼方に、星の光河へ】」

 

目の前では、防御を崩された護衛の一人が、フォモールに吹き飛ばされようとしていた。

彼が抜かれたら、次はマリュー自身の身が危なくなる。

 

それでも――マリューは、杏寿郎に包まれたときの温もりを思い出しながら、高らかに歌い上げた。

あの温もりがある限り、自分はやれる――そう言い聞かせて。

 

「【愛しき星の御名をもって、満たせ】――【アルマ・ステラリス】!」

 

その瞬間、星の光が溢れ、戦場一帯を覆った。

自動回復が、前衛全員の傷を癒し続ける。

即時に完全回復するわけではない。それでも、下手なポーションよりも遥かに強力に、崩れかけた前衛を癒し続けた。

 

だが、フォモールの数は減らなかった。

倒しても倒しても、後方から押し寄せてくる。第二波が合流し、密度が跳ね上がった。

 

杏寿郎も縦横無人に飛び回り、要所で拾の型を使って、フォモールを帯状に吹き飛ばし、戦線を支えたが、数が多すぎた。

 

――これ以上は、厳しいか。

 

杏寿郎がそう思い始めたとき――。

 

「総員、下がれ! リヴェリアの魔法が来る!」

 

フィンの命令が、戦場の騒乱を突き抜けて、響いた。

 

「了解!」

 

全員が後退に移った。

 

「【ことごとくを一掃し、大いなる戦乱に幕引きを】」

 

朗々たる詠唱が大荒野に響き渡った。

 

「【焼きつくせ、スルトの剣――我が名はアールヴ】――【レア・ラーヴァテイン】!」

 

その瞬間、リヴェリアを起点に無数の火線が大地を走り、多くの魔法円が展開された。

百体を超える数のフォモールの足元から炎が噴き出し――。

大荒野は瞬く間に灼熱地獄に変貌した。

 

「これがリヴェリアの攻撃魔法――」

 

あれほどの数がいたフォモールが悉く焼き尽くされるのを見ながら、杏寿郎は呆然と呟いた。

なるほど、アルフィアの第三魔法のような、世界が崩壊するような絶望はない。

それでも、十分に人間離れした威力を誇る圧倒的な魔法だった。

マリューやセルティが、リヴェリアこそ現役の魔導士の頂点だとべた褒めする理由が理解できる一撃だった。

 

「【実りの雫、温もりの光、命つなぐ豊穰よ】」

 

立ち尽くす前衛をよそに、マリューの声が静かに、しかし力強く響いた。

 

「【傷の刈取り、苦しみの眠り。痛みは彼方へ、光の懐へ。愛しき御名をもって】――【レア・ヴィンデミア】!」

 

金色の光が、パーティーを優しく包み込んだ。

ノアールの腕の罅が消え、バーラの肩の傷が塞がった。

マリューの第一魔法は、広範囲の全体即時回復魔法だった。

 

この魔法だけでも第一級の治療師だというのに、最近発現した第二魔法のおかげで、マリューはアストレア・ファミリアの遠征の要へと成長した。

しかも、アルフィアに徹底的に仕込まれたこともあって、パーティーの危機にあっても、目をつぶらずに詠唱を継続できた。

 

「期待以上だよ、マリュー・レアージュ」

 

フィンが手放しで絶賛した。

 

「ああ。前衛が抜かれそうになっても、詠唱を中断することなく魔法を発動させた。タイミングも申し分なかった。Lv.4の治療師というだけで貴重なのに、その判断力と胆力。実に見事だった」

 

リヴェリアも、マリューの隣に立って、褒めた。このハイエルフが、ここまで手放しで褒めそやすなど、めったにないことだった。

 

窮地を切り抜けて、パーティーの空気が弛緩するなか、フィンは遠征の終わりを告げた。

 

「みんな、今回の遠征はここまでにしよう。リヴェリアの魔力はまだ余裕があるし、マリューのおかげで全員回復している。もう少し行けそうだけれど、やはり前衛の層が心もとない」

 

