続きです。これにて完結です。

pixivでアップしているものと同様の内容になります。

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第1話

 なんと矛盾した生き方であろうか。

 静謐な空気に満たされた教会の廊下を歩きながら、言峰綺礼は己の生き方について自問していた。

 これから自分が行う仕事と、自身の罪深さについてである。

 自分は堕落しているのではないか?

 あの日以来、言峰の脳裏、いや五感に染みついて離れないあの感覚、あの体験。それについて思いを巡らせない日はない程になってしまった。

 言峰が市井に生きる人々と同じ立場ならば、迷わずにあの場所へと足繁く通っただろう。

 しかし、自分は敬虔なる神の使徒だ。果たしてそれが許されるのか。あのような野蛮で、愉悦に満ちた場所に入り浸ることは堕落ではないのか。

 人並み外れて強い信仰心を持つからこそ、言峰は自身が必要以上に苦悩していることに気づかない。

 耐え難い煩悶を抱えながらも、言峰は正確な歩調で冬木市の教会内部にあるとある施設に向かう。

 今日は、そこで一仕事しなければならない。

 むしろ、その仕事こそが問題でもあるのだ。

「信仰心に揺らぎを抱えている私が、懺悔などと・・・・・・」

 教会内に作られた懺悔室。言峰の仕事はそこで迷える子羊の懺悔を聞くことだった。

 迷える者が、迷える者の懺悔を聞くこの状況の何と滑稽なことか。

 そう自嘲する言峰だが、自身の仕事は待ってもらえる類のものではないのもまた事実だ。

「今こそ、私の信仰心が試されている時なのかもしれん・・・・・・」

 悩むことはない、神の言葉を伝える、それを為すことが我が使命だと。

「今、この時は、あれのことを忘れるのだ」

 扉の前で自分にそう言い聞かせてから、言峰綺礼は傍目には落ち着いた動作で懺悔室に入った。

 半額弁当。

 それこそが、この2週間、言峰綺礼の心を離さない、悩ましき存在の名であった。

 

