目を開けた瞬間、鼻に消毒液の匂いが入ってきて、あ、ここ保健室だって分かった。白い天井。薄いカーテン越しの光。ベッドのシーツの感触。どれも見慣れてるはずなのに、今日はやけに輪郭がはっきりして見える。
俺は息を吸ってみる。胸が焼けない。喉の鉄の味がない。あれだけ痛かったはずなのに、身体の奥が静かだ。指を動かして、腕を曲げて、上半身を起こしても、痛みが追いかけてこない。
……回復、してる。
おかしい。普通なら、ここまで戻るのに時間が要る。血だって。痛みだって。なのに、動ける。歩けるどころか、たぶん走れって言われても走れるくらいには。
これは神秘のおかげかな。
そう思った瞬間、また嫌なところに引っかかった。神秘が定着したのは黒服の言葉だ。でも、ヘイローは出てない。なら今の回復は何だ。神秘はあるのに、証明がない。そのズレが気持ち悪い。
ベッドの横に置かれた椅子に、ホシノが座っていた。寝起きみたいな顔のまま、でも目だけはちゃんと起きてる。俺が起きたのを見ると、ほっとしたみたいに息を吐いた。
「良かったぁ……外で話しすぎちゃったね」
軽い声で言うくせに、言葉の中身が重い。外で話しすぎた。つまり階段でのやり取り、全部この人の中では確定してるってことだ。俺が誤魔化そうとした部分も含めて。
「……すみません」
とりあえず謝る。正解とかじゃなくて、反射だ。
ホシノは笑って、首を振る。
「ううん。起きたからいいよぉ」
そのまま、俺を上から下まで見る。顔。喉。胸。手。さっきと同じ確認の仕方。優しいのに、正確で、逃げ道がない。
「うん、大丈夫そうだね」
言い切ってから、間を置かずに続ける。
「じゃあさっきの続き、お願いね? ……ここで。私の前で」
来た。
“みんなの前で”じゃないのに、“みんな”が見えてる言い方だ。ホシノの中では、アビドスの全員がいつも同じ方向を向いている。向かせなきゃいけないって思ってる。たぶん、先生がまだ来ていない時点でもう。
それが分かるからこそ、俺は言葉に詰まる。
黒服のことを話すのは危険だ。ホシノは勘がいい。動くと決めたら速い。しかも、自己犠牲を選びやすい。原作を見た俺は、それを知ってる。知ってるから止めたい。
でもここで嘘をついたら、もっと面倒になるのも分かる。嘘を重ねた瞬間この人は余計に深く潜る。そういう人だ。
俺は息を吐いて、視線を落とした。自分の手が、妙に落ち着いて見える。さっきまで死にかけてたのに。落ち着きすぎてるのも怖い。
「……ホシノさん」
呼ぶと、ホシノが「ん?」と返事をする。急かさない。急かさないから逃げられない。
「先に確認していいですか」
ホシノは小さく頷いた。
「俺、どのくらい寝てました?」
ホシノは指でざっくり時間を測るみたいな仕草をして、眠そうに笑う。
「そんなに長くないよ? 。ちょっとだけ。ほんとに、ちょっと」
ちょっと。信用できない単語だ。でも短いなら短いで、やっぱりおかしい。短時間でここまで回復してるなら、神秘が身体の中で勝手に仕事してるってことになる。
ホシノは、もう一度だけ柔らかく言った。
「で、さっきの続き」
逃げ道は閉じられた。
俺は顔を上げて、ホシノの目を見る。ここで誤魔化すのは、もう無理だ……よし、正直に隠そう。
「……黒服に会いました、それ以上のことは話せません」
「……そっか」
ホシノは否定もしなかった。驚きもしない。ただ、ゆっくり瞬きをしてから、まっすぐ俺を見る。
「アテナくんが、アビドスのために黒服に体を差し出したんだって。……私、そう思ってる」
息が、喉の奥で止まる。
軽い声だ。いつも通りの、眠たそうな調子。けれど言葉の芯は固い。冗談ではないし、探りでもない。彼女なりの結論だ。
俺は視線を逸らさなかった。逸らしたら肯定になる気がしたからだ。かといって、正面から受け止める覚悟も足りていない。
ホシノは続ける。
「でもね、理由がわからないんだ」
小さく、首を傾げる。
「だってさ、私たち、まだ会って一日も経ってないよ? それなのに、そこまでする理由って、なんなのかなって」
責める響きはない。ただ純粋な疑問。だからこそ鋭い。
保健室の空気が、やけに澄んでいる。消毒液の匂いが鼻に残る。俺の回復したはずの身体が、今さらになって妙に重い。
理由。
そんなもの、説明できるはずがない。
原作を知っているから?