そうせざるをえないだろう、と杏寿郎も同意した。

何より、ここで無理をしたところで、バロールを突破できない以上、あまり意味はない。

すでに、これまでの戦闘で、十分な量のドロップ品を確保している。

遠征は黒字だろうし、戦闘経験も積めた。

この先の階層に行こうと思ったら、最低でもLv.6が数人は必要だ。

 

――冒険者は、冒険しない。

 

この格言は、深層でこそ真価を発揮する。

 

杏寿郎は、フィンの演説を聞きながら、マリューの肩をたたいた。

 

「マリュー、本当によくやってくれた。君なしでは、この遠征は想定外の犠牲者を出していたかもしれない」

 

マリューは、杏寿郎の言葉に頬を染めた。

 

「そんな……もう少し詠唱を早く完了していたら、前衛の負担を減らせたかもしれません」

 

慎ましやかなマリューらしい、謙遜の言葉だった。

 

「それは結果論だと思う。俺たちは、このパーティーでは外様だ。連携なども付け焼刃だし、各人の力量も良く分かっていない。そういう状況では、どうしてもワンテンポ遅れる。それでも、決定的な崩壊にいたることなく盛り返せたのは、間違いなく君のおかげだと思う」

 

杏寿郎は、無意識にマリューの頭をそっと撫でた。

マリューは、その手の温もりを味わうように、そっと目を閉じた。

 

 

帰路、深層を抜けると、マリューは杏寿郎の隣を歩いた。

後衛にいるべきマリューが、前衛の杏寿郎の横に並んでいる。

誰も何も言わなかったが、フィンは微笑ましそうにそれを見ていた。

 

「団長。次に深層に来るときは、もっと上手くやれるように練習します。走りながらの詠唱維持も安定させます。だから……また来ましょう」

 

「もちろんだ。次は、この経験を活かして、アリーゼたちと一緒にここまで来よう」

 

マリューは微笑んだ。

派閥の皆のことは大好きだし、彼女たちと一緒のほうが気楽だ。

それでも、別派閥の遠征に二人だけというこの状況が、特別に感じられた。

帰り道でも、杏寿郎を独占できる――。

そのことが、物静かな乙女の心を高鳴らせた。

 

18階層でも、マリューの期待通り、杏寿郎と二人で天幕を共有し、紅茶を片手に語り合ったあと――。

 

翌日の午後には、初めてのロキ・ファミリアとの遠征は終わった。

 

二人が『星屑の庭』に辿り着くと、扉が勢いよく開いた。

 

「お兄様あああ!!!」

 

アリーゼが飛び出してきて杏寿郎に抱きついた。

杏寿郎がアリーゼを抱き留め、紅髪を撫でていると、アリーゼに続いて、輝夜とアストレアが姿を現した。

 

午後の陽光を背に、胡桃色の長い髪が風になびく。

藍色の瞳が、ただ真っ直ぐに杏寿郎を見ていた。

 

「おかえりなさい、杏寿郎」

 

「ただいま帰りました」

 

万感の想いを込めて、杏寿郎は返事をした。 

アストレアの目が一瞬だけ潤み、すぐに主神の微笑みで覆い隠された。

 

少し離れた場所で、マリューは杏寿郎の背中を見つめた。

アリーゼが抱き着いたままぶら下がり、女神が熱い想いを込めて語りかけていた。

 

その光景を見て、胸が痛んだ。

それでも――あの夜の温もりが、マリューの全身に、消えない残り火となって燻っていた。

あの腕の中で眠った時間は、誰にも奪えない。

 

マリューは杖を胸に抱いて、小さく微笑んだ。

 

いつか、この想いを伝える日が来るだろうか。

いつか――服越しではなく、素肌で愛する男に抱きしめられる日が――。

 

それまでは、あの人の背中を、魔法で支え続けよう。

心優しき治療師は、人知れず、静かに決意を新たにした。




本当は、ある程度、書き溜めてから投稿するつもりだったのですが、少しだけ頭出しを兼ねて。
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