 懺悔室の中は狭い。懺悔する者と、懺悔を聞く者。双方の顔が見えないように作られた壁。それだけが収まる空間だ。勿論、音が外に漏れないように工夫がされている。

 四角い空洞の空いた壁の前に置かれた椅子に、言峰は腰掛ける。空洞には布がかかっており、勿論相手の顔は見えない。

 顔は見えないが、壁の向こうに気配はある。すでに客は準備万端のようだ。

「お待たせ致しました。神の御前で、貴方の懺悔を・・・・・・」

「元気そうだな、黒衣の神父」

「・・・・・・・・・・・・っ!」

 息を呑んだ。知っている男の声だったのだ。忘れもしない、2週間前、言峰が初めて半額弁当を手に入れた時に争った男だ。

「すまない。驚かせてしまったようだ。別に貴方を害するつもりはない」

 男の声は穏やかで、こちらの緊張を解こうとするものではあった。しかし、言峰はその程度で油断しない。

「どのようにして私がここにいるとわかった」

「全身黒ずくめの神父のいる教会を知りませんか? と道行く人に聞いたら3人目くらいで教えて貰えたぞ」

「・・・・・・そうか」

「かなり目立つみたいだぞ」

「・・・・・・そうなのか」

 自身の装束がそれほどまで市井で異彩を放っているとは想像の外だった。

 ともあれ、これまでにない脱力感に襲われつつも言峰は問う。

「それで何用だ。私を害するつもりは無いと言ったが?」

「ああ、その通りだ。この2週間程、俺は仕事で東京に行っていたのでね。その間、冬木市の狼たちの情勢が掴めていなかったんだ」

 狼。半額弁当を求めて戦う誇り高き者達の呼び名だ。一応、言峰も分類的には狼になる。

「冬木の狼の情勢と私に何の関係がある」

「聞く所、貴方は滅多に弁当売り場に現れないそうじゃないか」

「・・・・・・仕事だ。社会人が一年中、半値印証時刻(ハーフプライスラベリングタイム)に現れることが出来るわけがないだろう」

「そうかい。てっきり貴方が宗教上の理由で半額弁当を避けているのかと思ったが」

「・・・・・・・・・・・・っ!?」

 図らずも男の言葉が的確であったため思わず絶句した。まさか、こうも簡単に気取られるとは。

「すまない。貴方の事情に踏み込むつもりはないんだ」

 俺は俺の仕事をしよう、と男は空洞越しに一枚の紙切れを差し入れてきた。

 紙切れは、スーパーのチラシだった。新聞の折り込み広告の、あれだ。

「冬木市のスーパーのチラシのようだが?」

 それは言峰も知っている店で、ちょっと高めの品を扱っているスーパーものだ。予算に余裕があるのか、フルカラーの両面印刷。

「良く見てみるんだ。俺達にとって決して見逃せない情報がある」

「・・・・・・これはっ」

 チラシを観察すること数瞬。言峰もそれを理解した。

 筆で描かれたか如き力強いフォントで、チラシにはこう銘打たれたイベントが謳われていた。

 秋の冬木市名店弁当祭!! と。

「毎年、その店は秋になると冬木市の有名な食堂と提携し、その時だけの限定弁当を作る」

「なん・・・・・・だと・・・・・・」

 そのような催しがあるなど過分にして知らなかった。狼となる以前の言峰にとってスーパーの弁当など興味の埒外だから仕方ないが。

「期間は一週間。毎日特製弁当が大量に販売され・・・・・・半額にもなる」

「余るのか・・・・・・」

「狼のために店側がわざと大目に作っているという説もあるし、単純に集客力が今一つという説もある。やや後者が強い」

「・・・・・・そうか」

 世の中、どこも需要と供給のラインを見極めるのは難しい物だ。

「俺達にとって一番の関心事は、これが7日間、連日月桂冠が現れるイベントだっていうことだ」

「・・・・・・月桂冠だとっ!」

 月桂冠。それは、半額弁当の中でも至高の一品。その店の半額神が最も自信を持てる弁当に特別なシールを貼り付けた時に生まれる、選ばれた弁当だ。

 狼として新参の言峰綺礼は、まだ一度も目にしたことはない。

「フッ・・・・・・。美味いぞ、月桂冠は。この前俺から勝ち取った親子丼など遠く及ばない」

 男は月桂冠の味を知っているようだった。死闘の果てに食したあの親子丼、それを越える味など言峰には想像もつかないが。この男はそれがあると断言している。

 最早、看過出来ない状況であることは明白だった。

「一つ問おう。何故、私にこの情報を」

 壁の向こうで男が笑った気配がした。

「貴方は気まぐれに現れて、半額弁当を獲ったらすぐに帰ってしまい、他の狼との接触が無い。だから、この情報を知らないと思ったのさ」

「敵に塩を送ったつもりか?」

「違う。腕の立つ狼が美味い半額弁当を手にする機会を失うのが我慢できなかったんだ。それに、敵が強いほど、勝ち取った弁当は美味い」

 納得のいく話だった。懺悔室の壁向こうの男は、狼としての矜持の下、これほどの行動を起こしたということだ。

 ならば、言峰の答えは一つしか無い。

「感謝する。私にこの情報をもたらしたことを」

「大したことじゃない。新聞をとっていて、折り込みチラシを読む習慣があれば、知りうることだ」

「この返礼は、売り場にて果たそう」

「ああ、楽しみだ」

 言峰綺礼は笑っていた。笑うなど彼にとって無縁に等しい感情表現であるというのに。それほど貴重な表現を、この時の言峰は示していた。

 今、この瞬間に言峰綺礼は堕落や愉悦への苦悩を忘れた、一匹の狼となったのだ。

「もう一つ、教えておこう」

 言峰と同じく壁向こうで笑っていたであろう男が、急に深刻な口調で言ってきた。

「このイベントの時はかならず『虎』が出る。心してかかれ」

 一息。緊張に満ちた沈黙が場を支配した。

「虎?」

 二つ名だろうか。この男にこれほど言わせるとはかなりの手練れなのだろう。

「売り場に行けばわかる。名前だけでも知っておくといい」

 了解した、と言峰は『虎』なるものに注意しようと心に刻む。

「では、話は終わりですかな? 次はわざわざ懺悔室になど来ずに直接・・・・・・」

「待て」

 言峰は立ち上がり、去ろうとしたが呼び止められた。

「まだ、何か?」

 必要なことは全て話したはずだ。言峰の心も決まった以上、男がここにいる理由は無いはずだが。

「まだ、俺の懺悔が終わっていない」

 先程までの自信に溢れた態度とは打って変わって、苦しそうな口調だった。

「聞こう・・・・・・」

 再び椅子に腰掛け、聖書を手にして、言峰は言葉を待つ。

「年上の幼馴染み(結婚して子持ち)に対する慕情がどうしても捨てきれない・・・・・っ。俺は・・・・・・俺はどうすればいいんだ、神父様っ」

「・・・・・・・・・・・・」

 世の中、色々な事情があるものだ。

 そう感心しながら、言峰は聖書を紐解くのだった。

 

 ☆

 

  仕事が押した。

 愛車のハーレー・ダビットソンに乗ってスーパーに到着した時、既に半額印証時刻は過ぎてしまっていた。

「私とて社会人として責任ある身、無念だが、遅刻は仕方あるまい」

 バイクを駐輪しながら言い訳めいたことを呟いて、自嘲の笑みを漏らす。

 半額弁当に対してこの私が言い訳など、人とは変わる物だ。

 我が事ながら、人間とは案外面白いのかもしれぬ。

 そんな思いを抱きながら、言峰はスーパーの入り口へと歩みを進める。夏の暑さはどこへ行ったのやら、秋の夜風が心地よい。

 今宵の獲物が在るのは、比較的裕福な階層を顧客に想定した店舗なので建物の作りもそれなりだ。

 狩場として悪くない。

 言峰の存在を感知して開いた自動ドア。その向こう側に一歩足を踏み入れた瞬間、そんな感想は吹き飛んだ。

「・・・・・・なんだ・・・・・・この、プレッシャーは・・・・・・っ」

 店舗に入った瞬間、言峰の全身を襲ったのは、戦場の緊張感だ。それも尋常の物では無い、全身に叩きつけるようなプレッシャーを感じる。一体、このスーパーで何が起きているというのか。

 この発生源は、やはり弁当売り場か。

 冷静に気配を探り、その場所に当たりをつける。総菜コーナーらしい看板が見えた、弁当コーナーも併設されている可能性が高い。

 征かねばならん。

 言峰綺礼は店舗に入る前とは打って変わって険しい表情で、弁当コーナーへと進軍を開始した。

 