未来を知っているから?
この場所が、あの結末に向かうことを知っているから?
言えるわけがない。言えば全部が壊れる。
俺は、少し黙った。
時間を稼ぐためじゃない。本当に、言葉を探している沈黙だ。
ホシノは急かさない。視線だけが、静かにそこにある。逃げ道はないけれど、追い詰められている感じとも違う。ただ待たれている。
胸の奥で、いくつかの選択肢が浮かんでは消える。
本当を言うか。
半分だけ言うか。
また曖昧に逃げるか。
どれも正解じゃない。
俺はゆっくり息を吐いた。指先が、シーツをわずかに掴む。
……どう答える。
喉の奥で言葉が形になる前に、もう一度だけ、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
まぶたの裏で一瞬だけ考える。正直に言う選択肢は、最初から除外だ。だって無理だろ。
「将来的に美少女になるために黒服の実験受けました」なんて、どういう顔で言えばいい。どういう理屈で納得させる。アビドスの危機より個人的欲望を優先しました、なんて告白、英雄譚どころか即退場だ。いや別に英雄目指してないけど。
目を開ける。ホシノはまだ同じ顔で待っている。焦らない。責めない。ただ、逃がさない。
……はあ。
こういうとき、人は便利な言葉に縋る。綺麗で、整っていて、聞こえのいいやつ。たぶん今から俺が言うのも、それだ。
「ありきたりな理由です」
自分で言っててちょっと笑いそうになる。ほんとにありきたりだ。
「受けた恩は必ず返す。それが俺の信条なんで」
口に出した瞬間、嘘ではないと気づく。全部じゃない。でも嘘でもない。ここに来てから、あいつらは俺を受け入れた。状況も知らないまま。名前も素性も曖昧な転校生みたいな奴を。
借りはある。確かにある。
ホシノは、少しだけ目を細めた。
「恩、かぁ」
疑っているというより、測っている。重さを。温度を。
「それだけで、あそこまでやる?」
やる。やってしまう。自分でも呆れるくらい、衝動で動くタイプだって自覚はある。でもそれをそのまま言うと子供っぽい。
だから肩をすくめる。
「性分なんです」
本当は違う。半分は未来を知っているからだ。半分は自分の欲望だ。半分はただムカついたからだ。計算が合わない。三つもある時点で理屈は破綻してる。
けど、それでも。
「助けられるなら助けたい。借りっぱなしは気持ち悪い。それだけです」
ホシノは、しばらく黙って俺を見ていた。眠そうな目の奥が、少しだけ揺れる。
「……ふぅん」
長い吐息。考えている音。
「アテナくんってさ」
唐突に、少しだけ柔らかい声になる。
「真面目だよねぇ。変な方向に」
変な方向。否定できない。
「あと、ちょっとだけ自己評価が低い」
ぐさっと来た。やめてくれ。そこは突かれると痛い。
「自分が傷つくのは計算に入ってない顔してるもん」
その言葉に、胸の奥がわずかに軋む。計算に入ってないわけじゃない。ただ優先順位が低いだけだ。自分の体より、状況のほうが重いだけ。
……いや、違うな。
ほんとは。
美少女になるために実験受けるやつが、自己犠牲の精神を語るなって話だ。
内心で自分にツッコミを入れながら、俺は視線を逸らさずに返す。
「買いかぶりすぎです」
ホシノは小さく笑う。
「そっか」
それ以上は踏み込まなかった。問い詰めない。暴かない。たぶん完全には納得していない。でも、今はここまででいいと判断した顔だ。
「でもね」
椅子から立ち上がりながら、ぽつりと続ける。
「アビドスのためって言うなら、ちゃんとアビドスを頼ってよ?」
振り向きざまに、眠そうな目がまっすぐ俺を射抜く。
「一人で背負うのは禁止。これは部長命令」
軽い口調。だけど、逃げ道のない規則。
……やっぱりこの人、面倒くさい。優しくて、勘が良くて、諦めが悪い。
だからこそ。
守りたいと思ってしまう。
いや、違うな。
守りたいとかじゃない。
勝手に終わらせたくないだけだ。あの未来を。
俺はベッドから足を下ろす。床の冷たさが現実を教える。
神秘がどうとか、黒服がどうとか、ヘイローがどうとか。全部後回しだ。
「分かりました、部長」
とりあえず従順な顔をしておく。
本音は隠したまま。欲望も隠したまま。未来も隠したまま。
……ここからが本番かな。
まだ何も終わってない。
むしろ、やっとスタート地点だ。