 当然のことながら、どれだけ大型といっても日本のスーパーの広さはたかが知れている。

 言峰はすぐに弁当売り場に到着した。

 そして見た。

 男が、空を飛ぶのを。

 先日、教会の懺悔室に来て、情報をもたらしてくれたあの男が、空中できりもみ回転しながら飛行していた。

「なん・・・・・・っ」

 だと、と言葉を続ける前に、男は良い具合に床に叩きつけられた。着地できなかった所を見ると、少なくとも男が望んでの飛行ではなかったらしい。

「大丈夫か!」

「よう・・・・・・お、遅いじゃないか」

 どうやら意識はあるらしく、苦しげに男は言葉を絞り出した。

「無理に話すな、その身体では・・・・・・」

「聞け!」

 言峰を遮って、男は強い口調で言う。

「今日の月桂冠ははるかぜ亭のカレーあんかけ唐揚弁当だ。この日のために用意された特別な鶏肉は熟練の技で揚げられていて、絶品っ。さらに秘伝のカレーあんがかかっていて、こいつがまたご飯に良く合う・・・・・・」

 男はそこまで一気にまくし立てると、痛みに顔をしかめた。肉体へのダメージは相当のものだろうに、そこまでして言葉を紡ぐとは。

「・・・・・・・・・・・・」

 言峰と、男の目があった。敵同士とはいえ、共に同じ狼。思いは同じだ。

 行け。行って、半額弁当をとってこい。ここで俺の相手をするなど愚行そのものだ。

 男の目は間違いなくそう語っていた。

 漢として、狼として、それに答えぬわけにはいかなかった。

「・・・・・・・では、行ってくる」

 返事を待たずに、言峰は戦場へと飛び込んだ。

 

 そこで繰り広げられているのは想像の外の光景だった。

 狼たちが、蹂躙されている。

「そりゃあぁぁぁ!」

 それも、たった一人の少女に。

 中学生くらいであろうか、セーラー服の少女が、並み居る狼達を相手に、たった一人で暴れ回っているのだ。

「馬鹿な・・・・・・」

 目の前の光景に唖然とする言峰。それもそうだ、一対多という状況にも関わらず、狼達はその少女に手も足も出ていないのだから。

 争いですらない、圧倒的な蹂躙。

 単純にどうしようもないくらいの力の差を見せつけるだけの光景。

 それが、今日の弁当売り場の情勢だった。

「どぉりゃあぁぁぁ!」

 少女の叫びと共に、数名の狼が吹き飛ばされ、戦場からログアウトした。

「あれが――『虎』か」

 狼を越える戦闘力を持つ、肉食獣。なるほど、この光景を見ればその二つ名も納得だ。

 果たして、自分の力がどこまで通用するか。言峰の本能が激しく警鐘を鳴らしていた。

 だが、引くわけにはいかない。

「カレーあんかけ弁当は渡さん!」

 真っ直ぐに、疾走した。――虎ではなく、半額弁当に向かって。

 場の狼達が虎の相手に集中しているならば、わざわざその輪に加わることは無い。狼の目的はあくまで半額弁当。故に獲物を直接頂きに行く。

 合理的に判断した結果の行動である。

 だが、その判断は即座に覆された。

「甘いわよっ!」

「――――っ!」

 弁当の目の前に立った瞬間、『虎』が真横に現れた。

「今日も月桂冠は私のものぉぉっ!」

「ぬぅっ!」

 言峰は『虎』の拳を右腕でガード。少女の細身から繰り出されたとは思えない衝撃に、右腕が軋む。

「この力は・・・・・・っ」

「シィィイイィッ!」

 凶悪な笑顔で犬歯を光らせながら、虎は拳を連打。更に、驚異的なフットワークで言峰の前後左右へと目にもとまらぬ早さで移動する。

「・・・・・・早い!」

 一撃一撃が重い上に、残像を残さんばかりの速度には、さしもの言峰といえど防御の構えを取るしかない。 

 ・・・・・・この少女、どれほどの腹の虫の加護を受けている!?

 狼の力の源は空腹から来る腹の虫の加護だ。その加護の力は半額弁当に対する思いが純粋であるほど増すし、空腹であるほど強まるという。

 目の前の『虎』と呼ばれる少女のそれは生半可なものでは無い。これ程の力を与える腹の虫、よほど半額弁当への思いが強く、純粋なのだろう。

「早い・・・・・・だが――――動きが単調だ!」

 『虎』の動きは速い。その獣の如き俊敏さに並の狼では翻弄されてなぎ倒されてしまうだろう。だが、言峰は違った。拳法の達人である上に、腹の虫の加護を得ている彼は、『虎』の動きを冷静に見定め、見切ることに成功していた。

「むんっ!」

「・・・・・・・・・っ!?」

 目にもとまらぬ攻撃の合間に出来た一瞬の隙。刹那の瞬間に、無防備になったボディを狙って拳を叩き込む。

 万全とは言えないが、威力の十分乗った拳が炸裂した。その威力たるや、一瞬、虎の身体が軽く浮かび上がるほどだった。

「・・・・・・これが『虎』か」

 確かに恐るべき実力だった。しかし、言峰にとって打倒できない程でもない。

 ・・・・・・あの男も大げさな警告をしたものだ。

 そう苦笑しかけたとき、言峰は異常に気づいた。

「腕が・・・・・・っ」

 動かない。

 虎を突いた右拳。伸びきったその腕を引くことが出来ない。

「・・・・・・貴様っ」

「つかまえたぁ」

 前髪で視線を隠した『虎』が、口の端をつり上げて笑っている。

 言峰の右腕が、『虎』の両手に捕獲されていた。腕が動かない、まるでがっちりと万力で固定されたかのように。

 ・・・・・・確かに手応えはあったはず!

 自分より頭一つ小さい少女がまともに受けて耐えきれる一撃ではなかった。いくら腹の虫の加護があるとはいえ、そのようなことがあるのか。

「悪いけど、私の勝ちよ!」

「・・・・・・っ!」

 『虎』の叫びと同時、言峰の視界が突然歪んだ。

「うおおおおおお!」

 咆哮と共に言峰は片手を捕まれた状態で振り回されていた。そう、両足を掴んで振り回すジャイアントスイングの片手版とでもいえばいいだろうか。

「くっ・・・・・・!」

 高速で振り回され、動きがとれない。相手の思うがままの状況だ。高速回転で三半規管に支障を来すほどなまってはいないが、これは良く無い状況である。

 このままでは自分はどこかの商品棚に突っ込む運命だろう。間違い無く、ただではすまない、意地でも受け身を必要がある。スイングのリリースポイントを見極めねば。

「りゃあぁぁっ!」

 果たして、言峰綺礼は投げ出された。

 天井に向かって。

「なんと・・・っ」

 人間の身体には空中で方向転換をするための機構は備わっていない。高速で飛翔させられた言峰は否応もなく天井に激突する。

 苦し紛れに両手両足を使って身体を護る。

「ぐはっ・・・!」

 すさまじい衝撃が言峰の手足を伝わった。スーパーの天井は思いの外頑丈に出来ていたらしく、傷一つついていない。日本の建築基準法の賜物か、あるいは半額弁当争奪戦に備えて建物を頑丈に造っておく暗黙の了解でもあるのか。

 天井にぶつかった時よりやや緩やかな速度で、言峰は床に落下した。鈍い音が、弁当売り場全体に響く。

「くそっ・・・・・・手足が・・・・・・動かんとは!」

 天井に激突した際、手足でガードをしたのが仇となり、動けない。それ故に、受け身を取ることも出来ず、更なるダメージを蓄積してしまった。

 手足の感覚が戻るのを待ちつつも、何とか動く首と腹筋を使い、身をよじって、弁当売り場に視線を向ける。

「しくじった・・・・・・か」

 手に入れた半額弁当を高々と掲げる『虎』を確認した言峰は、全身の力を抜いた。

 

 ☆

 

  どういうわけか、この町はスーパーは必ず近くに公園がある。まるで条例で定められているかのようだが、言峰にとってはどうでも良いことだ。ただ、ありがたいとは思う。

 半額弁当も、敗北して食すどん兵衛も、公園で食べるのがまた格別だからだ。

 『虎』に敗北した言峰は、どん兵衛片手に公園のベンチに腰掛けていた。どん兵衛は出来上がるまで5分。言峰はきっちり待つタイプだ。

「そろそろか・・・・・・」

 時計で5分経過したのを確認し、蓋を開け、割り箸を割り、勢いよくどん兵衛の麺をすすった。

 程よい食感と太い麺、それに絡まる味わい深いつゆの味が口中に一気に広がる。至福の一瞬である。

 その至福の時間に割って入る者がいた。

「邪魔するぜ」

「構わんが。何の用だ」

 現れたのは、あの男だった。彼もまた、その手にどん兵衛を持っている。

「『虎』とやりあった感想を聞きたくてな」

「お前も体験しただろう。見ての通り、歯が立たなかった。驚嘆すべき事実だ」

 年端もいかぬ細身の少女に、この言峰綺礼が手も足も出なかったのだ。世界中捜してそれだけのことができる人間がどれだけいるだろうか。ましてや、女子学生の中になど、望めそうに無い。

「あの力、どこから来ている・・・・・・」

「腹の虫の加護さ。知っているだろう」

「・・・・・・確かに、それはわかるが。あれは尋常のものとは思えん」

 腹の虫の加護。それは狼たちの力の源。空腹を美味い食事で満たしたいという食欲が狼たちに力を与える。それはわかるし、言峰も少なからず、腹の虫の加護を受けているのを自覚している。

「考えてみろ。女の子とはいえあの年頃は食べ盛りだ。食べ物に対する欲求は俺達より強いだろう」

「そうか・・・・・・そうだったのか」

 たしかに、食に対するこだわりの薄い言峰と、育ち盛り食べ盛りの少女が同じ弁当を争った場合、腹の虫の加護が強力になるのは後者だと思えた。

「しかし、腹の虫の力があるとはいえ、肉体的な能力差をあれほどまで覆すとは・・・・・・」

 にわかには信じがたいことだ。

「それが、腹の虫の凄いところさ。元々の肉体的なスペック差なんて軽く凌駕してしまう。身をもって知ったろ?」

「・・・・・・・・・・・・」

 その通りだ。今日の体験を思い返せば、男の話に一理あることを認めざるを得ない。あの瞬間、少女は戦闘能力に置いてこの言峰綺礼を凌駕していた。

「だが神父さん。貴方が腹の虫の加護を使いこなせば、『虎』に勝てるかもしれないな」

 唐突に、男はそう言って立ち上がった。どうやら、どん兵衛を完食したらしい。

「行くのか」

「・・・・・・ああ」

「一つ聞きたい」

「なんだい?」

「何故、私にわざわざ色々教えるのだ?」

「簡単さ。強敵が多い方が弁当が美味くなる。それに、見てみたいのさ」

「何を?」

「あの『虎』が倒される瞬間さ。今の俺には難しいが、貴方が正しく半額弁当と向き合えば、その可能性はあると、俺は思っている」

 じゃあな、と男は言峰の返事を待たずに颯爽と立ち去った。どん兵衛の容器をちゃんとゴミ箱に捨てるのを忘れない。

「私ならば、勝てる・・・・・・」

 どん兵衛の器を手に持ったまま、言峰は一人呟く。

 腹の虫の加護に関して言えば、言峰のそれは弱い方だろう。食事に対する思い入れが薄いからだ。わずかな例外を除いて、食事など生きるための栄養を補給する作業程度にしか思っていない男に与えられる腹の虫の加護などたかが知れている。

 しかし、男の話によれば、腹の虫の加護を使いこなせれば『虎』に勝利する可能性が出てくると言う。

「何という試練・・・・・・っ」

 これまでの人生で培ってきた価値観と、戦えと言うのだ、これを試練と言わず何と言おう。

 そして、言峰綺礼は、このような試練に挑まずにはいられない求道者であった。

「やれるか・・・・・・私に?」

 言峰は己に問いかけた。

 あれほどの強敵を打ち破るだけの力が自身に内包されているのか。正直、確信が持てる事案ではなかった。

「だからこそ、やる価値がある、か」

 不適な笑みを浮かべ、言峰はそう結論した。

 どん兵衛の容器の中に残ったスープ、そこに写った月が彼を見つめていた。

 

 ☆

 

  結論から言うと、駄目だった。

 その翌日も、翌々日も、さらにその次の日も、言峰綺礼は同じスーパーに足を運んだ。

 そして、『虎』に敗退した。

 三日目など、イスラム教徒の断食月ばりに、日中は食事を抜き、腹の虫の加護が高まるのを期待して挑んだにも関わらず敗北した。

「くそっ、何が足りない!」

 夜の公園、ベンチに腰掛けどん兵衛が出来るのを待つ間に言峰は思わず声を上げてしまった。

「・・・・・・・私としたことが、なんという醜態か」

 深夜の公園で雄叫びを上げるなど、言峰綺礼にあってはならぬことだ。ましてや、その原因が半額弁当争奪戦に負けたこととあっては、プライドやら色々なものがズタボロだ。

「なぜ、腹の虫はあの娘にあれほどの力を与える」

 日中の絶食を経ての今回の戦いにおいて、言峰はこれまでで最大の腹の虫の加護を感じることが出来た。

 だが負けた。

 基本的な肉体の能力では比べるべくも無く言峰が有利にも関わらず、それを覆すだけの腹の虫の加護を『虎』は受けている。

「半額弁当に対する、欲求か」

 言峰は食事に対する執着が弱いため、腹の虫の加護が弱い。それは絶食という手段を持ってしても変わらなかい程だ。魂レベルで食事に興味が無いと言えるかも知れない、そんな男だ。

 かたや食べ盛りの少女。

 かたや希望無き骸のような男。

 半額弁当に対する食欲がどちらの方が強いか、明らかだ。

 数日前の男との会話が証明されたと言ってもいいだろう。

「つまり・・・・・・む、出来た」

 どん兵衛が出来た。朝から何も食べていない言峰は、カップうどんとは思えないこしを持った麺を一気にすすった。そのまま流れるように、つゆがたっぷりしみこんだ大きなおあげに齧り付く。よく染みたつゆが、えもしれぬ味わいと共に口内に広がった。

 たしかに、腹が減っていれば、食事は美味い。

「つまり、私と『虎』では食欲が決定的に違うということか・・・・・・」

 結論は出た。後は対策を練って、挑むのみだ。

「何とかせねばな・・・・・・」

 ことは本能に根ざした問題だ、小手先の技術でどうこうできる話ではないのは明白。もっと根本的な対策が必要だろう。

「思い悩むなど、いつぶりだろうか」

 どん兵衛を片手に、言峰は薄い笑みを浮かべながら、自嘲気味に呟いた。

 この状況を楽しんでいる自分がいることに気づき、笑みを生んだのだ。

 

 ☆

 

  翌日。言峰は当然のように半値印証時刻にスーパーに現れた。

 その表情は巡礼の使徒の如き。何とも形容しがたい複雑な感情を示しており、入り口近くにいた買い物客が一斉に注目する程の存在感を放っている。

「・・・・・・征くぞ」

 一言、小さく自身に言い聞かせ、言峰は今宵の戦場へと足を運ぶ。まずやるべきは、獲物の確認だ。冬木名店弁当祭は当日にならなければ、どの店の弁当が並ぶかわからない。そのサプライズが客と狼たちを引き寄せるのだ。

 願わくば、この私の食欲を刺激する弁当のあらんことを。

 弁当売り場に立ち、厳かに十字を切った上で、言峰はそれを見据える。

 昨夜から必死に考えた結論が「その日の半額弁当の内容に賭ける」だった。あまりにも無策だが、短期間で勝つためには、言峰の食欲を著しく刺激する半額弁当が登場するくらいしか勝利の道筋は見えなかったのだ。

 願わくは、私に勝利をもたらす半額弁当のあらんことを。

 切なる祈りと共に、言峰綺礼は弁当売り場を目視した。

 そして、

「なっ・・・・・・!」

 弁当売り場を見た瞬間、思わず絶句した。感情の起伏が少ないこの男をして、絶句し、驚愕せしめる弁当が、そこに陳列されていたのだ。

 何と言うことだ・・・・・・。

 頭を棍棒で殴られたが如き衝撃を受けた言峰は、ふらつく足取りで弁当売り場から離れる。本来ならつぶさに弁当を観察すべきだが、一瞬でも長くこの場に留まってはいけないという判断を下した故の行動だ。

 そこにあったのは、言峰綺礼すらも魅了する・・・・・・いや、この男だからこそ、半額シールが貼られる前に買ってしまいかねない、恐るべき弁当だったからだ。

本日、弁当を用意したのは、冬木市の誇る中華料理店『泰山』。

 売り場に置かれていたのは麻婆豆腐弁当であった。

 言峰綺礼にとって因縁浅からぬ店舗であった。ぶっちゃけ常連である。

 ・・・・・・落ち着け、落ち着くのだ綺礼。

 自身にそう言い聞かせながら、言峰は豆腐の陳列された冷蔵の棚の前で立ち止まる。

 まさかここで『泰山』の麻婆豆腐弁当とは・・・・・・。

 危うくそのまま手にとってレジに直行する所だった。自身の未熟さが恨めしい。

 だが、これはまさに天恵だ。

 陳列されている木綿豆腐のパッケージを見つめ、心を落ち着けながら、言峰は一瞬で脳裏に焼き付いてしまったその弁当を思い出す。

 まず、容器が二つに分かれていた。ご飯と麻婆豆腐である。泰山の麻婆豆腐は激辛もいいところなので、一つの容器に入れられ長時間陳列されることで、味が染みこまないようにという配慮であろう。

 問題は麻婆豆腐である。

 生まれたての恒星を思わせる、灼熱というのも生ぬるい真紅の麻婆豆腐がそこにあった。食べた瞬間、何かが終わり、始まってしまう、食物にあるまじき名状しがたい色合いであった。

 店の常連である言峰の心眼はこう告げていた。あれは店で出るものよりも辛い、と。恐らく、長時間の陳列で辛味が落ちるのを心配した店主の配慮だろう。正直、その配慮のせいで子供が失神したりしないか心配だが。

 いや、この場合大事なのは、泰山の麻婆豆腐が弁当としてこの場に存在することだ。『虎』に対抗するための手段として、これほどふさわしい物はないだろう。

 好物の、店では出されない、この場だけの味。その上、勝ち取れば勝利のひと味までついてくる。

 言峰は思わず天を仰ぎ、両手で顔を覆った。食べたい、あの弁当が半額になり、あの強敵から勝ち取った上で味わいたい。

 これほどまでに強い衝動を感じるのは生まれて初めてではないだろうか。あまりのことに両手が震え始めた。

「どうしたの? 手が震えてるわよ?」

 突然、声をかけられた。声音からして若い女性。言峰は瞬時にそれが『虎』のものであると判断した。

「『虎』か。どうかしたのか、私に話かけるなど珍しい」

「いや、豆腐を真剣に見つめた後、天を仰いでたのがちょっと心配なだけだったんだけど」

「・・・・・・そうか。心配することはない。少々、考え事をしていてな」

「へぇ、もうすぐ時間だっていうのに、随分余裕ね」

「余裕など無い。貴様を打ち倒し、月桂冠を勝ち取る手段を考えていたまでのことだ」

 言峰の言葉に、『虎』は挑発的な口調で答えた。

「そう、あんたも狙いはあの麻婆豆腐ってわけね」

「無論だ。フィールドに月桂冠がある以上、狙わない理由はあるまい」

 言峰の毅然とした言葉に、『虎』は不適な笑みを浮かべる。

「確かに。それが狼ってもんよ。でも、私に勝てるとでも?」

 『虎』の挑発的な物言いに、言峰は努めて冷静に対応する。

「ああ、勝てるとも。あの弁当のためならば」

 不適な笑みを浮かべた言峰の表情には、自信と覚悟が溢れ出ていた。

 言峰綺礼の常ならば考えられぬ感情の発露。この状況の特異さを認識しているのは、この日のスーパーにおいて本人以外にはいない。

「来たぞ、会話は終わりだ」

「そのようね」

 ドアの開く気配を察した言峰と『虎』はそのやり取りを最後に、静かに距離を取った。言峰も木綿豆腐から目を離し、半額神が現れるスタッフ用のドアに視線を向ける。

 そして、今宵もスーパーを戦場に戦いが始まる。

 

 

「うおおおお!!」

 半額神がシールを貼り終えて戦いが始まった直後、真っ先に動いたのは言峰でも『虎』でも無かった。

 あの男である。

 男は異国伝来の回転技を使い、棚に向かって殺到していた他の狼をなぎ払いながら、一気に獲物に迫った。

「初手から奥義を用いて、早期決着を狙うか!」

 悪く無い考えだった。『虎』と正面からぶつかりあえば敗北するのは必定。ならば、余力のある序盤のうちに全力を傾け、『虎』の介入前に決着を付ける。あの男なりに考えたのだろう。捨て身だが、天晴れな作戦だ。

「ははははは! 悪いが今日の月桂冠は俺が頂いていく!!」

 竜巻の如き回転を見せながら棚に迫る男。その技の冴えの前では並の狼では近づくことすら出来ない。

 そう、並の狼ならば。

「悪いけど、そう簡単に渡せないわね」

 少女の凜とした声が、フィールドに響いた。

 今だに高速回転を続ける男の前に、『虎』が立ちはだかったのだ。

「ッ! 突出したというのに! こうなったら!」

 叫びと同時、言峰の頬を風が撫でた。

「回転速度を上げたか!」

 男は回転速度を上げ、今や風を生み出すまでになっていた。

「・・・・・・これは、捨て身か!」

 この攻撃に全ての力を注ぎ込み、『虎』を撃破する。男の技からそんな凄まじい気迫が伝わって来る。

「月桂冠は、俺が頂く!」

 叫び、攻撃を仕掛ける男。対して『虎』は悠然と男の技を見据え、

「受けてたつわ!」

 正面から、両手を掲げて、男の技に飛び込んだ。

「なんだと!」

 思わず驚愕の叫びを上げる言峰。ちなみに彼の周囲にも狼が襲いかかって来ているが、卓越した身のこなしと適確な反撃で、次々と撃破されていたりする。今宵の言峰綺礼は並の狼程度なら片手間で排除できるくらいに冴え渡っているのだ。

 その言峰をして、驚愕させる光景が、目の前で展開されていた。

 男と『虎』がぶつかった一瞬で、勝負はついていた。

 これまでで最高の速度を見せていた男の回転は『虎』の細腕によって止められていた。それは以前、言峰が見せた技術による打撃ではなく、単なる力業によって生み出された結果だった。近づくのも躊躇われる男の技を『虎』はただその剛力で受け止めたのだ。

「なかなか、面白い技だったわ」

「・・・・・・そうかい」

 短いやりとりの後、『虎』の打撃を受けて高速回転しながら、男は売り場の外まで叩き出された。つくづく回転しながら飛ぶのが好きな男である。

「で、次はあんたが相手?」

 いつの間にか目の前に立っていた言峰に気づいた『虎』が言い放った。ちなみに、他の狼は巻き添えでほぼ壊滅状態だ。

「受けてたとう。その半額弁当は、私が頂くべきものだ」

「こっちの台詞だっての!」

 『虎』が飛び出してくる。繰り出されるのは腕と足を振るうだけの大雑把な打撃の連続。ただし、超高速で、打撃は重い。学び鍛えた技の冴えではなく、肉体の能力頼みのその攻撃方法はまさに虎だ。

「くっ!」

 その打撃の一つ一つを、言峰は習い覚えた技で何とか受け流して行く。この数日、何度も繰り返したパターンだ。『虎』の攻撃は徐々に速度と威力を増していき、捌ききれなくなり、押し切られ、敗北する。勝機の見えない防衛戦。それが言峰と『虎』の戦いだった。

 しかし、今宵の言峰綺礼は、ひと味違う。

「ぬおおお!」

 『虎』の打撃に合わせて、防御のためでなく、攻撃のための打撃を打ち出したのだ。狙うは相打ち。一撃で倒れてしまえば終わりだが、倒れるわけにはいかない理由が目の前にある。それ故の、勝利をつかみ取るための攻勢だ。

 打撃音が二つ、売り場に響いた。

 双方の拳は、腹にめり込んでいた。だが、驚くべき事に両者とも、その場に留まっていた。常ならば、戦場の外に吹き飛ばされてもおかしくない打撃であるにも関わらずだ。

「なるほど。これが腹の虫の加護か・・・・・・」

 絞り出すように言った言峰の言葉に、『虎』は女子にあるまじき野生動物のような笑顔で答える。

 直後、再び双方の打撃が激突した。やはり結果は相打ち、両者一歩も引かず。

 言峰綺礼と『虎』の地獄のような打撃の交換が始まった。多くは相打ち狙い、嵐のようなその打ち合いは半額弁当に賭ける情熱そのもののぶつかり合いだ。その余りに凄惨な光景は、わずかに生き残っていた他の狼達は戦意を失っていくほどである。

 何故だ! 何故倒れん・・・・・・!

 何十度目かの相打ちの打撃にこらえながら、言峰は驚いていた。自身も傷ついているが、同じくらい『虎』も傷を負っているはず。倒れてもおかしくない攻撃を受けているのに、目の前の少女は次々と鋭い打撃を放ってくる。

 先に倒れるわけにはいかん!

 強く思いを込めて、言峰は相打ち狙いの打撃を繰り出す。こちらの攻撃は当たったが、相手の攻撃をその身に受けて、全身の神経を凄まじい痛みが走り抜ける。それでも、言峰綺礼は倒れない。

 あの弁当を! 麻婆豆腐を! 泰山の麻婆豆腐を食さずに今日を越せるものか!

 拳からの蹴り、流れるような連続攻撃をしかける。しかし、それらは全て『虎』の野生を思わせる攻撃に迎撃される。その結果に言峰は焦らない。むしろ自分を叱咤する。

 足りぬ。弁当に対する想いが足りぬから『虎』に届かないのだ。もっとだ、もっとあの麻婆豆腐のことを想え! 私よ!

 言峰綺礼の中で、泰山の麻婆豆腐に関する思い出が走馬燈のように流れていく。初めて食べた時の感動。自信を持って好物と言える食物に出会ったのは初めてだった。出張の帰り、店に寄って麻婆豆腐を食することで、不思議と心が穏やかになった。あの麻婆豆腐だけが、自分に食べるという行為に意味を与えてくれたのだ。そして目の前に、まだ未体験の麻婆豆腐がある。間違い無く、言峰綺礼の食の経験に新たな1ページを与えてくれる存在だ。それを、たかが強敵という理由で、小娘に渡すわけにはいかない。

「シャアアア!」

 『虎』が跳躍した。流石にダメージが蓄積したのか、一気に勝負を賭けに来たのだろう。天高く飛翔した『虎』は天井に足を付き、重力すらも味方につけて、言峰に殺到する。その速度も攻撃力も、本日最大級だ。

 だからといって、言峰綺礼にそれを恐れる道理は無い!

「ハァァァッ!!」

 裂帛の気合いと共に、『虎』を迎え撃つ。狙うは攻撃の瞬間に発生するわずかな隙。あまりの速度に捉えることの出来ようはずもない一瞬だが、何故かこの時の言峰には、それが出来る気がした。

 貴様に半額弁当は渡さん!

 迫り来る『虎』を見据える言峰の心の叫び。その思いに腹の虫の加護が答えたのか、変化が起きた。

 『虎』の速度が、徐々に遅くなって行く。半額弁当に対する言峰の純粋な想いが、彼の五感を言語に絶するレベルまで研ぎ澄ませたのだ。

 ・・・・・・見えるぞ、『虎』よ!

 時間の感覚すらねじ曲げる超感覚の中、泥のように重くなった空気をかき分けて、言峰はこれまで培った技術の全てをつぎ込んで身体を動かす。この一撃だけならば、『虎』よりも早く動ける。ならば勝機はここしかない。堅く握った拳に半額弁当に対する想いを込めて、言峰綺礼は拳を振り上げた。

 肉を打つ感触が、言峰の拳に伝わって来る。

 

 この日、この瞬間、冬木の狼たちは『虎』が打ち破られるのを目撃した。

 飛びかかって来た『虎』を下から突き上げるアッパーで迎撃した黒衣の神父。

 あまりにも芸術的なその光景を見て、狼の一人が思わず呟いた。

 昇竜拳、と。

 

 ☆

 

 「さあ、夕餉の時間だ」

 スーパー近くの公園にて、言峰は厳かに宣言した。

 ベンチに腰掛ける言峰の手には本日の獲物がある。

 すなわち、泰山プロデュースの麻婆豆腐弁当。

 『虎』に勝利した言峰は、迷うことなくこの弁当を手に入れ、素早くかつ確実にスーパー備え付けの電子レンジで温めてここにやって来た。勿論、飲料を買うのも忘れない。シンプルにミネラルウォーターを選択した。

「ほう、散蓮華がついていたか」

 ラーメン等を頼むとついてくる陶器製スプーン。それの小型プラスチック製のものが、容器の横に張り付いていた。なるほど、確かに箸だけで麻婆豆腐を食べるのは至難の業だ。嬉しい心遣いである。

「今日は、特別な日だな・・・・・・」

 空を見上げると、満月が輝いていた。その月光はまるで言峰のささやかな勝利を祝福しているかのように思える。全身に激痛が残る反面、言峰の内面は人生最大規模の穏やかさで凪いでいた。

「頂きます」

 両手を合わせ、神と聖霊と農家の皆さんと今宵の勝利、その他諸々、世界の全てに感謝を捧げ、食事の始まりを厳かに宣言する。教会の人間が両手を合わせてもいい、そんな心境だったのだ。

 文明の利器によって良く暖められた麻婆豆腐に散蓮華を入れる。まずはひとすくい。店主が弁当用に調理した味を確かめるべく、口に運ぶ。

「・・・・・・・ッ!! ぬ・・・・・・う・・・・・・が・・・・・・っ」

 口に入れた瞬間、目の前が真っ白になった。辛さが直接脳に来た。味とか辛いとかそういう問題ではない。痛い。これでは内臓を著しく傷つける武器だ。まず間違い無く、身体に異常を来す。

「こ・・・・・・これ、は・・・・・・」

 ゆらりとよろめく身体を、ベンチの端を掴むことで何とか支える。これは、並の人間が口にしたら大変なことになるだろう。ちょっとした事件だ。

 だがそれがいい。

 痛みと同時に広がる、あるのか無いのかわからない、何とも言えない味わいこそ、言峰が求めていたもの。勝利のひと味という最高級の調味料が入った、理想の半額弁当と判断出来た。

 こと麻婆豆腐に関して、言峰綺礼はとてつもなくポジティブシンキングをする男だった。

「これこそが今宵最後の戦い。素早く、しかし味わいながら食す。・・・・・・全く、最後まで楽しませてくれるものだ」

 暖めたご飯の容器の蓋と、ミネラルウォーターの蓋を開ける。ご飯と共に味わい、最後に一気に水で癒す。その過程を想像するだけで、全身に震えが走った。

「では、改めて。頂きます!」

 散蓮華を握る言峰の手が閃き、麻婆豆腐に飛び込んだ。

 怒濤の勢いで、言峰綺礼の夕餉が本格的に始まった。

 

 3時間後。

 公園で弁当の空き容器を片手に握りしめたまま気絶している言峰綺礼が教会関係者によって発見された。

 全身傷だらけ、手には何故かスーパーの弁当という異様な状態である。

 彼が何故このような場所でこんな有様になっているのかと、関係者一同首を捻った。残念ながら、真相は闇の中だが。

 そんな中、発見者一同共通の感想があった。

 発見時の言峰綺礼は、聖者の如き安らかな顔で気絶していた。

 


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